あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 な〜の な 内藤 湖南(ないとう・こなん)
東洋史学者。本名・虎次郎。「湖南」は号。彼と宮崎駿「未来少年コナン」にちなんで僕の長男を「湖南」としようとしたが「探偵コナン」(コナン・ドイルから採った)が放送されるようになったせいもあって、子どもを「湖南」にしなくて、ほっとしている。
内藤 鳴雪(ないとう・めいせつ)
本名・素行(もとゆき)。世の中“なりゆき”まかせの哲学から「鳴雪」、「めいせつ」とした。
直木 三十五(なおき・さんじゅうご)
本名・植村宗一。直木賞の基を作った作家。「直木」は「植」の偏と旁を分解して反対にした(「只」を「ロハ」とするような遊び)。33歳のおりに直木三十三にしたが後に三十五で落ち着いたというのと『平凡社百科事典』のように31歳のおり三十一を用い始めたという説も。なぜか「三十四」は飛ばした。ちなみに43歳まで生きた。映画監督のマキノ雅弘は『映画渡世』の中でが中学生のころ、家に直木(当時は「三十三」で『雲母坂』などの映画の脚本を書いた)が居候をしていたことを回想している。「マサ公」と呼びつけては用事を言いつける。「たばこを買って来い」。お金がないと答えると「盗んで来い」と大声でどなられた。そんなむちゃを命じる居候に肝をつぶしたという。
黒澤明の『椿三十郎』の名前の由来を知っているだろうか?『用心棒』で三船が名前を聞かれて、後ろの桑畑を見て「桑畑三十郎、もうすぐ四十郎だが」という。『用心棒』の続編である『椿三十郎』でも同じシーンがあって、椿が咲いていたことから名前が付いた。
『直木三十五伝』の著者・植村鞆音(ともね)は直木の甥。直木の10歳違いの弟・清二の長男で長い会社勤めを終えた後、思いを実現させた。
永井 するみ
本名・松本優子。旧姓・永井。東京都生まれ。東京芸術大学音楽学部中退、北海道大学農学部農業生物学科卒業。アップルコンピューター勤務などを経て、95年第2回創元推理短編賞最終候補に「瑠璃光寺」が選ばれ『推理短編六佳撰』に掲載される。96年『隣人』で第18回小説推理新人賞を受賞。同年、農業サスペンス『枯れ蔵』で第1回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。「するみ」というのは「するめ」でも「あたりめ」でも「すりみ」でもなく、駿河の海を見たときに「駿海」と書いて「するみ」にしようと決めたという。漢字だと「しゅんかい」と読まれかねず、お坊さんの名前のようなのでひらがなにしたという。
永井 路子(ながい・みちこ)
本名・黒板擴子(くろいた・ひろこ)。『炎環』で直木賞。夫は歴史学者の黒板勝美の息子で歴史学者の黒板伸夫。
永井 荷風(ながい・かふう)
本名・荘吉。別号に「断腸亭主人、金阜山人」など。母方の祖父が幕末の漢詩人の一人・鷲津毅堂。荷風の父親・久一郎は日本郵船の横浜支店長を務めたエリートで、「来青(らいせい)」という号をもつ詩人でもあった。中学二、三年生の頃、瘰癧(るいれき)に罹ったが下谷の帝国大学第二病院の看護婦「お蓮」との初恋から。「荷」は「蓮」の意味がある。瘰癧はジョンソン博士も罹った病気でKing's Evilと呼ばれたように王様に触ってもらうと治るといわれた。退院後初めて小説を書いて「荷風小史」と署名したが、師匠の広津柳浪が仄々韻なのに平々韻になるのも気に入ったという(岡野他家夫『明治の文人』)。
「断腸亭」としたのは断腸花から取ったものだ。秋海棠(しゅうかいどう)の花で日陰を好む。木立の下の暗がりの中で淡い紅色をした花が明るく、ぽっと色づく。荷風はこの秋海棠が好きで庭に植え、居宅を断腸亭と称して「断腸亭日乗(にちじょう)」を42年にわたって書き継いだ。
映画『
東綺譚』に出た墨田ユキは「小松由紀子」が本名。これじゃ、健康的すぎる!
荷風はいとこの子供である永井永光(ひさみつ)を養子にしたが、永光は『父荷風』を書いた。永光が実際に荷風と暮すようになるのは戦後で、麻布の偏奇館を空襲で焼かれた荷風が熱海、市川で永光一家と暮しを共にする。当時、学生だった永光(ははじめて荷風に接し、その「ケチ」ぶり(永光の一家に家賃を払わない)、意地の悪さを知る。荷風は33年12月の日記に一句を書き留めているが、「右の句…境内の石碑にあり」というから散歩の道すがらにでも目に留めたらしい。「名月や銭金いはぬ世が恋し」という。荷風は締まり屋で知られた。文人では指折りの資産家ながら、親しい知人に香典を渋って顰蹙を買ったこともある。54年4月25日の夜に鞄を電車に置き忘れたが、額面2000万円の預金通帳が入っていた。散髪代が140円前後の頃で、今なら1億円を超えている。米軍基地の軍曹が拾って無事返った。永光は「文豪荷風と人間荷風はまったく別人」と失望する。それでも「文豪荷風」を尊敬する永光は、その死後、著作権継承者として遺品、とりわけ『断腸亭日乗』の原本を大切に守り続ける。そのため一日も家を空けていないという。養子縁組の時、荷風は氏の実父に注文したのは「軍人、役人、医者、教員には一切させないこと」だった。
永井 準(ながい・じゅん)
放送作家。本名・永井準一郎(ながい・じゅんいちろう)。萩本欽一の座付き構成作家グループ「パジャマ党」の一員で、テレビ番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」「笑っていいとも」「SMAP×SMAP」などを手がけた。
中井 英夫(なかい・ひでお)
鶴見俊輔の『思い出袋』(岩波新書)の中に小学校の同級生だった話が出ている。よく知った景色が出てくる小説で、塔晶夫『虚無への供物』というのがあって、出版社に問い合わせてみると、中井英夫だったことが分かったという。別名に碧川潭(みどりかわ・ふかし)、黒鳥館主人、流薔園園丁、月蝕領主。
中江 兆民(なかえ・ちょうみん)
本名「篤助、篤介」と称して「兆民」は号、別号「秋水」。「秋水」の号をもらった幸徳秋水に『兆民先生』、なだいなだに『TN君の伝記』というすぐれた伝記がある。
中河 与一/與一(なかがわ・よいち)
本名同じ。耽美的な作品で戦前の文壇に足跡を残した作家。東京・上野生まれ。早大英文科在学中に雑誌『新公論』に発表した「悩ましき妄想」(のちに「赤い復讐」と改題)で文壇デビュー。1935年に新聞に連載した『愛恋無限』で第1回北村透谷文学賞を受賞。38年発表のプラトニックラブを描いた恋愛小説『天の夕顔』はベストセラーとなった。戦後、6か国語に翻訳され、アルベール・カミュから激賞された(英訳は太田朗、仏訳は福田陸太郎)。戦後は三島由紀夫、曽野綾子らを輩出した同人雑誌『ラマンチャ』を創刊したが、戦時中の軍国的な言動をめぐって文壇から排斥され、不遇な後半生を送った。『中河与一全集』全12巻などがある。
中桐 雅夫(なかぎり・まさお)
本名・白神鉱一。詩人。『会社の人事』など。
中里 介山(なかざと・かいざん)
本名・弥之助。牧師・松村介石に心酔して社会運動を始めたが、この人の「介」を採った。『大菩薩峠』!「かいざん」でATOK変換。
中里 恒子(なかざと・つねこ)
本名・恒(つね)。芥川賞受賞女性第一号。
中上 健次(なかがみ・けんじ)
出生に関しては『岬』や『枯木灘』に形象化されているが、最初は母のキノシタ姓に入り、高校時代からナカウエ姓、上京してからナカガミになった。妻は『Aの霊異記』『夢熊野』などを書いた作家・紀和鏡(“きわ・きょう”本名・中上かすみ)。
永倉 万治/萬治(まんじ)
本名・長倉恭一。放送作家。立教中学、立教高校から立教大学経済学部中退。立大レスリング部在籍。“東京キッドブラザース”在籍後、放送作家、広告プランナーなどを経て作家。「アニバーサリー・ソング」にて講談社エッセイ賞受賞。2000年10月5日逝去。1984年6月20日発行の『小説寄席芸人伝』から永倉万治のペンネームを使いはじめた。いきさつは、「本人自身による全作品解説」(『月刊カドカワ』92年5月号)に記述がある。98年頃、永倉萬治(万治改メ)と改名が行われている。いきさつは、『週刊小説』98年12月11日号の「筆者の近況」に記述がある。
中里 恒子(なかざと・つねこ)
本名同じ。女性で最初の芥川賞受賞者。1938年(昭和13年)下半期の中里恒子「乗合馬車」である。授賞事務にあたった裏方の人たちは時計で慌てた。正賞として贈る懐中時計に女性用の用意がなかった。数十文字の記念の言葉を刻むので、小さすぎても具合がわるい。時計の種類が少ない時代で時計店を何軒も回ったという。「乗合馬車」は兄たちの国際結婚を描いたものだが、恒子自身の娘が米国人と結婚することになり、かつて国際結婚を冷静な目で見ていた中里自身が大きな動揺に襲われる。『時雨の記』は81年発表当時、「中年男女の命のかぎりの愛を描きえた小説」と絶賛され、「しぐれ族」なる流行語まで生んでベストセラーになり、吉永小百合の映画にもなった。
中沢 けい
本名・本田恵美子。横浜市生まれ。高校在学中に「海を感じる時」で群像新人文学賞。短編集『海を感じる時』は50万部を越えるベストセラー。明治大学政経学部二部に入学、運輸会社に勤務。在学中に『野ぶどうを摘む』、『女ともだち』を発表。卒業後、短編集『ひとりでいるよ一羽の鳥が』。『水平線上にて』で野間文芸新人賞を受賞。エッセー集も多い。
中島 梓(なかじま・あずさ)
本名・今岡純代。別名・栗本薫。次のように話している。
私の場合、小説を書くだけではなく、芝居も作っています。ピアノをはじめ、長唄や小唄、三味線と津軽三味線の演奏もしております。それぞれ教える資格を持っているので、先生からいただいた名前があるんです。ですから、本名やペンネームの加えて合計で八つほど名前があることになります。そのほかにも母や妻としての自分もありますから、ますます難しい。
こんなにたくさんの自分がある中で、もっとも私らしく生きているのは、いったいどれなんだろうと考えてみたんです。作家や演出家としての私は「先生」と呼ばれることが多いんですが、ピアノや三味線のような楽器を習いに行くときには「生徒」になる自分がいます。さっきまでとは立場が逆転するんですね。
たとえば、私のことを子供のころから知っている姉弟子たちが、私の書き下ろした新作の長唄を演奏してくれたことがありました。この場合、私は長唄の「先生」なんですが、姉弟子たちとっては先生ではなく、私も弟子の一人なんです。結局、先生と呼んでくれるようにはなりましたが、カタカナで書く「センセイ」という感じで、ちょっと居心地が悪くて困りました。長嶋 有(ながしま・ゆう)
本名同じ。芥川賞作家。東洋大学2部文学部国文学科卒業。「長嶋有」以外に、コラムニスト「ブルボン小林(ぶるぼん・こばやし)」、俳人「長嶋肩甲(ながしま・けんこう)」としても活動中。『ぐっとくる題名』という本も出している。由来についてはブルボンのホームページで「ブルボン小林史(文・凡コバ夫)」に次のような記述を見つけた。
デビュー前
94〜95年ごろ、ASAHIネット(当時のパソコン通信)の会議室(ネットでいう「掲示板」のようなもの)で、ブルボン【製菓だと思う】と小林製薬のコマーシャルのセンスについて熱弁をふるったところ、その後でモデレーターのH氏に名付けられる。
「君の名前はブルボン小林だ」と。ASAHIネットには会員の自己紹介用として40?50行の書き込みスペースが用意されていた。その欄を利用してコラム「ブルボン小林のヘボヘボ道場」を98年ごろまで連載。多い月は週に二度更新する。内容は「ノーパン喫茶、ノーパンしゃぶしゃぶの次にはノーパンなにがくるか」を予想したり、プロ野球チームのスローガンを鑑賞したりしていた。後半はネットに場所を移し、計160回くらい続いたらしい(本人もうろ覚え)。
当時から、まるで無名なのに連載名に「ブルボン小林の」と銘打っているところに、らしさが感じられる。『本当のことしかいってない』(幻戯書房)には大江健三郎が長江古義人と名前の本人を小説で出していることに関して次のように書いている。
そういえば僕も小説家だ。小説家である僕自身を拙作にも登場させたが、その名は長山籠郎(こもろう)というのだ。長嶋の嶋を山に変えただけの名字と、山にコモるという「意味」を付加した無理のある名前。なんだか「大江=長江」に似てしまった」(コモローは戸入<トイレ>コモローというふざけたペンネームも持っている)。
父は長嶋康郎。通称「ヤスロー」。古道具屋のニコニコ堂の店主。つげ義春の『無能の人』のモデルのひとりとしての方が有名。佐野洋子の『神も仏もありませぬ』(筑摩)にニコニコ堂が出てくる。断じてニコニコ動画ではない。
…見るだけで本当に商売不熱心に違いないと思ってしまう。ニコニコ堂には世間も浮世も無いらしく、役に立たない事だけ云う。役に立たない話くらい、胸躍ることがあるだろうか。無駄なことこそ人生のダイゴ味ではないか。
中島 みゆき
本名・中島美幸。祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父は産婦人科医。帯広柏葉高校を経て、藤女子大学(札幌)文学部国文学科を卒業。1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』に収録されている「永久欠番」は東京書籍「新しい国語3」に引用されたように、評価されているといえる。国語審議会委員も務めている。
中島 らも
本名・中島裕之(ゆうし)。尼崎市で歯科医の息子として生まれる。灘高校卒業後、大阪芸術大学放送学科卒。印刷会社、広告代理店勤務の後、中島らも事務所設立。テレビ番組の構成・出演、雑誌のエッセイなどで幅広く活躍。朝日新聞の連載「明るい悩み相談室」など軽いタッチのものが得意。筆に詰まると酒をあおって重いアルコール依存症になり、この体験を題材にした『今夜、すべてのバーで』で92年に吉川英治文学新人賞。薬物もテーマにして海外での使用体験を小説化したが「国内では絶対(麻薬を)しない」が口癖だった。わかぎゑふ等と劇団「リリパット・アーミー」を旗揚げ、ロックバンド「PISS」を再結成してボーカルとギターを担当した。だが、20代から躁鬱病やアルコール依存症に苦しみ、2003年には鬱病体験を書いた『心が雨漏りする日には』を出版。テレビ出演した際、アルコール中毒の悪化で著作活動は夫人に口述筆記してもらって続けていることを明かしていた。03年に大麻取締法違反などの疑いで逮捕・起訴され、懲役10カ月執行猶予3年の有罪判決を受けた。逮捕から判決までの体験を『牢屋でやせるダイエット』として発表。04年に階段から転げ落ちて死亡。子どもは「食べることに困ることが無いように」との願いを込め息子に「晶穂」娘に「早苗」と名づけた。
『異人伝』にペンネームの由来が書いてある。79年のペンネームは「らもん」で無声映画時代の剣戟スタア羅門光三郎からとった。82年に「啓蒙かまぼこ新聞」をスタートするが、「中島らも」とする。「ん」を取ったのは「らも」のほうが書きやすくて読者からのお便りも多くなるのではないか……と、軽い気持ちで(だそうだ)。
妻の中島美代子の赤裸々な夫婦生活が書いてある『らも』にも同様のことが書いてある。
友人たちはらものことを「中島」と呼んでいたが、私は「らもん」と呼んだ。中学時代から白土三平(しらとさんぺい)に傾倒していて、雑誌『ガロ』に漫画を投稿し、詩も書いていたらものペンネームが「Ramon」だったからだ。無声映画時代の剣劇スター、羅門光三郎(らもんみつさぶろう)と、マカロニウェスタン映画でオープニングに殺されてしまうラモンという手下の役名からとったらしい。らもはマカロニウェスタンが好きだったが、特にフランコ・ネロが好きなようで、よく彼の顔を描いていた。
私は、本名が長谷部美代子なので、みんなに「ミー」と呼ばれていた。中島さなえは長女で本名は「早苗」。エッセイ集『かんぼつちゃんのきおく』でデビューし、『いちにち8ミリの。』で小説家デビュー。
中薗 英助(なかぞの・えいすけ)
本名・中園英樹。「薗」というのは九州に多い姓で福岡出身を強調したと思う。北京の邦字紙「東亜新報」の記者を経て、50年に小説『烙印」で作家に。純文学作品とともに、60年代からは『密書』『無国籍者』『密航定期便』など多くのスパイ小説を発表した。81年には評論『闇のカーニバル』で日本推理作家協会賞、93年には小説『北京飯店旧館にて』で読売文学賞受賞。95年には『鳥居龍蔵伝』で大佛次郎賞を受けた。
中園 ミホ
本名・中園美保。大学卒業後、広告代理店に入り、シナリオ講座に申し込んだのに行けなくなった広告代理店の同僚の代わりとしてノートをとるためシナリオ講座に参加。1年3ヶ月で広告代理店は退職。コピーライター、占い師(四柱推命)などを経験した後、偶然知り合った脚本家の田中陽造の清書係に。脚本家の桃井章と知り合い、シナリオライターとして自立。最初に名前が出たドラマは「ニュータウン仮分署」。「For You」など。当初は本名の「中園美保」だったが、途中から「中園ミホ」名に変更した。姓名判断による画数からペンネームを改名したという。
長田 順行(ながた・じゅんこう)
本名・木谷順行。呉市生まれ。暗号に造詣が深く、暗号関係の著作が多数ある。推理小説と暗号に関する解説書も刊行している。1986年に日本暗号協会が設立され、初代会長となる。暗号の専門家だったらもっと凝ったペンネームをつければいいのに…。
なかにし 礼
本名・中西禮三。1938年中国黒龍江省牡丹江市生まれ。立教大学在学中からシャンソンの訳詞を手がけ、作詞家として活躍。「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で日本レコード大賞、その他、同作詞賞、ゴールデンアロー賞、日本作詞大賞など受賞歴多数。他にも「知りたくないの」「恋の奴隷」「花の首飾り」など。自伝的小説『兄弟』で作家デビュー。『長崎ぶらぶら節』で直木賞。NHK朝ドラになった「てるてる家族」(原作は『てるてる坊主の照子さん』)は歌手の石田あゆみの実家を描いたものだ。父(石田治)、母(石田久子)、長女(治子)、次女(良子)、三女(美恵子)、四女(由利子)という家族で、次女の良子は歌手・女優いしだあゆみ、四女の由利子は宝塚音楽学校を卒業後、入団せずに石田ゆりとして歌手デビューした後、なかにし礼と結婚。母久子は池田駅前商店街で「喫茶シャトー」のモデルになったお店「ブティック・フジヤ」を開いている。
長沼 行太郎(ながぬま・こうたろう)
『思考のための文章読本』など。花村太郎というペンネームで『知的トレーニングの技術』などを書いていた。
中野 重治(なかの・しげはる)
本名同じ。妹は詩人の中野鈴子(筆名・一田アキ)。詩人、評論家、小説家。福井県坂井郡高椋(たかぼこ)村の農家に生まれる。旧制四高(金沢)で窪川鶴次郎らと詩作を始め、室生犀星を知る。1924年(大正13)東京帝国大学独文科に入学。翌年同人誌『裸像』を中平解(さとる)らと、26年からは『驢馬』を窪川、堀辰雄らと刊行する一方、25年夏には林房雄らを通して新人会に入会、翌年マルクス主義文芸研究会(マル芸)結成、しだいに左傾する。『裸像』『驢馬』に書いた詩が『中野重治詩集』(1931)の中心をなす。27年(昭和2)東大卒業。31年共産党入党。32年「コップ」大弾圧で検挙投獄され、34年に出所。以後敗戦まで「転向」した自己を見据え、動かない「もの」と人間精神とのかかわりを追究しつづける。こうした緊張の所産が『村の家』『汽車の罐焚き』『歌のわかれ』『空想家とシナリオ』『斎藤茂吉ノオト』『「暗夜行路」雑談』だった。敗戦後、新日本文学会を創設して中心的な働き手となる。47〜50年参議院議員。戦後は『朝鮮の細菌戦について』をはじめとする透徹した多くの評論、『五勺の酒』などの現実を鋭くえぐった短編、『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』などの長編がある。
中野 独人(なかの・どくじん)
2005年に『電車男』として大ブレイク。「インターネットの掲示板に集う独身の人たち」という意味の架空の名前。2チャンネルの書き込みが原作。
中原 中也(なかはら・ちゅうや)
立原道造と間違う人が時々いる。本名で本人は森鴎外に付けたもらった名前だといっていたという。母親の話では誕生当時、中原家の任務地であった旅順で、父親の上官である軍医大佐・中村六也の上下の名前を採ったという。99年に明らかになったことで「千駄木八郎」というペンネームを使っていたという。千駄木に住む前だったから由来が論争になっている。でも、「八郎」はないだろう!
中村 彰彦(なかむら・あきひこ)
本名・加藤保栄。1949年栃木生まれ。作家。東北大学国文科卒。出版社の編集者を経て小説家となる。著書に『二つの山河』(直木賞)『保科正之』『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』など多数。
中村 うさぎ
本名・中村典子。1958年福岡県生まれ。同志社大英文科卒後、コピーライター、雑誌ライターなどを経て91年に『ゴクドーくん漫遊記』(角川)で作家デビュー。パソコンゲーム雑誌『コンプティーク』でゲームのリプレイや袋とじページ(立読みしているのを見られると恥ずかしいページ)のゲーム紹介では「イボンヌ木村」(のちに「イヌボン木村」に改名)として書いていた。今はショッピングの女王。“うさちゃん”と自称し、漫画家“くらたま”こと倉田真由美と『うさたまの霊長類オンナ科図鑑』という本も出している。『私という病』ではデリヘル嬢になって、自己実現をめぐる呪縛からの解放を模索している。『パリのトイレ シルブプレー!』では原田宗典と対談していて、原田がまさか知っている中村とテレビに出た中村うさぎが同一人物だったなんて知らなかったと話している。この本の「ウサギはエッチな動物なのか?」にペンネームの由来が書いてある。
…なぜなのか、本人の私にもわかりません。ただ、なんとなく、そーゆー名前をつけちゃったのよ。ホントは本名でデビューするつもりだったのだが、当時の担当編集さんから「名前が平凡すぎるから(ホントに平凡な名前なんです。私の本名)、読者に覚えてもらえないかも。もっとインパクトがあって覚えやすいペンネームにしたら?」と言われ、覚えやすさとか親しみやすいさで言うなら動物の名前が一番だろうと(なにしろ、相手は子どもたちだし)、本名の下に「うさぎ」をつけた、と。こーゆー次第なのであります。
中村 喜春(なかむら・きはる)
元芸者。本名・和子(かずこ)。東京生まれ。15歳で新橋の芸者になり、お座敷をつとめるかたわら英語学校に通った。英語が話せる数少ない芸者として、日本を訪れたベーブ・ルース、チャプリン、ジャン・コクトーらと交流があった。 外交官と結婚したが、その後、2度の離婚を経て芸者に戻り、56年に渡米した。三味線や小唄などを米国人に教えたほか、米国内でオペラ「蝶々夫人」が上演されるたびに、コンサルタントとして着物の着付けや日本の伝統的なしぐさを指導した。また、プリンストン大学などで日本文化についての講義を行った。 著書に『江戸っ子芸者一代記』『ああ情なや日本』など。
中村 草田男(なかむら・くさたお)
本名・清一郎。「お前は腐った男」と面罵されたのをそのまま俳号にした。東大独文から国文に転科した。
中村 千尾(なかむら・ちお)
本名・千代。詩人、俳人。山梨生まれ。生後間もなく中村家の養女となり、東京麻布で育つ。
中村 汀女(なかむら・ていじょ)
本名・波魔子(はまこ)。熊本の女学校で生け花を習っていた時に「瞭雲斎花汀女」という斎号をもらい、下の文字だけもらった。
中村とうよう(なかむら・とうよう)
音楽評論家。本名・中村東洋(とうよう)で東洋の人が西洋の音楽をやっていてはまずいと思ってひらがなにしたのだろうか?どうせなら「中村せいよう」にすればよかったのに。京都生まれ。著書は『ポピュラー音楽の世紀』『俗楽礼賛』など。
中村 文則(なかむら・ふみのり)
本名・軸見文則(じくみ・ふみのり)でこちらの方がお洒落でペンネームにふさわしいんじゃないかと思う。「土の中の子供」で第133回芥川賞受賞。に決まった。愛知県生まれ。福島大学卒業後作家を志し、2002年に「銃」で新潮新人賞を受けデビュー。「遮光」で野間文芸新人賞。芥川賞候補3回目で選ばれた。受賞作は親に捨てられ、虐待を受けて育った青年を通して、暴力の根源を見つめる作品。
中村 光男(なかむら・みつお)
本名・木庭(こば)一郎。加藤典洋は『僕が批評家になったわけ』の中で「筆名の中村にも、光夫にも、あまり文学的光彩は感じられない。簡明で一見、平凡にすら見える。本名よりももっと平凡な、どこにでもある名として選ばれた筆名。そこでは平凡に見えることが非凡の証しに、なっている」と書いている。
中山 あい子
本名・愛子。瀬戸内寂静(当時は瀬戸内晴美)らの『女流』同人となって、60年に自ら『炎』を創刊。64年に『優しい女』で第一回小説現代新人賞。『奥山相姦』『私の東京物語』『春の岬』など。長女は女優の中山マリ(本名・真理子)。
中山 義秀(なかやま・ぎしゅう)
本名・議秀。1900〜69。福島県生れ。英文科在籍中、横光利一・富ノ沢麟太郎・小島勗らと同人誌「塔」を発刊。また、帆足図南次と「農民リーフレット」を発刊。卒業後、英語教師生活を得て著作業に入り苦闘の末、1938年『厚物咲』で芥川賞受賞。『咲庵』は野間文芸賞。
中山 七里(なかやま・しちり)
ペンネームから女性と間違えられやすいが男性。故郷にも程近い岐阜県下呂市にある渓谷・中山七里より採った。本来、1586(天正14)年に豊臣秀吉が峻険な飛騨川沿いの難所に開かせた7里の街道名である。「日本三名泉」として有馬、草津と並ぶ、下呂温泉郷の入り口にもなっている。また「中山七里」は「沓掛時次郎」「鯉名の銀平」とあわせて、長谷川伸の三大股旅時代劇作品のひとつで映画化もされている。
南木 佳士(なぎ・けいし)
本名・霜田哲夫。ペンネームの姓は故郷の山の名前「なぎ」から、名は長男のものを借りている。群馬県生まれ。秋田大学医学部卒業。内科医。56年、難民医療日本チームに加わり、タイ・カンボジア国境に赴く。同地で「破水」の文學会新人賞受賞を知る。「ダイヤモンドダスト」で芥川賞。『破水』『エチオピアからの手紙』や映画になった『阿弥陀堂だより』など。
那須 正幹(なす・まさもと)
児童文学作家。本名同じ。1942年広島市に生まれる。45年爆心地より3キロの自宅で被爆、軽症を負う。小学6年生より昆虫採集に熱中し、島根農科大学林学科で森林昆虫学を学ぶ。65年卒業後東京の商事会社に就職。2年間自動車のセールスに従事したが上司と喧嘩して退社、故郷に戻り家業の書道塾を手伝う傍ら、広島児童文学研究会に参加して児童文学と出会う。 姉の竹田まゆみと同人誌『きょうだい』を、また川村たかしらと児童文学創作集団を結成し、同人誌『亜空間』を発行する。72年刊行の処女長篇『首なし地ぞうの宝』で学研児童文学賞を受賞しデビュー。『屋根裏の遠い旅』『ぼくらは海へ』、短篇集『六年目のクラス会』、ショートショート集『少年のブルース』、ノンフィクション『折り鶴の子どもたち』、エッセー集『夕焼けの子どもたち』等、多方面で活躍。〈ズッコケ三人組シリーズ〉は膨大な数のファンを得てベストセラーになり、ドラマ化もされた。
なだ いなだ
本名・堀内秀。ガルシア・ロルカに傾倒して学んだスペイン語で「何もなくて、何もない」nada y nada(nothing and nothing)。セルジオ・メンデスがヒットさせた「マシュケナダ」の「ナダ」というのも語源が同じで、こちらはブラジル・ポルトガル語でmas que nada ("but, that [is] nothing"で"come on" とか "no way"の意味)。
エッセー同様、やわらかい名前で大好きだが、ついでに哲学者のオルテガ・イ・ガセット(ガセー)もお父さんとお母さんの名前がy(英語の“and”)でつながれただけのもの。ところで、同じ精神医学の香山(かやま)リカの本名は何なのだろう?
しかし、なだ君はかつて毛沢東のことを崇拝し、ペンネームをいろいろ探していた時、この大革命家にあやかるように、毛沢山と名乗ろうかと考えたこともあったのである。毛沢山(モウタクサン)、古い小説なんてもうたくさん、われわれは新しい小説を書くんだ、と意気込んでいた若いやぶ医者兼やぶ小説家は、これこそ自分にふさわしい名ではないか、と思ったりしたのである。しかし、友人の一人が、「読者の方は、おめえの下手な小説など、もうたくさん、としか受けとらねえよ」と、やや品のない口調で忠告したので、諦めることにしたのだった。つまり、毛沢山君とは、なだ君の若き日の、ほんの僅かの間の名前だったのである。------『カルテの余白』(集英社1984)
夏石 鈴子(なついし・すずこ)
東京生まれ。高校時代の先生は宮武外骨の子孫らしい。 上智短期大学英文科卒業。97年に『リトルモア』に発表した『バイブを買いに』で作家デビュー。自身も出版社勤務を続けながら作家活動を続けている。主な著書に『きっと、大丈夫』(写真家・平間至と共著)、『家内安全』、出版社の受付に配属された短大卒の新入社員を描いた『いらっしゃいませ』など。一般には赤瀬川原平の『新解さんの謎』に出てくる「SM嬢」で知られた。「鈴木マキコ」で『新解さんの読み方』(リトルモア刊)が出たが、角川文庫版は夏石鈴子で出版された。
夏樹 静子(なつき・しずこ)
本名・出光(いでみつ)静子。ミステリーの女王!五十嵐静子のペンネームも。お父さんは富山の貧農の出で、やがて鉄鋼会社や私鉄の社長になったという。兄は小説家でミストラル社長の五十嵐均(いがらし・ひとし/本名・五十嵐鋼三)。夫は新出光社長の出光芳秀(いでみつ・よしひで)。長男は俳優の出光秀一郎。
夏坂 健(なつさか・けん)
本名・町田勝彦(かつひこ)。エッセイストで著書に『王者のゴルフ』『ゴルファーを笑え!』など。
菜摘 ひかる(なつみ)
『風俗嬢 菜摘ひかるの性的冒険』などリアルタイムで読んでいた。本名不詳。4人家族の長女として育ち、地元の新設高校に進学。卒業寸前の冬、知り合いの女性漫画家の家に転がり込み、同居人に勧められるまま風俗雑誌のモデルをする。高校卒業後はファミレスのバイトを経て、歌舞伎町のキャバクラに勤め始める。転職してサラ金会社やアパレル会社の正社員も経験するが、風俗の世界に戻り、イメクラ、ソープなどに勤め、ストリップ、アダルトビデオにも出演する。1996年22歳の時、撮影のため新宿の街中で全裸になり、公然わいせつ罪で拘留される経験をする。1996年頃、人に勧められてインターネットにて日記を公開。その後風俗を辞め、執筆活動に専念。2002年11月4日、体調が急変して死去。
本名・金之助。生まれたのが、明治維新の前夜1867年(慶応3年)1月5日だった。この日は庚申(かのえさる)の日にあたり、この日の「申(さる)の刻」(午後4時頃)に生まれた子どもは出世すれば大いに出世するが、一つ間違うと大泥棒になるという俗信があった。しかし、名前に金の字か金偏の字を付ければ大泥棒になることは免れるといわれて「金之助」となった。同級生(実際には三四郎と与次郎のつきあいだったといわれる)だった子規が『七艸(ななくさ)集』という文集を作った時に感嘆して読後感を記したが、この時はじめて「漱石」という号を用いた。楠本憲吉によれば、子規は少年時代に50いくつかの俳号をもっていて、その中に漱石もあったという。拝金主義を嫌った男が「金之助」という名前を嫌ったことは想像に難くない。
毎日新聞「余録」(2012年3月30日)にこんなことが紹介してあった。
東京・早稲田通りの早稲田駅前から南に向かう坂を夏目坂という。夏目漱石誕生之地という碑があるので「ああ文豪・漱石にちなんだ名か」と思っていたら、違っていた。それより前、漱石の父・直克が自分の名を坂につけたのだ▲坂だけではない。この辺を喜久井町というが、これも井桁に菊という夏目家の家紋から直克が作った名だと漱石は記している(「硝子戸の中」)。この地の「区長」をつとめていた父親は命名を誇りにしており、その「虚栄心」を若いころの漱石はうとんじたらしい【…】
『硝子戸の中』で出てくるように不幸な家庭だった。里子にやられて実家に戻った時、父は60歳、母は50歳を過ぎていて両親をお爺さんとお婆さんと思って、「金ちゃん」(金之助)はそう呼んでいたという。実の父母であることを知っても、親しめなかったという。正岡子規に次のような手紙を出している。
…小生は教育上も性質上からも、昔から家の者とは気風が合わない。子どものころよりドメスチック・ハッピネス(家庭の幸福)などという言葉はか投げないことにしていたので、いまさらほしくもない。近ごろは一段と心がうちとけないのも大変残念に思っている(1895年12月18日)。
父の直克は金之助が文学をやるというと「なに?軍学をやる?」と聞き返した。亡くなるまで父親に好感が持てず、「とくに父からはむしろ過酷に取扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている」という。
「漱石」の由来は『晋書』にある話で教科書に載っているくらい有名だが、晋の孫楚があるとき王武子(おうぶし)に向かって隠棲の志を述べ、「枕石漱流」というところを誤って「漱石枕流」(石に口すすぎ、流れに枕す--『晋書』「孫楚伝」)といって咎められ、「流れに枕するのは耳を洗うためであり、石に漱(くちすすぐ)のは歯を磨こうとしてだ」と言った故事から「負け惜しみ」を意味する。「さすが」を「流石」と書くのもこの故事にちなむ。蕪村には「枕する春の流れやみだれ髪」という俳句もある。兵役を拒否して戸籍を北海道に「送籍」したからというのが丸谷才一の説(「徴兵忌避者としての夏目漱石」『コロンブスの卵』筑摩)だった(『猫』でも「一夜」という短篇を書いた<送籍(そうせき)と云う男>が話題になっている)。
俳号は愚陀仏(ぐだぶつ)だが、松山中学に教師として赴任して、城戸屋旅館にて旅装をとき、最初に下宿したのが萬翠荘の前にあった愛松亭だった。二番町にあった上野家の離れに下宿をし、俳号をとって愚陀仏庵と名づけた。
落款はときに、「破障子(はしょうじ)」という号の落款を用いたが、これはある日、おならの音を知人に聞かれてしまい、「障子の破れるような音だな」と言われたのを面白がって、落款に彫ったと伝えられる。
漱石の妻「鏡子」は父の勤務地、新潟で幼少時を送り、東京で育つ。戸籍名「キヨ」。「坊っちゃん」に出てくる「清」や「越後の笹あめ」は、こうした夫人への思いから、との説もある(半藤一利『漱石先生ぞな、もし』文春文庫)。
漱石は小説も子供もあまり名前にこだわらず、7人の子どものうち、長女「筆」は鏡子夫人の悪筆を嫌ったためだとされる。三女「エイ」、四女「アイ」、『父・夏目漱石』を書いた「伸六」は6番目で申年生まれだから「申六」にしようとしたが、周りが可哀想だ(申=猿)というのでニンベンをつけて「伸六」にした。
作家の松岡譲と漱石の長女・筆子の四女として生まれた半藤末利子に『夏目家の糠みそ』という本がある。末利子の夫は半藤一利で、一利には『漱石先生ぞな、もし』『続・漱石先生ぞな、もし』などがある。
長男の純一は東京フィルハーモニー交響楽団の財団化に尽くした。純一の長男は漫画評論家の夏目房之介で『これから』(!?)というエッセー集がある。また、系図については房之介の『漱石の孫』に詳しくて《父の話に出てくる漱石は、何しろ突然怒りだす、理不尽な父》としている。それでも、《風呂に入っているとき、父が水鉄砲で漱石の金玉に水をかけた件だ。漱石は怒らずに、ただ「あははは」と笑っていたという。「親父は機嫌のいいときは、何をしても怒らなかったなぁ」》などと書いてある。
漱石は猫には名前をつけなかったが、知り合いからもらった犬にはヘクトーと名づけた。ヘクトー(Hector)というのはホメロスの「イーリアス」に出てくるトロイの将軍の名でアキレスに負ける男である。ヘクトーが自宅に来た時の様子は「硝子戸の中」(四〜五)に語られている。犬の墓標に書いた句が「 秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」である。
成島 柳北(なるしま・りゅうほく)
本名・惟弘(これひろ)。俳優・森繁久弥の大叔父である。
ナンシー 関
ナンシー関(ぜき)というお相撲さんではない。本名・関直美(せき・なおみ)。青森市生まれだから棟方志功に近かったのかも。法政大学文学部在学中、市販の消しゴムをカッターナイフで彫ってつくったハンコによる似顔絵が認められ、プロのイラストレーターとしてデビュー。ペンネームはデビュー当時『ホットドッグ・プレス』の編集長だった“いとうせいこう”がつけた。成功するようにって。「直美」だから「ナンシー」となった。前例のない「消しゴム版画家」として話題を集め、89年には個展「けしごむ歳時記」を開いた。テレビ番組や芸能人を題材にした風刺の利いたエッセー、コラムでも知られ、週刊誌などに何本も連載を抱えていた。2002年6月12日に急死。
南條 範夫(なんじょう・のりお)
本名・古賀英正(こが・ひでまさ)。東京都生まれ。東京帝国大学法学部・経済学部卒。同大助手を務めた後、旧陸軍参謀本部などで働いた。戦後、国学院大教授などとして金融論を教えた。経済学者では食えないと作家に。43歳の時に「出べそ物語」で『週刊朝日』の懸賞小説に入選。56年、遣唐使の悲惨な運命を描いた「燈台鬼(とうだいき)」で直木賞、75年に紫綬褒章、82年には「細香(さいか)日記」で吉川英治文学賞を受けた。武士の痛快な活躍を描いた「月影兵庫」シリーズはテレビドラマになるなど人気を博した。NHK大河ドラマ「元禄太平記」の原作も担当した。また経済物、ミステリーなど、幅広い作品を残した。
南里 征典(なんり・せいてん)
本名・南里勝典(なんり・かつのり)。冒険小説から官能小説までさまざまなジャンルで活躍。82年、『獅子は闇にて涙を流す』で日本文芸大賞現代文学賞。代表作に『未完の対局』『紅の翼』など。
に 新島 襄(にいじま・じょう)
明治の教育者。本名同じ。幼名を「七五三太」(しめた)といった。4人も女の子が続き、男児の誕生を祖父・弁治が「しめた」と喜んだことに因むといわれる。
新美 南吉(にいみ・なんきち)
本名・正八(にいみ・しょうはち)。俳句雑誌『南風』にあやかった。1929年10月号の雑誌『愛誦』に童謡「空家」が新美南吉のペンネームで載ったのが最初。その後しばらくは、違うペンネームを使ったり、本名で投稿したりすることが多く、「南吉」が定着したのは1931年の半ばから。南吉以外にも「新美弥那鬼」「古美北吉」「宇須野呂吉」など、俳句を作るときには「耳鳴(じめい)」という号を使う。
安城高等女学校に勤め始めて間もない南吉は38年5月10日から16日まで4年生の修学旅行の付き添いとして、江ノ島・鎌倉・東京・日光・善光寺を旅した。同行した教師は国語を教える大村重由と地理・歴史の鈴木進。大村は短歌や俳句に造詣が深く、鈴木もこの時期から俳句を始めていました。画帖「三人道中」を作るが、画帖の中で、南吉は本名の「正八」以外にも「赤鴬・ぺえぺえ・十茶」と署名している。「ぺえぺえ」は南吉が就職したての新米教師だったことから、「十茶」は俳人小林一茶をもじってつけた戯号。「赤鴬」は華厳滝で聞いた鴬の鳴き声から思いついたのだろうか。そのほかの「夜光虫」は大村、「貴博」は鈴木の署名だった。
二階堂 黎人(にかいどう・れいと)
本名・大西克己。東京創元社主催の第一回鮎川哲也賞で『吸血の家』が佳作入賞。『地獄の奇術師』で講談社からデビュー。日本では珍しい女性名探偵の二階堂蘭子が活躍。
仁木 悦子(にき・えつこ)
本名・二日市八重(ふつかいち=結婚後の本名)。『日本近代文学大辞典』は「三重」と間違う。父の大井光高は富山商船学校の教官だったという。「仁木悦子」はデビュー作『猫は知っている』に出てくるワトソン役の「私」の名前をそのままペンネームにした(兄の「雄太郎」がホームズ役)。
西尾 維新(にしお・いしん)
小説家、漫画原作者。ミステリーやライトノベルに属する作品を主に著している。立命館大学政策科学部中退。2002年に『クビキリサイクル』で、メフィスト賞を受賞してデビュー。当時20歳だったこともあり、キャッチコピーは「京都の二十歳、西尾維新」であった。ペンネームはローマ字(訓令式)で書くと「NISIOISIN」、Oを中心に左右対称の回文となっている。「山本山」よりはホンダのCIVIC,日清のOilliO、企業のLIXIL,OXOと同じ。
西木 正明(にしき・まさあき)
本名・鈴木正昭。秋田県生まれ。早稲田大学教育学部社会科学中退。
西村 京太郎(にしむら・きょうたろう)
本名・矢島喜八郎(やじま・きはちろう)。「西村」は尊敬する先輩の名前、「京」は東京生まれで「太郎」は長男だからという明解な命名。
西村 賢太(にしむら・けんた)
本名同じ。複雑な家庭に育つ。「苦役列車」で2011年に芥川賞。
西村 寿行(じゅこう)
本名読みは「としゆき」。高松市男木島生まれ。新聞記者、速記者、自動車運転手、飲食店経営など数々の職を経験。以後、作家へ。兄は小説家の西村望。
新田 次郎(にった・じろう)
本名・藤原寛人(ひろと)。新田の小説『新田義貞』からだと思っていたが、出身地の上諏訪角間新田(しんでん)出身の次男という意味。長野県生まれ。無線電信講習所本科卒。妻は作家・藤原てい、数学者の藤原正彦は子。娘は“新田”咲子で『父への恋文』『母への詫び状』がある。咲子の名は1945年の敗戦直後、中国東北部からの壮絶な引き揚げ体験を描いた、藤原ていの小説『流れる星は生きている』に登場する、生まれたばかりの赤ちゃんとして思い出される。5歳と2歳の兄の手を引き、ソ連兵の目を逃れるためリュックに自分を隠した。約1年の逃避行の間、栄養失調で乳も出なくなった母は娘の顔を時にのぞいては同じ言葉をつぶやく。「咲子はまだ生きていた」!
ぬ 額田 やえ子(ぬかだ・やえこ)
本名・渡辺やえ子(わたなべ・やえこ)。映画評論家。
ね ねじめ 正一(しょういち)
本名・禰寝(ねじめ)正一。平仮名にしないと読める人はいなかっただろうと思う。「禰」も「示」偏が正しい。「禰占」「根占」と書く「ねじめ」さんもいる。
の 野上 彌生子/弥生子(のがみ・やえこ)
本名「ヤエ」で「八重子、八重」の筆名も用いた。明治生まれの女性は後ろに「〜子」を付けてペンネームにする人が多い。大分県臼杵町に酒造家に生まれた。明治女学校高等科卒業。英語の家庭教師だった、英文学者で能楽研究家の野上豊一郎と結婚。豊一郎は漱石門下だったが、照れ隠しに妹と一同に紹介したが、漱石からは直ちに見破られてしまったという。後に中勘助が好きになったことが日記から分かる。イタリア語の野上素一(そいち)は長男。
野口 雨情(のぐち・うじょう)
本名・英吉。中学時代に愛誦した「雲恨雨情」から。ATOKにありそうなのに「雨情」が変換できず無情を感じた。坪内逍遥に師事。明治40年三木露風、相馬御風らと早稲田詩社を創設。大正中期の児童文学運動に参加。童謡に「十五夜お月さん」、歌謡に「波浮の港」など。金子未佳「野口雨情の筆名の変遷について――新たに判明した筆名を中心として」『解釈』vol.45(1・2)1999pp.6-12など参考。
野口 冨士男(のぐち・ふじお)
本姓・平井。『わが荷風』『なぎの葉考』『少女』『薬物の夜』など。
野口 米次郎(のぐち・よねじろう)
詩人。英詩人としての署名はYone Noguchi(ヨネ・ノグチ)で外国にも知られるスケールがあった。
野坂 昭如(のさか・あきゆき)
母は昭如を生んだ3ヶ月後に死亡したため、神戸の張満谷家の養子となる。神戸大空襲で養父母が死亡、義妹・恵子とともに戦災孤児となる。恵子は敗戦1週間後、栄養失調で衰弱し1歳3ヶ月で死亡。飢餓のため、養母の実家を頼って47年10月上京。飢えのために盗みを繰り返し、1ヶ月後逮捕され、約1ヶ月多摩少年院に収容される。実父野坂相如(すけゆき)を身元引受人として出所し、当時新潟県知事であった父の実家に帰り、48年旧制新潟高校に入学。翌年、新潟大学になると3日後に退学。早稲田大学仏文科に入学するが、ほとんど出席せず…。放送作家としての別名は阿木由紀夫、シャンソン歌手としての別名はクロード野坂。
野田 昌宏(のだ・まさひろ)
本名・野田宏一郎(こういちろう)。
野中 柊(のなか・ひいらぎ)
本名・内山千晶。新潟県生まれ。立教大学法学部を卒業後、渡米してニューヨーク州のイサカで創作活動を行う。その間に発表された『ヨモギ・アイス』が海燕新人文学賞を。93年の帰国後に発表した『アンダーソン家のヨメ』、『チョコレット・オーガズム』でそれぞれ芥川賞最終候補作に。
乃南 アサ(のなみ・あさ)
本名・矢沢朝子。東京都生まれ。早稲田大学社会科学部を中退後、広告代理店勤務などを経て作品の執筆に専念。88年、『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞を受賞して作家としてデビューした。名前の由来は『水の中のふたつの月』(角川文庫)の巻末の解説で新保博久が触れている。アサは本名の一部、苗字は「南方系の顔なので、「南」とつけ「南」には二画の字があうというので「乃」を上につけたという。
野溝 七生子(のみぞ・なおこ)
作家、元東洋大学文学部教授。比較文学による森鴎外の研究もある。本名・ナオ。明治30年に姫路に生まれる。大正13年、福岡日日新聞の懸賞小説に応募した『山梔(くちなし)』で特選入賞して文壇デビューし、歌人の鎌田敬止と同棲。代表作に『女獣心理』などがあり、『野溝七生子作品集』が立風書房から出た。矢川澄子『野溝七生子というひと』で知られるようになり、久世光彦が『昭和幻燈館』で一章を野溝に捧げている。
野村 胡堂(のむら・こどう)
本名・長一(おさかず)。別号「あらえびす」でレコード批評。『銭形平次捕物帖』!
野村 尚吾(のむら・しょうご)
本名・野村利尚。富山県富山市生まれ。早稲田大学英文科卒。在学中から文学を志し、『早稲田文学』の編集に携わる。その後、毎日新聞社出版編集部に勤務。
法月 綸太郎(のりづき・りんたろう)
本名・山田純也。京都大学法学部卒。綾辻行人と同じく、京大推理研究会出身。1988年『密閉教室』でデビュー。法事にお鈴(りん)が聞こえるような涼やかなペンネームである。
野呂 邦暢(のろ・くにのぶ)
本名・納所(のうしょ)。長崎県立諌早高等学校卒業。ガソリンスタンド店員など職を転々とし、一時、陸上自衛隊に入隊。「草のつるぎ」で芥川賞受賞。『ある男の故郷』『白桃』『鳥たちの河口』『一滴の夏』『落城記』など。
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お ![]()
First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
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