余は如何にして言語学徒となりし乎

 少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだ、と思った。Hungry Youngmen(原野へった若者たち)はAngry Youngmen(怒れる若者たち)にはなれないと知ったのである。

 そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。

 だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまの心の痛手を癒すための薬に。エーリッヒ・ケストナーの『人生処方詩集』ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。
     -----寺山修司『ポケットに名言を』


 本当に冗談でなく、「一体どういうことで言語学なんか勉強することにしたのですか?」とたびたび質問される。

 そんなことに答えるのは恥ずかしいのだが、いちいち面倒なので、書いておく。

 でも、「どうして野球を始めた?」とか「どうして山登りを?」という質問には答がない。そこに山があっても、みんな登るとは限らないからである。まして、言語はそこに言語があるのだけれど、振り返ってみる人は稀である。恐らく専門家の多くが一つのきっかけで何かになったことは少ないのでは、と思う。一つの理由で語れるほど人生って単純なものではない。

 あなたはどうして、いま現在の人間なのですか。いや、本当に生きていますか?


 言語学者の自伝はたくさんあって日本では金田一京助の『私の歩んだ道』が最も有名で、アイヌ語研究の大変さを描いてある。しかし、最も悲惨なのはガヴィーノ・レッダの伝記『父 パードレ・パドローネ』(平凡社)である。

 イタリアのタヴィアーニ兄弟が監督をした1977年の映画にもなっている。

 映画では原作者ガヴィーノ・レッダが最初に登場する。幼い頃は他のイタリアの子どもたちと同じように(それ以上に)不幸だった。

 レッダが一本の杖をエフィジオに渡すところから映画は始まる。サルデーニャ島シリーゴという村で羊飼いをしているエフィジオは6歳の長男ガヴィーノに自分の仕事を手伝わせるため、小学校に連れ戻しに来る。家に帰ったガヴィーノに、母親は、早く一人前の羊飼いになって家に戻って来るようにと励ます。この地方ではどの長男も羊小屋に一人とり残して他の兄弟が餓死しないようにするのである。逃げようとしたり、他の子どもと話をしようとすると父のムチが待っている。

 無知無学のまま自然に育てられて20歳になったガヴィーノは、ほとんど口もきかない青年になった。ある日、通りがかりの二人の男の弾くアコーディオンの音色に魅せられ、ガヴィーノは2匹の羊と交換に古いアコーディオンを手に入れ、“Padre”「父」と同時に“Padrone”「師」であるエフィジオに隠れてアコーディオンの練習を続ける。

 ある日、羊飼いのセバスチャーノが、敵対している家族に殺され、エフィジオは彼女からオリーヴ畑を買いとるが、冷気の襲来でオリーヴは全滅する。全財産を売り払い、その利子で生活していくことになったため、娘は町に働きに出、二人の息子は他の家に雇われる。ガヴィーノはドイツに移民しようとするが失敗、軍隊に入隊する。軍隊では方言を話すことも禁じられている。彼は軍隊でチェーザレと友人になり、イタリア語を学び、サルデーニャ方言の研究に関心を深める。高校卒業の資格を得たガヴィーノは、父の反対を押し切って大学を受験するが失敗。それがもとで殺し合わんばかりにいがみ合ったガヴィーノと父ではあったが、ガヴィーノが父の膝に頭を埋め、和解する。

 ガヴィーノは、その後サルデーニャ方言の研究によって言語学の学位を得、自伝を書くためにシリゴに戻ったと、原作者のガヴィーノ・レッダが登場してこの映画は終わる。目出度し目出度しとはいいがたい。レッダは大人になった自分は一人きりの子供時代を送ったことがない人たちとは同じになれないのだという。そして、レッダの体は前後に揺れているのだが、これは子どもの頃、羊小屋で体を揺すっていたのとまったく同じ動きなのだ。

 なお、ポーリン・ケイルの『明かりが消えて映画がはじまる』(草思社)にこの映画評があるから参考にしてほしい。


 さて、自分のことを語ろう。

 小さい頃、僕は僕を僕と呼んでいた。ある日、近所のガキ大将が「お前、東京のもんか?違おう、なんでボクいうがぁ、ちゃんとオラ、いえぇ」と睨み付けた。僕はすっかり困ってしまった。オラとはどうしてもいえなかった。妥協して折れた形だが、オラッチャでごまかすか、オレということにした。大学に入るまでずっとオレで通した。思えば、これが僕の言葉への目覚めであった。大きくなって宮沢賢治の「よだかの星」を読んで、同じような虐められ方をしていることに気づいて、少しはほっとした。よだかは、美しいはちすずめやかわせみの兄でありながら、容姿が醜く不格好なゆえに鳥の仲間から嫌われ、鷹からも「たか」の名前を使うなと改名を強要される。自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、彼はついに生きることに絶望し、最後には星となって輝き続けるという話だった。

 ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。
「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥(はじ)知らずだな。お前とおれでは、よっぽど人格がちがうんだよ。たとえばおれは、青いそらをどこまででも飛んで行く。おまえは、曇(くも)ってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出て来ない。それから、おれのくちばしやつめを見ろ。そして、よくお前のとくらべて見るがいい。」
「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです。」
「いいや。おれの名なら、神さまから貰(もら)ったのだと云(い)ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
「鷹さん。それは無理です。」
「無理じゃない。おれがいい名を教えてやろう。市蔵(いちぞう)というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露(ひろう)というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上(こうじょう)を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」
「そんなことはとても出来ません。」

 更に後になって、京都生まれで北陸に引っ越した高田保が『子供誌』(新潮社)の「失くした言葉」の中で同じ体験を綴っていることを知った。

 幼稚園の時、漢字が面白かった。漢字は漫画で覚えたのだが、何よりも漢字の構成要素である「偏旁冠脚」(へんぽうかんきゃく)、いわゆる偏と旁(つくり)を組み合わせて新しい漢字になるのが面白かった。詩人の吉野弘に「対決」というのがあって「馬と蚤(のみ)との対決/騒然!」(思潮社『続続・吉野弘詩集』より)と、これだけだ。幼稚園児の感性で、メモっておけば詩人になれたかもしれなかった。

 後に知ったが、映画監督エイゼンシュタインが日本文化に興味をもつきっかけも同じだったので嬉しかった。エイゼンシュタインは漢字の組み合わせなどからモンタージュ理論を生み出した。でも、僕は映画監督になりそこねた。

 4歳上の姉の教科書を読んで見せることもあった。長男らしい、親へのへつらいだ。読むのは簡単だった。熟語は旁の部分を音読みするかして近い言葉を考えだせばよかった。「纐纈」という名前の人がいるが、「交」と「結」じゃ「吉」の変化を探せば、「こうけつ」か「こうけち」か分かる。

 氷見の従姉妹の家に遊びに行った。向こうは女性二人、うちも姉が二人で、僕が一番小さいのでよくイジメられた。蝉の抜け殻を持ってきて、追いかけ廻されたおかげで昆虫がすっかり嫌いになった。

 小さかったので「氷見と言って」といわれても「シミ」としかいえなかった。僕は一生懸命「ヒミ」と言っているつもりだったが、何度も何度も笑われた。後にこういう言葉を「シボレス」ということを知ったが、笑われたことが大きなトラウマというか、心のシミになった。

 「シボレス」(shibboleth)というのは殺戮を逃れて越境しようとするエフライム人を見分けるために「シ」を発音できない彼らに課された「合言葉」(旧約)のことをいう。デリダも『シボレート―パウル・ツェランのために』(岩波)という本を出しているが、これはショアーを生き延びたユダヤ系詩人ツェランの詩をめぐって、一回性と反復、単一性と多数性の問題を考察したものだ。詩という唯一のものの翻訳(=越境・複数化)可能性をめぐる批評である。

 北フランスのブルターニュ地方はブルトン語が話されているが、これはフランス語と全く違う言語である。「はい」はouiではなくて、yaという。だから、第二次世界大戦で、ドイツ兵と間違えられてアメリカ兵に殺された人がいたという。

 オランダにスケベニンゲン(Scheveningen)という町がある。正しくはスヘフェニンゲンで、第二次世界大戦時にはドイツのスパイを識別するために使用された。Sch の発音をドイツ人は違った発音「シュ」で読むからだった。僕はスパイになれそうもなかった。

 高校で教わったことだが、1923年の関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れているという流言が飛び、東京で多くの朝鮮人が虐殺された。この時、自警団が「一円五十銭」と言わせ、「イチエンコチュセン」というような訛りのある人間を選別したという、哀しい話が残っている。

 入学式の前、小学校の先生による面接があった。身体検査などが終わってから、母親と一緒の面接となった。いろんな質問が出たが、そのうち、先生が「お父さんは何をしているの?」と聞いた。市役所に勤めていることは知っていたが、「、何をしているか」分からないので「知らない」と答えた。先生は「あ、そう」といったが、終わってから母親にひどく叱られた。どうして、市役所といわないの、という訳である。言葉は本当にむずかしいと思った。

 小学校に入学してから自分の国語教科書が簡単すぎたので、4歳上の姉の教科書を読んだ。時々、分からない漢字が出てくるが、前後関係で何とか分かるし、漢字の「旁(つくり)」に近い音で読めば何となく読める、ということに気づいた。いわゆる六書(指事、象形、形声、会意、転注、仮借)のうちの形声である。

 興味を持ったのは「なぞなぞ」だった。「なぞなぞ」をいっぱい集めて手帳に書くという、結構、根暗な少年だった。「なぞなぞ」の他に「クイズ」というのがあって、この違いがだんだん分かってきた。つまり、「なぞなぞ」というのは言葉の問題であって、「クイズ」は富士山の高さとかという、ものの問題だった。

 「なぞなぞ」が好きだというと、頭の体操だね、賢いねと言われたものだが、おかしいと思った。というのも「なぞなぞ」の多くは一つの答えしかない。「迷いながら運転している人がいる」というの「井之頭線」しか答えがない。相手の絶対的な答えを当てるだけだったら、「なぞなぞ」は 謎ではない。頭の訓練にはならない。とはいいながら、大人になっても「世界で最も硬いもの、なあんだ? 答えは、あなたのヒゲ。びっくりするほど厚い面の皮を突き抜いて生えるから」なんていう「なぞなぞ」が好きだ。

 僕が好きだったのは「世界の真ん中に何があるか?」という「なぞなぞ」だった。答えはもちろん、「『か』の字」なのだが、この「なぞなぞ」はメタ言語(言葉を説明する言葉)を問題にしている。「糸    工」で「一緒になってくれない」(糸と工で紅)というのも好きだ。「戀というのはイトシイトシと言う心」なんていうのも面白いなぁ、と思ったのだ。後に英語にも同じようなクイズがあることを知ってうれしくなる。

What is the center of gravity?(重力の中心は何か?)
Ans. The letter v. (v という文字)

What is the longest word in English?
Ans. Smiles.(語頭と語尾に1マイルもある)

 言語学者の飯田朝子は幼稚園の先生がこんな「なぞなぞ」を出してくれて数え方に興味をもったと書いている(『数え方でみがく日本語』)。

「ゾウはゾウでも『一枚』のゾウ、なーんだ?」
「ぞうきん!」
「正解! ゾウはゾウでも『一足』のゾウ、なーんだ?」
「……うーん、わかんない。」
「答えは『ぞうり』でした。」

 回文を操れるのもメタ言語能力である。音節ということも少しずつ分かってきた。

 ここから「新聞紙を逆さまにしたら」というのもある。メタ言語(なぞなぞ)に慣れているとしまうとひっかかる。答えは「読みにくい」だからだ。

 分からないものに2種類あることが分かった。問題と謎だ。問題は、少しずつ知識を積み重ねて答が模索できるもの。謎は、どうすれば説明できるか見当もつかず茫然とするしかないものである。

 早口言葉も大好きだった。「親の因果が子に結び、生まれでたのがこの子でござい…」なんていう口上も好きだった。言葉遊びが面白くなってきたのだ。

    「みみずの みみ」  まど・みちお(まど・みちお全詩集

 みみずの みみを みてみたか
 みみずの みみを みてみない
 ねずみの みみなら みてみたよ

 すももも ももも もらったか
 すももも ももも もらわない
 やまももだったら もらったよ

 2年生の時に、「ぼくはさかながきらいです」という作文が好評だった。それ以来、作文を誉められたことはない。その後出場した創作童話も弁論大会も悲惨な結果だった。今でも文章にはコンプレックスがあって、ただただ分かりやすさだけを求めることにしている。

 阿川弘之の娘、阿川佐和子も作文を誉められたことはない、と話していた。ほっとするが、明らかにあちらの方が上手に文章を書いている。

 宝塚の大浦みずきもお父さんが阪田寛夫だから文章は当然書けるだろうといって原稿の依頼があったそうだ。相談すると「お父さんは私のように脚は上がらないよ」と答えたという。

 ちょうどこの頃、隣の貸本屋に東京からいとこが来た。珍しい、というので話にいったのだが、「あんたぁ、東京から来たがけ?」「東京ちゃ、どんなとこね」「おらっちゃのいうとっことなんも分からんけ?」なんて話しても相手は分かってくれなかった。雑誌やテレビで、自分の言葉との違いを知っていたつもりだったが、全然通じないのにはさすがにショックだった。このショックは大学に入ってから外人講師と話した時にも感じた。

 雑誌といえば、当時のマンガに「あぶら虫」というのが出てきて、例えば、おそ松君が「キャッ」などと大騒ぎするシーンがあったが、理解できなかった。事典や教科書に出てくる「あぶら虫」というのは植物にびっしりとくっついている、小さな緑色の虫だった。どうしてこれが怖いのか分からなかった。

 上京して初めて「ゴキブリ」というものの存在を知った。当時、うちの方はまだ都会化してなくて、熱帯産のゴキブリなど、住めなかったのである。

 そして、「あぶら虫」がゴキブリの方言だということが分かってきた。

 高岡の親戚に行くと「行ったった」(行かれた)「来たった」(来られた)などというのに気づいた。氷見でも少しずつ言葉が違うことが分かった。

 隣が貸本屋だったので、本を読むのが大好きだった。本といってもマンガなのだが、ルビのおかげで漢字が得意になった。マンガのおかげで速読もできるようになった。早く読むと廊下に出ていいと言われたので、喜んで出た。

 変な雑学を持っていると感じることがあるが、当時のマンガ月刊誌は少年達が興味を持ちそうな事柄を百科事典のように紹介していたものだった。

 ある時気づいたのだが、社会が不得意な子どもは国語が不得意ということが分かった。教科書が読めないのに理解できる訳がないと思った。

 手塚治虫のマンガを読んでいたら、ときどき、作者が出てきて面白かった。でも、よく考えてみると、当時の番組「ディズニーランド」でウォルト・ディズニー自身が出てくることがあって、あっ、これは同じことをマンガでやっているのだな、と思った。

 作者が作品の中で出てくる手法がメタ言語的であるとか、『源氏物語』で「草子地(そうしじ)」と呼ばれる技法であるとかはずいぶん後で知った。

 町の食堂に「かやくごはん」というのがあった。「かやくうどん」というのもあってびっくりした。御飯なのに爆発しそうだ。「五目飯」のことなのだが不思議だった。辞書によれば「関西で、魚・肉・野菜などを炊き込んだり、味付けして混ぜたりした飯をいう」とある。「火薬」ではなくて、「加薬」だった。「薬味が加わった」ということで納得したが、他にも「きつねうどん」とか「たぬきそば」もあって、言葉って面白いなぁと思った。その後も、インスタントラーメンに「かやくを入れてください」と書いてあって、その度に緊張してしまう。

 そのうち、他人丼というのを知った時は衝撃だった。そうか、親子で食べるような子供向けの食事で「親子丼」ではなくて、親と子を一緒に食べてしまう丼だから、そういうのが分かって嬉しかった。

 小さい頃は月刊漫画誌のブームだった。『少年』『少年時代』『冒険王』などという雑誌が出ていて、隣から借りるのが楽しみだった。当時はまだ戦後の混乱が残っていたのか、戦記物が多く出ていた。どう読んでも日本軍は強いのに、親に聞くと負けたのだという。不思議な世界だった。

 一番混乱したのは付録(正月には25大付録などというものがあった)に日本海軍の艦艇のポスターがついてきた時だ。戦艦大和には「46サンチ砲」がついていた、などと書かれていた。「サンチ」!「センチ」なら知っているけれど、「サンチ」なのだ。誤植でない証拠に、どの艦艇の仕様にも「サンチ」と書かれていたし、翌月号に訂正も載らなかった。

 この理由が分かったのは大学生になってからであった。メートル法を決める中心となったのがフランスだったために、「ミーター」という英語ではなく「メートル」というフランス語が定着した。それだけでなく、日本海軍はフランス海軍を模範としていたために、大砲の呼び方もフランス語(centimetre)にしていたのだった。

 漫画を読んでいて教養がついた。白土三平の漫画から「冬虫夏草」などという恐ろしげなものを知った(その後見た百科事典の写真もトラウマになった)。漫画雑誌には雑学というか、色々な事柄について書いてあった。田舎の子どもにとってはそうした情報がとても役立った。

 3年生の頃、「か」というと「ク+ア」という部分に分かれることに気付き、帰宅途中に何度も発音して考えていたものだ。子音とか母音とかが分かるのはずっと後になって5年生くらいでローマ字を教わってからだ。

 それにしても、「あいうえお」が何となく大きく口を開く音と開かない2音、更に「あ+い」「あ+う」の音だと分かったが、「あかさたなはまやらわん」の順番が分からない。分かったのは国語学を学び、更にサンスクリット語を学んでからである。

 音節ということが分かるのはローマ字を習って、更に俳句や短歌を習ってからだ。母音が中心だというのが分かるが、N音が一つと数えられるのは納得がいかなかった。これが「モーラ」という現象であることは大学に入ってから知ることになる。

 回文も奇妙だと思い始めた。というのも、英語の回文で“Madam, I'm Adam.”というのがあるのだが、日本人には何だか奇妙にみえる。日本人はひらがなの「音」で回文を作っていると思っていたからだ。でも、それは「音」ではなくて「文字」だったのだ。「しんぶんし」というのは音節では回文だが、ローマ字にするとshinbunshiとなって全然、回文にならない。テープレコーダーを逆回転して回文になるのは「赤坂」だということに気づいた。akasakaだからだ。知らなかった自分は浅はかだと思った。

 そうそう、当時は読売新聞を取っていたのだが、ローマ字がshimbunになっているの奇妙だった。これが分かるのは高校の英語でimpossible,irregular,illegal,ibnobleというのを知ってからのことで、「同化」というのを教わらずに大学まで行ってしまって、どうかと思った。

 この頃、好きだった昔話に「大工と鬼六」というのがある。大工が鬼に助けてもらって暴れ川に橋を架ける話だ。その見返りは大工の目玉だった。ただ、鬼の名前が分かれば目玉をやらなくてすむ。困っていたら、子どもたちが「鬼の鬼六目玉が好きで〜 大工の彦造目ん玉なくす〜」という歌を歌っていたので、名前が分かった。そして橋を架けるのに成功する…。

 これだけの話なのだが、名前が分かれば不安などなくなることに気づいた。「得体のしれない」とか「言いしれぬ」という言い方をするが、言葉で表せないものは、人を不安にし、脅かす。

 そうだ!名前が大切なのだ!

 それから、人と人、物と人、物と物などつなぐことの大切さも分かった。橋というのはそうした役割を持った、大切なものなのだ。

 だから、新しい事件が起きると原因を探り、「○×症候群」という名前を与えられると、何だか分かったような気になる。しかし、名前だけでは何も分からない。落語の「てれすこ」と同じである。

 小中高とやたら「いい子」だったようで、小学校では夏休みの自由研究の発表をよくさせられた。僕が自由に研究をするのではなく、担任が決めて、それをこなし、人前で発表する役割を務めていた。まとめるのは苦手だったが、先生がいろいろまとめてくれて、僕は発表するだけだったような気がする。

 一番大変だったのは交通量調査だった。なぜか冬の間に近くの道路を通るクルマをチェックするのだが、「自家用車」と「商用車」の区別がつかず、困ってしまった。クルマの横に広告が入っているのが商用車といわれたが、入ってないのもいっぱいあって困ってしまった。分類というものの難しさを知った。言葉の定義の難しさというものを知った。上京して地下鉄銀座線が3階にホームがあるのにも驚いた。「地下鉄」って何だろう?丸の内線の後楽園駅だって2階にある。じゃあ、在来線が地下鉄に乗り入れているのは「地下鉄」か迷ってしまった。

 自転車に乗り始めて不思議だったのは交通標識だった。「止まれ」と書いたものが立っているのだが、停まった後どうすればいいのか?

 免許を取る時にようやく分かったのは「一旦止まれ」という意味で、基本的には車のための標識だった。

 たまに「除行」と書いた看板を見て、自分を除いてどこへ行く、などと落語の「粗忽長屋」の熊五郎になったように感じることがある。もちろん、「徐行」だ。

 大学生になってから“Sky Room”と書いてある物件があって、長考後に分かったのは「空部屋」ということだった。

 詩と散文の違いも何だろう。賢治の「雨ニモ負ケズ」は手帳に書いてあっただけだが、詩なのだろうか、散文なのだろうか。行分けしてあったら、詩なのだろうか?いや、詩人って何だろう。

 アーサー・ビナード『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)に出てくるが、これはアメリカの郵便局のスローガン“Neither snow, /nor rain,/ nor heat, / nor gloom of night/s tays these countries/f rom the swift completion/ of their apponted rounds.”と似ているという。しかも、これはヘロドトスの『歴史』の8巻目にペルシャのメッセンジャーたちの記述があって、「彼らほど速いものは、神々をのぞけば、この世には存在しないのだ」と賞賛した上で、「雪も、雨も、暑さも、夜の真っ暗闇でさえも、そのメッセンジャーたちが、任された区間を全力疾走することの妨げにならない」というのを採っているという。つまり、賢治の冒頭もヘロドトスを読んで書いたメモかもしれないという。「しかし、そうだったとすれば、『雨ニモ負ケズ』は、原作者のヘロドトスも顔負けの、まったくの名訳だ」という。

「世間知ラズ」 谷川俊太郎

自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている

ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったのか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくともゴマンといる

私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことにも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう

詩は
滑稽だ

 5年生くらいに手塚治虫の『ビッグX』を愛読した。薬で大きくなるのも羨ましかったが、それ以上にヒロインのニーナが鳥や獣とテレパシーができるというのが魅力だった。

 問題はこのテレパシーが可能かどうか、ということだった。つまり、人間は考えるが動物は考えるのか、人間どうしでも英語と日本語の間でテレパシーが可能かどうか。だって「12月24日はクリスマスイブでキリストの誕生を祝う前日でみんなパーティを開きます」という簡単な言葉でも言語によって語順が違うし、「キリスト」という概念(当時はこんな言葉を知らなかったが)だけでも伝えるのは困難である。まして、動物に昨日、今日、明日なんて時間の概念があるのだろうか?と真剣に思ったものだ。童謡の「犬のおまわりさん」みたいに動物は「泣いてばかりで、にゃんにゃんにゃにゃん」とならざるを得ないではないだろうか!?

 そんなことを考えているうちに言語とは一体、何だろうと思い始めた。言語と思考というのが永遠のテーマとなった訳である。この一つの解答として90年に「『知』の両義性」(「海の色って何?」参照)という論文を書いた。これは人間の「知」というのが言語だけでは決まらず、イメージなどとの相互作用で行われるとするものである。

 なお、『ビッグX』は割と尻切れトンボの終わり方だった。

 手塚漫画に『0マン』というのがあった。リスみたいな種族がヒマラヤに文明を築いていて、独裁国家になっている話だ。少し複雑な展開で、おかしいと思っていた。ヒト以外に知的生物が地球に存在していないかというのが『0マン』のテーマだった。そのうち、『山椒魚戦争』という作品があることを知る。チェコの作家カレル・チャペックのSFで奴隷のように使っていた山椒魚が言葉を持ち、知的生物となっていき、生存のために人類と対峙する話だ。チャペックには『ロボット』(Rossum's Universal Robot)という作品もある。考えてみれば、『鉄腕アトム』だって、チャペックに着想を得ているのではないかと推測した。後に調べてみると、手塚はチャペックが大好きであった。『火の鳥』の「復活篇」というのは『ロボット』に似た展開になっていく。チャペックの専門家として千野栄一先生がいた。後に師事することになるのはこれが契機だったと思う。後に千野訳『ロボット』(岩波文庫)が出版された。

 手塚自身はこの作品が正義ぶっているので嫌いだという(『鉄腕アトム』に対しても似たようなことを言っている)。

「羊の求めているものは何ですか?」
「さっきも言ったように、残念ながら私には言葉でそれを表現することができない。羊の求めているのは羊的思念の具現だとしかな」
「それは善的なものですか?」
「羊的思念にとってはもちろん善だ」
   -----村上春樹『羊をめぐる冒険』

 中学に入ってから担任に趣味を聞かれ、「趣味を話さないことが趣味です」と答えた。教師は納得しなかったようだが、僕の方は「これって趣味を語ったことになるのか、ならないのか」疑問に思った。後に、レイモンド・スマリアンの「エイプリルフールのパラドックス」があることを知った。4月1日に「今日は騙すよ」と宣言して騙さなかったら、騙したことになるのかならないのかというパラドックスである。

 初めて英語を学んだが、最初に教わったM先生は就職が担当(昔はいたんですね)の先生で英語は何も知らなかった(Susieを「すしえ」と読んだ先生だ)。どうして文頭でもないのに「私」のiはIと書くのだろう、と不思議なことだらけだった。2、3年のH先生もちっとも面白くない教え方をしていて英語はすっかり嫌いになった。Don't you〜?だけが英語らしい発音だったので「ドンチュー」というあだ名だった。

 多くの授業はつまらなかったから先生につっこみというか、駄洒落ばかり言ってごまかしていた。同じ言葉が別の意味をもつのが面白かったし、何よりも受けるのが好きだった。

 末っ子の特徴というのは家族の行方を心配して、いつも喧嘩を取り持つというものである。どうしても道化者にならざるを得ない。授業でも似たような性格が出たと思う。

 ただ、人間というのものは恐ろしいもので、同級生でもあまり話さなかった人は僕のことを怖かったとか、真面目一本だったとか思っている。授業で言っていた冗談が通じてなかったのだろうか?

「いわずに おれなくなる」 まど・みちお

いわずに おれなくなる
ことばでしか いえないからだ

いわずに おれなくなる
ことばでは いいきれないからだ

いわずに おれなくなる
ひとりでは 生きられないからだ

いわずに おれなくなる
ひとりでしか 生きられないからだ

 国語のT先生は魅力的な授業展開をした。2年の時に国文法を教えてもらったのだが、言葉を分析するのは面白かった。休み時間にまで押し掛けて分析した答えを見てもらった。

 ただ、この時に気づいたことは「こうやって文法を学んでいて名詞とか動詞とか形容動詞とかが分かるが、文法が分からなくても話せる。これは一体どういうことだろう」ということだった。

 この解答を得ようとは努力しなかったが、大学に入ってチョムスキーの考え方に飛びついてしまった。「新しもの好き」といわれたが、自分の気持ちでは、中学生の時の疑問に少しでも近づきたいというのがあった。

 高校の時に品詞分解をやってみようと思ったが、すぐに限界を感じた。“than”が接続詞なのか前置詞なのか分からなくなった。5文型をみていても、どちらでも説明できそうな“I want you to go.”などがあったが、教科書の問題からはちゃんと抜いてあった。

 フツーの子ども同様に目覚めてきたのだが、国語辞典では堂々巡りになって何も分からなかった。2年生の時に相当な無理をいって小学館『原色百科事典』全8巻を買ってもらった。田舎の子どもには知らない世界が拡がっていた。毎日、項目を順番に読んでいた。物知り顔をできる(顔だけだが)のは百科事典のおかげである。

 世界にはいろいろな言語があることと、文法がずいぶんと違うことも分かってきた。バベルの塔についてもブリューゲルの絵が載せてあり、世界が混乱していることを知った。

 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

-----聖書:創世記11章1〜9節(新共同訳・旧約=日本聖書教会)

 当時好きな本はタイム・ライフ社から出ていたサイエンス・シリーズだった。自分のお小遣いで本が買えるのがうれしかった。『数の話』や『機械の話』なんかが大好きで理科系に進もうと思っていた。

 ただ、この中の『コンピューターの話』には感動した。当時のコンピューターなんて今から考えればおもちゃみたいものだったのだが、計算ができるというのが算盤7級で挫折した僕には驚きだった。

 そして、「考える」ということについても、動物は考えるか、コンピューターは考えるか、自分ではまるで分からず、何となくもやもやした気分でいた。この謎は後に観た『2001年 宇宙の旅』でなお、深まった。

 当時、大橋巨泉のパイロット万年筆のCMが流行した。

みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱすみふみ

 これって何?という、奇妙な気持ちになった。何も伝えていないが、何かを伝えているから奇妙な気持ちになるのだ。これが分かるのはヤーコブソンの言語機能論まで待たなければならなかった。

 2年の時に、学年を超えた校内漢字大会のチャンピオンに何度かなった。当時はカンジのいい子だったのだ。ただ、担任から言われた時に「また(冗談を)」のつもりで言ったのに「また(で嬉しくもない)」という風に取られて、叱られた。ここでも言葉のむずかしさを感じた。

 理科の本に「キョクヒ動物」などという言葉が出てきた。ウニなどを指すのだが、「棘皮」と漢字で書けば分かるものを余計にむずかしくしていると思った。漢字から意味を取ればいいものを、丸暗記で過している友だちが多かった。

 『原色百科事典』を買ってもらった。ドイツ語のところを見ると、「おはよう」がGuten Morgen、「こんにちは」がGuten Tagになっていて、「おやすみ」がGute Nachtとなっていて最初は誤植かと思った。形容詞が変わるのが不思議で仕方がなかった。どうやら名詞も変化し、男性名詞に女性名詞、さらには中性名詞まであるという。変な言語!?

 百科事典を読んだら学問は終わりとかと疑問に思った。「吉田司家(つかさけ)」というのが載っていて「相撲行司の家元」で熊本にあるという知識は何の役にも立たない。一度だけ「アタック25」でこの問題が出たことがあるが、クイズでしか利用できない。知識とは何か?

 ビートルズが好きになった。友人の影響が強いのだが、歌詞を覚え、おかげで英語が好きになった。途中からレコード会社がアップルになった。青いリンゴというのがとても新鮮だった。どうしてだろうかと考えることが言語と文化を考えるきっかけになった。日本人はリンゴを赤いとしか思わないが、西洋人にとっては青いものなのだ。そして、「青い」というのも「青」ではなくて「緑」なのに、「青」と日本人はいうのはおかしいと思った。「赤いはリンゴ」と教わったものだが、「常識」の怖さに驚いた。21世紀に入ってから日本では黄色いリンゴが増えた。高齢化で赤く保つ手間ひまがかけられなくなったためだという。

 言語学を学んでから、こういうのは「プロトタイプ」というのを知った。文化・言語によって「プロトタイプ」が異なる、つまり、自分の認識というものが世界共通ではないということを学んだ。言語学ではそうした「プロトタイプ」以外のものを外して考える。ペンギンを鳥の「プロトタイプ」と考えない。鯨を魚の、動物の「プロトタイプ」とは考えないのである。

 ビートルズでもう一つ、驚いたことがあった。ある時、「イエスタデー」を女性歌手が歌ったのだが、“she”を“he”に変えるだけで歌えるということに衝撃を受けた。日本語なら男性語・女性語というものがあって、女性が男性の歌を簡単に歌うことはできない。言い回しが違うからだ。それを英語という言語は全く気にしないでいい、ということにびっくりしたのだった。

 平方根を教わった。「ひとよひとよにひとみごろ」「ふじさんろくにおうむなく」などというのを覚えながら、アメリカ人はどうやって覚えるのだろうと思った。年号だってそうだ。「鳴くよ鶯平安京」「いい国作ろう鎌倉幕府」というのもあるが、語呂合わせがない国ではどうしているのだろうと不思議だった。

 後に分かったのだが、3.14ならHow I like.と文字数で覚えるとか、年号だとIn 1492 Columbus sailed the ocean blue.と最後だけ韻を踏むとか、苦労しているらしい。日本語なら「産医師異国」「身一つ世一つ生く」「妻子イチゴ食う」などと簡単にバリエーションができている。「メジャー法」というのもある。携帯のアルファベットを数字と組み合わせておいて、覚えるもので、“Mad Rat Lab”で「3.14159」おとなる。でも、馬鹿げている。考えてみれば、こんなのはメモを見ればすむことだ。覚えることは馬鹿馬鹿しい。

 中学3年の時にNHKの「全国子ども会議」という番組に出た。テーマは方言だった。助言者は富山大学の国文学科の若手ホープだった山口博先生(都立大卒で後に富大教授を経て新潟大教授から聖徳大学教授、王朝文学が専門)がまとめ役となって会議が開かれた。方言に関していろんなことを話したが、結局は喧嘩する時、友達と語り合う時は方言でなければならない、という結論になった。とはいえ、全然話がまとまらず、結局、放送局員がテープを編集して放送した。自分の高い声を聞くのは結構恥ずかしかった。

 山口先生が初めて知った大学の先生だった。あこがれた。後に富山大学の国文科に合格したが、滑り止めだったので先生の弟子になることはなかった。

 学者としてラジオやテレビに出るのもいいなぁと思ったことも確かだ。そこまでの学識を得る苦労はまるで考えないで漠然とそう思った。30年ほど経ってから、同じスタジオでテレビ番組でコメンテーターになった時にはそれなりに感慨もあった。そして、自分の番組を通して先生と再会できた。

 教科書か参考書だったと思うが、金田一京助の『心の小径』で「片言をいうまで」を読んだ【現在は『ユーカラの人びと 金田一京助の世界』平凡社ライブラリーに所収】。単語を採集するはずの手帳に子供を写生していろいろな単語を採集したのだが、「何?」という言葉さえ分かれば樺太アイヌ語の採集がもっと容易にできるのだが、なかなか分からない。

 ただ私は「何?」という一語がほしくなった。それさえわかれば、心のままに、物を指して、その名を聞くことができるのである。そこで、ふと思いついて、もう一枚紙をめくって、今度はめちゃくちゃな線をぐるぐるぐるぐる引き回した。年かさの子が首をかしげた。そして「ヘマタ!」と叫んだ。するとほかの子供も皆変な顔をして口々に「ヘマタ!」「ヘマタ!」「ヘマタ!」。

「うん! 北海道で『何』のことを『ヘマンダ』という。これだ」と思ったから、まず試みようと、身のまわりを見回して、足元の小石を拾って、私からあべこべに「「ヘマタ!」と叫んでやった。

 驚くべし、群がる子供らが私の手元へくるくるした目を向けて、口々に「スマ!」「スマ!」と叫ぶんではないか。

 高校進学を考えなければならなかった。漢文で「鶏口となるも牛後となるなかれ」というのを習った。もし、この漢文を習っていなかったら、一流高校に入ろうとしただろう。言葉が人生を変えた。エリート高の「牛後」になるのは嫌になったのだ。

 結局、三流高校に入った。すぐに悔やんだ。何よりも教師に面白い人間が少なかった。賢い友人も少なかった。

 親戚からもらった高校入学祝でかねて熱望していた『広辞苑』を買った。『広辞苑』さえ手に入れれば言葉を全て手に入れられる、とまで思っていた。3000円はした。

 古語辞典としても使おうと思ったが、とんでもないことだった。「はいる」という漢字に「這入る」などと書かれていて、現代語辞書としても使えなかった。これで調べると作文が書けなくなった(大げさな話ではない)。百科事典としても「コロンブス」の記事に間違いがあったように「帯に短し襷に長し」という代物だった。こんなに使いにくい辞書をみんなでヨイショしているのに驚いた。正確にいうと戸惑ってしまった。高校生で辞書の質が分かるはずもなかった。

 『広辞苑』には「形容動詞」というのもなかった。学者によって扱いが違うことを知らなかった。

 古語辞典を買わなければならなくなったが、広辞苑は国語辞典にも古語辞典としても使えない最低の辞書だと思った。

 「胡」がペルシャと教わった(胡瓜=黄瓜、胡椒、胡麻、胡桃、胡蘿蔔コラフ=人参、胡豆コトウ=豌豆、胡葱=浅葱アサツキ)、胡頽子=茱萸グミ)といった胡のつく食物)が実際にはインド原産だという。どうして「キウリ」なのか?不思議に思った。後に分かったことは室町時代に来日した宣教師フロイスは日欧の文化の比較をしているが、なかにはキュウリの食べ方もある。欧州人はキュウリを未熟なまま食べるが、日本人はすっかり黄色に熟したものを食べると記している。キュウリは「黄瓜」だったわけで、味は独特の苦みがあり、江戸時代になっても「賞(しょう)翫(がん)ならず」と人気はなかった。さらに切り口が葵の紋に似て恐れ多いとか、三日天下の明智光秀の紋に似て縁起が悪いとか、評判はさんざんだった。よく食べられるようになったのは、品種改良で味が良くなった幕末以後というから、一般の食材としての歴史はそう古くない。

 新しいノートに英語で教科名を書いた。MathematicsとかEnglishはよかったのだが、「国語」はどうしようかと思った。そのままだとNational Languageというべきなのだろうが、一体、アメリカ人に英語が「国語」という意識があるのだろうかと不思議だった。それで、Japaneseとしたのだが、友人に「何、これ?」といわれた。しかも、「国語」で学んでいるのはJapaneseの文法だけではなくて、作家の気持だったりするので、Japaneseでとらえられないものがあると思った。

 そのうち、「国語」というものが外国にはないことが分かってきた。「公用語」というものがあることは分かったが、明らかに「国語」=「公用語」ということはなかったし、さまざまな「公用語」を持っている国家があることを知った。

 五文型というものを教わった。教科書の英文を国文法のように品詞の分解をしようとしたが、“than”など前置詞なのか接続詞なのか分からなかった。もっと分からなかったのは“I heard Mary sing.”が第5で“I wanted Mary to sing.”が第3ということだった。だって、“Mary”と“sing”の関係は目的語と補語と関係じゃないかと思ったが、誰にも答えてもらえなかった。“I'm busy fishing.”のfishingが動名詞なのか分詞なのか?

 後から、こういう文法の扱いは難しいことが分かった。問題集などでは巧妙にややこしいのは抜いてあることなど知らなかった。学者によって扱いが違うことを知らなかった。

 高校英語で面白かったのは“bread and butter”(バターつきのパン)とか、“rod and line”(釣り糸のついた釣り竿)みたいな、並列で並んでいるのではない組み合わせだった。これが「ヘンディアディス」(hendiadys“hen=1,dia=by,duoin=2”「二詞一意」)というものであることを大学に入ってから知る。他にも“death and honour”(名誉ある死)“joy and tidings”(吉報、よい知らせ)というのがある。何のことはない。漢語でも「十二」は十+二だが、「二十」は二×十である。

 つまり、1+1=2ではない世界があった。更に1+1<2になることも、1+1>2ということも人生にあることに気づく。芥川龍之介が次のような文章を残しているのを知るのはずっと後である。

 神は未来の人間たちの為に薔薇色の学校を開いてゐた。この学校の授業課目は一に算術、二に算術、三に、---三も算術だった。しかし二三人の怠けものは滅多に教室に出たことはなかつた。【ところが、算術を拒否し、神に「いやです!あすこを御覧なさい」という】

「あすこ」とは即ち人間界だつた。そこには頭の禿げた卒業生たちが大勢、或大きい紙の上へ一しよにかう云ふ式を作つてゐた。
    2+2=5     (芥川龍之介『十本の針』の補輯のなかの「人間」)

 辞書というものが不思議になった。それまで透明だった辞書が研究社『英和中辞典』の出現で違って見えてきた。教科書で迷ったことは何でも(そんなことはないのだが)出ていた。姉からもらった『クラウン』とは全然違った。少しずつ英語が分かるようになってきて、辞書でこんなに違うものかと思った。

 生物で「ピテカントロプス・エレクトス」「アウストラロ・ピテクス」とかが出てきた。考えてみれば“pithecus”が「猿、“anthropos”が「人」、“erectus”は「直立/エレクトする」、“austral”が「南」で「オーストラリア」の語源などということがすぐに分かった。「天声人語」が“Vox populi, vox dei”となっていることも知った。“Anno Domini”が「主の」「年」だと分かり、“-I”が所有格(属格)ということも分かってきて、何だ、英語はギリシャ語やラテン語の組み合わせでできているだけじゃないかと思った。

 当時、『ことばの宇宙』という雑誌があった。東京言語研究所ラボ教育センターというところが出していた雑誌で、谷川俊太郎の「ことば遊び歌」などが初めて掲載された。自分がダジャレだと思っていたことをうまくつなげれば詩になる、芸術になるというのが驚きだった。池上嘉彦先生の『ことばのふしぎ ふしぎのことば』(筑摩プリマーブックス)もここに書いた文章が元になっている。

 チョムスキーが来日するといって大特集をして講義を掲載していた。子ども向きの話と大人向きの話がいり混ぜになった不思議な雑誌だった。30号くらいで終わったのだが、なかなか面白い雑誌だった。幸い全巻もっているが、今こうやって考えると、この雑誌がやっていたことをホームページで実現しているのかもしれない。

 1年の秋に友人がベートーベンの『第九』を歌うことになった。語学が得意でない、その友人はいちいち読み方を聞いてきた。彼にとってはvが「ファフィフフェフォ」となるだけで負担だったのだが、僕はVaterとFatherが似ていることがとても面白かった。Feuerがfireらしいことも分かった。対訳を見ているだけで面白かった。英語と似たような部分がいっぱいあったし、文字と発音の関係が英語と違って(かなり)規則的だった。それに名詞がいろいろな形になることが面白かった。

 文字も面白かった。英語に似ていない文字もあるし、ウムラウトというものもあった。調べてみると、「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」という川柳まであるらしかった。

 この頃だったと思うが、ロゼッタストーンに興味を持ち、たまたま関根正雄・高津春繁の『古代文字の解読』(岩波書店)という本を読んだ。やっぱりシャンポリオンのヒエログリフの解読が一番面白かった。後に関根先生に教わるとは思わなかった。しかも、専門は旧約聖書学だと知って驚いた。

 2年生になったのを機会に第2外国語を始めることにした。NHKのラジオ講座のテキストを買ってきて始めた。第2外国語を始める直接のきっかけとなったのは渡辺照宏『外国語のすすめ』(岩波新書)だった。宗教学者なのだけど、語学の達人でもあった。この本にはサンスクリット語までの簡単な入門がついていた。辞典などの指定も見事なものだった。後に西江雅之先生の『ことばを追って』(大修館1989)で先生が高校生の時にこの本に出会っていることを知って驚いた。その後、50カ国語を話せるようになった西江先生と、日本語も定かでなく僕との違いはどこで生まれたのだろう。次のように書いてあった。

・ 自分の日本語能力と同レベルを目指す
・ 1日24時間その言語のことだけを考えて、3ヶ月後にはなんとかなる
・ 書くためには、短い論文や短編小説を丸暗記する

 ドイツ語の講師は忘れたが、フランス語は朝倉李雄先生だった(朝倉家に、後であんな悲惨な事件【孫が祖母を殺す】が起こるとは思ってもみなかった)。イヨネスコ「禿の女歌手」の演出で有名なニコラ・バタイユも来日中に番組に出ていて僕は勝手に恩師にしている。大学に入ってからイヨネスコ「授業」を学ぶとは思わなかった。二人芝居なのだが、若い女性が言語学者に教わりにくるというお話で、富山の文芸座に訳を持っていないか聞かれて渡す。その後、文芸座の代表作の一つとなる。後に渋谷ジャンジャンで観る。

 フランス語は面白かった。鼻濁音というのが好きだったし、文法も語彙もドイツ語に比べると楽だった。例えば、chamberとchambreのように英語の単語の多くがフランス語から来ていることがすぐに分かったし、発音の違いもよく分かった。Il va sans dire que〜という表現がそのまま英語のIt goes without saying that〜になっていることも面白かった。後に知るのだが、1066年のノルマン・コンクェストによってフランス語からの語彙がたくさんイギリスの中に入ってきたのだ。フランス語は英語でだいたい類推できるのだが、逆にそれが落とし穴になることも分かった。こういうのを「偽の友人」(英語でfalse friend、フランス語でfaux amis)という現象だということは大学に入ってから知るが、日本の外来語でもごく普通に起きていることだと分かる(マンション、ガールフレンド、ビジネスマンなど)。

achever;× achieve(達成する) ○ finish (up)(仕上げる)

avertissement ;× advertisement (広告)  ○warning(警告)

demander;× demand(要求する) ○ask(尋ねる)

eventuel ;× eventual(結果としておこる) ○possible(可能な)

librairie:;× library(図書館) ○book shop (書店)

partition;× partition(仕切り) ○musical score(楽譜)

phrase;× phrase(句) ○sentence(文)

resumer;× resume(再開する) ○summarize(要約する)

sensible;× sensible(分別のある) ○sensitive(敏感な)

veste;× vest(チョッキ) ○jacket(ジャケット)

 フランス語が20進法だというのも面白かった。90=4×20+10 quatre vingts dixとなるのだ。リンカーンのゲティスバーグの演説を英語で習った時も“four score=4×20”がでてきて変だとは思ったが、いろいろあるのだ。後で知ったが、アイヌ語では40 をtu-hotnep (2×20)、100をasikne-hotnep (5×20) という。減算も一般的で、90をwanpe easikne-hotnep (あと10 で 5×20) と呼ぶ。ヨルバ語では16=20-4、35=(20×2)-5となるそうだ。アステカ人が使っていたナワトル語だと、99=(4×20)+15+4となるらしい。ウェールズ語では99=4+15+(4×20)。どうして、20進法なんてあるのだろうと考えてみた……手足の指を全部使うと20進法だ!

 ドイツ語は3ヶ月でギブアップした。高校2年生にフランス語に加えて、ドイツ語の格変化を覚えていく余裕はなかった。その後、大学でまたつきあうことになった。

 今は知らないが、大学受験での英語以外の語学は非常に簡単なものだった。就職して、もう一度、大学を目指した後輩の中で、英語は大変なので、ドイツ語で受験した人を知っているが、本当に楽だったと言っていた。

 2年生の時、生徒会長の応援演説であがってしまい、言葉に詰まった時に「言語障害!」というヤジが飛んできた。ヤジとしてもひどいものだし、言葉が不自由な人に対しても失礼である。見ると、あの冒頭に出てくるガキ大将だった。今でも許していない。でも、言語障害ってどんな症状なのだろう?と思った。大学に入ってから、言語を専攻しているというと時々、言語教育だと思われたことがあった。教育学部の人は聾教育へどうしても連想がいくようだった。

「殺し文句」   茨木のり子(『歳月』)

「これはたった一回しか言わないから良く聞けよ」
ある日 突然 改まって
大まじめであなたはわたしに
一つの賛辞を呈してくれた

こちらは照れてへらへらし
「そういうことは囁くものよ」とか言いながら
実はしっかり受けとめた
今にして思えば あの殺し文句はよく利いた

無口で
洒落たこと一つ言えなかった人だけに
それは一層よく利いて
今に至るまでわたしを生かしてくれている

そう言えば わたしも伝えてあった
悩殺の利き台詞 二つ 三つ
あなたにもあったでしょう
愛されている自信安らかさ

ひとは生涯に一、二度は
使うべきなのかもしれません
近ければ近いほど
心を籠めて 発止と

粋でもある日本語
人を立たしめる力ある言葉を
殺し文句だなんて
急所刺すナイフのイメージだなんて

 出たくもないのにクラスで選ばれてしまい、弁論大会にも出ることになった。「『らしさ』とは何か」考えて話したが、緊張したことを思い出す。

 選ばれるようになったのは、当時から「お前の文章はすぐ分かる」などと言われるようになっていたからである。フツーの文章だと思っている(今も同様だが)のに、そんな風に言われることが多かった。

 フロイトも読むようになったのだが、性的抑圧などの話もあったが、言葉の呪縛じゃないのと思った。ある言葉に引っかかってトラウマになるのが人間なのだが、その原因となった言葉を突き止めれば治るという、わりと単純な話だった。イギリスのことわざに「適切な言葉は病んだ心を治す」というのがあるそうだ。

 大学で学んだエマーソンの言葉に「心の奥底に達して、あらゆる病を癒せる音楽。それは温かい言葉だ」というのがある。

 大学で論語をしっかり学び始めてわかったのは、孔子の「仁」というのは適切な思いやりができること、適切な言葉をいえることだと分かった。

 生物クラブのごたごたがあって、多くの友達が止めていって、残ったのはわずかだった。人間不信に陥った。

 中間テストで60番に下がった。三流高校だったので、ショックだった。さすがに慌てて勉強したら、期末の番数は30番だった。中間・期末を合わせたと考えたらトップになったと同じだと勝手に思って、それ以来、勉強があまり苦にならなくなった。落ちるところまで落ちてみるのもいいものだと思った。

 これは言語と関係のない、オチのない話だった。

 英語は相変わらず嫌いだったが、2年の時に生物クラブの合宿で五箇山に行った。夏休みの宿題に英語で作文しろ、というのがあったので、この時の様子を英語にした。教師が「とてもよくできていたから読んでみる」と言ってみんなの前で読んだ。それで大好きにはならなかったが、苦手意識はなくなっていった。

 ポップスが大好きになっていった。当時はフォークソング・ブームだった。ピーター・ポール&マリーの曲が好きだった。ビートルズよりも歌詞は分かりやすかったし、歌いやすかった。でも、音楽性はビートルズが遙かに上を行っていた。

 フォークではないが、ブレンダ・リーがアメリカ版の「愛の賛歌」を歌っていたのだが、次のような歌詞で、日本の岩谷時子の訳とは全然違うのに驚いた。この事情はフランス語を学んでからようやく分かった。

If the sun should tumble from the sky,
If the sea should suddenly run dry,
If you love me, really love me,
Let it happen, I won't care.

 つまり、フランス語の詩はとても即物的なのに対して、日本のは叙情あふれるものに変えてあったのだ。その辺りがとても面白かった。

 五箇山合宿の成果がもう一つあった。それは教師になって、山の分校で暮らそう、と思ったことだ。海の近くに住んでいるから山はあこがれだった。2、3年、五箇山で暮らしてみたいと思いこんだ。一緒に連れていってくれた英語の高瀬先生の話がとても面白かったからだ。一緒に行った中には後に立川志の輔の奥さんになるMさんもいた。一つ後輩になるのだが、当時からとてもきれいだった。

 当時、一番得意なのが国語だった。Sという国語教師は何も教えてくれなくて、間違いもあって、学校の定期試験はあまりいい点数が取れなかったが、旺文社などの模試ではものすごくいい点数になった。

 だから、単純に国語の教師になろうと思った。Sが反面教師になったことは確かである。

 進路を考えているうちに、国文や英文というのはいっぱいの人がいて、文献に埋もれて生きていかなければならない、それよりは他の言語もやれた方がいいし、ギャグセンスも身に付くかもしれない、とも思い始めた。

「帰途」 田村隆一(『言葉のない世界』)

言葉なんかおぼえるんじゃなかつた
言葉のない世界
言葉が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかつたら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかつた
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたうたひとりで帰つてくる

 映画『2001年 宇宙の旅』もショックだった。姉が会社の出張で上京してテアトル東京で解説付きの映画を観てきたと話してはいたが、「どんな映画?」と訊いたら、なぜか言葉を詰まらせていた。その日、2度も見たが、はっきり言って何も分からない映画だった。分かったのはHAL9000というコンピューターが反乱を起こすことだった。コンピューターが考えて、考えて、人を殺そうとするのだ。

 では、考えるというのはどういうことか?

 全知全能のコンピューターが完成した時にコンピューターは「考える」ことができるのか?それとも計算しているだけか?でも、鉄腕アトムは考えているぞ!ドラえもんも考えている。でも、電気羊の夢を見るだろうか?

 そもそも、考えるとは何か?

 コンピューターは言語をもっているというが、それは考えることができるのか?

 心と脳との関係はどうなんだろう?

 この問いに対しては、後に「チューリング実験」というものを知るが、コンピューターが相手の人間を騙すようなプログラムを持っているだけで「考える」といえるのか?コンピューターも夢を見るようになるのだろうか?後に「イライザ」というソフトを知ったのだが、相手のいうことを僅かに変化させただけで、会話らしくなってしまうのに驚いた。星新一の『ボッコちゃん』では、鸚鵡返しと語尾変化しかできないロボットが人間に愛されてしまって…という事件だ。

 “Sex Kittens Go to College”(1960年)という映画で、最新式のコンピューターがもっとも教師にふさわしいを計算して、天才的なストリッパー(メイミー・ヴァン・ドーレン)を選んでしまう。色気むんむんの新任教師に学園中が色めきたち、コンピューターまでが熱を出して故障してしまう。倒れたコンピューターが見る夢の中でメイミーがストリッパーを演じる。つまり、コンピューターも夢見るのである。

「古寺に斧こだまする寒さかな」
「わが恋は空のはてなる白百合か」

という俳句がある。実はこれらは黒崎政男『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』(哲学書房)に紹介してあるコンピューター俳句で、俳壇に投句したら選ばれるかもしれない。

 この本はSF映画の名作『ブレードランナー』の原作・フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Do Androids Dream of Electric Sheep?)から取られている。

 さらに追い打ちをかけるように映画『マイ・フェア・レディ』を見た。言語学者になればヘップバーンみたいな美人と結婚できる!と思いこんでしまった。言語学科に入ればあんな実験道具がいっぱいあって楽しそうだ、とも思った。もしかしたら、フェア・レディと結婚できるかもしれない

 そうだ。言語学者だ!

 こうして、にわか勉強で言語学科をめざすことにした。ちゃんと始めたのは2年の12月からだった。旺文社のラジオを使った『大学受験講座』を受講し始めた。あのブラームスの「大学祝典序曲」から始まる番組である。新湊高校の先生たちには悪いが、学校の勉強とはまったく違う世界がラジオ講座から拡がった。英語も国語もまるで違う学問に思えた。

 大学について何も知らなかった。難易度も分からなかった。富山大学でも入れればいい、と思った。学研の模試を受けた時に、文系私立タイプを選んだ友人が10位以内に入った。彼よりも僕の方が成績がよかった。つまり、自分は文系なのだ、ということがよく分かった。その後は割と順調に勉強をした。

 そして、大学に合格した。めでたく言語学を勉強できたが、実際にはビー玉もチョコレートも、蓄音機さえなかったし、レックス・ハリソンにはなれず、ヘップバーントも会えなかった。

 人は何のために生きるのかを求めて哲学に入る人がいる。でも、哲学は何も答えてくれない。

 人にとって言語とは何なのか求めて言語学に入る人もいる。でも、答えは…。

すべては時がくるまで熟さない、ぼくもそうだった。-----シェイクスピア『夏の夜の夢』第2幕第2場


 もちろん、これは内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりし乎(よはいかにしてキリストきょうととなりしか)」のパロディである(信奉している人はごめんなさい)。きっと違った道から言語学科に入った人も多いと思う。逆に、きっと同じような疑問をもった経験のある人も多いだろう。 

 振り返って考えてみると、西江雅之先生のように幼児から天才肌でないとダメなのかもしれないと思う。先生には『ヒトかサルかと問われても』(読売新聞社1998)という半生記がある。こちらは反省記のつもりで書いた。

 ただ、言語学科を目指すというのは他の人には珍しい進路だと思うので書いてみた。当時、言語学科をもっている大学は少なかった(東大、京大、東京教育大、九州大、名古屋大、金沢大などのみで東北大などはその後できた)。今は英語学科でも言語学科と称しているほどで数え切れない。そして、当時は学園紛争があったからアカデミックな雰囲気とは遠かった。

 それにかまけて、映画ばかり見ていて、ちっとも勉強しなかった。構造言語学を学んだつもりが小僧言語学ていどに終わってしまった。

 学科を選ぶ時に、言語学がマイナーな学問だから、多くの人と競合しなくてすむし、立派な先生とも必ず知り合いになれる、という計算が働かなかったといえばウソになる。国文や英文には嫌ほど人材がいて、彼らを凌駕することはとても無理だと思えた。そこまではよかったが、自分が大学を出てみたら、言語学はやっぱりマイナーなままでどこへも行き場がなかったのである。

 言語学徒となってよかったか、どうか。信仰ならば心の安らぎも得られるのに…。

 千野先生は年を取ってから、よかったと語り始めたが、僕などにはきっと死ぬまで分からないだろう。


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