My foolish wife…「謙遜文化」

「…先生、人気ありますからね。授業はやる気ないけど」
「ああ、私なりにやる気はあるんだけどねえ」
「けど、楽しいっすよ。自由に描けるし、褒めてもらえるし。わからないことは他の先生に聞けばいいし」

-----山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』


 いやあ、僕のホームページの中でも、こんなエッセイを読もうとするあなたは相当すごい人です。そんじょそこらのインテリではありませんね。

 昔、うちの学校にいた日系ブラジル人のH君は「僕、いろんなことができます」と自慢したことがあった。その中でも「ソロバンが得意です」というので、へえぇ、やっぱりブラジルは違う、古い日本が残っていると思って「で、何級なの?」と聞いた。すると「7級」との答えで、7級というのは僕が挫折した級で、ほとんど初歩の段階なのだ。それでも、自慢するところが、やっぱり日本人じゃないなぁと思った。

 日本人はみんな謙遜する。「何もないボロ家で、妻もブスだし、料理もおいしくないけど、遊びに来ない?」という。「五千万かけた新築の家で、美人の妻が、最高の料理をもてなしてくれるからおいで」などとは絶対に言わない。「ボロ家〜」と言われた外国人はそれを信じてくるからビックリしてしまう。

 料理も“We have nothing to eat, but eat the next room.”などと訳の分からないことを言われて、隣の部屋に行くと、食べ物が食べきれないほど並べられていたりする。

 アメリカ人なら「妻が君のために特別な料理を用意しているから来ない?」というところだ。

 ヤクルトの石井一久投手が婚約した時に女子アナだった婚約者・木佐彩子の得意料理は何か聞かれて「そうですね、生野菜ですかね」と言ったのだが、そしてすぐに「まあ、これは冗談ですが」と言ったのに、そこでコメントは切られてしまって、奥さんは可哀想だった。でも、日本人ならいいそうなセリフではある。

 贈り物だってそうだ。「あなたのために苦労して手に入れた」などとは日本で決して言ってはいけない。「つまらないものですが…」と言わなければ、日本人じゃなくなる。ごく最近はすぐに開けても失礼ではなかったが、後でこっそり開けるのがマナーだった。感謝したい時には相手はいなかったりする。永遠に会えない人でもその場では開けなかったものだ。アメリカ人にとってはすぐに開けて感謝されないと、不機嫌になってしまう。無視されたような気になるのだ。それにアメリカでは相手の気持ちに働きかけないといけないものらしくて、必ずカードを添える。日本は何も書かないで意味のない包装を重ねる(わが子たちの世代は違うようで、一生懸命、手紙も書いている)。どんなに立派なものでも「粗品」(僕は「豪華粗品ですが」といって渡す)と書かれているし、お茶だって出す時は「粗茶ですが…」という。外国人は「粗末なお茶なら出すな」と言いたくなってくるらしい。でも、そんなに相手の好みにあったプレゼントがあるとは思えないのである。それに「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」と言ったのは大名茶人の松平不昧(ふまい)だった。庶民もお茶でもてなし、もてなされる。いれてもらったお茶は、粗茶でも心が和むものだ。

 河合隼雄でさえ、このプレゼントにはカルチャーショックを受けていて、アメリカ人はきっと相手は気に入るに違いない、「アイ・ホープ……」という形でいう。これに気づいた河合は「ああ、わかった、“アイ・ホープ……”でいこう」と話し方を変えたという。

 しかし、意図的にあんまり変えてやると、しんどくなってくるんですよ。やっぱり自分と違う人生を生きているんだから。そうなったら、こんどは日本人ばかり寄って茶漬でも食いながら、『アホなアメリカ人』とか悪口を言うと元気が出るんですよ。

 アメリカ人のコミュニケーションは押し付けがましい。謙遜する姿勢がない(modestyとかhumilityはイギリスで主に使われると思う)。「いいでしょ」と言われても実は困る。何かを誘う時でも「絶対いいから」なんていう。日本人は少しでも相手に気が乗らない雰囲気があったら、「まあ、無理だと思うけどね」とか「他にもあったしね」とかいう。アメリカ人の発話スタイルを「誘導型発話」、日本人のは「気配り発話」と呼ぶことがある。

 井上優は『相席で黙っていらえるか』(岩波書店)の中で、中国人もアメリカ人のように贈り物はあなたのため、というのを強調するという。そして、日本人のコミュニケーションは「天秤型コミュニケーション」で、中国人のそれは「シーソー型コミュニケーション」だという。

 妻も日本人は「愚妻」という。子どもたちも「愚息」(「愚娘」はない)「豚児」「豚女」とか言って、絶対に誉めない。学校で成績がトップだったとしても、(例外はあるが)「馬鹿息子でして」というのが普通だ。広辞苑には「男は辞儀に余れ」という言葉が載っていて「男の謙遜はしすぎるくらいでいい」という意味だ。男でなくても「実るほど頭を垂るる稲穂かな」ともいう。馬場あき子に“おばあさまは「「丹波の山ざる」とあいさつし幼きわれはいたくおどろく”(『記憶の森の時間』)というユーモラスな短歌がある。

 実際、高田保は『第三ブラリひょうたん』で次のような文章を書いていた。

高田保『第三ブラリひょうたん』「愚妻」

 日本髪の流行はファッショの前兆だと書いたら、早速に抗議のハガキが来た。そんなことよりも、おまえがいつも書く「愚妻」という言葉の方がずっとファッショだというのである。
「愚妻」というのは英語で「フーリッシュ・ワイフ」としたら外人が驚くだろうといった人がある。外人ばかりではない、日本人だって驚く。この際の「愚」は決して「フール」ではない。
 私自身も「愚夫」である。「愚夫」と「愚妻」と、まことにめでたい「われ鍋(なべ)にとじ蓋(ぶた)」だと私も思っている。人生的に至らないのが「愚」であって、つまり私たちは謙虚なのである。謙虚の美というものは外国人も知っている。この謙虚の表現が国によって違うのはどうも致し方がない。
 私の愚妻は謙虚である。この謙虚をいとしく思うが故に私は、「いとしの」という意味で「愚」という形容をつけているのである。こういうニュアンスに富んだ表現はまことに詩的なものだ。封建的とかファッショ的とかいうのでは決してない。これをかりに私が彼女を「賢妻」と呼んだとしたらと考えてみればわかるだろう。彼女はそれこそ不快を感じるに違いない。
 わが子を「豚児」と呼ぶことに呆(あき)れた人があったが、この言葉の中に親の愛情を汲みとれぬ人とは話ができない。私には子供がないのだが、あったら喜んで、豚児呼ばわりをしただろうとおもう。偉大なる作家チェーホフは夫人への手紙の中で、「私の犬よ」と呼びかけている。古風に訳せば「狗妻」とか「犬妻」とかになるわけだが、そう呼びかけられた夫人は喜んでハイと答えていたわけである。
 日本人はいたずらに自分のことを卑下する悪癖をもっているというが、必ずしも左様ではない。「大日本帝国」などと無闇に大きく自分をうたったものである。日本人本来の性質からいえば「小日本」とか「愚日本」とかいうべきだったのだろう。
 自ら「大痴」と誰がいったか、ご承知のことだろう。大愚といった人もいる。だがこの連中はすべて腹に一物あってのことだった。「愚妻」と私がいうのもやはり腹があってのことである。
 実るほど頭の下がる稲穂かな。私にしても新婚早々の未熟な頃は、到底おそろしくて「愚妻」などとはいえなかったものだ。だが段々と夫婦の間が熟し、お互いに人間として不足なところがわかり、それを許し合う寛大な愛情がたっぷり実ったので、安心して「愚妻」といえるようになったのである。おもえばこれは夫婦間の本当の信頼を表現する言葉のようだ。以上の文章、愚妻とは何の相談もせずに書いたのだが、おそらく愚妻は笑って承認するだろう。彼女がかく愚妻であるかぎり、私は彼女を心から私のよき伴侶だとおもっているのである。
                                   (二五・一・二五)

 「山妻」(さんさい)というのもあるし、「荊妻」(けいさい)というのもある。後者は皇甫謐(こうほひつ)『列女伝』から取られていて、後漢、梁鴻(りようこう)の妻、孟光(もうこう)がいばらのかんざしをさした故事から自分の妻をへりくだっていう言葉だそうだ。

 もっとも最近は「うちの奥さん」という言い方をする人がいて、調べると森本薫が1934年には使っていて他にもいろいろな人が使っているから、定着していることになる。

 小学中学の教育に尽瘁したフランスの一教父が、或時、僕に次のような話をした。

「私の学校の寄宿生は東京に家のあるものが大部分を占めているが、中には地方の者で、東京には近い親戚も心安い知人もない生徒がある。そういう生徒の母なり姉なりが時々上京して寄宿舎に子や弟を訪ねて来る事がある。

 もしこれがフランス人だったらどうだろう、彼らは泣いたり笑ったり抱擁したりして、愛情の限りを尽くして憚らぬだろう。
 
 ところが、日本の婦人はこんな場合にも実に穏やかである。久し振りで子や弟に会うのだから、懐かしさは顔に現れている。しかし、その挙動の端厳な事は全く驚嘆に価する。彼女らは、先ず私に『不束な子供であるが、お蔭様で無事に勉学する事が出来て何より有り難い』と云う。そうして、子や弟に向って、『良く先生の教えを守って、勉強して、からだを大切にしてくれ』と云うようなことを言い聞かせてから、静かに帰って行く。

 日本の婦人のかかる態度に接した時、私はいつも考え込んでしまう。これほどまでに感情の流露を塞ぐのは如何にも自然に背いている。自分は今、かって歴史で読んだスパルタや古ローマの母型をまのあたりに見せられたのではないか、と一種の恐怖に似た戦慄を覚えるが、しかし同時に、世界最強の兵士を育て上げた母や姉はまさにこれだと思うと、偉なる哉、日本と叫ばずにはいられなくなる」

 僕はこの話しを聞いて、「そういう母型は本場の日本でも今ではどんどん崩壊して行く」と答えた。すると教父は更に、「果して崩壊するだろうか、私にはそうは思わない。一時影を潜めても、日本の存立する限り、時代を隔てて幾度も蘇るだろう」

 結局外国人にも日本人にも日本人が良く分らないらしいが、、少なくとも僕には、日本人ぐらい―――善くも悪くも―――他の国々の人間と異なる人間はないように思われる。同じ東洋でも、中国人やインド人は遥かにロシア人に似ているし、ロシア人は日本人に似ているよりも遥かに欧米人に似ている。それだから、日本人だけが日本人だと云うことになる。
     -----『辰野隆随筆全集 2 えびやん』(福武書店)

 中には「愚妻」を“My foolish wife”などと訳す人もいるから、よっぽど離婚が近いと思われる。“My wife isn't so beautiful and doesn't cook very well.”などというから、よほどブスで料理も下手かと思われる。ここで「愚妻」があって「愚夫」がなく、「悪妻」があって「悪夫」がないことに女性は怒りを向けるべきなのだ。

 実際には、妻のことを言及する時に、日本語に詰まってしまう。「愚妻」はもちろん、「女房」なんて古臭い言葉は使えない。「うちの奴」といわれて相手が妻と分かるとは限らない。最近は「ぼくのパートナー」とか「連れ添い」(なんだか老後みたいので「ツレ」)という人がいるかもしれない。西江雅之先生は「僕の奥さん」だった。

 妻をほめられたら“Thank you. I'm proud of her.”というと平然と返すべきなのだ。“Thank you. So, I did get married with her.”というかもしれない。でも、日本人なら絶対に認めない。

 外国人は平気で相手をハニーとかダーリンとか呼び合う。“I love you.”も日常的だが、日本人は結婚したら決して「好きだ」なんて言わない。言えない。その意味でも村上春樹は欧米化している。例えば、『ノルウェイの森』から引用する。

「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「どんなこと?」
「なんだっていいわよ。私が気持良くなるようなこと」
「すごく可愛いよ」
「ミドリ」と彼女は言った。「名前つけて言って」
「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。
「すごくってどれくらい?」
「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」
緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」
「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。
「もっと素敵なこと言って」
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「それくらい君のことが好きだ」
     -----村上春樹『ノルウェイの森』

 米原万里は『心臓に毛が生えている理由』(角川学芸出版)で次のようなジョークを紹介している。

 とあるレストランで、三組のカップルが同じ食卓を加温でいた。アメリカ人の夫が妻に呼びかけた。“Give me the honey, my honey!”(蜂蜜を取ってくれないか、僕の蜂蜜ちゃん)
 イギリス人の夫が妻に呼びかけた。“Give me the sugar, my sugar!”(砂糖を取ってくれないか、僕のお砂糖ちゃん)
 日本人の夫も妻に向かって、「ハムを取ってくれないか……」と言いかけたものの、口をつぐんでしばらく考え込み、それから付け足した。「僕の仔豚ちゃん」

 僕は妻を食べてしまいたいくらい愛している。本当に食べてしまえば良かった…。

 料理がたくさん並んでも“We have nothing to eat. But please eat next room.”(ジョークだからね、使わないでね)とはいわない。“I cooked this for you all day today. I have a ton more in the kitchen.”というのが当たり前。アメリカ人だと自分が作ったクッキーを“You must try my cookies.”というところだ。“must”だって。だから、日本人がプレゼントする時に“worthless gift”なんていうとびっくりしてしまう。食事が終わった時も「ごちそうさま」(英語に相当する言葉はなさそうで“Thank you.”くらいか)というと日本では「お粗末様」と来るところだが、アメリカでは“Can you enjoy enough?”などという。転居の案内にも“You must come and see me.”なんて書かれているが、もちろん、行かなければならない訳ではない。

 アメリカには「謙遜」というものがない。「すごいね」といわれて「とんでもない」などというのも英語ではありえない。“No way.”などと言おうものなら心配されてしまう。逆に、アメリカ人が君の能力を誉めたりしても、有頂天にならないように!あちらは誉める文化なのだから。まして、英語力を誉められる間はまだまだ力がついていないということだからね。

 アメリカ人はお世辞を社会の潤滑油(lubricant)と思っている。だから、自慢するし、その自慢を受け入れる。そして、褒めちぎる。子どもについても、「うちの子は最近、何とかと何とかで賞をもらった」なんて平気でいう。成績にしても「こないだ85点も取った」と自慢するし、子どもにも「お前は天才だ。私の誇りだ」などという。

“ほめ言葉たくさん持っている人と素顔で並ぶ朝のベランダ”俵万智『未来のサイズ』(角川書店)

 日本で85点を取ったら、「どうして後15点取れなかったのか?もうちょっとで満点だったのに!」などと責められるのがオチだ。子どもはそれで傷つくかというと必ずしもそうではない。逆に人前で「うちの子は天才でね」などと誉められたら「親ばか」丸見えで嫌だと答えるはずだ(よく学生に質問するのだが、間違いない)。

 アメリカでは教師も誉めるのが得意で、“Good job!”は当たり前で、“Nice work!”“You did an excellent job!”“How smart!”“I'm very proud of you!”“Well done!”“Perfect ten!”“You hit the nail on the head!”などと言って持ち上げる。

 日本人だったら、歯が浮きそうなヨイショをされると鼻白むところだが、アメリカ人はそんなことがないようだ。日本に「ほめ殺し」という言葉があるように、誉められると死んでしまいたい気持ちにさえなる。気がついたら木の上に登っていることも多いのだ。

 アメリカでは誉める方が人間関係がよくなるとされる。時々、同僚のアメリカ人に英文のネイティブ・チェックをお願いすることがあるのだが、「先生の英語は完璧です」という。「いや、分かった、アメリカ人だから誉めてるんだね」と返すと、「本当ですよ」といわれるのだが、こそばゆい。「お前は最高の友だちだ」なんていう人もいるが、真に受けてはいけない。タモリがジャズの巨匠マイルス・デイビスと会った時の話が残っているくらいだ。

 日本では強面(こわもて)の厳しいリーダーの方が好まれる傾向にある。「鬼」と呼ばれた方がリーダーとしていいと思われている節さえあった。最近は「パワハラ」という言葉も流行語になってどうだか分からないが…。授業でも叱ることが難しくなった。教科書を持って来ないで、別の英語の教科書を出して「何だ?」と訊くと「気分出すためです」という学生を優しく受け止めなければならないのか?

 日本だって昔からそうだった訳ではない。イザベラ・バードが明治の初め、日光近くで見た光景で「父親も子供を自慢にしています。毎朝6時に12人から14人の男が低い塀に腰をかけ、2歳以下の子供を抱いてあやしたりして、その子の発育のよさと利口さを見せびらかすのを見るのはとても愉快です。この朝の集いの主な話題は子供のことのようです」と描写している(『イザベラ・バードの日本紀行』講談社学術文庫)。「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」と歌った山上憶良の頃から、今でも子どもを大切にする人は多いが、「親ばか」と呼ばれる。英語でなんていうか調べると“ blind parental love”というのがあり、ことわざには“It's a wise father that [who] knows his own child.”というのがあって、普通の親は子どものことを知らないものらしい。

 イギリス人は日本人と同じように「島国根性」なので、日本的メンタリティに近い。アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』(Absent in the Spring)の最後の方にロシアの公爵夫人サーシャがイギリス人のジョーンという女性にいう。「…あなたがたイギリス人はとても面白い国民性をもっておいでですのねーー本当にとても面白いと思いましてよ。ご自分たちの長所については何か後ろめたげで間が悪そうな口ぶりをなさるのにーー短所は進んでお認めになるばかりか、むしろ自慢にしていらっしゃるようですのね」

 自慢話はカラオケのようだ。歌っている本人は得意げだが、聞かされる人にはたまらない。ホームビデオも家族以外には無意味だ。

 人は小さい頃から正直者であれ、と教えられる。しかし、「今日の服どう?」と言われて、そのまま「似合わないよ」などと正直に答える人はいない。しかし、これも比較文化の対象になる現象だ。

 大人になって学ぶことは正直だけでは生きられないということだ。

人の為
と書いて
いつわり
と読むんだ
ねえ

 相田みつを

 アメリカではアグレッシブ(攻撃的)“aggressive”でなければならないとされ、自分も他人も誉め合って生きていかなければならない。これって結構つらいものがある。

 マーク・トウェインは「うまいお世辞があれば、2カ月暮らせる」(I can live for two months on a good compliment.)と言ったくらいだ。

 こうしたのを「礼儀の建前」(Polite Fiction)ということがある。別の言葉なら「社交辞令」とでも訳せるかもしれないが、むずかしい。英語のWikipediaには“Polite fiction”という項目があるが、日本語とはリンクしていない。なお、“a social scenario in which all participants are aware of a truth, but pretend to believe in some alternative version of events to avoid conflict or embarrassment”と書いてある。

 愛の場面にだって使える。『恋愛小説家』ではジャック・ニコルソンが行きつけのレストランのウェイトレスのヘレン・ハントにいう。

“Well, my compliment to you is ...you make me want to be a better man.”
「君のおかげで、もう少しましな人間になりたくなった。それが、その…君へのほめ言葉だよ」

 ただ、文化だけの問題ではなく、言語の問題もあるかもしれない。阿川佐和子は『オドオドの頃を過ぎても』(新潮社)の「できないチュッ……」というエッセイの中で、ハワイの知人の医者と父親の阿川弘之と一緒に行った時に「お宅のお嬢さんもスイートですよ」とほめられたら、すかさず、弘之が「ヘェ、どこが。私に対しては、ちいっともスイートじゃないですね」と答えたという。食ってかかると…。

「何言ってるんだ、お前なんか、父親にむかって『ハイ』と素直に応じたためしがないじゃないか。いつも、だって、だってと、自分を正当化して、甚だよろしくなお。大体、だれのお陰でこんなぜいたくができると思ってるんだ」

 ドクターの家をお暇するとき、お嬢さんのケイコちゃんから「また来てね」と、ほおにキスをされて、ご機嫌になったはずの父は、またもや私に腹を立て始めた。しかし、あのドクターでも、「子供をしかるときは、感情的になるからやっぱり日本語ですよ。でもほめるときは、英語の方が便利だなあ。日本語じゃ、気恥ずかしくて」とおっしゃっていた。私も「アイム、ソーリー、ダディ、チュッ」なんて父に抱きつけば、父娘の関係は、もう少し改善されるかもしれないが、でもそんな勇気はない。

 いくら誉めるのが得意なアメリカ人だって、見え見えのヨイショは避けるものである。でも、お互いに誉め合って生きている。日本人は、お互いにけなし合って生きているようにも見える。アメリカは褒めて勉強をさせ、日本はけなして勉強をさせるといわれるゆえんである。

 どちらがいいのか分からない。落語の「半分垢」というのはこんな話だ。

大阪の巡業から帰ってきた関取が二階で寝ているところに、贔屓筋の男が尋ねて来る。
お上さんが応対に出た。
「関取は随分と大きくなったでしょうね」
「そりゃあもう、大きくなったなんて物じゃないです。声は割れ鐘のように大きいし、背丈は屋根まであるので、戸をはずしてやっと入ったって始末。目なんて炭団のようだし、ご飯は一度に一俵食べてしまうの」と、大ぼらを吹く。
これを聞いていた関取は、お上さんを叱る。
「余り大きなことをいうのではない。大阪から帰ってくる途中で茶店の娘に、富士山は大きいなと言ったら、毎日見ているから大きいとは思わない。それに半分は雪だからと言った。これを聞いたら、富士山がますます大きく見えた。余り自慢話をするものではない」
お上さんは大いに反省をして、別の贔屓筋の男が尋ねてきた時、
「関取は随分と大きくなったって聞いたけど」といわれて
「いいえ、とんでもない。声なんて虫が鳴くように小さいし、顔も煎餅くらい、目は砂粒で、ご飯は一粒食べればお腹がいっぱいになるんだから」。
これを聞いていて、関取は恥ずかしくなって男の前に顔を出す。
「なんだ、お上さん。関取はこんなに大きいじゃありませんか」
すかさず、お上さん。「いいえぇ。半分は垢ですもの」

 河合隼雄は『ココロの止まり木』(朝日)の中で次のように書いている。

 確かに日本人には、初対面の人に自分の能力や才能などについてあまりしゃべらず、むしろ私は何もできませんので、というような物言いをする人がおおい。その点、アメリカ人は別に威張っているのではなく、自分の能力や才能などについては初対面であってもしっかりと事実を伝え、「正当な評価」をお互いにすることによって、その後の関係のあり方を明確にする、というような感じがある。

 自分のことに関して、事実を事実としていっているので、別に威張っているわけではない、というわけである。

 それに比して日本人には「私はまったく駄目な人間です」とか「何の取りえもない人間です」などと謙遜してみせて、相手が「いやいやあなたは素晴らしい方で」といわざるを得なくして、いうなれば、自分が威張るための誘い水をあちこち打ちまくるようなニセの謙虚人がいるが、これよりはアメリカ人のほうがはっきりしていていい、といえるかもしれない。

 威張る、威張られる関係などより、人間対人間として普通につきあうほうがいい、といえばもっともだが、これも考えると難しいことだ。「僕はどんな人であれ、地位や財産などにかかわらず、人間として会うのだ!」などと大声で威張る人もおられるぐらいだから、人間対人間として会う、というのはあんがい大変なことなのだ。【…】

 威張らずに謙虚に生きようなどと思わず、自分のほんとうに好きで楽しいことを見つけるのがよさそうである。

 一つだけいえることは、日本の子どもたちに「自尊感情」というのが育っていないということだ。古荘純一『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(光文社新書)は次のように指摘している。

 自分を肯定的にとらえる、ということは、人生のさまざまな困難を乗り越えて充実した人生を送るためだけでなく、他人と協調していくためにも必要なことだと言えます。自分を否定的にとらえると、他人のことも否定的にとらえたり、他人からの言動を被害的にとらえたりすることで、関係がうまく成立しなくなってしまうからです。そうなると、コミュニケーションをとることが難しくなってしまいます。【…】

 幼児的な万能感を持っていた子どもたちも、世の中の現実がわかってくるにつれて、自尊感情は低下していくのが普通だとも言えます。そして一回低下しきると、下げ止まって、また、こんな自分でもいいや、という感じであがっていくのが普通のパターンだと考えられていたのですが、いまの日本の子どもの現状では、小学校三、四年生ぐらいから低下しはじめて、中学校、高校、とずっと下がりっぱなし、ということになっていることが、今回の調査で明らかになりました。【…】

 私は、母親(もしくは父親)が、自分の自尊感情が低いことを子どもに投影してしまう(自分自身の、特に子どもの頃のネガティブな思いを自分の子どもに見いだしてしまう)と、子ども自身も自尊感情が保てなくなるのではないか、と思っています。

 アグレッシブだからといってアメリカ人がみんな謙遜しないという訳ではない。ベンジャミン・フランクリンは「謙遜は偉大な人を二倍名誉あるものとする」(Humility makes great men twice honourable.)と言った。

 フランクリンは『フランクリン自伝』(岩波文庫)で述べた「十二徳」は次のようなものだった。そして、謙遜が一番むずかしいと書いていた。

・節制:暴飲暴食を慎む。
・沈黙:他人、もしくは自分にとって有益なこと以外は話さない。
・規律:物はすべて場所を決めて置く。仕事はすべて時を決めて行なう。
・決断:なすべき事を決心する。決心した事はかならず実行する。
・節約:他人や自分にとって有益なものを求め、時間の浪費はしない。
・勤勉:時間を無駄にしない。常に有益な活動に取り組み、不必要な行動はとらない。
・誠実:人に害を及ぼすような嘘はつかない。不正を考えず、正義に徹し、真実を語る。
・正義:他人に害を及ぼすような行為をせず、義務を怠らない。
・中庸:生活のバランスを保ち、憤らず、他人に寛容である。
・清潔:身体や衣服、住居を不潔にしない。
・平静:つまらないこと、避けられない出来事があっても取り乱さない。
・純潔:自尊心や人の信頼を傷つけるような、ふしだらな行ないは絶対にしない。
・謙遜:イエスとソクラテスに見習うこと。

 中国人だって、謙遜はしない。韓国人だって、インド人だって、みんなアグレッシブに自分を前面に出す。

 子どもがバカだというのは日本だけではない。イギリス首相だったチャーチルは息子の嫁パメラがフィアットのジャンニ・アニェッリと不倫し、それが報道された時、「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」とアニェッリを評したという。イタリアのマスコミは「第二次世界大戦の敵を討った」と報道した…。

 恐らく、こんなに謙遜するのは日本だけなのかもしれない(ま、そんなことはないはずだが)。いや、日本だけが謙遜して暮らせたということなのだろう。ほとんどが同じ民族、同じ文化で育っているから、「自分は…」と自慢することは必要なかったのだ。

 日米の礼儀の違いについて、僕はよく知っているでしょう、などとは絶対に言えないのである。

 井出祥子らの研究によると、英語の“polite”と日本語の「ていねいな」というのは意味合いが違うという。英語はrespectful, considerate, pleasant, friendlyであるのに対して、日本語は「敬意」「感じがいい」「適切な」「思いやりのある」という概念で表されるという。アメリカ人の考える「ていねい」は親しさ(friendly)に基づいているから、アメリカの店員はきさくで気軽に声をかけてくる。セールストークだって互いに平等だということを前提としている。ところが、日本では「お客さまは神様です」という感じになっていて、客に敬語を使わざるをえなくなっている。


 ここで全く違った話になる。妻自慢というのはやっぱり問題がある。幸い、わが愚妻に誉められる部分は皆無である。

 ヘロドトスの『歴史』には次のような話が出てくる。

 小アジアの王国リディアの王のカンダレスは自分の后をこの世で最高の美貌をもった美女だと思っていた。妻が美人となると人に自慢したくなるもので、カンダレス王も彼の腹心の部下であるギュゲスに后の自慢話をしていた。ところが、ギュゲスは思ったように関心を示さない。 カンダレス王はついに「私がいくら話しても、わたしの妻の美しさはお前に伝わらないだろう。人間は耳より目を信じるものだ。そこで、お前に妻の裸がどれほど美しいか見せてやろう」。ギュゲスはこの王の申し出に「女はその衣服と共に羞恥心も脱ぎ捨てるといいます。そのようなお姿を他人に見せることはいかがかと思われます」と言い、断ろうとしたが、断りきれず、とうとう王の言うとおり后の裸を見ることになってしまう。ギュゲスが王の寝室のとびらの陰に隠れ、后が服を脱ぐところを盗み見ることになるのだが、部屋の外へ出る時に、姿を后に見られてしまう。后はすぐにこれが夫の企みであると気づいて、その辱めを受けた報復に出る。翌朝、ギュゲスは后に呼ばれ、「夫を殺してリディア王となってわたしと結婚するか」「さもなくば、ここで死ぬか」と究極の選択を迫られる。カンダレス王は妻に恥をかかせたのと同じ寝室でギュゲスに寝込みを襲われて殺されてしまった。


ウィリアム・エッティ「妻がベッドに入る時、密かに大臣のひとりギュゲスに妻を覗かせるリュディアの王カンダウレス」

 ということがあるので、ゆめゆめ自慢はしないのである。

 ちなみにこの話はアカデミー賞を受賞した『イングリッシュ・ペイシェント』(脚本)でヒロインが披露し、映画の伏線となっていくのである。

 アラビアでは誰かの奥さんを誉めないものだとされる。相手の持ち物や調度品などをほめると、欲しがっていると受け取られる。間遠っても、奥さんを誉めてはいけない。都会では奥さんを誉めてもかまわないらしいが、特に地方に行って奥さんを誉めると、変な誤解を受けることがあるから注意しなければならない。奥さんの手料理を食べても「奥さんは御料理が上手ですね」とは言ってはいけないそうだ。特に夫人の美しさを誉めるのは御法度中の御法度だ(まあ、日本でも「奥さん、爆乳ですね」などとは誉めないようなものだ)。また、一部の年配者に物を誉めるとそのものに災厄がふりかかる、という邪視信仰が残っているので気をつけなければならない。

 言語学者のデヴィット・クリスタルの『言語学百科事典』(大修館)の中に、アラビアでディナーを誉めたら、相手が謝って、別の料理に取り替えられたという話が載っている。なぜか書いてないのだが、やっぱりアラビアでは相手の所有物を誉めてはいけない、ということなのか。調べてみると嫉妬心で「汚らわしい」ものになったと考えるからだという説もあった。

 日本の言語学では「面子」(face)がキーワードの一つになっている。話者は相手の面子を傷つけるリスクをできるだけ減らそうとしなければならないのだ。人間は面子を持った行為者であるというのは社会学者ゴフマンによるものだ。ブラウンとロビンソンがこれをポライトネス理論に採用して発展させた。彼らによれば、言語行動そのものが相手の「面子を脅かす行為」(Face Threatening Act, 略してFTA)として捉えられ、話者は相手の面子を傷つけるリスクを最小限にとどめるために。ポライトネスに応じた言葉づかいをすることになる。

 2つの面子があり、積極的(positive)面子と消極的(nagative)面子だ。前者は相手との仲間意識(solidarity)を共有して、親近感を保ちたいとするもので、手段としては「ジョークを言う」「相手をほめる」などがある。後者は「消極的ポライトネス」とも呼ばれ、「質問形」や「垣根表現」(相手との意見の違いをやんわりと述べる)を使用することがある。「本を貸して」といわずに「本を貸してくれる?」と言ったり、「ちょっと本を貸して」と「ちょっと」などをつける。垣根表現には「」「」などがある。

 褒め言葉は積極的ポライトネスの典型であるが、アラビアのように機能するとは限らない。サモアでもダメだという。男女の違いもあって、ニュージーランドでは女性どうしは容姿に関する褒め言葉を多用するが、男性が同じことをしては同性愛と誤解されるという。

 1803年に作曲されたベートーベンのソナタの中でも最高傑作とされる「クロイツェル・ソナタ」に着想を得て、トルストイは1888年に『クロイツェル・ソナタ』を書いた(マウリツィオ・シャッラ監督の映画にもなっていて空港に設定が変えてある)。

 トルストイの作品は長距離列車で偶然乗り合わせた乗客がヒマをつぶすために、それぞれの結婚観を述べ合う。「愛情にもとづいた結婚だけが真実である」、「いやいや、愛情に永続性などあり得ない」など議論が白熱する中でボーズヌイシェフ公爵という男が「自分は嫉妬のために妻を刺し殺した」と告白する。彼は社会的地位のある地主貴族で、性的欲望…つまり「肉欲こそが人間生活のさまざまな不幸や悲劇のもとである」として、自らの結婚生活と性に関するストイックな考えを披露して、嫉妬にかられて妻を殺すまでの苦悩と、その息詰まる惨劇の瞬間までを告白していく…。

 作品の巻頭に『マタイによる福音書』(5章28節)が引用されているように、トルストイは結婚制度そのものの欺瞞性、夫婦の愛情と憎悪の相対関係を指し示し、根底にある性欲を否定している。

 みだらな思いで他人の妻を見る者は、既にその女を犯したのだ、といったことが福音書に書いてありますが、これは何も他人の妻のことだけを言っているのではありません。まさに、いやなによりもまず、自分の妻のことだと思うべきなのです。…独身時代には禁欲を心がける者がいたとしても、結婚してしまえば誰もが、もはや禁欲は無用だと思うからです。そもそも、新婚夫婦が式の後、両親の許可のもとに二人きりで旅行に出かけるという習慣自体が、みだらな生活の容認の他ならないではありませんか。
   ---『クロイツェル・ソナタ』(望月哲男訳/光文社文庫)

 ということで、自慢するのはやっぱり止めよう。

 下手な文章でごめんなさい。

仲畑貴志(毎日新聞)
小さいところが、大きいのですね。

【2008年6月17日】


 

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