占いはいらない〜運勢と人生

With a Little Bit of Luck

 「小憩      於蘇州」   谷川俊太郎

白壁に松の影
大気に開く桃の花
コップの底に新茶が沈んでいく

散乱する紙きれに
一生を託してきた
悔いは別のところにある

遠くが近い
近くが
遠い

占いは吉と出た
もったいない
このひと日

"Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic."
(十分に進歩した科学技術は魔法と区別が付かない)
アーサー・C・クラーク『未来のプロフィル』

「運命は人間活動の半分を思いのままに裁定するが、あとの半分はわれわれの支配にまかせてくれている」
マキアベリ『君主論』

「私たちは、人間を救う力は天のみにあると思い込んでいる、でも、その力が私たち自身のうちにあることもよくある」
『終わりよければすべてよし』

「チャンス、運といった概念は、人間の心にとっては、つねに神聖という領域にきわめて近い概念である」
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』

    「…こういうことを運命と思えるかどうかで運命は変わるんだよ」             
中村航『ぐるぐるまわるすべり台』

「すべてのホラーはホラだ」日本科学技術大学物理学教授・上田次郎(『TRICK』)

「当て事(ごと)とフンドシは向こうから外れる」---昔のことわざ

実際にいいことがなくても、「幸せの予感」さえあればどうにかやっていける【…】

実際には、起きたいいことなんかすぐ忘れちゃうし、すぐあきちゃうし、この先いいことが起こる確率なんてすごく低いはずだけど、
でも、それだけじゃないはずだ。もっと楽しいことだって起きるかもしれないって、大した根拠もなしに思えるかどうか、
希望って、つまりそういうことだと思うのです。---ヨシタケシンスケ『欲が出ました』(新潮社)


 ちょっと前までうちの学校で海運論を教えていた先生が、教育学部に移り、4月からは附属小学校長になるという。教育学部附属小学校というのは教育学部に附属しているのだと思っていたが、教育学部が附属している小学校だったのだ。新カリキュラムで忙しい現場の先生たちは不運を呪っているかもしれないが、藁しべ長者みたいな人生があることをぜひ、子どもたちに教えてあげてほしい。

 藁しべ長者に相当する話はアンデルセン童話にある。「父さんのすることはいつもよし」という話で、自分でも「思いだすたびに、ますますおもしろくなってくるような気がするのです」(大畑末吉訳、岩波文庫)と書いているような、ほのぼのとした物語だ。妻に父さんと呼ばれ、絶対的に信頼されている夫が、飼っている馬を市で何かと交換しようと思いつく。市への途中、馬を雌牛、羊へと次々に交換し、ついに腐ったリンゴに変わる。それでも信じあう夫婦には最後に金貨が舞い込む。父さんがいろいろと交換する場面に子供は笑い、大人は信頼で結ばれた夫婦の姿にひかれる。

 海運の先生も口先ばかりだったが、『マイ・フェア・レディ』のイライザのお父さんはその弁舌が面白いとヒギンズ博士の代わりの講師を務め、“With a Little Bit of Luck”で運命が変わってしまう。

 『マイ・フェア・レディ』の原作はジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』なのだが、ショーにはこんな言葉もある。「しばしば結婚は宝くじにたとえられる。しかしそれは誤りだ。宝くじでは時には当たることもあるのだから」。

 『ピグマリオン』はギリシャ神話を現代に変えた戯曲だ。ギリシャ神話ではよく予言が出てくる。不思議なのは予言は注意すれば避けられるのか、それとも避けられないのか。避けられないのだったら、どうして予言をするのだろう?ギリシャ神話では必ずその通りになるのだが、予言がなかったら、オイディプスのように運命に翻弄されなかったのか、と思う。英語の「運命」“destiny”は「目的地」“destination”と同源だが、運命には避けられない場所に人を連れて行くのだ。

 ヘロドトスの『歴史』にも僭主ポリュクラテスの悲劇が載っている。BC532年頃、サモス島のポリュクラテスは父王が死ぬと一人の弟を殺し、もう一人を追い出した。更にエーゲ海からギリシャに野望が広がった。サモス島に住んでいた数学のピュタゴラスは独裁を嫌ってイタリアに移住してクロトンで教団を創った。ポリュクラテスは友人から不運を避ける方法は最も大切なものを幸運の女神に捧げることだといわれる。彼はエメラルドがついた指輪を海に投げた。ところが、後日ポリュクラテスの許に届けられた魚の腹から捧げたはずの指輪が出てきた。供物は拒まれたのだ。急に幸運はなくなり、ペルシャの罠にはまって殺された。

 悲劇といえば、ギリシャ三大悲劇詩人の一人アイスキュロスは占い師から「しかじかの日に、頭の上に何かが落ちてきて死ぬだろう」と予言されたので、その日は、危険な建物や樹木などから離れ、広い野原の真ん中に避難した。ところが鷲が、爪に掴んでいた亀を空高くから落とし、アイスキュロスは甲羅で脳味噌を割られた(ラブレー『パンタグリュエル物語』第四之書)。なお、夏目漱石『吾輩は猫である』8では、鷲が下界にぴかと光ったものをねらって亀を落とすと、それはイスキラス=アイスキュロスの禿げ頭だった、と語られる。

 同時に「デルフォイの言葉」というと「玉虫色」(Websterでは'characterized by obscurity or ambiguity')という意味を持つ。デルフォイは古代ギリシャのアポロンの神殿のあった場所で、そこで下される神託は解釈の難しいあいまいな言葉が多かったからだ。例えばマケドニアのフィリッポス2世がペルシャ遠征の成否をたずねて受けた神託は「犠牲となる者は祭壇が築かれる前に死ぬ」だった。「犠牲」は当然ペルシャ王だと思って彼は喜んだが、遠征を前に暗殺されたのはフィリッポス2世自身だった。当時の神託はピュトネスと呼ばれた巫女が青銅の祭壇に座って下したという。語り手にしても、どう転んでもあてはまりそうな言い回しには苦労したろう。こうして神託の解釈をめぐる悲劇や喜劇がいくつも生まれた。魔女の予言で人生を狂わされる『マクベス』もまた、曖昧さによる犠牲の典型である。「グラーミスの領主マクベス万歳!」「コードアの領主マクベス万歳!」「汝はいずれ王になる」。直後にコードアの領主となったので信じてしまった。“Fair is foul, foul is fair.”の二枚舌の魔女の「バーナムの森が動かぬかぎりマクベスは安泰」、「女から生まれた者はマクベスを倒せない“None of woman born shall harm Macbeth.”」という。森は動いた(実際にはマルコムの軍勢が切った枝をかざして進軍しただけ)し、帝王切開で母の腹から取り出された(“Macdull was from his mother's womb untimely ripp'd.”)マクダフによって首を切り落とされる。友人バンコーには「マクベスより小さいが、より偉大。あまり幸せではないが、マクベスよりずっとまし。汝は王になれないが、子供が王朝を築く」という。下線部は矛盾しているが、「小さいけど偉大」といわれて喜ばない人間はいない。

 トロイア王プリアモスの娘カサンドラは未来を予見する能力を持っていた。アポロンからの恋の贈り物だった。彼女はこの能力でアポロンの恋人となった自分の未来を予知してみるとロクな運命ではなかったので、アポロンの意に背いて逃げた。アポロンは抱き合ってから能力を与えるべきだったのに、早く与えすぎた。悔し紛れに「誰も信じないように」と無力化してしまった。こうして、カサンドラの予言は必ず当たるのに、誰も信じなかったのである。ギリシャとのトロイア戦争で彼女にはトロイアの滅亡が見えた。だから、常に警告を発していたが、そういう次第で、誰ひとり聞く耳を持たない。結局、トロイアはギリシャ側の奇計である、あの有名な「木馬」を城内に引き入れてしまい…誰も信じない予言というのは、誰も聞いてくれない説教を考える牧師のように悲しいものがある(運命の橋に向って突き進む『カサンドラ・クロス』という映画も作られた)。

 ソクラテスの弟子の一人がアポロンの神託所で巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか?」と尋ねたら「一人もいない」とのご託宣があった。自分が賢者だと思っていなかったソクラテスは驚いて、世間で評判の賢者と問答して彼らの方が自分よりも賢者であることを確かめようとした。ところが、彼らも自分と同じように「分かっていない」ことが分かった。ところが、彼らは「分かっている」と思っている。これが彼らと自分との決定的な違いだとソクラテスは考えたのだ。これが「無知の知」である。だから、弟子に対して質問して彼らが無知であることに気づかせ、自分で真理を発見させるように導いた。

 現代でも避けられない予言が時々ある。2005年7月放送のフジテレビの「25時間テレビ」で、ある占い師(後に「占い師」ではないと否定している・じゃあ、何なのだ)がライブドア堀江貴文社長と対談した。そこで占い師がライブドアを持ち上げながら「ライブドアの最新の株価は427円ですよね。5倍になるわよ」と言い放ったことで週明け25日のライブドア株には買いが殺到した。出来高は前週末の約4倍の4116万株に膨らみ、株価は23円高の450円まで上昇。フジテレビとの和解後の高値をつけた。結果がどうなった、明らかだ。「風説の流布」に当たらないのか不思議だが、誰も責任を取っていない。この占い師は他にも「谷という姓になったら金メダルを取れなくなる」などと予言していたが、誰も責任を取っていない。

 僕の天神様の絵を描いてくれたおばさんは本当にインテリだったのだが、昔、占いに見てもらったら「結婚したら不幸になる」といわれて、姉妹とも結婚しなかった。こんな馬鹿な話があっていいものだろうか?

 漱石の『門』の宗助とお米夫婦に子どもがいなくて、お米が思いあまって易者の門を叩く。すると「あなたは人に対してすまないことをした覚えがある。その罪がたたっているから、子どもはけっして育たない」と言われ、苦悩が一層深まる。「人に対してすまないこと」をしていない大人などはいない。

 『トリコロールに燃えて』という映画ではヒロインのシャーリーズ・セロンが奔放に生きるのだが、14歳の時に占い師に「あなたの34歳以降の人生が見えない」と言われたからだった。僕だって明日の人生が見えないといわれたら、ウニやイクラや白子やマグロをいっぱい食べに行くだろう。

「もう一度読むといいよ。あの本【『カラマーゾフの兄弟』】にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本目を開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を否定するの?」
「かもしれない」と私は言った。【…】
     -----村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 後知恵で人は何とでもいえる。「マーフィーの法則」を信じて、トーストはいつだってバターを就けた方を下になって落ちて、カーペットを汚してしまう、という男がいた。「じゃあ、実際にやってみようよ」といって一緒に実験をした。するとバターをつけた方が上になった。「言った通りだろう」というと、「いや、オレは間違った側にバターを塗ったんだ」…。

 話は飛ぶが、村上春樹の『約束された場所で アンダーグラウンド2』で、オウムの信者たちが麻原彰晃に会った時に何でも知っていて驚いた、ということを語っている。村上が「それは周辺を調べれば分かることじゃないの」と聞いても、まるで取り合わない。こうした予言者?や占い師の中には事前調査をしてから話すという「ホットリーディング」(⇔コールドリーディング)の手口がある。中には三代前からの戸籍を持ってこい、という占い師もいるそうだ。それに若い子だったら、恋の悩みか仕事の悩みに決まっている。「えっ、そうなんだ、恋の悩みなんかないんだ、でも、後で必ず絡んでくる問題だよ」などと言っておけばどれだけでごまかせる。相手の言葉の少し先を読むだけで、期待していることを語ることはいくらでもできそうだ。

 ヘーゲルは『法の哲学』の序文で「ミネルヴァの梟(フクロウ)は日暮れとともに飛び始める」と言った。

…世界がどうあるべきか、それを説くために哲学が登場するのは、いつも遅くなってからである。なぜなら、哲学は世界についての思想である以上、現実の世界ができあがり、完成したあとに、はじめて形成されるものだからだ。

 そういう僕だって呪いをかけることはできる。村上春樹『うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)では、「おそい呪いは神経が疲れる」というカルタがある。

【…】「【呪いをいうのに】37分もかかった。ええい、神経が疲れるやつだ。あたりも既に暗くなってきた。それで、呪いがかかるのにどれくらい時間がかかるんだ?」
「さ……さん……(中略)……さんびゃく……ご……ごじゅうねんくらいだああ」
「350年というと、今が西暦1658年だから、2008年ということになるぞ。俺ももう死んでいるな、もちろん」【…】

 確率論というものがあって、その実現は何%の確率があるとか、簡単にいうが、結果は1か0である。川上弘美の『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(平凡社)には世界征服を狙う友人が出てくる。

「占いに行っちゃった」と電話で友人が言う。
「何占ったかー」【…】
「あのね、世界征服をしたいんだけど、可能性はどのくらいありますか、って、きいた」
「えっ」
「かなりね、あたし、可能性、あるみたい」
「……」
「七十三パーセントくらいだって」
「……」
 友人はふたたび息をひそめた。わたしも受話器を強く握ったまま、息をひそめた。そのまましばらく二人して息をひそめていた。

 運命に翻弄されるのはオイディプスだけではなく、科学が万能の21世紀にも変わらない。それどころか、もっと未来が不透明になってしまった。

 詩人のジャン・コクトーは幸運を信じるかと聞かれて、「もちろん、信じるとも。信じなかったら、大嫌いな奴が成功を収めたとき、どうやって説明するのかね」と言ったそうだが、運がいいとか悪いとか、人はときどきいうけれど、不運な僕らは「無縁坂」でも歌うしかない。

 『福翁自伝』に出てくる話だが、福沢諭吉は少年のころ、殿様の名前が書かれた紙を誤って足で踏んで叱られた。「殿様で悪いなら、神様はどうか」と神社の御札をこっそり踏んでみた。何ともない。「一歩を進めて便所に試みて…」。御札もたまったものではないが、少年らしい探求心に免じて、神様も大目に見てくれたのだろう。罰(ばち)はあたらなかったようで、諭吉少年は今はお金になっている。

 ソレカラ一つも二つも年をとれば、おのずから度胸もよくなったとみえて、年寄などの話にする神罰冥罰(みょうばつ)なんということは大嘘(だいうそ)だとひとりみずから信じきって、今度はひとつ、いなり様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父様のうちのいなりの社(やしろ)の中には何がはいっているかしらぬとあけてみたら、石がはいっているから、その石をうっちゃってしまって代わりの石を拾うて入れておき、また隣家の下村(しもむら)という屋敷のいなり様をあけてみれば、神体は何か木の札で、これを取って捨ててしまい平気な顔をしていると、まもなく初午(はつうま)になって、幟(のぼり)をたてたり太鼓をたたいたりお神酒(みき)を上げてワイワイしているから、私はおかしい。「ばかめ、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでるとはおもしろい」と、ひとりうれしがっていたというようなわけで、幼少のときから神様がこわいだの仏様がありがたいだのということはちょいともない。うらない、まじない、いっさい不信仰で、狐狸(きつねたぬき)がつくというようなことは初めからばかにして少しも信じない。

 迷信というのはウソだと分かっていても、相手を考えるとなかなかうち破ることができない。

 「鰯の頭も信心から」という諺どおり、何でも信じれば信じられるのである。西洋でウサギの足がお守りになっているが、穴を掘って暮らしていて動物の体に宿るとされる地下の霊と交信できて、しかも多産だからだというが、そんなもの食っちまえ!

 で、僕の海運論違った。開運論…。

The Lord above gave man an arm of iron, so he could do his job and never shirk
The Lord above gave man an arm of iron but, with a little bit o' luck,
With a little bit o' luck, Someone else'll do the blinkin' work!

The Lord above made liquor for temptation, to see if man could turn away from sin.
The Lord above made liquor for temptation but, with a little bit o' luck,
With a little bit o' luck, When temptation comes, you'll give right in!..

Oh you can walk the straight and narrow, but with a little bit o' luck you'll run amuck.
The gentle sex was made for man to marry, to share his nest and see his food is cooked.
The gentle sex was made for man to marry but, with a little bit o' luck,
With a little bit o' luck, You can have it all and not get hooked!

占いのついにあたらで歳暮れぬ---正岡子規


☆御神籤(おみくじ)

 2002年の正月のことだが、鎌倉の鶴岡八幡宮へ参拝しに行った。お賽銭を投げてから、ぶらぶらしていると後ろにいたカップルが御神籤を引いたらしく、「ええっ、大凶だ」と叫んでいた。

 馬鹿なカップルだ。鎌倉の神社の「凶率」が高いことを知らないで御神籤なんか引くからだ。僕は前々から家族に鶴岡八幡宮でだけは御神籤を引くな、といってあった。

 僕も昔は知らなかった。知らないで、ある大事な試験がある前日、引いてしまった。「大凶」だった。おかげで試験はさんざんだった。

 ガールフレンドと引いたこともある。北鎌倉からデートするというお決まりのコースで、鶴岡八幡宮に来た時に、彼女には「引くな」といっていたにもかかわらず、引いてしまって「凶」だった。

 彼女はそれから必死になって、別の神社で引いた。また「凶」。さすがに焦って、今度こそともう一つの神社で引いたがまたまた「凶」だった。

 うそではない。実話である。

 その日はきれいに撮ってあげようと一眼レフを持っていったにもかかわらず、フィルムが巻けてなくて、一枚も写真が残っていなかった。

 彼女にとって、僕と別れて「凶」だったのか、「大吉」だったのか、その後会っていないので、分からない。

 浅草の浅草寺も3割が「凶」だという。これは「観音百籤(ひゃくせん)」に従った割合なのだという。

 「大凶」は逆に極めて稀だといって強運に恵まれているとする向きもある。また、引いた者が自分にとって不吉な「おみくじ」だと思うときは、寺社境内の木の枝に結びつければ良いとされる。そうした木は大地に根を張っているので、大地を通じて聖なる他界へ凶をもどすという意味をもっている。ちなみに、富山市の真国寺に「元祖おみくじ」があり、これを引く行事が1月に開かれるが、最近のおみくじと違い、発祥当初のおみくじは「凶」が3割だったという。おみくじは、平安時代に元三大師が詠んだ漢詩が由来とされる。真国寺に江戸時代に大師の漢詩をまとめた書物が保管されており、これをもとに再現しているが、住職は「自分を省みて、成長するチャンスの意味が込められている」と説明している。

 どれも御神籤が境内の樹木にびっしりと結わえてあって「結ぶ」ことで吉運がかなうとされているが、これは本来の意味から言えば間違いだという。結ぶのは「凶」の時のみで、利き手ではない手で結ぶ。不慣れな手で結ぶという「行」によって身を祓う。「吉」の場合は持ち帰り、1年のお守りとするのが正しいと神崎宣武『しきたりの日本文化』(角川学芸出版)に書いてあった。

 山崎ナオコーラ『指先からソーダ』(朝日新聞社)にも似たような話が出てくる。

 その後、浜辺を出て若宮大路を上り、鶴岡八幡宮に向かった。着いてから、せっかくなので、と、おみくじを引いてみた。「吉」と出て、いろいろな項目に、先行きまあまあ上手くいくだろう、といったことが書いてある。ただし、「試験」の項目のところに、「国語の勉強をいま一度見直せ」とあった。

 ショックだった。

 私は小説家なのに。

 考えてみれば、「現実の立場をより完全なものとする努力をして下さい」とか「今は不幸を感じる時です」と書かれていて、いや、俺は努力している、幸福の絶頂だという人はほとんどいないだろう。多くの人は自分には努力が足りないとか不遇だと感じるものである。誰にでも通用することが書かれていても、引いた本人は自分の不遇にかこつける。

 もともと御神籤は聖武天皇が臣下に物を与えるのに、ねじった紙片に仁・義・礼・智・信の5文字を書き、その字によって品物を決めたり、物事を平等に決めるために偶然の働きを利用する「宝くじ」形式のものと、足利義教が石清水八幡宮の御神籤によって室町幕府六代将軍になったように、物事がなかなか決まらないとき、神による判断をうかがうという「阿弥陀くじ」形式のものとがあった。この御神籤の方式が近世以降、箱の中に記号を付けた串を入れ、それを振り出して出てきた記号に対応する吉凶判断や、吉凶などを記した紙片を寺社から受け取るという形式が一般的となったという。

 金沢では正月が近づくとお神籤入りのお菓子が売り出される。これがアメリカに渡って、チャイナタウンから「フォーチューン・クッキー」としてお店に置かれるようになった。

 考えてみれば、お神籤というのは日本的で、紙が豊富にあるから可能だったのであり、羊皮紙を使っては商売にならない。だから口頭の御託宣となったのである。

 御神籤や雑誌の占星術に書いてあることは「……不快な発言や耳障りな噂が飛び交い、神経を逆撫でされがち…」などというのが多い。その気になって読めば、「不快な発言や、耳障りな噂かあ。そう言えば、先週、居酒屋で○○さんが△△さんの陰口を言っていて、あれは聴いていて不快だったなぁ」などと、何か思い当たることは必ずある。抽象的で誰にでも心当たりのあることが書いてあるのだ。「いや、私が耳にするものはすべて心地のいいものばかりだった!」と断言できるほどポジティブな人だったら、そもそも、占いコーナーなんか読まないって…。

 御神籤ではないが、知人で3回結婚した男が神主の息子であるために正月は雄山神社で神主を務めていた。彼に幣(ぬさ)でお祓いしてもらって、霊験あらたかになる人って…。

 6つの坊やの詩を紹介したい。

おさいせんをいれるのは
かみさまもおかねがすきなのです。


☆厄年 

 厄年はホントだよ、気をつけてとはよく言われる。体が変調する時期と重なるからで、前厄、後厄と前後賞がつくから当たりやすい。僕は2度大病をしたが、関係がなかった。

 数え年で男は25,42,61歳で、女は19,33,37歳とされる。男の42、女の37歳が大厄とされる。これも数え年にするか満年齢にするかで異なるし、地域で細かく違うらしい。いずれにしても気をつけるに越したことはない。厄年の起源は42が「死に」、33が「散々」に通じるからという言霊思想が根底にあって他の文化には見られないのだが、年齢集団の折り目を神事の厄年としたためだろう。

 厄年は日本だけだと思っていたし、ウィキペディアの「厄年」の英語版もYakudoshiになっているだけだった。ところが、娘が使っていた大西英文の『はじめてのラテン語』(講談社現代新書)に「数にちなむラテン文化」という項目があって、ギリシャ人やローマ人には「厄年」(climacterでclimaxと同根)があったという。35や42のような7の倍数年、特に63歳が最も危険とされた。人が病気にかかった時も7の倍数日が危機日(crisimusで英語のcrisisと同根)とされた。養命酒は和漢薬では女性は7年、男性は8年の倍数で危険だとCMを流している。

 「アンラッキーセブン」ということだが、逆に「ラッキーセブン」もあった。「七賢人、七大不思議、北斗七星、ななつ星=すばる【日本語ですよ】、七惑星などが知られていたという。ちなみに古代ローマは1週8日制で、七曜制は旧約によるユダヤ暦、曜日の名前に七惑星を当てるのはエジプト暦が起源だという。

 養命酒のCMは「女性は7の倍数、男性は8の倍数の年齢の時に、体調に変わり目が訪れる」だった。ここから「未病」という言葉が使われるのだが、誰だっていついつかは病気になるから、それって健康ってことじゃないの?!

 「チコちゃんに叱られる!」(2021年1月22日放送)によれば、「厄年」=「役年」で新しい役割が廻ってくる年だからだと民俗学者が語っていた。男だと25で仕事、42で中間管理職、61で昔なら「隠居」だという。


☆「忌数」(いみかず)

 各文化にある。ウィキでは"Numerology of China"となっているから中国文化が発祥だろうが、unlucky numberと記載している辞書もある。「奇数は割り切れない数として無限に継続することを意味し、偶数は割切れるものとして無を意味するものと解釈され、忌数とされた」「一般には奇数を忌数とすることが多い」とブリタニカには書いてある。マイペディアには「イスラエルでは7や12を吉数、6を忌数、中国では奇数が陽数で聖、偶数が陰数で忌数として、特に7を吉とした」などと書いてある。

 くしゃみの回数も決まっていて「一に誉められ、二に憎まれ、三に惚れられ、四に風邪ひく」というのがある。


☆奇数・偶数

 日本では4個とかの偶数のセットは嫌われる。中国や韓国では奇数よりも偶数の方が好まれるという。中国人は「2、4、8、9」で特に8が大好きで北京五輪は8年8月8日8時8分に始まった。日本人も8を「末広がり」と喜ぶことがあるが、中国人ほどではない。彼らは日本人が「七五三」などというのが信じられないという。ラテン語でも偶数が凶とされ、暦にも反映されることになる。とはいえ、日本でも好き嫌いが見事に分かれる。Norine DresserのMulticultural Mannersにも”Odd or Even?”という項目p.135があり、アルメニア人は偶数の花は不幸をもたらすと考えているという。

 食器の組み合わせも日本では5客が好まれるが、西洋では大皿プラス4皿なんて当たり前だ。英語のピースというのは食器の場合に蓋なども勘定することになる。


☆3

 3というのは三角形を代表として安定した数で好まれるものだ。キリスト教のTrinity三位一体を始め、「三大〜」「三種の神器」「三珍味」「三銃士」「三役」「三猿」「三つのお願い」「三顧の礼」「三拝九拝」などというものがあるし、どの文化でも嫌われる数字ではない。1549年にパリ市がカトリーヌ・ド・メディシスを招いて開いた大宴会では次のものが出されたという(ロミ『悪食大全』作品社)。3とその倍数が多いのはめでたい数字だと思われていたからなのだが、後にノストラダムスの予言が大当たりすることになる。

 30羽の孔雀、33羽の雉、21羽の白鳥、9羽の鶴、33羽の大鷺の類、33個の玉黍(きび)貝、33羽の白鷺、33羽の青鷺、33匹の仔山羊、66羽の七面鳥の雛、30羽の去勢鶏、99羽の酢漬け雛鳥、66羽のゆで若鶏、66羽の肥育若鶏、6匹の豚、99頭の小さいトナカイ、99羽の小鳩、99羽の雉鳩、33羽の野生の仔兎、70羽の穴兎の仔、3羽の鵞鳥の雛、13羽の山鶉の雛、3羽の野雁の雛、13羽の椋鳥、99羽の鶉、アスパラガス、えんどう豆3枡、蚕豆1枡、朝鮮薊【アーティチョーク】12ダース…。

 3を嫌うのは「三枚目」とか、「三流」や「三振」とかであろうか。旅をする時も3人だと一人がのけ者になりがちだから避けられる。

 アンリ二世は映画『エバー・アフター』で、ダ・ヴィンチの「自分で運命を動かすのだ」という激励などもあって、ドリュー・バリモアが演じたシンデレラと結婚することになってエバー・アフター(末永く)幸せに暮らすことになっていたが、シュノンソー城をめぐる事実は大違い。アンリの死後はカトリーヌがマキャベリになって圧制を敷き、ジャンヌ・モローの映画にもなった『パルテルミーの大虐殺』まで起こしてドロドロ(アレクサンドル・デュマ父が書いた『王妃マルゴ』が原作で、イザベル・アジャーニの映画にもなった)。結局、ユグノー(プロテスタント)にとってノストラダムスは当たったのか?!

 ノストラダムスは「ノートルダム」のラテン語名(つまり「聖母マリア」)であり、フランス語で書いてはいるが、暗号や隠喩を使い、プロヴァンス語、古代ギリシャ語、ラテン語、イタリア語などさまざまな言語を取り混ぜることによって意図的に予言の意味を曖昧にした。だから、あらゆる解釈が可能で、どんなことでも読み取れてしまうのである。「恐怖の大王」は1999年に現れなくても、2001年の同時多発テロがそうだったといえなくはない。

 女子中学生がテストの答案を燃やしている。28点…母親に気づかれるとまずい。小林聡美がさえないOLを演じた名作ドラマ「すいか」は、そんな回想から始まる。「テスト、焼かなくてもいいのに」と小学生が声を掛ける。どうせ1999年に地球は滅びるんだから。「うそじゃないよ。大人も言ってるもん。みーんな、なくなっちゃうんだって」。結局、地球は滅びなかった。それでも不安は、形を変えて目の前にある。「すいか」はこんなせりふで終わる。「また、似たような一日が始まるんだね」「似たような一日だけど、全然違う一日だよ」。


☆4と9

 日本語で「死」と「苦」と同音だというだけで嫌われる。特に日本は「言霊思想」があり、同音異義語も多いからだ。言葉が実体を表すと古代日本人は考えて「言霊の幸ふ国と語りつぎ」(万葉集894)といわれてきたので、言葉に敏感。「忌み言葉」というのがあって葦は「悪(あ)し」に通じるから「良(よ)し」、スルメは「擦る」のが嫌で「当たり目」に変えた。泥鰌を「どぜう」と書くのも本来「どじやう」だったが、四文字は「死」に繋がるから三文字にした(韓国でも四は嫌われ、四階はなくてF階になっている=韓国語の「漢字語」に読みは一つしかないが、日本は音読み訓読みと色々あって「よんかい」と言えば済む)。お節料理もダジャレだらけだが、言霊思想に基づく。節分の豆まきも「魔目」=鬼の目を「射る」=煎るからで「マメ」に暮らせるからとされる。菖蒲湯も「勝負」「尚武」に通じるからとされる。引っ越し蕎麦は「おそばに引っ越してきました。細く長くおつきあいを」という意味だという(笑)。「籠かぶり犬」と呼ばれる犬に逆さの籠をかぶせた縁起物があるが、魔除けの霊力をもつ(「かごめかごめ」)という籠をかぶせることで「神のご加護」というのと「犬」に竹冠をつけると「笑」となるからである。籠は水を通しやすく洟がつまるのを避けて風邪を引きにくくするともいう。結納では「勝男節」「寿留女」「子生婦」「家内喜多留」(柳樽=酒樽)「結美和」などと当て字がひどくて、ヤンキーの「愛羅武勇」と変わらない。キラキラネームのルーツ!?

 駄洒落だと笑っていればいいのだが、これも脅しとして立派に使われている。外国では四つ葉のクローバーが幸運のシンボルになっているのに、日本の病院には4号室も9号室もない。仮に僕がいい、といっても一族郎党みんなが反対するだろう。反対を押し切ってまで入ることはできない。お菓子を4個プレゼントする気持ちにもなれない。シクラメンも「死」「苦」に通じるから見舞いの花としては相応しくないし、菊にいたっては葬儀用だ。根付くから鉢植えの花も駄目だ。

 日本でも特に江戸は侍の町だったから、徹底的に「四」が嫌われた。「どぜう」屋というのも正しくは「どぢやう」屋だったのだが、4文字はいけないというので「どぜう」(室町に「土長」の表記)になったのだ。とはいえ、みたらし団子が元の5個から4個になったかというと、江戸時代に江戸に伝わった時に大人気になったが、5文だった。ところが、1768年に四文銭(しもんせん)が普及するようになって、団子を減らして四文銭にしたという。こちらは町民文化だという説明も可能だ。

 厄年は本当に気をつけろ、というのが多くの「人生の先輩」たちの言葉だが、男の大厄42歳というのは「死に」に通じるからで、女の大厄33歳は「散々」に通じるからと言われたら誰も信用しないだろう。僕自身は満年齢であろうと数え年齢であろうと、実際には何もなかった。

 韓国では4階がない。「死」に通じるからで、F階になっているという。Fourなのだ。日本人は「しかい」とは呼ばず、「よんかい」というからそこまで気にしないようだ。

 ちなみに、ナポレオンが戦場で馬に乗っていたところ、偶然にも四つ葉のクローバーを見つけ、体をかがめた瞬間に銃弾が身をかすめ、命を救われたという話が作られている。アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンにも、この種の話があってリンカーンは四つ葉のクローバーの愛好者で、たえず持ち歩いていたのが、たった一日だけ忘れたことがあり、それが暗殺の日だったという。

 四つ葉のクローバー(le tre`fle de quatre feuilles)の起源について鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)によれが次のようだ。

 ところで、この四つ葉のクローバー、流行したのは十九世紀の末だが、民間信仰が始まったのは非常に古く、中世にさかのぼる。信仰の由来は、国や地方によりことなるが、その一つに、アダムとイブが楽園を追われたとき、唯一楽園から持って出たのがこの四つ葉のクローバーだったという説がある。

 ただ、どの民間信仰でも、たんに三つ葉の中から四つ葉を探しだすだけでは駄目で、見つけるのにふさわしい時期があるようだ。夏至の前夜あるいは聖ヨハネ祭(六月二十四日)の夜だけという厳しい制限のものから、月明かりのない夜ならいつでもオーケーという比較的ゆるやかなものまで、ヴァリエーションは様々だが、いずれも、夜摘むというところにミソがあるらしい。

 では、この四つ葉のクローバーがどんな幸運や幸福をもたらしてくれるのかというと、それは四つ葉がそれぞれ分担している「名声・富・愛・健康」ということになっている。

 四つ葉以上のクローバーも見つかる。踏まれると異常が起きて、葉の数を増やしてしまうので、人の出入りの多いところを調べればいいという。

 なのに、英語で「四文字語」(four-letter-word)が忌み嫌われるのはよく分からない。よね。

 9は「苦」に通じるいう。「門松を二十九日に立ててはいけない」は九と松で「苦待つ」に通じ、「餅を二十九日に搗いてはいけない」は「苦餅」になるからという。でも、「三三九度」はいいのか?というと「めでたい三を重ねたから、よいこと」とされる。

 結納では「勝男節」「寿留女」「子生婦」「家内喜多留」(柳樽=酒樽)「結美和」などと当て字がひどくて、ヤンキーの「愛羅武勇」と変わらない。キラキラネームのルーツ!?


☆7

 奇数は吉のはずなのに、昔の日本人は「七日帰り」というのを嫌った。父親のために、わざわざ1泊増やして帰宅し、出費の方を呪ったものだった。年寄りの信じる迷信だと思うが、外国旅行に7日パックは少なかった。6日までか8日以上である。もちろん、同じ曜日に帰った方が便利であるが、退院でさえ、「七日帰り」は嫌われる。

 他にも「月の七日は旅立ちに悪い」「夫婦の七つ違いは相性が悪い」などという7を忌む俗信がある。かつて女性の月経期間は7日と信じられたため、「七日」は「穢れ」と同義だったためとも、「七殺」という占いの影響とも言われている。「なくて七癖」とか、「七転八倒」とか、「七転び八起き」というから、昔の日本では「七」は分が悪い。今は「マイルド7」なんてタバコもあるし、「ウルトラセブン」もいたから、気持は違っているのだろう。

 西洋では「ラッキー7」などといって7を聖数として重んじる。この習慣を作ったのはユダヤ・キリスト教で『創世紀』で神は7日間で天地万物を創造したという。そこからアウグスティヌスのように「七番目の数字は完全」と提唱された。さらに、1930年代のサンフランシスコ・ジャイアンツは7回の攻撃で逆転することが多かったから一般に広まったとされる。

 7はマジックナンバーとして知られる。人間が短期に覚えるのは7までだという実験がある(ジョージ・ミラーの"Magical Number Seven"という行動主義心理学の論文がある)。だから「世界の七不思議」とか「七つの海」などでまとめられる。「七つの海」をあげれる人は少ない。トリッキーな問題で、答えは最後に書いてある。

 野球では「セブン・イニングス・ストレッチ」というのがあって、7回を前に球場の整備が行われ、その間にミュージカル『私を野球に連れてって』のテーマ曲が歌われる。7回の前というのは延長戦も考えた休憩なのだ。

 当たり前だが、文化でこれだけ違ってくる。「七日帰り」の他に「方違え」(かたたがえ)を大切にした文化もある。「方忌み」とは陰陽道でいうところの凶方を避けることであり、「方違え」とはその凶方を克服するための方法論を意味する。最近は阿倍晴明の陰陽道がすっかり人気になってきたのだが、中国の星占いだと思えばいいの。阿倍晴明は歴史上では「天文博士」と位置づけられている。最近、陰陽師の厄払いをテレビで見たが、映画の『エクソシスト』そっくりだった。映画の影響があるのか、多重人格を相手にする人は似てくるのか、判断しかねた。

 好きな数字を聞いてみると、今の日本人は「ラッキー7」と答え、中国人は「八」と答え、インド人は「わが国が発見した0」と答え、アメリカ人は「ナンバー1」だと答えるだろう。


☆8

 「八」は偶数だけど、古来、日本で末広がりの字形から縁起の良い数字とされてきた。扇を末広といってありがたがるのも、同じ形から来ている。

 中国でも「八」は吉数だという。ただ、理由が異なり、中国語で「財をなす」「金持ちになる」を意味する「発財」の「発」と「八」は広東語などで同音になるので、商才にたけた広東や香港の人々が「八」をとりわけ好んだことからだという(日本人が「めでたい」といって鯛を好むようなものだ)。北京五輪の開幕は2008年8月8日午後8時と、8が四つも並んだ。験をかついだためだ。どうせなら、1988年8月8日午後8時8分8秒に始めたかっただろう。日本では2007年7月7日にたくさんの人が入籍したが、どうあがいても結婚は人生の墓場だから同じだ。日本でめでたい時には奇数を使うが、中国では偶数だ。結婚式も偶数の日にするのが普通だという。ウクライナではプレゼントには奇数で、偶数はお葬式用で縁起が悪いとされる。

 日本でこうした験(ゲン)担ぎは自動車のナンバーに表れる。いろいろ語呂合わせをしていることが分かる。「・・・1」という人と「・888」という人が言い争っているのを見たことがある。


☆13

 映画『13日の金曜日』をまたなくても、西洋では「13」が不吉な数とされている。英語では”triskaidecaphobia”(13恐怖)という。キリストの最後の晩餐の前からそうした縁起担ぎはあったようだ。「13」というのは「12」進法が破られる数字だから、嫌われるのだと思う。別に13日に亡くなったということはなさそうだ。ノアの方舟の洪水が起きた日とか、バベルの塔が破壊された日だとか色々な説があるようだが、ノルウェイの神話からという説(12人の神々が祝宴している時に邪神ロキが乱入してきて、追い出そうとした人気者の神バルダーが殺された)もあるが、誰にも真実は分からないだろう。

 日本人がそんな験を担ぐ必要はない。といいながら、こうした迷信の多くが脅しになっていて、よほど心が強靱でなければ、従ってしまう。「12号室と13号室が空いていますがどちらにしますか?」といわれたら即座に12号室にするだろう。でも、値段が違ったらどうするだろう?

 ついでに、結婚式が終わってからお米を撒くのも教義にはない。一粒からたくさん産まれる米にあやかろうという、後々の迷信である。稲のように子どもがいっぱい生まれたらかなわない。

 チェーホフ『桜の園』にも13人を嫌う場面があったが、晩餐でなくても「13」は嫌われる。バーナード・ショーは「金曜日に結婚すると不幸になるというのは本当でしょうか?」と聞かれて、「どうして金曜日だけが例外でありうるのか」と返事したという。

 種村李弘に「十三日の金曜日」(『迷信博覧会』平凡社)という論考がある。イギリスの戦艦フライデー号は着工式も進水式も処女航海の日も金曜日を選んだ。艦長もジェイムズ・フライデー提督だったのだが、出発してからだれも再びフライデー号を見ることはなかったという。金曜日もヨーロッパがキリスト教化する前は金曜日は「ヴィーナスの日」(フランス語vendredi、イタリア語venerdi)で、英語fridayもFrija(Frigg)という愛の女神が語源になっているから、吉日だったのだ。ちなみに、西欧では金曜日に肉料理を食べない習慣がある。金曜日はキリストの受難の日なので、世俗の象徴でもある肉を断って精進するのであるが、徐々に廃れ始めているらしい。

 なお、アメリカは13州で出発しているから、国旗はもちろん、紙幣にも13という数字はよく出てくる。でも、13日の金曜日の飛行機は相変わらずガラガラだという。船でも「13」日は避けられる。そうした迷信を破るためにアポロ13号は13時13分に打ち上げられたのだが、結果は御承知の通りである。ただ、危機への対応の鮮やかさにより、13号は「成功した失敗("successful failure")」と呼ばれることがある。

 浮気現場に夫が現れたらしく、ドアにノックの音が響いた。「困ったわ、ドアは一つしかないから窓から飛び下りたら」「この窓から…13階だぜ」「何言ってるの、今は迷信の話をしている場合じゃないわ」…。

 フローベールの『紋切型辞典』(岩波文庫)には「13」が次のように書いてある。

十三(treize)  食卓では人数が十三人にならないようにすること。十三という数字は不吉だから。無神論者は忘れずに次のような冗談を言うべきである。「それがどうしたというんですか。私が二人前食べますよ」。あるいはまた、もしご婦人方が同席していたら、妊娠しているひとがいないかどうかたずねる。

 ある時13人がそろってしまって、誰か妊娠していないか尋ねた。すると、ある美人が「妊娠しています」といった。お腹が出ていないように思えたので、「いつ妊娠したの?」と尋ねたらポッと顔を赤らめて「三十分ほど前」。

 吉野椰枝子『おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?』(祥伝社)にはドイツ人が13は特に問題はないというか、特別アンラッキーな数はないという。でも「ドイツでは煙突掃除人がラッキーです」という。煙突のない日本(昔はあったのだが)では考えられない。


☆15

 15なんてどうしてだろう。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の中で占い師が「シーザーよ、3月15日に気をつけろ!」(Beware the Ides of March!)と警告する。シーザーは「夢を見ているのだ」と相手にしない。その日が来ると「おい、3月15日になったぞ」と占い師をからかう。占い師は、「シーザーよ、3月15日はまだ終わっておりませぬ」と言う。それでもシーザーは元老院会議に赴き、暗殺者の血に染まるのである。Idesというのは古代ローマ暦で3月・5月・7月・10月の15日、そのほかの月の13日だそうだ。

 特に15に意味があった訳でもなさそうだ。男は、女もいつだって危険なのだ。


☆22

 黒田龍之助『その他の外国語』(現代書館)を読んでいたら、チェーホフの話が出てきた。『桜の園』で執事のエピホードフは間抜けでいつも失敗している。「毎日なにかしら私には不仕合せが起るんです。しかし愚痴は言いません。馴れっこになって、むしろ微笑を浮かべているくらいですよ」という。これに対して小間使いのドゥニャーシャは同情を寄せて「不仕合せな人で、毎日なにかしら起るんです。ここのあの人のこと、『二十二の不仕合せ』って、からかうんですよ」という。

 どうして22かというと、この数字がなぜかロシア人には滑稽な感じがするのだという。文化によって数字は違う意味を持つのだ。


☆28

 これは全然不吉な番号ではない。井上ひさしが「作家のあだ名」(『ふふふ』講談社)で紹介しているものだ。

 生まれが1828年8月28日。処女出版の『少年時代』の発行日が54年11月28日。決闘直前のツルゲーネフが折れてきたのも61年5月28日。長男セルゲイが生まれたのも63年6月28日。『芸術とは何か』(1897年)でフランス詩を論じたが、詩集の28頁を抜き出して並べ、その頁だけで判断して批判を受けたが、「28頁にいい表現のない詩集に、ろくなものはないのだよ」と反論した。

 こうしてトルストイは82歳の10月に、28日に家を出ればきっと安らかな調和の世界に行けるはずだと信じて死出の旅に出発した。井上は「なるほど、死ぐらい安らかな調和の世界はないかもしれない。二十八はやはり幸運なあだ名だった」と書いている。


☆年号占い

 年号で救世主が現れるとか、不吉なことが起きるとかという占いをする人がいる。

 典型的だったのはミレニアム騒ぎだった。日本にも末法思想があったけれど、西洋でも世紀末というのが世紀毎にいわれ、更に千年紀でもいわれた。ノストラダムスの予言は絶対に眉唾だと思ったが、それは西暦に基づいたものだったからだ。クリスチャンだけが滅びるというのなら、それなりに説得力もあるかもしれないが、一つの宗教の救世主の誕生から数えた年号で、吉兆を語るのは無理というものだ。しかも、キリストが生まれたのは西暦の4年とかいろいろの説があって、西暦1年に生まれたのではないことだけが確かだ。

 ノストラダムスを信じている人は既に人類は滅びているのにみんな気づかないだけだというかもしれない。だって、誰にも気づかれずに一気に滅びてしまっているかもしれないのだ。でも、1999年というのは不自然だった。いかにもギリギリの年であった。映画では『二十世紀少年』や『フィッシュストーリー』というのがある。

 ニュートンも錬金術や聖書研究に没頭した神秘主義者だった。21世紀になってからニュートンが「2060年に世界が終わる」と予言していたという話をメディアが報じ、大きな反響を巻き起こした。正確には、2060年まで世界は滅びないという意味のことが彼の文書に記してあったのだという。聖書の記述に独自の解釈をほどこして作り上げた世界史像にもとづくものだったという。

 占い好きな人は西洋だけでは満足せず、マヤ暦で2012年が最後だという人もいて、『2012年』という映画も作られた。

 和田誠は『にほんほら話』(講談社)の「松尾芭蕉の大予言」の中で、芭蕉が予言者だったことを指摘している。「雲の峰幾つ崩れて月の山」という俳句は「雲の峰」というのがいうまでもなく原爆のことで「幾つ崩れて」というのはその後の核実験の多さを予言し、「月の山」というのはそうした科学技術の積み重ねの上にアポロが月に着陸したことを指しているのだ。「荒海や佐渡によこたふ天の河」というのはもちろん、日本沈没を250年以上も前に予言した!?

 さっき、僕は時間を5分間だけ止めたけどみんな気づいてくれたかな?止めてないと誰か証明できますか?

 アメリカ人も迷信が大好きだが、「テクムセ(テカムセ)の呪い」(The Curse of Tehcumseh)という話がある。

 その昔、原住民との戦闘で勇名をはせたハリソン将軍が大統領に選ばれたが、就任わずか1カ月で病死した。このハリソンが将軍時代に殺した相手がショーニー(Shawnee)族の首長テクムセ(Tecumseh/Tecumthe/TIkamthe)だ。テクムセは合衆国軍を深くうらんで「20年おきに末尾ゼロの年に選ばれた大統領は、任期半ばで死ぬ」との呪いを残した。

 その第1号が1840年に当選したハリソン本人だ。ケネディを含めて暗殺された米大統領は4人。任期中に病死した大統領も4人いるが、8人中7人が「ゼロ年」の当選者だ。

 「ゼロ年の不吉」にはもう一つの側面がある。南北戦争のリンカーン(1860年当選)、米西戦争のマッキンリー(1900年)、第二次大戦のルーズベルト(1940年)など、大きな戦争にかかわった大統領が目につくことだ。そう言えば、ケネディもピッグズ湾事件でキューバと戦火を交え、ソ連とのキューバ危機では核戦争の瀬戸際を見た。

 レーガン(1980年)は死を免れたが、暗殺未遂で左肺を撃たれた。次のテクムセの順番は2000年に選ばれた子ブッシュ大統領だ。

 ちなみに、ブッシュ大統領のことはハーマン・メルヴィルが『白鯨』でとっくの昔(1851年)に予言している。第一章で次のような宣伝用ポスターの話が出てくるからだ。

「大接戦をきわめるアメリカ合衆国大統領選挙」"Grand Contested Election for the Presidency of the United States.
「イシュメールなる男、捕鯨の旅へ」"WHALING VOYAGE BY ONE ISHMAEL."
「アフガニスタンにて血みどろの死闘」"BLOODY BATTLE IN AFFGHANISTAN."


☆大安・仏滅

 結婚式を大安でなければならないという人がいる。

 大安であろうとなかろうと結婚が人生の墓場に変わりはないのに…である。「金曜に結婚すると不幸が起きるというのは本当ですか」という問いにバーナード・ショー「もちろん」と言った。「金曜だけが例外でいられるはずがない」。

 大安とか仏滅や友引という六曜が今も生き残っていて、しかも仏教の教義とは関係がないとされているにもかかわらず、友引の葬儀は避けられて翌日火葬場が混雑する。

 六曜は中国から室町時代に伝わって、実際に使われるようになったのは江戸末期という比較的新しい迷信である。

 大体、西欧人は日曜日に結婚せずに、土曜日に行うことが多い。だから、大安・仏滅は関係がない(当たり前だが)。というのも、日曜は日曜学校などで神父や牧師が忙しい日だからである。

 文部科学省からもらう手帳には、大安・仏滅がカレンダーに載っていない。迷信など信じるな、ということなのだろうが、ちょっと不便なことがある。

 日本軍が真珠湾攻撃を決めたのは大安だったからだという話もある。アメリカは前日で仏滅ということなのだが、ハワイではどっちにとっても仏滅のはずだ。ミッドウェイ海戦も6月5日で先勝で、アメリカは厄日とされる赤口だった。でも、大敗して日本の悲劇が始まった。

 2033年には暦の解釈で友引の日が決まらなくなるといって葬儀業界はパニックしている。

 僕は4月1日に式を挙げようとしたのだが、ウソくさいと反対されて、2日になった…どういうことだ!エイプリル・フールの起源は旧暦で新年を祝う人々がいたからとされる。『チップス先生さようなら』では結婚して2年あまりで若くて明るく聡明な妻は生まれてきた赤ん坊とともに突然この世を去ってしまうのが、4月1日になっている。


☆血液型

 合コンで最初に何を聞きたいか尋ねると、日本人は血液型、イギリス人は家柄、ケニア人は部族で、タイ人は性別だというジョークがある。中国人なら資産で、韓国人なら名前(2005年の民法改正まで「同姓同本不婚」だったから同じ姓どうしは結婚できなかった)かもしれない。アメリカ人は合コンなど不要かもしれない。

 血液型ほど日本人に好まれる占いはない。とにかく、外国人にも「血液型は何?」と聞くのが好きだ。外国人の多くは自分の血液型を知らない。2020年のユーガブという会社の調査によれば、イギリスの成人男女の55%が知らないという。知る必要もないのは白人でO型が最多である(『お熱いのがお好き』ではトニー・カーティスがモンローに失恋話をするのだが、グランドキャニオンで恋人が落ちてO型の血液を輸血したという話が出てくる)。ブラジル人のアバウトさはB型ではないのか!?実際にはB型が最多なのはインド人、ロマ(ジプシー)、アイヌ人らしい。当初はAとB、C型の3種類だったが、後にAB型が追加され、C型はどういう経緯かは分からないがO型になったという。糖分があるかどうかで決めていて、どちらの型もないのは0かと思ったら、ドイツ人が決めたのでドイツ語のOhne(「なし」英語の“without”)の頭文字だという。

 アメリカの先住民はほとんどがO型だという。自然選択説(他の型の人が淘汰された)と創始者起源説(O型が多かった)がある。ヒトゲノム情報から分かったことだが、ベーリング海峡を渡ったのは80人という試算で、後者の方が有力らしい。

 昔の日本人は干支で占っていた。年齢の違う集団が多い場合は機能するが、同じ年代でずっとすごす場合は機能しない。だって、同級生の中では占いできないことになる。だから、同じ年齢の集団を分ける血液型とか星座が好まれるようになったのである。

 もっと悲惨だったのは、ある人がずっとB型だと信じて生きてきたのに、ある日、AB型だといわれて、それまで信じてきた血液型判断は何だったのかすっかり不信になったことがある。実際、血液型はちゃんとしたところで測らないと間違っていることが多い。

 僕の目の前でも事件が起きた。献血の世話をしているのだが、四年生のNさんがいきなり「ずっとAだと思っていたのに、今日、Oって言われた」という。毎朝、血液型占いをチェックして「今日も当たっている」なんて信じてきたのに、いきなり律儀なAから大雑把なOだと言われてショックを受けていた。「誰にAって言われてきたの?」と聞くと、「お母さん」というので、「家に帰ってから、よく考えてから、そっとお母さんに話してね」と言った。すると、「実は去年、今の2年生が保健で血液型を学んで、お兄ちゃんが違う、と叫んで、家で聞いたら父親がちがっていることが分かった」なんて恐ろしい話をしてくれた。

 これでは『ブレードランナー』(1982年)でアンドロイドを追いかけている刑事自身が自分はアンドロイドではないかと気づきはじめる。1、自暴自棄になって死んでしまう、2、アンドロイドとして生きる、3、それでも人間として生きるという選択肢がある。2では卑屈な人生になるだろうし、3は自尊心が保たれるが、偽って生きることになる。

 同じように親と血がつながっていないことが分かったら?外国人であることを知ったら?実は親がパンダと分かったら?いろいろ可能性があるところだ。体外受精児が自分のルーツを知る権利が認められている国もある。角田光代に『ひそやかな花園』という不思議な小説もある。アイデンティティ・クライシスに陥ってしまう。ダイナ・ショアが黒人の子どもを産んだことを思い出す。

 「AB型・二重人格」「B型・いい加減」「A型・きちょうめん」「O型・優柔不断」など以外に、最近では「O型男性とA型女性は相性抜群。A型男性とB型女性は最悪(うちの夫婦)」といった相性まで出ている。糸井重里の「ほぼ日」でも「いつもさみしい問題ー血液型がO型の人は、いつもさみしいってホント?」と聞く企画があり、「A型はいつもつらい」も続いていた。

 さだまさしの「大学祝典序曲」で始まる曲「恋愛症候群-その発病及び傾向と対策に関する一考察-」にも血液型の考察があり、ライブCDでは大笑いする観客の声が入っている。

 ほぼ10年間隔でブームが起きるとされる。『超常現象の心理学』(平凡社新書)を書いた信州大学人文学部の菊池聡心理学)はブームになるのは「医学生理学の立場から『血液型によって免疫力に差があるのではないか』という学説が出されたのがきっかけです。見えないものが形に示されたことは、それらを提唱する人たちの後押しとなりました」と説明する。菊池助教授は人が血液型判断を信じる要因として、(1)マスコミを信じる(2)人間関係をよくするため、相性を判断したい社会的欲求がある(3)初対面でも話題にしやすい(4)当たっていると思える−の4つを挙げる。中でも心理学者は(4)を最大の要因とみる。「人の性格は一通りではなく、いろいろな面が少しずつある。だから『思いあたるフシがある』との感覚が当たっていると信じさせるんです。ほかにも思い込みで予言が真実になる『自己成就予言』という現象で、最近10年でA型がより『きちょうめん』になったという研究報告もあります」と菊池は語っている。

 それにしても、4つだけで人間を分類しようというのが間違っている。もちろん、100の分類をしたら、分類の価値がなくなるのだが、4つでは人間の素晴らしさ、多様さを推し量ることはとてもできない。どの血液型の特性を誰でも持っていて納得してしまうのだ。

 血液型が当たるとされるのは「FBI効果」があるという。Free size効果(「バーナム効果」に相当)Brand効果(ラベリング効果)、Imprinting(刷り込み)効果である。

 バーナム効果というのは誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象である。権威づけることでピタリと当たっている気にさせるので、アメリカのとある有名大学が開発したテストで、100問答えさせてから配ったりすると効果的だ。実は星座占いの文章をまとめただけのものなのだが、個別に配って合っているか聞くと8割は当たっているという。

□ あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っており、それにかかわらず自己を批判する傾向にあります。
□ また、あなたは弱みを持っているときでも、それを普段は克服することができます。
□ あなたは使われず生かしきれていない才能をかなり持っています。
□ 外見的には規律正しく自制的ですが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向があります。
□ 正しい判断や正しい行動をしたのかどうか真剣な疑問を持つときがあります。
□ あなたはある程度の変化や多様性を好み、制約や限界に直面したときには不満を抱きます。
□ そのうえ、あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることはありません。
□ しかし、あなたは他人に自分のことをさらけ出しすぎるのも賢明でないことにも気付いています。
□ あなたは外向的・社交的で愛想がよいときもありますが、その一方で内向的で用心深く遠慮がちなときもあります。
□ あなたの願望にはやや非現実的な傾向のものもあります。

 僕はB型だけに迫害を受けるほうだ。学生でも「教官、B型でしょ」とニヤニヤしてくる奴がいる。B型を採用しないという企業の話も聞いたことがある。ここまで来ると差別だ---と憤るとB型だと決めつけられるから、差別の撤廃はむずかしい。ゴリラの血液型はすべてB型だそうだ。だけど、僕にはゴリラの親戚はいない。チンパンジーがAとOで、オランウータンは全部あるという。

 だから、血液型判断というのは全く信じられない。実際、B型の本は売れ残るそうだ。

 歌舞伎の市川団十郎の血液型が、AからOに変わったという話が「天声人語」に紹介されていた。貧血の治療で、O型の妹さんから造血幹細胞を移植した結果という。新春の復帰公演に向けた会見で「A型とO型で演技が違うのか、じかに確かめてほしい」と楽しげに語ったという。

※2008年には『B型 自分の説明書』というのが売れてから、事情は更に変わった。

 和田秀樹『バカとは何か』(幻冬社新書)に血液型を信じる人の分析をゼックミスタとジョンソンの説で説明してある。

 第一に、スキーマと一致しない情報より、一致する情報に注意が払われるようになる。時間どおりに来ると「やはりA型の人間は几帳面だ」と思う。

 第二に、スキーマと一致しない情報を受け入れにくくなる。机が混乱している人を見ても「A型にしては例外」「一時的」「頭の整理はできている」と思う。

 第三に、スキーマと一致する情報の方が一致しない情報よりも憶えやすくなる。時間どおりに来たことは記憶に残るが、机が汚いことは忘れてしまいがち。

 第四に、スキーマと一致するように記憶を歪ませる。汚い机の上に手帳を見たら、勝手にシステム手帳と思ってやはりA型だと思ってしまう。

 極めつけが出た。韓国映画『B型の彼氏』(MY BOYFRIEND IS TYPE-B)である。公式ホームページでは次のようなストーリーが書いてあった。

 運命の出会いを信じる女子大生ハミ。間違いメールの相手、ヨンビンと偶然に出くわした彼女は、彼こそが運命の相手と思い込む。だが、ヨンビンは“女性が恋人にしたくない男性1位”のB型の男の子だった!
 慎重なA型のハミは、ヨンビンの予測不能の行動に戸惑いながらも、その大胆で積極的な性格に魅了されていく。B型男性嫌悪症の従姉【結婚相談所職員で血液型で紹介している】の妨害工作もなんのその、ヨンビンとの奇想天外な日々を楽しんでいたハミだが、彼の身勝手な行動に次第に傷ついていき、ついに別れを決意する。
 しかしヨンビンにはそんな行動を取ってしまう秘密があった。果たして真実の愛は、血液型を乗り越えられるのか・・・?

 ええっ、これって、うちの夫婦じゃないか!?昔、Y先生からA型女とB型男はつきあうのが大変だといわれたことがあったが、なるほど、夫婦喧嘩が多いはずだ。僕の思いがちっとも通じないのだ。やっぱり当たっているのか!?でも、この映画のおかげで韓国ではB型が面白いと、一番女の子にもてる血液型なのだそうだ。生まれる国を間違った!

 2009年に小林信彦の『B型の品格』(文藝春秋)が出た。 この本に紹介されているB型人間は漱石、「坊ちゃん」、大岡昇平、野村克也(楽天)がいるし、森繁久彌、伴淳三郎、渥美清、西田敏行というコメディアンもすごい。堀北真希、綾瀬はるかもB型だが、小林信彦が絶賛している女優だ。おかしいのは野村監督で「おれは血液型なんて信用しないね。ナガシマとカネダとおれがB型って、どういう共通点があるの?」と言ったという。綾瀬はるかは「何人子どもが欲しい?」と聞かれて「2人」と言った後、「男、男、女」と答えた女優だ。

 2011年には東日本大震災の復興担当大臣だった松本龍が放言をして9日目で辞任した。放言の理由が「B型で短絡的だった」という。こんな奴、即座に殺したくなった(←だから、短絡的だって…)。

 植物にも血液型があるそうで、植物に含まれる糖タンパクでABO式血液型に分類できるのだそう。ちなみにA型はアオキやヒサカキ、B型はセロリやツルマサキ、AB型はバラやスモモ、O型はツバキやダイコンなどだという。

 マラリアに関係するのはABO型ではなく、Duffy式血液型でFy(a-b-)型の人はマラリアに罹りにくく、西アフリカに多いという。つまり、他の型の人は淘汰されてしまったのだ。

 中世のコレラや現代南米のコレラで死ぬのはO型だという。AIが発達してくると、血液型と病気というのがもっと解明されるかもしれない。病気などと関係ない、と言われていたのに…。


☆星占い

「夏の星に」   茨木のり子

まばゆいばかり
豪華にばらまかれ
ふるほどに
星々
あれは蠍座の赤く怒る首星アンタレス
永久にそれを追わねばならない射手座の弓
印度人という名の星はどれだろう
天の川を悠々と飛ぶ白鳥
しっぽにデネブを光らせて
頚の長い大きなスワンよ!
アンドロメダはまだいましめを解かれぬままだし
冠座はかぶりてのないままに
誰かをじっと待っている
屑の星 粒の星 名のない星々
うつくしい者たちよ
わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは
すでに
あなた達を視てしまったからなのだ

「人間ってやつ、運が悪くなると、たいていはおのれが招いたわざわいだというのに、それを太陽や月や星のせいにしやがる-」---『リア王』(第1幕第2場)

 グロスター伯が不幸続きで「近ごろ続いてあらわれた日食月食は不吉な前兆であった」と嘆いて去った後に、エドモンドが冷笑していう言葉である。

 中国では北斗七星が死をつかさどり、南斗六星が生をつかさどるという俗信があったという。4世紀に書かれた伝奇集『捜神記』には、碁を打っていた北斗星と南斗星に酒食を献じて寿命を延ばしてもらうという話がある。易者に若死にの相があるといわれた少年が卯の日に桑の大樹の下で碁に熱中する2人に酒を注ぎ、肉を差し出す。返礼に南斗星は、北斗星の閻魔帳の「十九歳」の文字に上下置換の印を書き入れて、九十歳まで生きられるようにしてくれた…。

 占星術にはいろんな種類がある。エジプト式もあれば、ギリシャ式もある。インドではインド式の占星術がある。生まれた時間や場所によって、星がどこにあったかによって運勢が違い、ほんのわずかの違いでも大きな違いになるという。しかも、結婚する前に星占いでいつ結婚すればいいのか決める人も多いという。そういう僕も母親に無理矢理尼寺に連れて行かれて結婚運を見てもらったことがある。尼さんがいうには僕の相手は北にいるということだったが、北にはソ連人しか住んでいなかった…。

 星が悪いと災害が起こると西洋ではいわれて、“disaster”(災害)とはaster(星)が悪いことを意味した。『ロミオとジュリエット』もプロローグで「星が交わった恋人たち」と不吉さを予言されている。

"From forth the fatal loins of these two foes,
A pair of star-cross'd lovers take their life" (5-6)

 日本でも流星が同じように不吉とされた。

余録:秋の流星群(毎日新聞「余録」2011年10月21日)

 「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし」。枕草子の星づくしで「ゆふづつ」は宵の明星、「よばひ星」は流れ星だ。「よばひ」は呼び続けるという意味で、求婚を示すようになるが、さて清少納言はどう「をかし」かったのか▲ちょうど彼女が枕草子を書いていたころと思われる長保4年9月6日(1002年10月14日)の史書には「終夜流星す」の記述がある。これは毎年秋に見えるしし座流星群のほぼ33年ごとの大出現年にあたるのだという。清少納言がその流星雨を見た可能性は大きい▲平安貴族は流星には神経質だったようで、その33年後の大出現の際には天皇の名による大赦が行われている。普通は許されぬ罪人もことごとく減刑されたという。清少納言は流れ星は尾さえなかったらいいのにと書いているが、もしかしたら流跡を不吉と感じたのか【…】

 二十歳の頃、ある人と話していて、「お前は立派な教師になる、占いみたいだけど」と誉められたことがある。なるほど、これが本当のセンセイ術だと思った。

 教師になることが誉め言葉だった時代もあったというのも懐かしいが、星占いほど信じられないものはない。

 ところが、射手座の人は星占いを信じなくて、『射手座のための星占い』という本だけがいつも売れ残るという。そういわれると信じざるを得なくなってくるから不思議だ。

 それにしても、12月22日生まれの人は本によって射手座だったら、山羊座だったりするからおかしい。正確には22日の何時ということになるのかもしれないが、それも時差があるので、やっぱりおかしい(地球は動いているからおかしくないのかなぁ)。以下が第一生命で占ってもらったもの。特質などはこう書かれて気分の悪い人はいないだろうが、みんなに当てはまる。

□中国占星術算命学占い89−10−13第一生命【高尾学館(算命学研究室)】
世良公則タイプ
■あなたの基本的特質
本能:愛情、財産などを積極的に引き付けるタイプです。
気質:自己犠牲を惜しまず、奉仕的な行動を取ります。
主義:義理人情が好きな現実主義といえます。
印象:情にもろい世話好きな親分肌です。
活躍期:社会の組織、価値観が定まった安定期です。
【活躍期とは、あなたが最も力を発揮する時期や状況を示しています】
■あなたの性格は
 本来は、愛情豊かであっても、すぐには態度に出そうとしません。地味に時間をかけて相手の心に浸透していくので、最初は反対に冷たい人に見られたりします。頭のよい庶民的な愛情、奉仕精神の持ち主です。
 仕事や職場では、正義感の強い行動派として通るでしょう。ただ、自分だけでなく他人にも厳しいので、回りの評価は分かれるかも知れません。
■あなたの要注意期間【充電期間です。自然に逆らわないで受動的にすごしましょう。】
月では6月、7月
年では1990年、1991年

 「ケプラーの法則」の科学者ケプラーだって宮廷の占星術師をしていた。当時は、科学と宗教が分離していなかったのである。科学はA→Bと推論するが、占星術だってA→Bと占う。同じ記号論的な操作をしていることになる。ケプラーは「占星術は天文学の愚かな娘だが、その娘の娼婦稼業で天文学は養われている」という言葉を残している。ちなみに、ケプラーは頭の中に小人がいて、その人が考えているという説「ケプラーの小人理論」というのを真剣に考えたのだが、これには無理があって、じゃあ、その小人はどうやって考えているんだ、ということになってしまう。まあ、僕らもテレビの中に小人が入っていると信じていた世代だが…いずれにしろ、原因と結果の因果関係を知るのは難しい。ニュートンだって錬金術を研究していたといえば、少し前まで科学は何も分かっていなかったのだ。

 シャーロック・ホームズはさまざまな証拠から意味を取りだして犯人を見つけたと同じような操作なのである(記号論的実践!)。ただ、“→”の必然性、科学性が少し違うだけである。オカルトをとりあえず「感覚を超えた実在を信じ、それを特定の知と実践によって把握しようとする体系」と定義すれば、宗教はもちろん、「素粒子」や「進化」などという「感覚を超えたもの」を考えれば近代科学の領域まで重なってしまう。「素粒子」が「フロギストン」とどう違うのか、見せることはできないが、後者が誤りだということは僕らは「知った」つもりでいる。

 精神分析のユングもオカルト的である。あらゆる偶然を一つの神秘の指標と見なしていた。「すべてはひとつであり、ひとつはすべてである」なんて「多様性の統一」などと言っていた。つまり、精神の地下に普遍的水脈を持っていて、それによって一つだと考えた。ユングの提唱したものに「元型」や「縁起律」や「コンステレーション」(「布置」と訳されるが元は「星座」)などがある。晩年のユングは「霊」をほとんど「元型」と重ねて使っている。だから、どうだとはいいたくないが、人類にはまだ気づかない「無意識」があるのかも知れない。

 ある時、ホームズとワトソン博士がキャンプに出かけた。楽しい食事のあと、二人は寝入ったのだが、数時間後にホームズがワトソンを起こしていった。

「ワトソン君、空を見たまえ、何が見える?」
「何百万もの星が見えます」
「どういう推理ができる?」
「天文学的にいって、何百万という銀河系が存在して、何億という惑星があること。占星術的に言えば土星が獅子宮にあること。測時学的にいえば、今は大体3時15分過ぎだということ。気象学的にいえば、明日は上天気だろうということ。神学的にいえば、神は万能で、我々はちっぽけな存在だということです」
 ホームズは一瞬の沈黙の後に言った。
「ワトソン君、馬鹿だね君は。誰かが我々のテントを盗んでいったんじゃないか!」

 落語「釜泥」は視点の移動を見事に使った噺である。日本の笑いも捨てたもんじゃない。

 石川五右衛門は釜ゆでの刑に処せられたが、子孫たちが「釜が敵の世の中だ」ってんで、手当たり次第に釜を盗むようになった。さあ、困ったのが豆腐屋で…主人がふと思いついて、釜の中で寝て、泥棒が来たら大声を出して驚かそうと考える。一杯やりながら泥棒を待つうちに眠り込んでしまい、泥棒が入り込んで、この釜を運び出した。
「今夜の釜はばかに重いな」
「豆でも買い込んだんだろう」とゆられるうちに、中の豆腐屋が目を覚まし、
「おい、婆さん」
「…何だ、何か言ったか」
「言わねえよ」
「でも、声が聞こえたぜ。気味が悪いな」
 中で揺られて地震だと思い、大声を上げたため、泥棒は釜を放り出して逃げてしまった。
「何だい、ぐるぐる回るね。変な地震だ」と蓋を開けてみると、見事な月夜。
「しまった。今夜は家を盗まれた」

 小さい頃、ギリシャ神話と星座の話を聞いて、早速、空を眺めてみた。しかし、どこにも線で描いた神様たちの姿は見えなかった。

 当たり前のことだが、星座というのはバラバラで無関係の星を人間が勝手にまとめているだけだ。西洋と日本と中国とインドでは星座がまるで違う。

 中国の星占いは月ごとではなく、生まれた年、つまり十二支によって考える。例えば、辰なら意思が強くて激昂型で、出世することが多くて、若くて結婚するか独身かという。川上未映子の『人生が用意するもの』(新潮社)に2012年について次のように書いてあった。

 なんでも中国では「辰年生まれ」であることが大変に縁起良く、また非常に有り難いことなのだそうだ。しかも辰は辰でも今年はすこぶる格別で、なんでも60年に1度巡ってくる「黒龍」なる当たり年、そして風水的には「水龍」というのも重なっていて、伝説なのか占いなのかなにによるのかさっぱりわからないけれど、とにかく「今年生まれてくる子どもは特別だ」みたいなムードがあるのらしく、中国の出産適齢期にあるみなさんはなんとか今年に子どもを生みたいと、けっこう必死なのだという話。【…】

 なぜ辰年が特別なのかというと、由緒はもっと別にあるかもだけど、龍は十二支のなかで唯一実在しない生き物であって高みをめざし、麒麟児などという言葉もあるようにーーーとにかく図抜けたもの、はたまた権力と富などなどをものすごく象徴する生き物らしく、つまりはそういう現在御利益的な方面であやかりたいと、非常に分かりやすい話であるらしかった。

 インドには月の占星術の27星座で占うヴェーダ占星術というのがある。

 ところが、西洋の星占いでは、正しい星座が一つしかないかのように考え、しかも、12種類の星座が見えるのは一つひとつ1ヶ月のきれいな期間ではなくてバラバラなのに、あたかもきれいにまとまっているように見せて、占っている。この反省からか1995年にイギリスの天文学者ジャクリーン・ミットン女史の発言にもとづいた発表がCNN放送によつて放送され、世界中の星占い愛好家を驚かせた。占いの誕生した約2000年前には黄道上には星座は12でありましたが、地球が自転するため誤差と微妙なズレが生じていて黄道上にはヘビ使い座の踵の一部がひっかかって13星座の一部となっているという。

 川崎洋が歌うように、自分で自分の星座をつくるしかないのである。

 「夏の海」  川崎 洋

夏の海は
きみと話したがっている
きみと遊びたがっている
ことばでなく
ざぶざぶりんという声で
たくさんの波の形と光で
青いしまもようで
夜になったら
砂浜にねころんで
星空を見上げてごらん
星々が
またたきながら
いろんなサインを送ってる
きみはそのサインを
好きなように受け取ればいいのだ

それから
あの星とこっちの星とむこうの星と
勝手に結んで
きみだけの星座をつくるといい

 似たような占いに「12月生まれの人」などといって月ごとに運勢があるとするものだ。太陰暦ならまだしも、太陽暦で、しかも人工的な区切りである月を元にして運を判断するのはおかしい。もちろん、季節的な要因というものがある。僕の兄弟はみな12月生まれだったが、子どもたちは5月生まれで、おばあちゃんは子どもがこんなに動くとは知らなかったと言っていた。つまり、動けるような季節に僕の兄弟は生まれてなかった。また、5月生まれは賢い、というのも年度の始めで、小学校などでは3月生まれよりも優位に立っているということがある。

 誕生月占いと同じことが星座占いでもいえる。百歩下がって、天文学的に遠いところにある星の影響を受けるとしても、一日ごとに運命がころころ変わるはずがない。

 射手座は率直でありながら、熱狂的で大胆だといわれる。学ぶことを愛して、自由をいつも求める。型にはまった人生が嫌いで、旅を愛するといわれる。

 中には射手座の人間はアバウトでいつも夢のようなことを考えていると差別されることもある---憤ると射手座だと決めつけられるから、差別の撤廃はむずかしい。

 射手座はケイロンというケンタウルスの一人である。ケンタウルスはギリシャ神話に出てくる上半身が人で、下半身が馬という半獣神である。弓を手にして獲物を狩る彼らはどう猛な性格で知られていたが、その中で一人だけとびきりの学識と教養をそなえた賢者がいて、これが後に射手座になるケイロンだった。ケイロンは、アキレウス、ヘラクレス、イアソン(アルゴ船)をはじめギリシャ神話のそうそうたる英雄や王たちの教師として知られている。教えたのは学術から武術、音楽、予言術までの文武百般だが、何よりも気高く聡明な精神によって英雄や王たちを鍛えたという。ケイロンはヘラクレスと他のケンタウロスと争いに巻き込まれ、毒矢に当たって命を落してしまう。古代の王たちが半人半獣の神を教師としたのは「君主たるもの人間と野獣の性格を使い分けねばならない」からだと指摘した人がいる。『君主論』のマキャベリである。このうち君主が学ぶべき獣として、力のあるライオンと狡猾なキツネとの二つをあげた。

 谷川俊太郎(12月15日生まれ)の『ひとり暮らし』(草思社)には射手座の占いをネットで見た感想が書いてある。

…まず「射手座は不在を感知する」とあって次のように続く。「何か欠如しているといつも感じていて、それを追い求めている。理想主義者とも言われる。欠如していないものとして神、といった概念に親しみやすく、それゆえ、他人に大しては寛大であることが多いが、それは、悪しき寛容となったり自分が法であるというような尊大な態度となってしまうことがあるかもしれない」。だが私が一番気に入ったのは、次の一節だ。「射手座のノウテンキさは欠如を否定的なものとして捉えないところからくるのかもしれない。自分の欠如感がどのようなものかを知ることが射手座にとって幸運の鍵だろう」

 おお!信じるしかないではないか。

 ちなみに、英語で「何座ですか」は“What's your sign?”という。サイン、つまり記号だ。

 余談だが、タモリとみのもんた、文化放送の土居まさる(故人)は同じ誕生日8月22日。六星占術では絶対的な権力を求める傾向にあるらしいが、そうではない、何百万人の人がいるはずだ。ちなみにバス1台には今日の誕生日の人が乗っていると言われる。だから、バスガイドさんは「今日の誕生日の人?」と聞いたりするのだ。きちんとした計算によれば、23人いれば誕生日が同じ人がいる可能性は50%を超えるのだ。

 クシシュトフ・キェシロフスキ監督に『ふたりのベロニカ』という映画がある。同年同月同日同時刻に、ポーランドとパリで生まれた瓜二つのベロニカ(イレーネ・ジャコブ)という2人の女性の数奇な交流を描いた作品で、二人に全く血のつながりはない。非常に幻想的な映画に仕上がっているが、こんなことはありえない。双児が同じ日に死んだというのはありうるが、これは割と近くで生活空間が似ている場合に限られるだろう。

 星座占いは星座を使うだけではない。2006年に9個の惑星が12個になるかもしれないという報道がなされた。古来の占星術では、水、金、火、木、土の5惑星と太陽、月を合わせた7つを重視したのだが、これで占星術が変わらない方がおかしい。1781年に天王星が発見されたときは、市民革命が起きて人類の意識が変わって新しい星が必要になったと理屈づけをしたという。12個になったら、どうするのか、そもそも冥王星自体が惑星として認めていいのか、という問題さえある。と思っていたら、冥王星が削られることになった。今後とも定義が変わるかもしれない。

 星占いで「今日は黄色いアイテムを大切にしよう」なんてことがそのまま出てくるわけがない。星占いの人からデータをもらって別のライターが勝手にでっちあげていることが多いのである。「ラッキーアイテム」などが紹介されることがあるが、そんなものが存在しなかった時や未開の地の人には無意味なことである。僕らのような田舎者には手に入らないアイテムだってたくさんある。

 星占いが成立するのは人間だけだ。他の動物は発情期があって生まれる時期が決まっているから、誕生の季節で占いなどできない。じゃあ、動物は星座の影響を受けないのか。いつか星占いの人に聞いてみたい。

 と書いてから、考えてみると人間にも発情期があることに気づいた。なあに、日本人だけなのだが、クリスマスにデートするという風習があって、蠍座生まれがいっぱい増えるはずなのだけれど…。

 池田晶子が『勝っても負けても』(新潮社)に次のように書いている。

 人は、物語がほしいのである。このことはこうだから、こうなるのだという物語がほしい。物語がなければ、人生は何事でもないからである。何がどうしてどうであると、言うことはできないからである。では人がそれを言葉で言う、物語を欲するのは、なぜなのか。
 これは循環になるが、我々が言葉を所有するからである。占いの言葉は、言語と人生のこの循環的構造に、しっかりと根差している。
 また、当たり前のようだが、占われる人は、自分のことだから、信じてしまう。余裕がないのである。「そうかもしれない」。そう思っているから、そうなる。「ほら当たった」。かくして人は、占いの言葉により自分の物語を作り始める。これが、占いを信じて生きる人の姿なのだ。
 思うに、人生に物語を求めるとは、人生は何事でもないという自由に耐えられないからである。人は、言葉によって規定されたい、縛られていたい。人間は言語のマゾヒストなのである。

 放っておいても、毎日、あなたの星占いはこうですとテレビが教えてくれる。いい時だけ信じよう。

私たちは、人間を救う力は天のみにあると思いこんでいる。でも、その力が私たち自身のうちにあることもよくある。---『終わりよければすべてよし』第1幕第1場

 ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。【…】
 何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。【…】
 そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。
     -----村上春樹『海辺のカフカ』


☆シンクロニシティ

 心理学者ユングのいう「同時性/共時性」ということだが、深い意味を持たせている。つまり、「偶然の一致」には意味があると考えるのである。最も有名な話は、デカルト哲学にどっぷりと浸かっていたインテリの女性患者が夢で黄金のスカラベ(コガネムシ)をもらったと告白した途端、カウンセリングしていた部屋にまさしくコガネムシが飛来して窓にぶつかったというものだ。夢と部屋とは何らの関係を持っていない。この非合理的な出来事によって、患者の合理的な態度が揺らいで治療が進展したという。患者がユングに懸命に語ろうとしたこと、ユングが患者を熱意をもって理解しようとしたこととが共鳴しあい、偶然の一致を生んだとユングは考えた。この原因をユングは人間の意識の“元型”に求めたのである。ユングは神秘主義だと批判されることも多いし、意地悪な人間としてはその前にもコガネムシが飛来していたのだけれど、ユングが気づかなかっただけではないかと思いたくなるのだが、事実は事実として受けとめなければならない。女性患者は間違いなく、その偶然を通して治ったのである。

 柳田邦男は自殺した次男が脳死状態になって自宅に連れ帰った。居間に安置した後、長男が何気なくテレビをつけると、切々としたバイオリンの音が響いてきた。バッハの「マタイ受難曲」のアリア「憐れみ給え、わが神よ」の旋律で、次男が繰り返しみていたタルコフスキーの映画『サクリファイス』のエンディングで聞えてくる曲だ。よりによってこの曲が、この日この時に流れてきたのか、柳田は息子に神の救済の手が差し伸べられたように感じた(『悲しみとともにどう生きるか』集英社新書)。ユング派の河合隼雄は「意味のある偶然」として日本に紹介した。

 個人的な経験から言えば、母親が危なくなってきて、家を片づけ、張り替えが最後の障子1枚となった時にシニアハウスから電話があり、様子がおかしいので救急車を呼ぶという。入院して数日後に亡くなった。ただ、これを張り終えたらという予感があった。

 意味のない偶然かもしれないが、『フィッシュストーリー』という多部未華子の映画を見て面白かったので、長男に「『フィッシュストーリー』って面白かったよ、いつか見てね」とメールしたら「今ちょうどキネ旬シアターで見てきたばかり」といわれたことだ。カティーサークの授業をしていてトランプを手に入れて初めて学校に持っていった日に、商船ではなくて国際ビジネスの女学生から「休講になってトランプでも持っていませんか?」といわれて貸したことがあった。実に奇妙だった。

 セレンディップの3王子の話も似たようなものだ。ただ、忘れてはいけないのはアンテナを広げていると情報が入ってくるということだ。ボーッと暮らしてんじゃない。


☆誕生祝い

 誕生パーティが開かれることも多いが、文化によってさまざまなので十分に気をつけなければいけない。早い話、現地の人に風習をしっかり訊く必要がある(異文化の基本)。

 例えば、ドイツでは誕生パーティは本人が主催するものらしく、更に前もって開くとか、前祝いをするとか前もってプレゼントするというのは早死にを意味するのでタブーだという。


☆花言葉flower/floral language

 花占いというのもあるが、花言葉と呼ばれるように意味があり、文化によってタブーが多い。日本で有名なのは鉢植えの花をお見舞いに持って行ってはいけないというものである。これは「根付く」が「寝付く」に通じるからである。だから、切り花にしていたのだが、今では病室に持ち込むことを禁じている病院もある。可能だとしても「菊」などは死のイメージがあるからダメだろう。

 花言葉で驚いたのは「黄色い薔薇」=「軽蔑」というのを小さい頃知ったことだ。そんな意味のある花を栽培する人とか持って行く人ってどんな人?

 西洋ではギリシャ神話にいろいろな花が登場し、キリスト教によって宗教的なシンボルとしての意味が加わった。有名なものに、百合=純潔、菫=忠実、オリーブ=平和、オレンジ=処女性、ヒナギク=無邪気、ヤシ=勝利、イチョウ=死、ヒイラギやツタ=復活、月桂樹=勝利または栄誉、薔薇=一般的には愛情や清浄潔白、赤い薔薇=情熱、葡萄=「これは私の血です」など。複雑な意味を持つこともあり、百合は「あなたは私をだませない」などの意味を持つ。

 もちろん、文化によって大きく異なるから、プレゼントにどの花を持って行くかは充分に聞いてからでないと大きな誤解を招く。特に死を意味する花はダメで、ベルギーでは菊が死を連想させ、特に13本はダメ(と書いてあるがまさかいないと思う)、チリでは黄色い花が軽蔑を、コロンビアやエクアドルではユリとマリゴールドが、エルサルバドルでは白い花が、コスタリカでもカラーが葬式を連想させるという。エジプトで花は結婚式か葬式用だからダメ。フランスではバラやキクは避けると書いてある。オーストラリアでは母の日にカーネーションではなくキクを渡すというが、日本で渡されたら葬式の花にしか思えない。

 プレゼントとして、ナイフなどがダメな国が日本だけでなく、南米でも多いし、アメリカでは服や香水など身につけるものはダメと書いてあるし、石鹸も侮辱になることがある。


☆甲骨文字

 甲骨文字というのは現存最古の中国の文字で亀甲(きつこう)や獣骨に刻まれた中国殷(いん)代の象形文字のことである。紀元前15世紀頃から使われたと考えられる。占卜の記録に用いられ、殷墟より多数出土しているが、これは亀の甲羅を火で焼いて、そのヒビの出来具合で運勢を占ったものである。これらを亀卜(きぼく)というが、周代になると筮竹(ぜいちく)の占いが主流になった。明らかにこちらが楽だったからである。

 亀の甲羅のヒビ!まさかと思ったが、「令和」になった直後の5月13日に斎田点定の儀が行なわれ、亀卜(きぼく)、亀甲を焼いて奉納米の産地を秋田と大分と決めた。

 人間はそんなもので運勢を占ったのである。ローマではニワトリが神の使者とされて、ニワトリの餌の食べ方で神が賛成か反対か占ったという。

 日本でも綱引きや粥占(かゆうら=竹筒に入れて炊いた粥の量などで豊凶を占う)、太占(ふとまに=鹿の肩の骨を焼いて、ひびの入り方で占う)、オビシャ(的を矢で射て、当たり具合で占う)、辻占(辻に立って通行人の姿や言動を基に占う)、橋占(橋の腕通行人の姿や言動を基に占う)なんていうのも怪しい占いだ。ちなみに、太占を行う神社は東経139度線上にあることから松本清張は『東経139度』というミステリーを書いている。

 福永法源・「法の華三法行」の足の裏占いというのが出たとき、同じだと思った。

 でも、同時にバッカだなぁと思った。足の裏なんて!

※僕はおっぱい占いができます。ただ、若い女性でないと占いはできないのでご了承を!(先着100名まで無料)

↑売れない教師から占い教師への脱皮を計ったが、誰もメールをくれなかった。


☆茶柱

 茶柱が立つと縁起がいいといわれるが、今の若い人は知らないかもしれない。緑茶をペットボトルで買うなんて信じられない世代にはそうした風習があった。上司の機嫌が悪い時にはわざわざ茶柱を立てたお茶をもっていくなんてOLがいたものだった。

 イギリスには紅茶占い(tea leaf reading)というのがあった。紅茶自体、銀に匹敵するような値段だったのだが、一般に普及するとともに、この占いも一般化したようだ。

 判読者は茶さじ一杯分だけ残して紅茶を飲む。次にカップを3回まわして液体を受け皿に注ぐ。カップに残った葉や出がらしが作る模様が判読の基礎となったという。

 茶柱ではないが、ケーキに指輪が入っていたら幸せとかで、ウディ・アレンの映画『世界中がアイ・ラブ・ユー』にはプロポーズに出されたハリー・ウィンストンの指輪を飲み込んでしまって、レントゲン技師などから「きれいな指輪ね」と言われて取りだせるのだが、最後にもう一度、というギャグがあった。


☆手相

 易者の前で子どもたちがふざけて騒ぎ、商売の邪魔をする。「お前たちは、どこの子だ」と怒ると、子供が「当ててみな」…。

 石井裕之『なぜ、占い師は信用されるのか?』(フォレスト出版)という本があって、占い師のテクニックを分析している。占いは霊感ではなく、テクニックなのだ。

 ギリシャ神話に運命をつかさどる3人の女神がいる。クロトが糸巻き棒から運命の糸をつむぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが鋏で糸を断つ。糸の長さが生命の時間という。落語の「死神」(原話はグリム童話の「死神の名付親」で、それを歌劇化した「靴直しクリスピノ」を三遊亭圓朝が翻案した)は蝋燭の火で寿命を決め、手相は生命線の長さで寿命を決める。

 手相を見る先生が僕の学校にいて、僕は二十歳ごろに才能を無駄にしたといわれて、さすがに真実味があって、信じている。その先生によれば、僕は財産を残さないという。もちろん、後者の方を信じることにしている。というか、誰だって悪い占いは信じたくないはずだ。手相を見る人はどんな若い、きれいな子の手も遠慮なく握れるから羨ましい。僕に手相占いができる手相はなさそうだ。

 修験者というか野伏の人に見てもらったことがある。姉の友人だったから見てあげるということになったのだ。僕の手相を見るなり、「面白い人だ、おかしいというのではなくて、興味深い人だということだ。ものすごく短気なのだが、理性で抑えている。県外に出れば活躍できるのに…」といわれた。富山文化を語って(騙って)暮らしている僕には皮肉に思える言葉だ。そして、最近は理性がなくなって、ただの短気になってしまった。村上春樹は『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』(マガジンハウス)で次のように書いていて参考になる。

 僕も若い頃は、けっこう頭に血が上りやすい性格だった。でも早とちりや事実誤認があって、それで腹を立てるケースが少なくないことにあるとき気づき、「もっと用心して怒るようにしなくちゃ」と思った。何かでかっとしても、その場では行動に移さず、一息おいて前後の事情を見きわめ、「これなら怒ってもよかろう」と納得したところで腹を立てることにした。いわゆる「アンガー・マネージメント」だ。

 2002年に同僚の中国人の先生に見てもらったこともある。「5、60代でお金持ちになる、夫婦喧嘩もよくするでしょ」といわれて、当たっていたので、翌日、もう一度よく見てもらった。すると「お金は貯まるけれど、たくさん使う人だね」といわれて、占いはいいことだけ信じればいいのだとつくづく思った。

 中国が最初だと思うが、ユダヤや欧米でも手相(palm reading)はある。神の名にちなんだ名前になっていてユピテル宮(野心と成功)、ウェヌス宮(心の優しさ)、サトゥルヌス宮(勤勉)、メルクリウス宮(コミュニケーション能力)、マルス宮(攻撃性)、月の宮(想像力)などで見る。

 志賀直哉は易者に手相を見てもらったという娘を強く叱りつけたという(阿川弘之『志賀直哉』岩波書店)。自分の将来をそういうもので占おうとしてはならぬと、厳しく説教した後で「で、何と言われたんだ」。

 顔の相を見る易者もいる。光源氏は冒頭の「桐壺」で観相家に見てもらって、おかげで割といい加減な身分になってしまうのである。

 落語「ちきり伊勢屋」では縁談の相談に来た質屋の若旦那・伝次郎の死相を白井左近という易者が見とがめ、親のむごい商いの祟りで二月十五日正九つに死ぬと予言する。人生を見切った伝次郎は翌日から江戸の町に出て困窮する者に手当たり次第に金を与えて回る。最後には少し道楽に走って、期日に金に明かした葬儀をするが死なない。左近に文句を言うと、善行により吉相に変わったという。左近の予言に従って品川へ行くと、助けた母娘と再会してその店に婿入りする。店は大繁盛して「積善の家に余慶あり」という次第だ。いい予言をして外れると大変だが、悪い予言をしておけば自己成就できてよかったね、と逃げることができる好例だ。

そのころ、高麗人 (コマウド) の参れるなかに、かしこき相人 (ソウニン) ありけるをきこしめして、宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡 (イマシメ) あれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館 (コイロクカン) につかはしたり。
御後見だちつかうまつる右大弁 (ウダイベン) の子のやうに思はせて率 (イ) てたてまつるに、相人おどろきて、あまたたび傾きあやしぶ。
「国の親となりて、帝王の上 (カミ) なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。
おほやけのかためとなりて、天下を輔 (タス) くるかたにて見れば、またその相違 (タガ) ふべし」
と言ふ。
弁 (ベン) もいと才 (ザイ) かしこき博士 (ハカセ) にて、言ひかはしたることどもなむ、いと興ありける。
文など作りかはして、今日明日帰り去りなむとするに、かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばえを、おもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。(『源氏物語』桐壺)
その頃、高麗人が来朝しましたが、その中に、よく当る観相家がいることを、帝がお聞きこみになりました。宮中に観相家を召されることは、宇多の帝の御遺言に禁じられていますので、ごく内密にして、若宮を彼らの宿舎の鴻臚館 (コイロクカン) へおお遣わしになりました。御後見役としてお仕えしている右大弁 (ウダイベン) の子息のように若宮を仕立ててお連れしたのです。
「このお子は、将来、国の親となり、帝王の最高の位にのぼるべき人相をそなれていらっしゃいます。ところが、帝王となるお方として占いますと、国が乱れ、民の憂いとなることが起こりましょう。それなら国家の柱石となって、天下の政治を補佐するお方として観立てますと、その相ともまた、違うようでございます」と、言います。右大弁も、かなり学才のすぐれた博士なので、二人で話し合った内容は、たいそう興味深いものでした。漢詩などお互いに作り合ったりして、観相家は、「今日明日にも帰国しようという時になって、このような稀有な相を備えたお方にお会い出来た喜びは、かえってお別れの悲しさを思い知らされることなりましょう」と、別離の心境を興味深く詩に詠みました。若宮もそれに対して情緒の深い環氏をお作りになり、すぐお応えになったのを、観相家は言葉を極めて賞讃した上、数々の見事な贈り物などを献上いたし、朝廷からも、観相家におびただしい品々を賜りました。   (口語訳・瀬戸内 寂聴)

 物語で「光君」と呼ばれるようになるのはこの高麗人(こまうど=実際には渤海の使者)が現時を賞賛してそう名づけたのである。帝はすでに日本の人相見にも見せていて結論が分かっていたのだが、占星術の達人にも見てもらっている。ここで矛盾した予言がなされているが、このディレンマが解決するのは光源氏が「太上天皇に准(なずら)ふ位」に就くことによって、解決される。

 だが、江戸川柳に「なさそうである耳たぶのよい乞食」というのがあるくらいだから、当てにならない。人の良さそうな人の詐欺に遭う人も相変わらず多いのは、難しいものだということだ。

 ちなみに次の短歌は小男で手も小さかった啄木が非凡という人に会った時にものである。

手が白く
且つ大(だい)なりき
非凡なる人といはるる男に会ひしに---石川啄木『一握の砂』


☆フォーチューン・クッキー

 ロバート・アルトマン監督に『クッキーズ・フォーチューン』(Cookie's Fortune)というふざけた映画があって、殺人事件をめぐって翻弄されるクッキーというおばあちゃんの運命を描いている。

 もちろん、「フォーチューン・クッキー」をもじった題名になっているのだが、「フォーチューン・クッキー」というのはアメリカのチャイニーズレストランなどに置いてあるクッキーのことで、中に御神籤が入っている。と、昔は説明しなければならなかったが、AKB48の曲のおかげで知られるようになった。実は日本で「辻占煎餅」というものがあって、煎餅の中に占いが入っていた。金沢でも正月に配られる「辻占」がある。諸江屋などで売っている。

 東京ディズニーランドにも「フォーチューン・クッキー」のお土産があって、中からミッキーの占いが出てくるしかけになっている。ちなみにウォルト・ディズニーは休日が嫌いだったという。休日によって仕事のペースが狂わされるのをおそれ、週末が来るたびに「いやになる」とため息をついた。実は若い頃、占い師に見てもらったら、35歳で死ぬだろうと言われた。これを信じて大外れと分かってからも自分には残された時間が少なく、休んでいられないと思い込んだ。そして、他人の休日の面倒をみて儲けるようになった!?

 鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)によれば、フランスではガレット・デ・ロワ(galette de Rois)というパイ菓子が同じように当たりが入ることがあるという。1月6日の公現祭(東方三博士の日)はイエスが東方の三博士(les Rois)の訪問を受けた記念日なのだが、この日には中にソラマメ(feve)と呼ばれる陶器製の人形あるいは王冠が入っていて、王様(Roi)か女王様(Reine)になって遊ぶことができるという。

 フォーチューン・クッキーと関係があるかどうか分からないが、クレープは17世紀に現在の形になったとされる。毎年2月2日のカトリック教徒の聖燭節(せいしょくせつ/Chandeleur/聖母の清めの祝日)に片手にフライパン、もう片手にコインを持って、フライパンの中のクレープを高く放り上げて、クレープがうまく裏返せたら吉、という「クレープ占い」が流行したという。ナポレオンもこの流行にのっかって、1812年2月2日、クレープを高く投げ上げると、4枚目までは大成功だったという。しかし、5枚目を失敗してしまう。この年の10月にナポレオンはロシア遠征に失敗して、退却する時に「余は5枚目のクレープだ」といったというエピソードが残っている。チャイコフスキーが序曲「1912年」をロシアの勝利を記念して作曲したことでも知られる年である。


☆トランプ占い

 うちにもタロー(タロット)カードがある。次郎カードはない。大アルカナという寓意の絵が描いてある22枚のカードと小アルカナという点数カード56枚からなっていて、組み合わせて占う。

 父親は船乗りだったから、いつもソリテア(ウィンドウズのおまけのゲーム)をトランプで遊んでいたので、僕はトランプを見るのも嫌いになった。

 一人遊びなのだが、あれで占いをしているともいった。

 ただのトランプに対してタローカードはよほど占いらしい。ただ、あまりにも西洋的で、たとえば、アフリカの人がタローカードで占いをしているとすると何となく変だ。日本人もちょっと違うのではないかと思う。

 井上ひさしの『ふふふふ』(講談社)の「いたずら」では、NHKで仕事をしていた時に、部長の机の中の「転勤内定者名簿」というのをたまたま見てしまったという。その中に担当ディレクターの名前があり、彼は家を新築する寸前だったという。とはいえ、名簿を見たともいえず、彼を喫茶店に誘って、トランプ占いを始めた。学生時代にT易断で書生をしていたことだけは本当だったが、嘘をついてトランプ占いをしてあげるといい、理由は分からないが、家を建てる時期ではないと話す。相手にしてくれなかったのだが、3カ月後に転勤の事例が下りて、トランプ占いが部内で評判になったそうだ。


☆夢占い

 『宇治拾遺物語』によれば、奈良時代の学者・政治家として知られる吉備真備は若い頃、他人の吉夢を横取りしたという。夢占いにやってきた国司の息子が縁起のよい夢を語るのを盗み聞きして、夢占師に頼んでその夢を自分が見たことにしてもらったのだ。おかげで占いの通りに彼は学問の道でぐんぐん頭角を現して出世するというわけだが、真備の名誉のためにいっておけば、むろんこれは物語である。いい夢はめったなことでは人に聞かせてはならないという教訓として、この話は伝えられてきた。

 このように夢にまつわる話は日本でもあったのだが、今現在、西洋ほど普及しているとは思えない。あれだけフロイトが問題にするのも、文化の違いを感じることがある。

 僕もよく夢を見る。しかし、ストーリーがあまりにも奇天烈なので、とても占いも分析もできない。

 先日も買い物から帰ってそのまま眠ってしまったら、豚カツになった夢を見た。不吉だったが、起きて回りをみると買ってきてキャベツが横にあった。


☆姓名判断

 上司小剣の小説「鱧の皮」は料亭の女将お文の夫が多額の借金をして家出をしている物語だ。無心の手紙が届いて、「鱧の皮を御送り下されたく候」と書いてあった。源太郎というのはお文のことを気づかう叔父である。

 好きな姓名判断の方へ、源太郎は話を総(すべ)て持つて行かうとした。
「やゝこしおますな、皆んな名が二つつゝあつて。けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
 世間話をするやうな調子を装うて、お文は家出してゐる夫の判断を聞かうとした。
「名を変へてもあいつはあかんな。」
 そツ気なく言つて、源太郎は身体を真ツ直ぐに胡坐(あぐら)をかき直した。お文はあがつた蒲焼と玉子焼とを一寸検(あらた)めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序(ついで)に聞いてやつたら、福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直(ぢ)きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命数の終りや。性質が薄情残酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだんだん悪い方へ填(はま)つて行く』と言やはつたがな。ほんまに能(よ)う合うてるやないか。」
 到頭詰まつて了(しま)つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顔をしてゐた。

 佐藤愛子も「名前について」(『続々 坊主のかんざし』読売新聞社)にはこんな風に書いている。

 私が生まれるとき、父は私のために「小百合」と「小菊」という名を用意していたそうである。そのとき父は、優しくも清く愛らしき楚々たる女になれかしと願ってその名を考えたのであったろう。【…】

 佐藤愛子とうい名はよくない名であるから、改名した方がよいと新章文子さんにいわれたのは十年も前のことである。その後、渋谷駅前の占師に、面白半分に占ってもらった時も同じようなことをいわれた。

「佐藤という姓が悪い上に、愛子という名前、これまた悪い。ロクなことがありませんぞ」

と威された。その時は丁度、我が家は破産して私は借金を背負って夫と離婚し、その破産を題材に小説を書いて直木賞をもらい、収入が増えて借金返しもラクになったという、まことに凶か吉か、わけのわからぬ時代であった。

 占師のいう通りにロクなことがなかったのだが、そのロクでもないことがあったおかげで、我が人生は開けた。

 とすると、ロクなことがない名前というのもまた、いいものなのである。

 私は楽天主義者であるからそう思って来た。

 姓名判断で子どもの名前を考えるのは絶対に反対だ。と思っていたが、子どもが大きくなってから姓名判断の本を読んで、「悪い画数」などというのが出てきたら、やっぱり気分がよくないだろうと思って、いちおう、従うことにした。自分自身も総画21で年取ってから伸びると書いてあったので、焦らなかった。どの占いも同じだが暗示効果があり、姓名判断は自身の由来に大きくかかわってくるので、暗示効果も大なのである。

 どの本も同じ画数で運・不運を決めているようで、どの本か一冊読めば事足りる。もちろん、矛盾点はいっぱいあって、僕が小さい頃読んだ本には年を取ってから成功と書いてあったように思うが、最近読んだ別の本には若い頃成功と書いてあった。頼ったらダメということなのだろう。

 お笑いなのは外国人にも姓名判断している本があることで、場合によってはカタカナ、アルファベットの画数で考えられている。まあ、逆に外国人にあって日本人にしかない運勢というのも変だ。

 2007年10月8日には「安倍、小泉、森、小渕、橋本、村山…と日本の歴代首相の姓をたどると、字面の縁起の良さで群を抜くのは、やはり初の親子首相となった赳夫、康夫両氏の「福田」である◆仏教の解釈で「福田」とは、善の縁を結び、福徳を生むことのできる田畑を指す――と、仏教用語まで動員して福田政権誕生を伝えたのは、漢字文明の本家、中国・人民日報の海外版だ」という話が読売「編集手帳」に載った。

 ある人が行方不明になって、手がかりがないか名前を調べてみたら、(親切なことに)姓名判断のページが出て、全てが凶だということに驚いた。

 日本会議という団体が元号法を押し進めたのだが、面倒になってきた。「平成」は天変地異だらけだった。

 もともと「平」の字が上に来る元号はただ一つ平治だけで、これはかねがね不吉だと言はれてゐたのに押し切つてつけたもの。果然、平治の乱が起つたので、以後つけなくなつた。
 その迷信に逆らつてヘイセイと改元した勇気は認めてもいいが、しかしわたしはこの元号は嫌ひだ。「屁」「下手」「蛇」「へぼ」「へたばる」「ヘナヘナ」……どうも語感がよくない。-----丸谷才一


☆家相

 建築家の清家清は『上手な老い方』(小学館)の対談では落語が好きで次のように語っている。

「私は『家相』で自分の家を建てました」
---えっ、それほど信じておられる?
「いやね、『家相の科学』という本を書いて、その印税が入ったから、家を建てられたんです(笑)、まあ、3分の1は迷信、3分の2は半信半疑、でしょうか。私自身は家相に関係なく、自分の家を建てていますが。
 そう、『徒然草』に、家は《必ず作り果てぬ所を残す事なり》とあります。完璧な住まいを目指すより、作り果てぬ余地があるくらいのほうが、やすらげるかもしれませんね」


☆言霊

 日本には古くから言霊思想が根付いている。結婚式などでも使ってはいけない忌み言葉が残っている。語呂合わせは日本の重要な文化だ。

 受験生がキットカットやカール(受かーる)やキリシトールガム(きっちり取ーる)や伊予柑(いい予感)などを食べるのがそうだ。

 キットカットは2000年頃に、九州の受験生が「キットカットできっと勝つとお」と言い始めた。ネットに乗ってたちまち全国区の流行になったのだが、駄ジャレに過ぎない。1935年、英ヨークシャーの生まれだそうだ。第二次大戦中、チャーチル政権が「廉価で体によい」「ひとかじりで2時間行軍できる」と推奨し、国民的なおやつになった。サッチャー政権下の80年代、その発売元をスイス企業ネスレが力ずくで買収する。「英国の味を守れ」と反対するデモが起き、チョコ戦争と呼ばれた。肥満対策を掲げるブレア政権は、もうチョコを食べるよう国民に薦めたりはしない。ところが、2005年になって英紙やBBCが相次いで「わが国伝統のチョコが日本で受験生のお守りとして大人気」と報じた。「かつて日本の受験生は縁起をかついでカツ丼を食べたものだが、キットカットがそれに取って代わった」という。

 日本では受験生を持つ親は「落ちる」とか「滑る」とか、使わないように気をつかう。うっかり落とした時は「代わりに落ちてくれたね」などと言ってその場をしのぐ。米国ではうさぎの足、インドでは象の顔をした神、トルコでは青い目玉の魔よけが有名だが、言葉で受かったり、物で落ちたりしては受験が成り立たない。


☆超能力

 地震を察知する犬とかミミズとかが話題になることもある。これを超能力のように取り上げるフシもあるが、ただの自然現象である。

 例えば、カマキリは英語で「マンティド」mantid/mantisという。学名の由来となるギリシャ語mantisには「予言者」という意味がある。卵の位置が冬の雪の量を占ってくれるのだ。モズの早にえも予兆とされる。カマキリはその仕草から、別名は「拝み虫」praying mantisという。

 これらはまだ人間には分かっていない微妙な自然現象を感じるだけで、いつか解明できたら未来予測の役に立つだろう。

 超能力を信じるなんてまだまだできないだろう。画家のゴヤも銅版画に書いているように「理性の眠りは怪物を生む」のである。


☆前世

 精神科医の香山リカが「私の前世は何ですか?」と聞く患者が増えたと怒っていた。

 前世を「ヨーロッパの放蕩息子」などという人がいる。その前はずっと日本の武士や貴族だったのだが、週刊誌でいつも武士や貴族はおかしいだろう、と叩かれて、ヨーロッパになった。絶対におかしい。問題は前世を使って詐欺をする人が多いことだ。

「この犬ね、全部前は人間だったんだよ」男は続ける。Tシャツの上に長いコートをはおっている。昨日あの集まりに来ていた男のような気もするし、そうでないようにも思えた。「人間だったとき急ぎすぎちゃった人たちね。今はようやく何もしなくてもよくなったから、みんなすごくのんびりしててね、全然攻撃的じゃないの。触っても大丈夫だよ。---角田光代『まどろむ夜のUFO』(講談社)


☆神頼み

 日本人には「困った時の神頼み」というのがある。外国ではどうなんだろう?映画で見る限り、同じように神様にお願いをしているように見える。

 日本人の場合、「神様、仏様」と多神教であることを全面に出しているが、神様と仏様で喧嘩しないものかと心配になる。

 親ばかだが、受験の時に長男に「仏壇にお参りして行け」といったら、「神や仏に頼らない」と宮本武蔵なみのことを語って出かけた。1勝1敗であった。


良心的な占い

 水晶占いが「2問で1万円」と聞いて、客が「ちょっと高くないか」と問う。占師は「はい高いです。では二つ目の質問をどうぞ」。

 仕事が見つからなくて困っていたら、人類学者の西江雅之先生が「金川さん、良心的な占い師になればいいんですよ」とおっしゃった。「何をするんですか?」と聞くと「生まれてくる子どもの性別を当てるんですよ。必ず儲かります」。「どこが良心的なんですか?」と聞くと、「だから当たらなかったらお金を返すのですよ。そうすれば誰も恨みませんから」という。

 生物には自然条件でオス・メスが決まることが多い。ウミガメでは孵卵の温度が29℃より高ければメス、低ければオスと決まっている。

 2005年になってドラマ「トリック」を見ていたら同じ詐欺が出ていた。仲間由紀恵のお母さん・野際陽子が同じ手口を使っていた。更に良心的になっていて、1万もらって占いをし、違っていたら5千円を加えて1万5千円返すというシステムになっていた!

   小憩――於蘇州       谷川俊太郎

白壁に松の影
大気に開く桃の花
コップの底に新茶が沈んでいく

散乱する紙きれに
一生を託してきた
悔いは別のところにある

遠くが近い
近くが
遠い

占いは吉と出た
もったいない
このひと日  

 占い師には資格はいらないのだが、人気占い師・水晶玉子は日本占術協会があって毎年1回試験があるという。


☆十干十二支

 還暦なども迷信だが、十干十二支を使っている国もある。家族が何年かよく知っている子どもがいて、ある時「おばあちゃんは?」と訊いたら「パンダ年!」と答えた。猫が入っていないのはお釈迦様が集合するように言った日に鼠に騙されて一日遅れたからで、それで鼠を追い掛けるという説もある。お釈迦様に顔を洗って出直してこい、といわれて顔をよく洗うとされる。

 丙午の女は八百屋お七のように禍いを起こす。丙寅の女は男を七人殺す、五黄ゴオウの女は気が強い、寅年の女は婚家に落ち着かない・病気になりやすい、未年の女は男運を下げる、丙子の年や日の出産は母子と物危険、庚申の日に妊娠したり、庚申の年、日、刻に生まれた子は大泥棒になる、丑の日に生まれた子は天変地異に遭う、毎年変わるが、丙午だった1906年の暦には午の方向を向いて種を蒔いてはならず、出産をする時は辰の方向を向いては行けない。辰の法学を向いて大小便をしてはならないと書いてある(『日本を知る事典』)。庚申塚がおかれている村もある。

 戦争中は千人針がお守りとされた。大勢の女性がサラシに赤糸で必勝の文字を縫ったりして腹巻きを作った。寅年生れの女性が赤い糸で縫うとよいとされたが、「虎は千里行って千里帰る」という格言に基づいていた。

 夏目漱石は1867年(慶応3年)1月5日生まれだ。この日は庚申(かのえさる)の日にあたり、この日の「申(さる)の刻」(午後4時頃)に生まれた子どもは出世すれば大いに出世するが、一つ間違うと大泥棒になるという俗信があった。しかし、名前に金の字か金偏の字を付ければ大泥棒になることは免れるといわれて「金之助」となった。

 干支とは違うが、トイレに落ちた子は「千」とか「仙」と改名されたが、これが「千と千尋の神隠し」の一つのモチーフになっている。こういうのを言語学では「厄除け名」(apotropaic)という。ウェブスターでは“designed to avert or turn aside evil *an apotropaic ritual J.H.Moulton*”と書いてある。

 姪は1966年生まれだったが、受験は楽だったという。のんびりした性格に育っている。今度は2026年だ。ネットで信じるバカも多い。


☆パワースポット

 最近はパワースポット巡りが流行っている。というか昔から吉野詣があったし、お伊勢参りもあった。

 その前に、例えばビッグホーンなどの動物もパワースポットを持っている。繁殖地なのだが、オスは1カ月前に集合して強さの順番を決めておく。メスの集団が現れて交尾が行われる。その意味では筑波山の「かがい」なども同じようなものだったろう。 

 「聖地」はどの宗教にもある。メッカに行くのも命懸けだったりする。四国八十八カ所みたいな巡礼も多い。

 ヨーロッパでは景色のいいところで、泉が出たりするとパワースポットになる。マリアさまが水をくださり助かったというものである。ルルドの聖水などが有名である。日本でも温泉のいくつかは神が現れてここの水を使えといって治ったというのが多い。富山だと湯御子温泉などである。

 きれいなところで空気が清浄だったら、それだけで心洗われる。

 今は「聖地巡礼」といってもアニメや映画のロケ地ハンティングだったりする。それで気がすめば十分だろう。


☆扱わなかったこと

 お守り、地蔵などなど。


☆最後に

 村上春樹『バースデイ・ストーリーズ』(中央公論新社)の「バースデイ・ガール」には二十歳の誕生日に願い事を叶えてくれるという不思議な老人が出てくる。

「しかしたったひとつだけだから、よくよく考えた方がいいよ。可愛い妖精のおじょうさん」。どこかの暗闇の中で、枯れ葉色のネクタイをしめた小柄な老人が空中に指を一本あげる。
「ひとつだけ、あとになって思い直してひっこめることはできないからね」
【というのだ。願いが叶ったかと聞く僕に対して彼女は答える】
「私が言いたいのは」と彼女は静かに言う。そして耳たぶを掻く。きれいなかたちをした耳たぶだ。「人間というのは、何を望んだところで、どこまでいったところで、自分以外にはなれないものなのねっていうこと。ただそれだけ」
「そういうステッカーも悪くないな」と僕は言う。「『人間というのは、どこまでいっても自分以外になれないものだ』」

 占いが成立するのは因果関係がありそうな気を起こさせるからである。森本哲郎は『日本語 表と裏』(新潮文庫)で占いという言葉について「うら(心)に由来するのではなかろうか」という。大和言葉の「うら」は、見えないもの、隠れたものを意味する。「つまり、かくれた神の心を推測することが占いなのである」という。

 哲学では意味のない情報から、意味のあるパターンを見い出そうとする傾向をapopheniaという。統合失調症である。韓国語には「カラスが飛び立ち、梨が落ちる」ということわざがあり、いかにも因果関係がありそうだが、判断ミスをしていることを表す。

 板橋作美は『占いの謎』(文春新書)で占いを<ある事物や現象を、それ自体とは別の何かを意味する「しるし」としてとらえ、そのしるしの意味を解読したり解釈する行為>と定義している。

 占いは記号論なのである。記号論を学べば「コールド・リーディング」、すわなち「まったく事前の準備なしで初対面の人を占うこと」「人の心をその場で読むこと」ができるようになる。

 占いは概ね3つに分けられる。

相学(形で占う)=人相・手相・地相・風水・家相・血液型・姓名判断など。

兆学(道具を使って占う)=おみくじ・トランプ・タロット・水晶など。

命学(生年月日で占う)=占星術(星占い)・四柱推命術・誕生月日別運勢など。

 相学と兆学の違いは道具の偶然性が関わるところにあるが、道具が変化しないと異なる占いができないからである。

 魔法の鏡や水晶玉を覗いて未来を占う人をスクライヤー(scryer)という。スクライ(scry)というのは水晶玉のように元々はっきりしないものを目をこらして見分けるという意味で、鏡や影から何らかの幻視を得ることをいう。

 道具立てをミディアム(手相、タロット、易、水晶、ルーンストーン、ペンデュラム、星座などを含めて)ということもあるが、これは信憑性を高めるのに有効なのだ。「内輪もめを意味するカードが出ましたが、何か思い当たることはありませんか?」と聞いて、思い当たれば具体的な話が始まる。全く心当たりがない場合でも、「相談者がカードと自分の体験を結びつけられなかった」「コールドリーダー」がミディアムを適切に解釈できなかったことになり、コールドリーダーの信憑性は疑われない。「解釈できなかった」と「リーディングを間違った」では全然ニュアンスが変わってくる。「赤いものが見えます。これって何でしょう?」と言って相手から答えを聞くこともできる。

 笑えるのは落語「御神酒徳利」である。スクライがそろばんになる。店の宝の御神酒徳利が見つからず、ようやく自分が仕舞ったことを思い出した番頭が妻の助言で「そろばん占い」で見つけたことにする。これを知った鴻池が娘の病気を治してほしいと呼ぶ。途中、宿でお金の盗難を解決して大阪に向かう。偶然の重なりで快癒する。礼金が入って「もちろん、ケタ違いになるわけで、そろばん占いですから」…。

 「サザエさん」の視聴率が低いと株価が上がるというように連動しているという「理論」が最近出されたが、アメリカには「オイスター理論」というのがあった。ウォール街がバブル景気にわいた1920年代末、株価はカキのおいしい季節にピークに達すると主張した。当時はほかにも太陽の黒点と株価の連動をとなえたり、マンガのキャラクターの文字の組み合わせで買う銘柄を決める珍理論が続々登場したという。中でも女性占師のエバンジェリンの占星術による株価予想誌は毎号10万部を売り続けた(G・トマスほか『アメリカの死んだ日』TBSブリタニカ)。彼女は後に何の偶然か「暗黒の木曜日」の暴落を的中させる。だがその後顧客には株価は戻ると言いながら、自分は持ち株をすべて売り払ったという。カキの旬や太陽の黒点をめぐる珍理論も、あやしげな占師のお告げも藁をもつかみたい人々にとっては頼もしい福音に聞こえてしまうのである。そう、心の透き間に占いは入り込む。

2009.7.28 20:08 産経新聞
 「サザエさん」の視聴率が上がると株が売られ、人気アーティスト「ドリカム(DREAMS COME TRUE)」の人気が上昇すれば株価もうなぎ上り−。大和総研が28日まとめたリポートで、一見、経済に関係ない事柄と株価との思わぬ関係が明らかになった。
 サザエさんに関しては、平成15年以降の視聴率と、東証1部全銘柄の値動きを示す東証株価指数(TOPIX)の推移を比較。その日の特殊事情を除くため、26週移動平均でみると視聴率が上がるとTOPIXが下がることが多かった。
 最近の動きをみると、視聴率は昨年9月のリーマンショック後の16%から上昇し、今年3月中旬には19%と高水準になった。一方でTOPIXは昨夏の1400台から下落を続け、今年3月上旬には700台前半まで下落。吉野貴晶(たかあき)チーフクオンツアナリストは「サザエさんの視聴率は日曜夕の在宅率を反映する。高くなるのは景気が悪くて外出が減るから」と分析している。
 ドリカムについては、年2回のテレビタレントのイメージ調査から「人気度」を算出してTOPIXと比較。14年2月以降、人気が前回調査と比べて上がったケースの75%でTOPIXも上昇していた。吉野氏は「現実感があり、元気なドリカムの作品が流行するときは、世の中も元気で株価が上がる」としている。

 政治評論家の細川隆元は『隆元のはだか交友録』(山手書房)の中で岸信介首相が霊能者といわれた藤田小女姫(こととめ)に聞いた話を書いている。「安保」の1960年のことだ。岸は面会の席で「安保条約は国会を通りますか」と問うた。「通ります。でも、あなたの内閣は長くもちません」と藤田は答えたという。その通りになったのだが、藤田自身1994年ハワイで母子ともに殺された。どうして自分の運命が予言できなかったのだろう。

 でも、ちゃんと江戸の小咄には答えがあって、三叉路で迷った易者が通りがかりの牛遣いに道を尋ねた。意地の悪い牛遣いに「人のことが分かるんだから自分のことくらい占えるだろう」と言われた易者が答えていわく、「おっしゃるとおり占ってみたら、あなたに聞けという卦(け)がでた」…。

 予言系はやばいという占い師もいる。まあ、すぐ結果が分かってしまうから敬遠するということもあるだろうが、相手を支配しようとしているのではないかと警告していた。なお、占いを小出しする占い師もやばいという。

 インドの霊能者サイババも90代に自分は死ぬとしていたが、84歳で亡くなった。復活するといっているが、期待して待ちたい。

 笑えたのは山科けいすけの漫画「らいふ いず びうちふる」(朝日新聞2010年11月13日)で、売れない占い師が手相を見て「占い師にむいてないとでているんですけどお…」「もしそれが本当なら手相を見る才能があるって事だからあ」と悩んでいると隣の人が「その性格が向いてないんじゃないの」と答えるのだ。

 四柱推命術で天中殺ブームを起こした和泉宗章は後に自らの占いを全面否定した。

 というか、占いブームには流行があって、数年経つと別のものになっていく。ダイエット法と同じで決定版はない。つまり、正解はない。

 ラ・フォンテーヌの『寓話』に「女占い師たち」というのがある。あばら屋で占いをしていた女がいささかの専門用語を交えながら、時には大胆に、時には行き当たりばったりで占いをしていたら客は奇跡だとして、神託のように扱われた。新しい店に移った。あばら屋に入った女は自分は占い師じゃない、字が読めないからと断ってもムダだった。そして大流行してしまった。つまり、看板で人は集まっていたのである。教訓は「流行はしばし、偶然から生まれる。そして、この評判がいつも流行をつくりだすのである…」である。鹿島茂は『「悪知恵」の逆襲』(清流出版)で「流行には作者(オーサー)がいない…流行っているから流行っているのだ」という。

 多湖輝の『頭の体操』で「私の言うことは60%当たります」というAと「私の言うことは30%しか当たりません」というBの占い師で、Bの言うことを聞くことにしたという話が載っている。つまり、Bの判断の逆をいけば70%当たっているから、というものである。

 古来、占いを最も鋭く批判してきたのは仏教、特に鎌倉仏教だという。親鸞は当時の僧侶が、道心もなく妻子とわが身の世過ぎのためだけに、神主、陰陽師さながらに占いをし、お祓いをしていることを嘆き、末法の到来を強く意識して「愚禿(ぐとく)悲嘆述懐」に次のように書いている。

「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」

 信じること=行動というのはイデオロギーである。かつての占いはイデオロギーみたいなものだった。それなりに体系ができあがっているから、信じることが信者のうちではできた。外部から見ると、破たんしているのに、誰も疑おうとはしないのだ。

 劉邦も、その子分たちも、沛(はい)の酒場の仲間たちも、このすばらしい体系【陰陽五行説】から割り出された真理を信じていた。人類は、その後も多くの体系を創り出し、信じてきた。ほとんどの体系はうそっぱちをひそかな基礎とし、それがうそっぱちと思えなくするために、その基礎の上に構築される体系は、できるだけ 精密であることを必要とし、そのことに人智の限りを尽くされた。

 司馬遼太郎『項羽と劉邦』(文春文庫)

 科学の発達した現代社会でも、占いを信じる気持ちは分からなくはない。これだけ社会が不透明になってきて、何を信じればいいのか分からない。占いのウラとは表の社会ではないものを指している。「癒しブーム」ともいう。でも、ブームというのは金もうけの手段としてでっち上げられていることも多いから注意しなければならない。「儲」という字は「信」+「者」から出来ているし、「人の為」と書いて「偽」となる!?

 小女姫のところにも政財界の大物が相談に来ていたという。彼らは既にどちらかの結論を持ってきているのだが、その結論の決定打を持っていない。AとBと同じような案を持っているとして決めかねていたら、部下には相談もできず、天に任せるしかないのだろう。つまり、自分の苦しみに対して一気に答えてくれるのが(本当はそれを望んでいたのだが)占いなのだ。自分が潜在的に好む道を選んでくれるのが、いい占い師なのかもしれない。

 学生時代、デパートのアルバイトをしている時に、予定していた手相占いが来なかった。急遽、虫眼鏡やそれらしい格好を用意して、アルバイトの一人が代わりを務めることにした。若い女性が多かったのだが、彼は適当に話していると、みんな喜んで帰っていった。話し相手が欲しかっただけなのだ。それに、恋の悩みなら「このままでいいのか悪いのか」というのが中心で、恋の相手の様子を聞けば善悪の判断は他人ならできることだ。分からないのは本人だけで、身内を信じられなくなっていることが多いから、占いが役に立つ。

 大体、相談者は相談する前に「イエスかノー」かを決めているからだ。瀬尾まいこの『強運の持ち主』はまさにこれを題材にした小説だ。OL稼業に嫌気をさして占い師に転職した女性ルイーズ・吉田(本名は「吉田幸子」!)が主人公で、彼女の先生であるジュリエ青柳という占い師は「結局適当なことを言って、来た人の背中を押してあげるのが仕事なのよ」と「いかさまのようないかしたことを言う」人だ。 わずか一日の研修で占いを始めるのだが、結構当たると思われて、強運の恋人の通彦までゲットしてしまう。自分でも偽物だということを知っているので、自省の心を持っている。

 竹子さん【新人アシスタント】の明日を決めるのは、占いでも自分自身でもない。竹子さんの明日は子どもによって、動いていく。私の運勢を動かすのは、今はまだ自分自身だ。だけど、ほんの少し、私のこれからを決めるのに、通彦が入り込んでる。通彦も同じ。私が入り込んでるはずだ。

 シャーロック・ホ―ムズが、初めてワトソンに会った時に「はじめまして。あなたはアフガニスタンにおられたのですね」と挨拶した(『緋色の研究』)。ワトソンは「初めて会ったのに、なぜ彼は私のことを知っているのだ」と不思議に思った。後の説明によれば「医者らしいが、軍人の雰囲気をもった男、といえば、軍医ということになる。顔は黒いが、手首は白いから、熱帯地方から帰ったのだろう。彼のやせこけた顔を見れば、苦労し、病気をしたのはすぐわかる。左手の動きがぎこちないところをみると、左腕にけがをしているな。英国の軍医がこんな目にあう熱帯地方といえばアフガニスタンしかない」というものだった。これはまさに記号論的な操作で、ここからシービオクは『シャーロック・ホームズの記号論』(岩波)を書いた。ちなみに、ホームズには実在のモデルがいた。ドイルがエディンバラ医学校の学生であった時、外来を担当していたジョセフ・ベル博士だ。患者に一言も質問することなく、患者を観察するだけで、その人の病状だけでなく、その人の癖から、病院へ来るまでの道などを当てるのを得意としていた。この人がホームズのモデルになった人物という。

 占い師が使う手にコールド・リーディング(Cold reading)という話術がある。外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「私はあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術で「事前の準備なしで」「相手の心を読む」という意味である。反対に、事前の調査をきちんとしておくのが「ホット・リーディング」である。細木は一般人には「コールド」で、芸能人には「ホット」で対処していると思われる。

 ショットガンニング(Shotgunning)という手法もある。数撃ちゃ当たる、というもので、相手に大量の情報を話すが、そのうちのいくつかは当たるため、相手の反応を見計らいながらその反応に合わせて最初の主張を修正し、全てが当たったように見せかける。

 これらを駆使すれば、明日からでも占い師ができる。ルイーズ・吉田が実践しているように、相手の悩みを知り、誘導尋問をし、否定された時の言い訳も用意しておく(「ご先祖様のことですよ」「自覚なさっていないかもしれないが」「これから出てきます」…)。

 幸せの壷というのも、健康食品も売り手の言いなりだ。相手が倒産するような高い品物や、病気になるような薬を売らなければ、問題ない。だって、そんなのが買えるのは幸せだし、健康なのだ。ある健康食品会社は「夢を売っています」と答えたという。

 失敗しても気にしないことだ。アメリカの天才興行師フィニアス・テイラー・バーナムは「カモは毎分生まれてくる」と言った。失敗することがあっても、新しいカモを次のターゲットにすればいいだけだ。だって、何も売らないで、占いでお金をもらっているのだから損はしていない!

 そうそう、飛行機事故が起きた翌日は一番安全な日だという人がいる。偶然はそんなに重ならない、まして飛行機事故など滅多にないことが二日続けてということはないからだという。でも、1966年2月4日、全日空のB727が東京湾に墜落した。133名全員死亡、1機としては当時の世界最悪の航空事故だった。この一ヶ月後、3月4日、今度はカナダ太平洋航空のDC8が霧の羽田空港に着陸しようとして滑走路手前の岸壁に激突、64名死亡の大事故を起こした。翌日、その惨状を見ながら離陸したBOACのB707機が富士山上空で乱気流によって空中分解をして墜落した。「呪われた日本の空」と呼ばれるような連続事故だった。

 1982年2月9日にホテルニュージャパンの火災があったが、翌日に日航DC8が機長の「逆噴射」で墜ちた。だから、確率なんか当てにならない。

 ただ、テロリストから身を守る方法はある。テロリストが2組も同じ飛行機に乗る確率は低い。ならば、あなたが爆弾を抱えて飛行機に乗ればいい。

 甲骨文字というのを知っているだろうか?漢字の元になった文字なのだが、これは占いのために亀の甲羅を焼いてそのひび割れを見て吉兆を占い、その結果を書くために発達したものである。亀の甲羅で国家が左右されたのだ。 

 カール・E・ワイク『組織化の社会心理学』(文眞堂)によれば、今でもナスカピ・インディアンもどっちの方向へ狩りに出かけるかを決めるのに研究したり、会議を開いたしない。それどころか、情報を集めたり、過去の経験に照らして考えることすらもしないという。古代中国人と同じように、長老が動物の肩胛骨を火にかざし、肩胛骨にあらわれたひび割れを「読み」、その神意を狩人たちに伝える。狩人たちは、その方向へ出かけていく。

 ワイクによれば、これは決して不合理ではないという。

1.「意志決定」が純粋な意味で個人の選択でも、集団の選択でもない。獲物が見つからなくても、誰も責められない。責められるとしたら、神様が責められる。
2.過去の狩りの影響を受けない。獲物を捉えた場所へと何度となく向かえば、資源を涸渇させる危険性がある。同じ柳の下にドジョウを探す愚短期的には賢明であっても、長期的には愚かな戦略…を避けることができる。
3.人間や集団が無意識にはまる選好や分析や思考のパターン…しばしば野生動物は、人より速くそのパターンを見抜き感じとる…にも影響を受けない。
4.情報が不十分なときでも、決定が下される。
5.代替案の間でさしたる違いがないときでも、迷わず決定が下される。
6.競争者が混乱する。
7.代替案の数が無数になる。
8.手順が愉快だ。
9.決定はいつも速やかに下される。
10.特別な技能が要らない。
11.カネがかからない。
12.その過程にケチのつけようがない。
13.ファイルやその保管場所がいらない。
14.解決にいたる論争が不要だ。

 ギリシャ悲劇の預言というのが分からない。避けようとすればするほど当たってしまうのだから、怖い。何もしなかったら、オイディプスは死ぬことはなかったのかもしれない。おさらいしておけば、テーべ(テーバイ)の町を疫病が襲う。デルフォイの神官はライオス王を殺した犯人が見つかれば疫病は収まるという。オイディプスは犯人を見つけるために預言者テイレシアスの助言を求める。ゼウスの妻ヘラによって盲目にされ、夫ゼウスによって預言力を与えられたテイレシアスはオイディプスに見えないものが見えて、この問題は深く追求しない方がいいと助言する。真実を求められ、オイディプスが犯人だと明かす。更にテイレシアスは殺されたライオスの妻の息子だと明かす。オイディプスは自分が養子ではないかと疑ってデルフォイを訪れたら、神官から自分がいずれ父親を殺し、母親と結婚すると教えられる。オイディプスは逃げ出してテーべに向うが、途中で行く手をふさぐ老人を殺してしまった。今は妻になっている母イオカステは強盗に殺されたのだと慰めるが、オイディプスはすべてを悟ってしまう。「真実になんの救いもないときに、それを知るというのは、なんと恐ろしいことか!」と歎く。自らの両目をつぶす。コロスは誰もいないステージに向って「命の果てに至るまで、誰も幸福と呼ぶなかれ」と繰り返し、幕が降ろされる。オイディプスの「運命がわれらを支配し、何も予測できないというのに、いったい何を恐れることがあるというのか。人は、いまこのときのために生きるべきだ」という言葉は重い。

 アウシュビッツを生き延びた医師フランクルの『夜と霧』(みすず書房)には「テヘランの死神」という寓話が出て来る。ある金持ちの召使いが町中でばったりと死神と出会ったという。怖いから今からテヘランに逃げるといって出ていった。その後、主人も死神に出会ったので「どうして召使いを驚かすようなことをした」というと、死神は「驚いたのはこちらです。明日、テヘランで会うはずだったのに、こんなところで出会うとは思っていなかったのです」と答えたというものだ。

 ただ、「運命」と「宿命」は違うものだ。『新明解国語辞典』第五版によれば、後者は「その環境から逃れようとしても逃れることのできない、(生まれつき)。決定的な星のめぐりあわせ。宿運」となっている(第六版では「(人間の運命として)本人の意志や欲求にかかわりなく、置かれた環境や状況には逆らうことが出来ないものととらえられる定め」となっている)。そうだった、松本清張の『砂の器』の映画の交響曲は「運命」ではなく、「宿命」だった。一種の暗示効果かもしれない。テレビに出ていた頃、『ピーターパン2』の予告をしなければならなかった。アナウンサーに「ピーター・パンツなんていわないようにね」と話したら、「止めてください、余計に刷り込まれてしまいます」と困っていた。学生も同じで、こういう風に間違うといけないというと、そちらの方向に間違ってしまう。これでは「見るなの座敷」と同じ構造だ。こうしてはダメと預言されると、不合理な行動を取ってしまい、結果、不幸を招くことになる。ラ・フォンテーヌにも「星占い」という寓話があって、二十歳までライオンから避けるようにといわれたのだが、若者はライオンの絵を見て苛立ち、拳骨で殴った。すると釘が刺さり、これがもとで亡くなってしまう。「星占いは何も知らない嘘つきである。それでも千に一つくらいは的を射ることもあるかもしれない。ただし、それはほとんどの場合、たんなるまぐれ当たりにすぎないのだ」との教訓(鹿島茂『「悪知恵」の逆襲』清流出版)。

 紀元前480年のサラミスの回戦では、劣勢のアテネ軍が旗艦のマストに止まったフクロウを見て奮い立ち、ペルシャ軍を破った。ヘーゲルの『法の哲学』にあるように「ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ」のであり、知性を司る女神ミネルバは化身のフクロウを空に放つ。その時代を俯瞰して歴史の総括から得た教訓を次世代に伝えるためだという。

 シェイクスピア劇の多くも運命にもてあそばれる人間を描いている。『アントニーとクレオパトラ』もその一つだが、「せかいのなかばを手玉にとり、主言うままに人々の運命をあやつっていた」アントニーは若僧のオクテーヴィアス・シーザーに負けて「…運命の女神は食わせものだ、人間がもっとも軽べつするときもっとも痛撃を加えるのだ」(第3幕第12場)で嘆いている。更に、クレオパトラにアントニーを捨てよと諭す使者サイアリアスは「分別と運命が争うとき、分別が最善をつくして戦えば、いかなる運命もそれをうち破ることはできません」(第3幕第13場)という。しかし、クレオパトラは運命を受け入れる…。

 社会人類学者フレーザーの『金枝篇』第3章「共感呪術」にはマダガスカルのある地方では出生の日によって人の運勢は決まるとされることが紹介されている。ただ、その運命を出し抜く呪術があったという。例えば2月1日生まれの男の子は長じて火事にあう運命とされていた。そこで人々は畑に小屋を作り、火を放って焼いた。男の子の凶運を先取りすることで災難を逃れようとした。その効果を確実にするには母子が小屋にこもり、危険が切迫しないうちに2人を助け出さねばならなかった。どこかで人の不運と幸運を秤にかけている神様の裏をかくには、その程度の手間は仕方ないとされた。

 こんなのは未開な風習だと思うかもしれないが、日本の名前の付け方にも同じように運命を避ける工夫がされていた。漱石が「金之助」という名前だったのも誕生日が庚申(かのえさる)の日にあたり、この日の「申(さる)の刻」(午後4時頃)に生まれた子どもは出世すれば大いに出世するが、一つ間違うと大泥棒になる、ただ名前に金の字か金偏の字を付ければ大泥棒になることは免れるという俗信があったからだ。

 そうだった。漱石の家に猫が迷いこんできたのだが、妻の鏡子が嫌がった。でも、「この猫は足の裏まで黒いから福猫だ」といわれ、占いや迷信が大好きな鏡子は態度を一変する。漱石は「俺より占い師の話を信じる」といらついているのだが、この猫が『吾輩』になるのだから、福猫であったことは間違いない。西洋では黒猫が嫌われるが、じゃあ、誰が飼っているんだろうと大人になった今でも思う。

 ノストラダムスの予言などがよく当たるような気がするのは非常に曖昧な言い方をしていて、どちらとも取れるようになっているからだ。例えば、有名な8章の10-11には次のように書いてある。

 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。

 これがチェルノブイリの原発事故を予言したものだという。しかもロシア語で「苦よもぎ」を「チェルノブイリ」というのだ。

 次は9章1-2である。

 第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、 それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。

 こちらは9・11を予言したものだという。でも、そうしたら事故が起きる度に予言したことになってしまう。

 全然関係ないが、『フィッシュストーリー』というノストラダムスを信じている人たちの映画があって、2017年8月28日にBSで観たけど面白かったと長男にメールしたら「たった今、キネ旬シアターで観てきたばかりです」との返信があった。ということで、偶然の一致というのはよくあるものだ。

 ユリ・ゲラーは最低の魔術師だと思うが、否定論者が構えている時には「今日は超能力を邪魔する人がいるからダメです。手品だったらどこでもできるかもしれませんが、邪魔をされたらできないこともあるから超能力なのです」などといって誤魔化す。イソップにある話だが、旅から帰ったある男が自慢して「ロドスの町で競技をしてね、オリンピック選手の誰ひとり及び得ないほどの跳躍をやったものさ」と言った。聴き手の一人が「ここがロドスの町だ。さあ、跳んでみたまえ」と男に言った。つまり、実験というものは条件さえ整えばどこでも可能なものなのだ。

 「証拠が出てこないのはそれだけ奴らが狡猾ということです」などと言って誤魔化すのも同じである。2004年には日本の小泉首相が「イラクの大量破壊兵器が出てこないからといってないとはいえない。フセイン大統領が見つからないからといっていなかったことにはならない」という世紀の詭弁を弄したのである。

They are ill discoverers that think there is no land, when they can see nothing but sea.
(海以外は何も見えないからといって陸がないと思うのは、未熟な探究者である)
Francis Bacon

 曖昧さともう一つ、条件も入っていることがある。宮本輝は若い頃、易者に見てもらって「うまく行けば、偉大な芸術家になる」と言われたそうだ。お父さんは喜んで「息子は偉大な芸術家になる」と吹聴していたそうだが、宮本は「うまく行けば」という言葉があったのに、みんなから冷やかされるのが嫌だったといっている。

 占いは総じて人生相談なのである。信じるか信じないか、その後どう行動するかは本人(親ということもあるが)にかかっている。

 テレビ東京の「ラストチャンス 再生請負人」(江上剛原作)に登場する謎の占師が「人生、七味とうがらし」という。うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみ。人間を翻弄するこれらの性(さが)はすべて自他の比較に由来する。他人と比べることでしか自己を見ることのできない人の宿痾(しゅくあ)であり、業であるが、これと正面から向き合うことで人生の味わいもいっそう深まるというのだ。

 だから、占いでは明日を生きる方向性を与えることが仕事だと思う。超能力があって相談者が明日死ぬことが分かっていても、生きる途を考えるべきだ。

 須賀敦子は『トリエステの坂道』の「ヒヤシンスの記憶」の中で面白いことを書いている。いとこのよっちゃんが学徒出陣した。

 あるとき、伯父がいつものように、朝食のあと、謡の練習をしない日があった。今日はどうしたのかしら、と母がふしぎに思っていると、伯母が母のところに来て、ゆうべ、義文が帰ってきた夢を見て、あの人、気分がすぐれないの、と言った。泥まみれになって、お父さん、ご挨拶に来ました、と言っただけで、ふっと消えてしまったんですって。

 そのよっちゃんの戦死の公報が届いたのは、敗戦後の事だったが、戦友が最後の様子を手紙で知らせてきて、よっちゃんが亡くなった日付は、まさに伯父が夢を見たのと同じ日だったという。似たような話はベルグソンが書いていた話として小林秀雄の講演録「信じることと知ること」に出てくる。

 例えば、下駄の鼻緒が切れたり(古い!)、黒猫が前を横切ったり、カラスが騒いだりしたら悪い兆しだと考えることが多いが、鼻緒が切れたり、黒猫を見たりしても、何もなければ忘れてしまう。

 ところが、100回のうち、1回でも悪いことが起きたら、それらが凶兆だと信じてしまう。A→Bという回路が働いてしまうのだ。

 「セレクティブ・メモリー」というが、人の記憶は曖昧で、意識に強くアピールした記憶だけが残る。どうでもいいことは忘れる(ギャンブラーも同様だ)。

「にじ」   川崎洋

 草の中にたたずんでいると

 「あの人と貴方は結婚しよう
  と考えていらっしゃいますね」

 とゆう

 「ええ」

 と答えると

 それでは
 といって 空に
 見事なにじがかかった

 悪いことばかりではない。虹はいつだって見ているのだが、こうした目出度い時には、天が祝福しているように思えてくるものだ。

 池内了は『疑似科学入門』(岩波新書)で「開運グッズ」が売れることについて書いている。

 それが売れるのには理由がある。幸運グッズを買いたい心境になるのは落ち込んだとき、つまり(大げさに言えば)人生の逆境のときである。そこで、藁にも縋り付きたい思いで幸運を呼ぶというグッズに手を出してしまう。ところが、人生は山あり谷ありだから、逆境の時期はそのうち去って好調の時期が必ず訪れる。幸運グッズを買おうが買うまいが、いずれ時期が来れば不調を脱することができるのである。しかし、本人は幸運グッズを買ったおかげだと思い込んでしまう。

 そうなのだ、こうした疑似科学の特徴は反証ができないことなのである。池内は哲学者のバートランド・ラッセルが出したティーポットの例え話を使って疑似科学のやり口をこう説明する。

 ある人が地球と火星の間に楕円軌道を描いて公転しているティーポットが存在している、という説を唱えたとしよう。ところが、そのティーポットは余りに小さいので最も強力な望遠鏡を使っても見ることができず、重力が小さいので地球や火星に及ぼす影響も検出することができない。そのため誰も反証することができない。

 ジンクスというのも同じだ。“jinx”は古代ギリシャで吉凶の占いに使われたキツツキが語源だという。とりつかれると、悪いことや良いことが重なる。日本語では「験をかつぐ」という。落語では「しの字丁稚」という上方落語があって、縁起が悪いというので「しの字」を使わないで会話をしようとする話だ。

 ツタンカーメンを発掘したカーターたちの周りの人の怪死が最も有名であるが、ジェームス・ディーンが事故死した愛車ポルシェもジンクスにとりつかれ、関係した人々は次々に不幸な目にあったという(荒俣宏『ジンクス事典』長崎出版)。

 占いの多くも同じで、当たらないことがいっぱいあっても、たまたま当たると信じてしまう。ちょうどギャンブル好きが負けたことは忘れるくせに、勝ったことばかり覚えていて、逃れられないのと同じである。

 アメリカの『スポーツイラストレイテッド』の表紙を飾った選手はその後ひどいスランプに陥るというジンクスがあり、陥るというジンクスがあり、何度も表紙になるのを断った人がいるそうだ。実際、統計を取ってみると成績が落ちた選手は8割にも上ったという。下條信輔『<意識>とは何だろうか』によれば、人間の認知機能によくある落とし穴がジンクスの正体だ。私たちは無秩序や意味不明なことを嫌い、何らかの法則や秩序を求めたがる。そして、自分が信じたいことを確認し意味付けしようとする習性があるという。

 自分で勝手に意味を創造しているのに気づかない人が多い。

 「言語創造」と言うと何か大変崇高なことに聞こえるが、実はこのような「言語創造」は、人間であれば誰しもが絶えず行っていることである。朝の小鳥のさえずりに楽しい一日の予告を読みとったり、一枚の歯の落ちていく様子に転化の秋を知ったりする時、そこでは「記号」が作り出されている。人間は、すでに慣習的に定められた「記号」をあやつるばかりでなく、新しい「記号」をせっせと創り出しているのである。
     …-池上嘉彦『記号論への招待』(岩波新書)

 内田樹は偶然について「偶然に意味を与えるのは自分である。自分にこのような偶然が起きたのは、なにがしかの意味のあることに違いない。近親の者が亡くなったりしたときに『そういえば今朝カラスがいつも以上にうるさく鳴いていたなあ』とか、あとづけで偶然に意味を与えるのである」と書いているが、まさに自分の心なのである。もしかしたら、弱い心かもしれないのだ。

 実験を行った数理経済学者の名を冠した「エルスバーグのパラドックス」 と呼ばれる、不確実性に対する行動として、面白い現象がある。「氈F赤い玉が 50 個、黒い玉が 50 個、計 100 個 :赤か黒の玉がとにかく合わせて 100 個 入ったの2つの壷を準備し、『どちらかのつぼを選んで、玉の色を予言し、目隠しして玉を1つ取り出す。予言が当たれば賞金がもらえる』 という時、大多数が の壷を選ぶ」 。実際のところプレーヤーにはどちらの壷でも同じことだ。だが人は「確率さえ分からない不確実性」を嫌うのである。

 『ハムレット』はレアティーズとの剣の試合の前に胸騒ぎを感じ、ホレーシオが中止を勧めると、前兆など気にしても始まらないと答えていう。「雀一羽落ちるのも神の摂理」(第5幕第2場)。そして、「来るべきものはいま来ればあとには来ない、あとで来ないなら今くるだろう、いまでなくても必ず来るものは来るのだ。なによりも覚悟が肝要」と続ける。

 小林秀雄は1974年の講演「信ずることと知ること」で次のように述べている。

 その時分、私が丁度大学に入った頃、ベルグソンの念力に関する文章を読んで大変面白く思った事があります。その文章は1913年にベルグソンがロンドンの心霊学協会に呼ばれて行った講演の筆記なのです(「生きている人のまぼろしと心霊研究」)。その大体のところを覚えていますので、お話しようと思います。ベルグソンがある大きな会議に出席していた時、たまたま話が精神感応の問題に及んだ。あるフランスの名高い医者も出席していたのだが、ある婦人がこの医者に向かってこういう話をした。この前の戦争の時、夫が遠い戦場で戦死した時、パリにいたその夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕でたおれたところを夢に見たのです。それをとりまいている数人の兵士の顔まで見たのです。後でよく調べてみると、丁度その時刻に、夫は夫人が見た通りの格好で、周りを数人の同僚の兵士に取り囲まれて、死んだ事が解った。これに関するベルグソンの根本の考えは実に明瞭なのです。この光景を夫人が頭の中に勝手に描き出したものと考えることは大変むずかしい。と言うよりそれは、不可能な仮説だ。どんな沢山の人の顔を描いた経験を持つ画家も、見た事もないたった一人の顔を想像裡に描き出す事は出来ない。見知らぬ兵士の顔を夢で見た夫人は、この画家と同じ状況にあったでしょう。夢に見たとは、たしかに念力という未だはっきりとは知れない力によって、直接見たに違いない。そう仮定してみる方が、よほど自然だし、理にかなっている、と言うのです。
 ところがその話を聞いて、医者はこう答えたというのです。私はその話を信ずる。夫人は立派な人格の持ち主で、嘘など決して言わない人だと信じます。しかし、困ったことが一つある。昔から身内の者が死んだ時、死んだ知らせを受け取ったという人は非常に多い。けれども、その死の知らせが間違っていたという経験をした人も非情に多い。つまり沢山の正しくない幻もあるわけです。どうして正しくない幻の方をほっといて、正しい幻の方だけに気を取られるのか。たまたま偶然に当たった方だけを、どうして取り上げなければならないか、とこう答えたというのです。ベルグソンは横でそれを聞いていたのです。そうすると、そこにもう一人若い女の人がいて、その医者に、「先生、先生のおっしゃることは私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か先生は間違っていると思います」と言ったというのです。ベルグソンは、私はその娘さんの方が正しいと思ったと書いている。

 「世界を呪術から解放する」と宣言したのはマックス・ウェーバーだった(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。確かに呪術的なものは排除されたが、人間というものは合理主義だけで割り切れるものではないらしい。どんなに科学が発達しても、今日誰と会って、明日はどうなっているか、なんて科学では分からない。

 社会がこれからも不安定になっていく。ますます占いが流行っていくかもしれない。ひどい占い師だとその人の弱みにつけ込んで脅迫したりするという。

 こんなに不安な社会で断言してくれるのは占い師か大うそつきだ。土屋賢二は『妻と罰』(文藝春秋)で次のように書いている。

 占い師がなぜ信用されるか考えてもらいたい。自身をもって断言するからだ。もし「あなたが百歳まで生きる可能性は三パーセントです」などと逃げ道を作っていたら信用を失うのだ。

 占い師は断言しても責任は問われない。かりに「この占い師が幸福になると言ったから結婚したのに不幸になった」と裁判で訴えても「信用する方が悪い」と一蹴されるはずだ。占い師が断言すれば、世間からは信用され、しかも責任はとらなくていいのだ。天気予報や経済予測や男女の法則も占いみたいなものではないのか。

 オウムに引っかかったエリートたちの多くが他人から見たら本当に些細な躓きで、入信している。ドイツの社会学者ゾンバルトのいう「数字のロマンティシズム」というものが現代には生まれてきていて、逆に人間行動というものが分からなくなっているのだろう。数字で説明されるたびに、ごまかされたように感じる人間が増えているということだ。

 うちの場合、僕が入院して職場復帰した日に娘が入院するという事件があり、その時、ある人が何かの祟りだといって、金沢の古いお寺の宗教を勧めたことがあった。妻も母親もすっかり弱気になっていて、ほとんどそのつもりになっていたのだが、現代医学を信じるように説得した。

 宗教の場合、やっかいなことは新しく信者を見つけてくることが教義にあることだ。その意味でネズミ講、マルチ商法と変わらない。

 『アンネの日記』でアンネが神様に祈っている時に、自分は確かに神様に祈っているが、ドイツの女の子も神様に祈っているはずで、神様はどちらの祈りを聞き届けてくれるだろう、と迷うところがある。

 ある人の幸運はある人の悲運かもしれないのだ。

 村上春樹の『風の歌を聴け』でフィアット600を酔っぱらい運転で壊してしまった時に鼠が「ねえ、俺たちはツイているよ」という。「見てみなよ。怪我ひとつない。信じられるかい?」というのに僕は「でも、車はもう駄目だな」という。すると、鼠は「気にするなよ。車は買い戻せるが、ツキは金じゃ買えない」という。そうだ、何があっても慌てることはない。

 更に、「僕」が「鼠」の運命論にたいして「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」と反論するときに、「鼠」はことばを失ってしまう。

「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。

 平安貴族の藤原伊通(これみち)がまだ若いころ、井戸の底の水に映る自分の姿に丞相(じょうしょう=大臣)の相を見て喜ぶ。だが帰って鏡で見ると、そんな相はない。これを「遠くに映る姿に相があるのは、今はだめでも先にそうなるからだ」と考えた。その通りに彼は太政大臣になったのだが、この話を載せた『古今著聞集』はその人相見の力をほめる。なるほど出世は鏡の啓示を良い方向に解釈した楽観主義のおかげかもしれない。「遠目には幸運でも、よく見るとダメ」と解釈すれば、その通りに終わったろう。つまり、暗示効果というものが占いにはある。『マクベス』の悲劇も暗示によって行動した男の悲劇だったが、占いなど当てにせず、自分で行動していたら違った人生になっていただろう。

 シェイクスピアの話はどれも裏切りに満ちているが、哀しいセリフがある。ユリシーズはトロイ戦争で苦戦しているのはアキリーズ(アキレス)にあると考えて、みんなで無視しようという。それに対する言葉が吐露される。

偉大な人物も、いったん運命のそむかれると、人間にもそむかれる。---『トロイラスとクレシダ』第3幕第3場

 それに気づいたアキリーズが自分は「運命と友だち」であるのに何でよそよそしくするのか、といぶかる。

 四方田犬彦『驢馬とスープ』(ポプラ社)によれば、古代ギリシャ人は人生を決定する力について、3種類に区分していたという。

 モイラとは人間の意志を越えた何ものかである。たとえば戦争とか政治的受難。【…】

 テュケとは偶然の出来ごとである。モイラが原因となって引き起こされることになる、予想もつかない事件。また暴威。また災害。【…】

 ダイモーン。これは個人に取り憑いているものであり、人間と神々の中間、生と死の中間、現実と魂の中間にあって、その媒介をはたすものである。【…】

 人はこの3つのもののどれからも、絶対に逃れることができない。モイラはいきなり外側から襲いかかってくる。テュケはまったく予想がつかない。そしてダイモーンは自分が自分であることに深く関わっているため、これを取り替えることなど不可能である。ただひとつ出来るのは、おのれを導いてくれるダイモーンの声によく耳を澄ませ、そのいわんとするところを理解することだ。悲劇とは、ダイモーンを自覚できなかった者たちの、敗北の物語にほかならない。

 同僚の中国人は誰かが病気になるとすぐに風水(Feng Shui)を持ち出して困るのだが、ちょっとだけ信じていいかと思う。なぜなら、風水は人の流れというものを人間工学的に分析するような面がある。地霊というか「ゲニウス・ロキ」(Genius Loci)というものがありそうなのだ。風水ではないが、場所を決める時はどうするか?春樹の理論だ。

 ひとつの場所が良さそうに思えたら、その場所の前に立って、一日に三時間だか四時間だか、何日も何日も何日も何日も、その通りを歩いていく人の顔をただただじっと眺めるんだ。何も考えなくていい。何も計算しなくていい。どんな人間が、どんな顔をして、そこを歩いて通り過ぎていくのかを見ていればいいんだよ。まあ最低でも一週間ぐらいはかかるね。【…】でももしその場所が求めていることと、自分の求めていることっとのあいだに共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の尻尾を掴んだことになる。
     -----村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第二部 予告する鳥編』

 ヴィクトル・エリセ監督の名作『エル・スール』にも出てくるが、ダウジング(dowsing)もちょっと信じていいかなぁと思う。河合隼雄は『ケルト巡り』(NHK出版)の中で「レイライン」(Ley Line)というものに触れている。アルフレッド・アトキンスという男が1921年6月30日に、太古からの遺跡や塚、聖地と言われる場所が一直線上に並んでいることに気づいたのだ。これを見つける方法がダウジングを使うものなのだ。

 この現象は意識を強く持っていると絶対に起こらない。「こんなバカなことはない」とか「科学的に見ても重なるはずがない」というようなことを強く思っていると、銅線は動かない。【…】意識的にコントロールせずに無意識に任せていると、案外そういうことが起きる。【…】

 自然科学の体系というのはきれいにできており、信頼に足るものなのだが、それは、自然科学の対象とする範囲内において有効なのであり、自分の心の深いところ、無意識の層が動きはじめると、自然科学では割り切れない面白いことが起こるのである。

 そのとき困るのは、先ほども述べたように、それを自然科学同様、普遍的なものとして信じてしまう人がいることだ。そういう人は、オカルト的な方向へ行ってしまう。そうなると、「祈れば治る」とか、「この薬を飲んだら必ずガンが治る」といったことを言いはじめる。もちろん、祈ることや、ある種の薬を飲んでガンが治った人がいるのは事実かも知れない。そういうことは時に起こりうる。だからといって、それが誰にでも起こると考えるのはまちがいで、この区別が難しい。

 五木【寛之】さんは、いま日本全国のお寺を巡っておられるのだが、「日本の土地には、いわゆる『経絡(けいらく)』のようなものがある」という。経絡とは、東洋医学で言うツボを結ぶ体内を走る線のことである。これと同様に、土地にも重要な場所を結ぶ線があるというのだ。

 そうなのだ。私の占いも同じような科学的根拠がある、という人が出てくるだろう。しかし、A→Bと占ってA→Bの結果が出たからといって、占いが正しかったとはいえない。人間にはプラセボ(プラシーボ)効果というのがあって偽薬でも効果があるのだ。

 しかし、「科学的」ということほど怪しいものはないのである。人間はピタゴラスの昔からずっと自分の科学を「科学的」と信じていた。原因があって結果があると思ってきた。マルクス自身が言っているかどうか寡聞にして知らないが、マルクス主義者は自分たちの学問を「科学的」と称していた。

 しかし、そんなに割り切れないのが私たちの世界である。何かに頼って割り切ろうとするところに無理がある。

 ニールス・ボーアの家の玄関の扉には蹄鉄が打ち付けてあった。家を訪れた人がこの高名な理論物理学者が蹄鉄が幸運を呼ぶというような迷信を信じていることに驚くと、ボーアは「私だって信じていません。それでも蹄鉄を打ち付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」(ジジェク『ラカンはこう読め!』紀伊國屋書店)と答えたそうだ。パスカルの賭けを思い出す。「神を信じる方に賭ける。いなくても問題ないし、いたら良いことだろう」という。僕は神がいなくて悪魔だけがいたら、神を信じるあなたを悪魔が虐めるだろうから、確率は同じだと思う。

 鹿島茂の『「悪知恵の逆襲』(清流出版)に出てくるが、ラ・フォンテーヌの寓話に貿易商の話が出てくる。大もうけしている時は自分の才能をひけらかしていたが、幸運の神の期限が切れて3隻が失敗すると、運命を呪った。ラ・フォンテーヌは「よいことをするのは自分、悪いことをするのは運命。自分はいつも正しく、運命はいつも間違っている」と結論づけている。

 こんな時代に正しい態度は宮本武蔵のように「神は信じるが頼らない」という態度だろう。

 シェイクスピアも『トロイラスとクレシダ』でいう。「そもそも人間の真の姿が立ちあらわれるのは運命に敢然と立ちむかうときをおいてほかにはない」。

 僕は籤運が悪いので、最近は最初に手にした籤を袋の中で一度捨てて、別のを取ることにしている。果たして、籤運はよくなったのか?

 似たようなのに「モンティ・ホール・ジレンマ」というのがある。3つのドアがあり、後ろに新車があればもらえる。あなたが選択した後で、司会者が選択しなかった残りのドアの1つを開けてヤギを見せる。更に残りのまだ開けられていないドアに変更ができるという。米テレビ「賭けをしよう」の司会者モンティ・ホールが行なった実験なのだが、マリリン・ボス・サヴァントという女性が「マリリンにおまかせ」という雑誌コラムでドアを変更した場合当たる確率が2倍になると書いた。本当か?1つのドアを選んだ時に新車が当たる確率は3分の1だ。残りのドアが2つだから確率は3分の2である。司会者が開けて外れであることを教えて段階で、もう1つのドアに新車が入っている確率がそのまま3分の2になっている。このという確率と、残りのドアに新車が入っている3分の2を比較すると、確かに2倍になっている。サヴァントが正しいとされる。

 ギリシャ神話の神で「チャンス」を意味する名のカイロスは、ローマ神話ではフォルトゥナ、つまりFortuneの語源となっているのだが、髪形が独特だ。前髪は長いのに後頭部はツルツル。向かってくるカイロスの前髪をつかむのは簡単だが、後ろからいくら追い掛けても手が滑ってつかめない。チャンスが来たらすぐ行動を、との教えだ。

 どの占いも当たるはずがないので、新しい占いが次から次へと消費されていく。ちょうど「これが新しい科学です」というように、僕たちにすり寄ってくる。

八枚の花びらをもつコスモスのいつでも「きらい」で終る占い   ---俵万智『サラダ記念日』

 8枚なのに「好き」から始めれば「きらい」で終わるのは目に見えている。

 チェーホフの『かもめ』で作家志望のトレープレフが花びら占いをする場面がある。「…、好き---きらい、好き---きらい。(笑う)ほらね、おふくろ【気まぐれな女優で情人は著名な作家トリゴーリン】はやっぱり僕がきらいなんだ」。アグネス・チャンの「ひなげしの花」も花占いの歌だ。花占いはいけない。アグネスも花占いで結婚したのだろうか?

 僕がお勧めしたいのはパン占いである。もちろん、僕の発明ではない。まず、大切なものはフランスパンである。なるべく本場フランス製の方がいいが、手に入らなければ日本製でもいい。思い切り皮が固いパンの方が有効だ。そして、願い事を考える。きっかり3回だけ願う。口に出して言ってもいいが、恥ずかしい願いは黙って祈ろう。そして、「叶う」「叶わない」を繰り返してパンを大胆にちぎって食べていく。あんまり大きいパンだとお腹がふくれるので、小さめのパンを勧める。そして、「叶う」「叶わない」を繰り返し、最後に「叶う」となったところで、最後の一口を食べてしまうのだ。

 そうすれば、あなたの望みは必ず叶うはずである。

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士---穂村弘

【2002年2月20日】


未来を予測する最も確実な方法は、未来を創り出してしまうことだ

"The best way to predict the future is to invent it."

アラン・ケイ(先に言っている人がいたが失念)


※七つの海は北極海、南極海、インド洋、そして北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋だが、もちろん時代によって変化してきた。

□「黙って座ればピタリと当たる」記号論

■ハッピー占いリンク集


 

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