忘年会の憂鬱
外国にない日本

…日本人が煙草を咬(か)み、巻煙草を吹かして、西洋人が煙管(きせる)を用うることあらば、「日本人は器械の術に乏しくしていまだ煙管の発明もあらず」と言わん。日本人が靴を用いて西洋人が下駄をはくことあらば、「日本人は足の指の用法を知らず」と言わん。味噌も舶来品ならばかくまでに軽蔑を受くることもなからん。豆腐も洋人のテーブルに上(のぼ)らばいっそうの声価を増さん。鰻(うなぎ)の蒲焼き、茶碗蒸し等に至りては世界第一美味の飛び切りとて評判を得(う)ることなるべし。
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福沢諭吉『学問のすすめ』

 俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本獨特と言つていゝでせう。
 一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小(ちひ)ぽけなものを置いても一向目に立たない。
 俳句に進歩はないでせう、唯變化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勸工場のやうにゴタ/\並べたてたつて仕樣がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。
―明治四四、六、一『俳味』―  
夏目漱石「西洋にはない」


 11月半ばに民放のニュースで、日本のクリスマス・ツリーは早すぎるのではないか、という特集をしていた。中には10月末に飾るデパートもあるようで、欧米では11月末の感謝祭を終えてからというのが一般的らしい。


 忘年会のシーズンになった。実は忘年会が大嫌いだ。他人にはそうは見えないようで、信じてもらえないことなのだが、宴会というのが嫌いなのだ。幹事タイプだと思われているし、酒で話が弾みそうな人間に思われているらしいが、嫌いなものは嫌いだ。

 どうせ飲むなら2,3人でゆっくりおいしい物を食べて飲むのが好きだ。しかし、忘年会のような、不特定多数と飲むのは嫌いだ。「無礼講」だといいながら、無礼なことは許されないし、うっかり女性に絡んだらセクハラで職を失ってしまう。ふだんからよく知っている人と飲むのが最上だ。

 「宴会部長」が外国にいないか、というと、きっといると思う。シェイクスピアでいえばフォールスタッフがその典型で『ヘンリー四世・第一部』では次のように言う。

戦場にはいちばんあとから、宴会には真先かけてだ、
これが腰抜け武士と食いしん坊の守るべき掟だ。

 僕は今はなき東京教育大学の文学部に在籍していた。修士課程を出たところで大学はなくなった。最後の2年間はキャンパスにも人がいなくなって淋しいものだった。コンパは学生の控え室で行っていた。

 朝鮮語の河野六郎先生やヘブライ語、というか聖書学の関根正雄先生にも声をかけた。河野先生には同情するような視線で眺められた。一方、関根先生はかんかんだった。「だから日本人は成長しないんですよ。忘年といって毎年あったことを忘れてしまうからダメなんですよ。どうせならドイツ語のボーネン、つまり豆の会というならまだ意味があります」と叱られてしまった。

 ボーネンというのは英語の“bean”に相当する“Bohne”の複数形だ。先生がこんなにも怒るのは理不尽だと思えたが、18歳の時に内村鑑三の講義に感動して、無教会派になられ、聖書学を確立された先生からすれば当たり前の言葉だった。

「忘年会」という言い方は、漱石の『吾輩は猫である』や、内田魯庵の『くれの廿八日』に出てくるし、坪内逍遙、国木田独歩も、忘年会を題材にとりあげている。「年忘れ」の語は古く室町時代から見られるという。もとは年の暮れに、一年の労苦を忘れ、無病息災を祝うために親類や友人が集まって催していた。つまり、「自分の老いを忘れること」「年令の差を気にとめないこと」だったという。「忘年の交わり」というと「年令に関係なく親しくすること」だという。今では、職場、グループが中心になった。

 忘年会とは、それぞれの1年が詰まったビンの栓を抜くことかもしれない。泡が出るとは限らないが。

 英米にはないと考えられる「忘年会」を『ライトハウス』などにはa year-end partyと書いてあるだけだが、『旺文社』には説明でIn mid or late December, Japanese office workers have a special party called bonenkai which literally means a party for forgetting the year. Restaurants and bars are busy at this time. And late trains are crowded with drunken workers.と記載している。

 ただ、忘年会がないからといって年末がヒマだということでもなさそうだ。中島俊郎の『オックスフォード古書修行』(NTT出版)には「イギリスの年末は、早くも十一月に入ると堰を切ったかのようにパーティーにつぐパーティで、日本流に言えば『宴会モード』全開になる。予定表はパーティーのオンパレードである。パーティが仕事になってしまい、本来の仕事が趣味になるような逆転現象が日々にわたり起きてしまう」と書いてある。

 2019年には「忘年会スルー」といって会社の宴会を好まない若者が増えたと報道された。翌年はコロナで忘年会を開くのは亡国のように扱われた。

ぐるなび(東日本大震災の年)

今年、忘年会をやらないのはいろんな意味でよくない。

 日本人は積み重ねない。何でも忘れていく。江戸文化も、戦争も、地震も、テロも、原発も、反省しないし、責任も取らない。ひたすらすべて忘却の外である。

 私の国の戦後は、人間心理の無意識な実験のようである。
 どれだけ歴史を忘れてやっていけるか。
 その実験が、六十年以上経って、失敗とわかりはじめた。
     -----赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』

 日本人やアメリカ人は何でも新しいものを喜ぶ。万葉集にも「物皆は 新しき良し ただしくも 人は奮(ふる)きし 宜しかるべし」(10巻1885作者不詳)とある。西欧人が古いものに価値を置くのと真逆である。映画『旅情』でキャサリン・ヘップバーンが「イタリアでは、歳を取ることは財産が増えるというのよ」と諭されるシーンがあるが、日本人は年寄りを大切にしない。

 典型的なのは伊勢神宮の式年遷宮である。遷宮は20年ごとに行われ、新しく建てられた隣の社に遷る(技術の継承という意味もある)。出雲大社は60年に一度だ。大体、神棚の神様は新年に取り替えられる。1年こっきりの神様!リセット文化なのである。

 一方、古代ギリシャ人は大理石で神殿を造った。彼らは永遠の美、すなわち不変の美を求めた。同様に西洋の教会は数世紀もかけて大聖堂を作る。計画した人は自分が完成したカテドラルを見ないことが分かっていて、仕事をはじめる。ケルンの大聖堂は1248年に着工され、完成したのはなんと1880年だった。600年以上もかけて、人はコツコツと積み重ねていった。バルセロナのサグラダ・ファミリアはガウディの死後100年の2026年に完成の予定だが、基本部分だけなのだ。

 日本が木の文化なら、西洋は石の文化だ。組み合わせと積み重ねの違いがある。薬師寺東塔とゴシックの大聖堂の違い。

 山折哲雄がさまざまなところで書いていることは日本人の世界観の特徴は無常観だという。無常には、三つの考えが含まれている。この世に永遠なるものは、何一つ存在しない。形あるものは、必ず壊れる。人は生きて、やがて死ぬ。以上の3原則で、これを否定することは誰もできないだろう。まずは疑うことの出来ない客観的事実であるという。ユダヤ・キリスト教文明、アングロサクソンによって形成された西欧社会はそういう考えを積極的には受け入れない。彼らのグローバリゼーションによって怒りの神も愛の神ももたないわれわれ自身のエートスが試されているともいう。

 小泉八雲は「地震と国民性」という新聞の論説(明治27年10月30日)の中で、日本人の国民性は地震国であることに根ざしていると書いている。根気、忍耐力、さらには中国や西洋の文明を巧みに取り入れるその順応性まで地震から生まれるという。確かに、いつ地震に襲われるともしれぬ日本人は長持ちする建物を建てない。こうした永続性にこだわらない社会は常に変化しやすく、外来文明も受け入れやすかったという。また、日本の古城の石垣がセメントで固めることなく、地震の震動でますます密になるよう積まれているのに注目している。石の積み重ねとは違うのである。とはいえ、同じ地震国であるイタリアには堅牢な石の文化があるのをどう説明すればいいのだろう?

 同じく、寺田寅彦は昭和10年の「日本人の自然観」に「鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁(ひんぱん)でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである」と書いている。無常感というと平家物語だが巻十二に「悲しかりけるは大地震なり。鳥にあらざれば空をも翔(かけ)りがたく、竜にあらざれば雲にも又(また)上りがたし」とある。

 統計によれば、記録にある世界の大地震の2割、噴火の1割が日本で起こっているという。自然災害のリスクが他国の平均の数十倍である。

 駐日大使をつとめたフランスの詩人ポール・クローデルも「自分たちが、実は葉叢(はむら)や花々の下で半ば眠っているキュクロペス(ギリシャ神話の巨人)に迎えられた客であることを理解したのである」と書いている。関東大震災に遭遇して「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず何か大災害にさらされた日本は、地球上のどの地域より危険な国であり、つねに警戒を怠ることのできない国である」(『朝日の中の黒い鳥』講談社学術文庫)という。

 ナチスによって徹底的に破壊されたワルシャワの街(『戦場のピアニスト』の最後の場面を見れば分かります)は戦後、昔のままに再現されたのだが、木でできている日本の街とはつくづく違う、と思う。当然、過去へのこだわりも違ってくるのだ。

 聖書の解釈学も積み重ねだ。古い注も否定せず積み上げていく。日本は座談会で代表されるように、その場限りの批評だ。

 岩田靖夫は『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)の中で次のように書いているが、思想も石造りなのである。

 ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシャの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、二〇〇〇年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパ哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざまな形態におけるそれらの化合変容である。

 第一の礎石であるギリシャ思想の本質とはなにか。それはまず、人間の自由と平等の自覚である。【…】

 では、第二の礎石であるヘブライの信仰の本質とはなにか。【…】その信仰の基本は、第一に、唯一の超越的な神が大地万物の創造主であるという点にある。

 ギリシャ思想やヘブライ信仰と違って、日本の神道には教義すらない。元号も何か不吉なことがあると改元=リセットされた。簡単に忘れてリセットすることは伊勢神宮の遷宮などから始まる日本文化の特質だ。ちなみに、フランク・ロイド・ライトは「私はついに発見した。この地球上には自然のままの簡素さを最高とする国があることを」(At last I had found one country on earth where simplicity, as natural, is supreme.)と言った。

秋山晶(サントリークレスト12年)

時は流れない。それは積み重なる。

 渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房)は幕末期から明治にかけて日本を訪れた外国人の日記を調べた名著だが、立ち直りが早いのにも注目している。カッテンリーケは「日本人の死をおそれないことは格別である…肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう」というし、マーガレット・バラも「いつまでも悲しんでいられないのは日本人のきわだった特質の一つです」という。イギリス人ディクソンが次のように語るのも会社の忘年会でにこやかに飲んでいる日本人をみていると理解できる。「西洋の都会の群集によく見かける心労にひしがれた顔つきなどまったく見られない。頭をまるめた老人からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群集はにこやかに道垂れている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」。

 司馬遼太郎は『街道をゆく30 愛蘭土紀行1』(朝日文庫)で次のように書いている。 

 いわば日本じゅうが、“普請中”という落ちつかない家の中に住んでいる。このため、秩序ある美しさにあこがれる若い娘たちは、安定期をむかえた---たとえば国内では京都や津和野のような---よその家をのぞきこみする旅をよろこぶ。彼女たちのヨーロッパ旅行も、基本的にはそういう心理にちがいない。

 内田樹も同様のことをブログに書いている。日本人だけだという。

「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。
「すべてチャラにして、一からやり直そうよ」と言われると、どんなことでも、思わず「うん」と頷いてしまうのが日本人の骨がらみの癖なのである。
「維新」といわれると思わず武者震いし、「乾坤一擲」とか「大東亜新秩序」とかいうスローガンに動悸が速まり、「一億総懺悔」でも「一億総白痴化」でも「一億総中流」でもとにかく「一億総」がつくとわらわらと走り出し、「構造改革」でも「戦後レジームからの脱却」でも、とにかく「まるごと・一から・刷新」と聴くと一も二もなくきゃあきゃあはしゃぎ出すのが日本人である。
それはそれまでの自分のありようと弊履を捨つるがごとく捨てるのが「自分らしさの探求」であり、「自己実現」への捷径であると私たちが信じているからである。
繰り返し言うが、こんな考え方をするのは世界で日本人だけである。
私はそれを「属邦人性」と呼んでいるのである。
私はこの日本人の腰の軽い属邦人性のうちに日本人の可能性と危険はともに存すると考えている。
可塑的であるというのはよいことである。
だが、ことの功罪を吟味せずに「・・・はもう終わった」で歴史のゴミ箱になんでもかんでも捨ててしまうのは愚かなことである。
というわけで私がこの数年ご提案しているのは、「『・・・はもう終わった』が理非の判定に代わる時代はもう終わった」というものである。
私以外にそんな性根の悪いことを言う人間はいないはずなのであるが、最近のメディアの論調を見ていると「『・・・はもう古い』という言い方はもう古い」とか「何かにつけことの善し悪しを簡単に決めつけるのはよろしくない」というような措辞が散見されるのである。
こういう背理に直面する以外に私たちは自分には背理に耐える論理がないという事実を知ることができないのである。
知っていきなりどうなるというものでもないが、知らないよりはずっとましである。

 最後に一つ。遷宮をするのはいつも新しさを保っておくだけの意味を持っているのではない。ピラミッドにしろ、パルテノンにしろ、どうやって造ったか誰にも分からなくなっている。ところが、ちょうど一世代の20年ごとに造られる伊勢神宮は完成した年から次の遷宮に向けて職人たちが技を磨いていく。つまり、技の継承という意味でこれほど合理的な方法はなかったのである。文化大臣にもなった作家アンドレ・マルローは伊勢神宮について、過去を持たず現在でもない、必滅でありながら不滅なものと述べて、石造りの大聖堂よりもピラミッドよりも力強く永遠を語る、と絶賛している。

 もう一つ。『蝶々夫人』で999年契約(西洋では永遠を表す)で借りた丘の上の家について、障子と襖で仕切られている木造の家を見て、ピンカートンが「吹けば飛びそうだ」と心配するのに対して、周旋屋が「自由に開け閉めできて、同じ部屋でも好きなように模様替えが可能です」という。布団も含めて、日本の暮らしの方が合理的ではある。

 花見の桜だって同じだ。古今集に「もゝちどりさへづる春は 物ごとにあらたまれども 我ぞふりゆく」のがあって、春はいろんなものが新たになるが私だけが古びてゆくという意味だが、春はリセットできる季節だからめでたいのだ。

 日本人は新しい事件が起きると1億人総評論家になってしまうが、すぐに忘れ去って、教訓として残すことが少ない。

 自己の文化をも消費していくだけで何も残さない。あらゆる事象を貪欲に消費しつくすことを村上春樹は「文化的焼き畑農業」と呼んでいる。

 【…】かくかように、新聞からビールの銘柄に至るまで、ここ(プリンストン大学周辺)では何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。【…】
 でも、「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、考えようによってはなかなか悪くないものである。とくに日本みたいな「何でもあり」という仁義なき流動社会から来ると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。【…】
 でも日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ、歌舞伎だよ、という風にどうしてもなってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が想像に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争にはもともと関わってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼き畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらく草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っている創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムを掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映るということだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。
     -----村上春樹の『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)

 寺山修司は人には2種類あるという。「地理型」と「歴史型」だ。地理型は移動によって出会いの度数を増やす。歴史型は1カ所に留まり、反復と積み重ねを増やす。『旅の詩集』も編んでいる寺山はもちろん、地理型である。

 ちなみに、日本のような温泉というのも外国にはない。湿度が違うこともあるが、入浴自体あまりしないようだ。日本の温泉の熱さに馴れない外国人も多い。東大の先生だったベルツの日記には「草津【温泉】には、無比の温泉のほかにも、日本で最上の山の空気と全く理想的な飲料水が有る」と書いているように、飲むことが基本だった。ローマ時代にはカラカラ浴場などが隆盛したが、塩野七生の「ローマ人への20の質問」(文春新書)の「質問6 古代のローマ人と現代の日本人の共通点」には次のようだ。

 第一は大変な入浴好きであったことです。しかも、シャワーを浴びる程度では満足せず、浴槽に張った湯にどっぷりと体全体を沈ませないと、入浴したという気分になれなかったのが古代ローマ人でした。【…】また、入浴の仕方も違った。浴槽の中で洗い、それが終われば湯水を流すという欧米式ではありません。たっぷりと湯水の入った大きめの浴槽はからだを温めるためで、洗うのはその外のモザイク張りの床でしていたのです。この方法を厳密に守ったのは、先にローマ人、後に日本人としてもよいくらいです。

 調べてみるとウラジミール・クリチェク『世界温泉文化史』(国文社)というのがあって、中世にはブルジョワの成長とともに公衆浴場が作られてコミュニティ・センターの役割も果たした。15世紀には長くつかるほどよいとされて、お湯の中で飲み食いして、溺死も多かったようだ(現代日本でも多いのだが)。17世紀後半からはつかるものではなくて飲用療法が主流となった。尿の色がお湯の色と同じになるまで飲むのがよいとされて、歩数計ではなく杯数計をぶら下げて散歩したという。裸のつきあいではなかったので、温泉がリゾート化して社交界となり、さまざまな芸術が花開いたという。マリエンバードやバーデンバーデンなど有名な温泉地がある。西洋だと水着を着て入るところも多い。水着を着てどうして生まれ変わることができようか。

 クルーティエの『水と温泉の文化史』(三省堂)には次のような記述もあった!

 衛生観念は史上最低のレベルにまで落ち込み、それが一九世紀になるまでつづいた。カステイリアのイザベラ女王などは生涯に二度しか入浴しなかったことを誇りにしてさえいた。その二度とは、誕生のときと結婚の前である。入浴の代わりに、人々は香水や化粧品を使った。

 フランス人の衛生観念について、鹿島茂も『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)で次のように書いている。

 しばしば、フランス人は二十世紀の初めまで風呂に入る習慣がなかったといわれる。たしかにそのとおりで、第二次大戦後でも風呂付きホテル、風呂付きアパルトマンのほうが少数派だった。

 しかし、こう書くと、フランス人はアカがたまった不潔な状態でも平気だったのかと思われそうなので、ひと言つけ加えておくと、フランスのホテルやアパルトマンには風呂もシャワーもなかったが、身繕い用の道具はあった。大きな水差しと金だらい、それに水汲み用のバケツである。この三点セット、ないしはこれに小さな水差しを加えた四点セットがありさえすれば、フランス人は風呂などなくともじつに起用に身繕いができたのである。【…】

 つまり、フランス人にとって身繕いとは濡れたタオルで体をぬぐうことだったのである。【…】

 しかし、これでは、どうしても下半身の衛生が疎かになる。ビデがフランスの家庭に普及したのは、この不便を解消するためだったと思われる。すなわち、ビデは避妊用ではなく、あくまで衛生が目的のもので、男もこれを使ったのである。

 そりゃそうだ。何かをしてあげようという時にあそこが発酵ダイオードだったら引いてしまう。

 ルース・ベネディクトは『菊と刀』(教養文庫)で次のように喝破している。

 日本人の最も好むささやかな肉体的快楽の一つは温浴である。どんなに貧乏な百姓でも、またどんなに賤しいしもべでも、裕福な貴族と全く変わりなく、毎日夕方に、非常に熱く沸かした湯につかることを日課のひとつにしている。最もありふれた浴槽は木製の桶で、その下に炭火をもして華氏一一〇度またはそれ以上の温度に保つ。人びとは湯ぶねにはいる前に身体中をすっかり洗い清める。それから湯につかって温かさとくつろぎの楽しみに身をゆだねる。彼らは湯ぶねの中に胎児のような姿勢で両膝を立てて坐り、顎まで湯につかる。彼らが毎日入浴するのは、アメリカと同じように清潔のためでもあるが、なおそのほかに、世界の他の国ぐにの入浴の習慣には類例を見いだすことの困難な、一種の受動的な耽溺な、芸術としての価値を置いている。この価値は、彼らの言によれば、年を取るにしたがってしだい増大してゆく。

 これが現在までに連なっているから、今の西洋人はつかる温泉のよさを知らない。でも、温泉に連れていかれると(裸のつきあいなど)最初は抵抗があるようだが、すっかりはまってしまうことになるのだ。

 宇宙飛行士の野口聡一が2010年に163日の宇宙滞在を終えて帰還した後、初の記者会見で地球に戻ってよかったと感じたことは、の問いにこう答えた。「水ですね、水。流れる水、これはいいですね。水が流れているっていうことのありがたさというものを実感します。飲む水もそう、体に浴びる水もそうですが」。

 古代ローマと現代日本をタイムスリップするヤマザキマリの漫画『テルマエ・ロマエ』が出るのは必然だった。

 教育大で忘年会(コンパも多かった)をする時は池袋西武へ買い物に出かけていた。今では「デパ地下」というのは当たり前になっているが、当時の西武の地下は他のデパートを凌駕していた。駅弁大会と美術展が一緒に行われるような日本の「デパート」そのものが日本的であるが、この「デパ地下」というのも日本的なものである。フランスなどでは結婚の贈り物にリスト・ド・マリアージュ(英語ではbridal registry)という「新婚にほしい一覧表」ができて、地下1階はこのリストのための贈答品を並べておくフロアになっている。

 デパートはフランス発祥だが、日本みたいに美術館があったり、その側で北海道展をやっているデパートはない。日本式の「おもてなし」もない。あんなにきれいな、無料の包装もない。風呂敷もない。武田百合子の『犬が星見た』にはこんな会話がある。「ロシア人は風呂敷を見ると不思議に思うんですね。物を包むためにこんな美しい布を使うなんて、理解出来ないことなんです。プラトークといって、こういう四角い布を頭にかぶって使いますから。繊維品が高いし、布の種類も少ないですし」。確かに!

 花見も外国にはない。イギリス人に「どうして桜の木の下に酔っ払いが集まるのか」と聞かれたことがあって「桜の花の下でみんな酔っぱらうのですよ」と答えたことがある。日本人は自然に神を感じることができる人間なのだ。もちろん、花見がなくてもピクニックはある(ハイキングは食事を伴わない)。マネの「草上の昼食」にも描かれているように、自然に触れながら食事をすることはあるが、花見のように飲んで大騒ぎはないだろう。「西行桜」という世阿弥作の能もある。西行が「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」と都の外れにある住まいの桜には来るなと言ったにもかかわらず大勢集って困ると歌った。その夜、夢の中に老人が出てきて「花に罪はない」と訴える。西行は桜の精だと気づいて納得し、老人が春の宵を惜しみつつ舞をまう、風雅な時間をすごす。

 考えてみれば、シュールな落語「頭山」(上方では「さくらんぼ」)も花見が原因だ。

 騒ぐのは江戸時代かららしくて、落語にもいろいろ出てくる。芭蕉にも「花に酔へり羽織着て刀さす女」という俳句がある。つまり、カーニバル的(祝祭的)なお祭りだったのである。芭蕉には「さまざまの事おもひ出す桜かな」という、故郷の伊賀上野で吟じた俳句もある。

「桜」  杉山平一

毎日の仕事の疲れや悲しみから
救はれるやう
日曜日みんなはお花見に行く
やさしい風は汽車のやうにやってきて
みんなの疲れた心を運んでは過ぎる
みんなが心に握ってゐる桃色の三等切符を
神様はしづかにお切りになる
ごらん はらはらと花びらが散る

 明治に来日した米国の女性旅行家E・R・シッドモアは『日本・人力車旅情』(有隣堂)の中で、開花を待つ人々の盛り上がりように「桜のつぼみが顔を出し、膨らみ、徐々に花開く、これは一般大衆の主要な関心事である。だから地元紙は、開花予想など桜の名所からの速報を毎日つたえる」「向島の祝宴は隅田川東岸に2マイル以上続く道、その両側にずらり並んだ桜の木の下で繰り広げられる」と書いている。醜態についても「向島のカーニバルは、古代ローマ人そっくりなことを示しているのが、この春の酒宴である。男らが踊っている。全員が俳優、弁士、パントマイム役者なのだ」と苦笑している。彼女は友人のタフト米大統領夫人ヘレンに、殺風景だったワシントンのポトマック河畔に日本の桜を植えるよう提案した(「パリのブローニュの森、フィレンツェのカシネ公園、ベルリンのティーアガルテン公園といっても、花の日曜日の上野にはかなわない」とも「秋の日本こそ典型的な地上の楽園だ」とも書いている)。高峰譲吉が賛同して桜200本を送ったのだが、虫害や病気でやられていて廃棄された。しかし、外務省が横浜植木株式会社に頼んで3000本を水苔で根を包んで送って、首都に花咲いたのである。代わりに贈られたのが花言葉に「返礼」がある北米原産のハナミズキ(dogwood)だった。

 黒川伊保子『日本語はなぜ美しいのか』(集英社新書)には次のように書いてある。

「サクラ(桜)」と「Cherry blossoms」は同じものだが、両者の印象、イメージはかなり異なってくる(傾向がある)。 サクラSaKuRaは、息を舌の上にすべらせ、口元に風を作り出すSa、何かが一点で止まったイメージのKu、花びらのように下をひるがえすRaで構成された語である。つまり、語感的には、風に散る瞬間の花の象を表す名称なのだ。 あの花を「サクラ」と呼ぶ私たち日本人は、散り際を最も愛する。桜の枝に風が吹きぬけ、はらりと花弁がひるがえったとき、私たちは、その花びらを目で追わずにはいられなくなる。

 白幡洋三郎は『花見と桜』(PHP新書)の中で、「花見は日本以外にはない」という。平安の812年の昔からある「桜狩」が江戸時代に民衆娯楽化して今に続いているものらしい。「花」は万葉集では埋めだが、『古今和歌集』では桜に代わった。花を見て騒ぐというのは外国人には理解しがたいらしい。白幡は花見の三要素を「群桜」「飲食」「群集」と定義していて、外国には桜があっても「群集」がない、ことに「飲食」がないようだ。新しいところでは、おそらく日本の影響を受けているのだろう、バリー・ユアグローの『ケータイ・ストリーズ』(新潮社)に「桜」(Cherry Blossoms)という短篇があって、ここでは女の子が花見の桜になってしまう(まるで「あたま山」みたいだ)。コンドンが『異文化間コミュニケーション』で花見の写真を見せたら桜に注目する人はほとんどいなかったという。「何が写っている?」と聞くと「靴!」と答えたというが、靴を脱ぐ行為が珍しいからだろう。

人を見ん櫻は酒の肴なり---正岡子規

 花が散ってこそ、無常感がいやほどにも増す。西行には「あくがるる心はさてもやま桜ちりなむのちや身にかへるべき」(桜に焦がれる心は止められないが桜が散れば身体に還るだろうか)というのがある。さらに「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ」というのがあって、願いが叶って旧暦では2月15日(満月)の頃で太陽暦では三月末なのだが、旧暦2月16日に没した。

 広辞苑には「空に知られぬ雪」という項目があって「散る桜の形容」だという。富山出身の国語学者の山田孝雄(よしお)は『櫻史』の中で、文学作品の中に出てくる桜を通観しているが、日本人は「一個一個の花房」ではなく、「無数の花の集合」に美しさを見てきたというが、散り際がいいというのは案外新しく、近代になってからだという。考えてみればソメイヨシノというのが正式に命名されたのは1901年で、それまでの主流はヤマザクラだった。「創られた伝統」がときに危険をはらむこともある。幕末に誕生したソメイヨシノがきっかけで「パッと咲いてパッと散る」という新しい美意識が生まれて戦意高揚に利用されたのだ。

散つた櫻散る櫻散らぬ櫻哉---正岡子規

たたかひに果てにし子ゆゑ、身に沁みて ことしの櫻 あはれ 散りゆく---釈超空【養子が硫黄島で戦死】

「さくら」 茨木のり子『詩集 食卓に珈琲の匂い流れ』

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳くらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しいとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふらふらと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

 しかも佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(岩波新書)によると、開花時期の異なる桜がいっぱいあって、1カ月くらいは花が楽しめた、つまり、「散り際の美学」などというものはずっと後になってからだったというのだ。志村ふくみは『一色一生』(求龍堂)で「その時はじめて知ったのです。桜が花を咲かすために樹全体に宿している命のことを、一年中、桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯めていたのです」と書いている。なるほど、耐えて咲いて散る「忠臣蔵」は桜と同じ構造だと分かる。軍歌に多いのも分かるような気がする。しかし、ソメイヨシノ普及以前にはそんな「伝統」はなかった。佐藤俊樹は「ソメイヨシノ革命」といって伝統はヤヌスの2つの顔だという。藤野奇命(きめい)が命名するまでソメイヨシノは「吉野桜」と呼ばれていたらしい。構築主義的な話でもある。

…吉野桜の名で広まったというのは、「吉野桜」として受け入れられたということでもある。ソメイヨシノニは「これこそ吉野の桜だ!」と思わせる特別な何かがあったのだ。
 吉野桜が普及する前に、「吉野の桜」という言葉が日本語の世界で普及していた。そういう名の地層、想像力の地層の上に、ソメイヨシノは根づき、広まっていったのである。現代ふうに言えば、書物や口づてといったメディアによる想像の拡大があり、その後に現実が遅れて出現した。ただ由来をごまかして売りつけたのではない。【…】
 吉野の桜は多くの歌や詩に詠まれたが、詠んだ人が実際に見たとはかぎらない。西行みたいな人はむしろ例外で、「吉野の桜」は現実のサクラを表す言葉ではなく、一種の記号として使われ、語られてきた。それを実在する特定の桜に結びつけたがるのあh、近代人の悪い癖である。

 歌謡曲などにも桜を詠った曲が多い。日本人は桜に感情移入しすぎる。坪内稔典(としのり)の「桜散るあなたも河馬になりなさい」あたりで脱力すべきである。

 そうそう、チェーホフの『桜の園』(Вишнёвый сад)だって花見用の桜ではなくてサクランボ用の園なのだ。トルコを旅行した時もあちこちに桜が咲いていたが、サクランボ用だということだ。そりゃ、そうだ。金にもならないものを誰も植えない。英語でもわざわざ“cherry blossom”といわなければサクランボになってしまう。

 運転手が日本人だったせいもあって日本人びいきだったチャップリンは自宅に桜を植えていた。遺体を「誘拐」した犯人たちの映画『チャップリンからの贈り物』では娘で女優のジェラルディン・チャップリンが「さくら」という日本語を使って説明している。庭師は枯れていると思っていたのだが、チャップリンは信じずに、一番見やすいところに桜の木を移し替えたという。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 『伊勢物語』(第八十二段)の有名な「渚の院」のくだりで、惟喬の親王(これたかのみこ)が水無瀬(みなせ)の離宮へ桜狩りに出かけた時に、お供をした在原業平が桜の木のもとで詠んだ歌であるが、もうひとりが、こう応じたという。

散ればこそいとど桜はめでたけれ憂(う)き世(よ)になにか久しかるべき

 花見もなければ、紅葉狩りもない。何しろ、日本ほどの彩りの紅葉はどこの国にもないからだ(カナダなどは一色になることが多い)。

 2020年には中国で夏祭が盛んになってきたという報道があった。露店があって、踊りがあって、浴衣の貸し出しまであって、もろ日本の文化を引き継いでいるという。

 ロビン・ギルは『私の見た日本人』の中で「四季狂い」だという。6月半ばの暑い日に海水浴に日本人を誘ったら「まだ7月1日じゃない」と反対されても海岸に行ったら誰もいなかった。海開きの日に行ったら肌寒かったのに大変な人出だったという。

「散る桜 残る桜も 散る桜」-「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」--良寛

 月見も外国にはない。月見ウドンも、月見カレーも、月見バーガーもない。中国はもちろん、月を愛でるが、西洋人にとって月は不気味なものの象徴だから、見ないのである。日本でも『竹取物語』に月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があるから、中国文化が入る前と後では異なるのだろう。

 小林秀雄に「お月見」(『真贋』)という短いエッセーがある。ある人が京都の嵯峨で月見の宴をしたところ、たまたまスイスから来た客人が幾人かおり、その一座の雰囲気がどうしても理解出来なかったという。そのうちの一人が、今夜の月には何か異変があるのか…と茫然と月を眺めている隣の日本人に、怪訝な顔つきで質問したという。

 この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方がコソとなって育って来た、といえば、これはまず大概の人々が納得している事だろう。ところが、近代化し合理化した、現代の文化をいう場合、そんな話を持出すと、ひどく馬鹿げた恰好になる。何か全く見当が外れた風になるのはどうしたわけか。細かな感受性の質などには現代文化は本当に何の関係もないものになってしまったのか。それとも、そんな風な文化論ばかりが流行し、文化に関心を持つと称する人々が、そんな文化論ばかりを追っているという事なのか。

 意識的なものの考え方が変っても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。新しい考えを学べば、古い考え方は侮蔑出来る、古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方が得られる。それは無理な事だ、感傷的な考えだ、とやっとはっきり合点出来た。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、随分手間がかかった事になる。妙な事だ。

 田丸公美子の『目からハム』(朝日新聞出版)にはこんな話が出て来た。

 伊東豊雄氏とエットレ・ソットサスという日伊建築界の巨匠対談の時のこと。
「日本の美意識は咲くとすぐ散る桜の花に象徴されます。私たちははかなさを愛でる国民なのです」
 伊東氏のこの発言に、ソットサスは眉ひとつ動かさずにこう応えたのだ。「そうだな、桜の開花は射精みたいなもんだからな。いいのはほんの一瞬だ」

 なんたって、相手はイタリア男!「ごまをする」ことを「尻をなめる」と言っちゃう国からきた男だ。「射精」ごときでひるんでは通訳になれない。こんな美意識の人に桜の散り際の、潔さなんて説明できない。ちなみに、「目からハムが落ちた」(うろこのように薄い生ハムを想像してください)というと「目からうろこ」に相当し、「目にハムを持つ」というと、「ものごとの本質が見えない人、理解力に欠けた人」の意味だという。

 学校の授業だって全然、世界と違う。日本では体育があるが、フランスにはないとされる。水泳はほとんどの国で行われず、日本では1955年の宇高連絡船の紫雲丸沈没事故で168人が亡くなったことから始まった。2014年に韓国でセウォル号沈没事故があったが、学生はもちろん、水上警察の多くの救助するべき人も泳げなかったとされる。

 音楽だって、日本は日本だけじゃなくて西洋音楽をきちんと学ぶが、外国はそうでもなくて、旅行客の国の歌を歌ったりするとみんなびっくりする。

 日本には「弁当文化」がある。エリザベス女王が来日してお伊勢参りに行った時、行程の都合で幕の内弁当を出されたのだが、その見事さに感嘆したという話を丸谷才一が書いていた。駅弁(空弁、速弁など)がそうだし、コンビニ弁当というのもそうだ。「キャラ弁」というのもまさに現代日本文化の表象だ。40年ほど前に読んだ日系ハーフとアメリカで結婚生活を送っている教師が子どものランチを見たら人参がごろんとか、リンゴ1個とか、御飯に納豆がのっけてあったと書いてあって笑ってしまった。納豆はアツアツの御飯にかき回したばかりのものをかけるからおいしいのだ。彼は日本人と結婚したら、女性が勝手に日本人に戻ると思っていたらしい。

 俵万智は『ちいさな言葉』(岩波)で書いている。

 ベルギーから来た人を大相撲に連れて行ったとき、一番感激していたのが幕の内弁当だった。「これをベルギーへのお土産にしたい」と言い張るので困ってしまった。デンマークから来た友人も、日本で一番驚いたのは「三六五日のお弁当」という本だと言っていた。「私たちは三六五日、黒パンに鰊(ニシン)ときゅうりを挟むだけだから」。

 駅弁の本を出した友人も、ニューヨーカーに言われたそうだ。「おまえらクレイジーだ。やってることの意味がわからない!」

 21世紀に入ってから“bento”は世界の言葉になった。吉野椰枝子『おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?』にはホームステイしていた外国人が一番喜んだのが手作りのお弁当だったと書いてある。みんな漫画で知っていて憧れだったのだ。『アニメーション文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房)の「食文化」の項目には次の記述があった。

 代表的なものは日本の学園ものに登場する弁当のシーン。海外のアニメファンにとって、限られたスペースに御飯やおかずを美しく詰めた“BENTO”は、その実在が信じがたいアイテムだったようだ。弁当箱の中にある、おにぎりやタコの姿に加工されたウィンナーといった個々の食べ物も実在のものとは思わなかった人が多かったらしい。海外へ作品が輸出されたことで「日本の弁当文化」と「アニメというフィクションの世界」が結びついて新たな文脈が生まれ、“BENTO”が“ANIME”というフィクションの様式を象徴するアイテムとなったのだ。

 ヤマザキマリも同じ思いを抱いていたという。更にフランスでも「駅弁」が売られるようになった。

 日本人のマスク姿も珍しい(来日客が増えたから変わってきた)。だから、3・11の時にマスク姿の日本人の写真が出て放射能から護っているという内容で紹介された。3月は花粉症のシーズンなのだ。花粉症を知ったのは『七年目の浮気』(1955年)である。英語では“hay fever”とされ、干し草から生まれると考えられた。その後、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』(1889年)の冒頭にも“hay fever”が出ていることを知る。丸谷才一の訳では「乾草熱」になっていたが、光文社から新訳が出て「花粉症」になった。フランスでも“le rhume des foins”(干し草風邪)というようで、ごく最近ではマスクをする人も増えてきたらしい。

「白妙の/マスクの民は/かがなべて/花粉に春を/涙せる/もののあはれに/鼻垂(た)りて」
「一本の杉の花粉は渦巻き銀河のごとき天文学的数字」
「杉山の花粉は山に山火事のけむりのごとき打ち靡(なび)く見ゆ」
「日本の復興に貢献するべくもなく適材適所の適所あらなく」
     -----花山周子『歌集 林立(りんりつ)』

 バキュームカーも外国にはない。村野まさよし『バキュームカーはえらかった』(文藝春秋)によれば、1951年、川崎市が全国に先駆けて開発・導入し、その後、衛生的であるとの理由で全国へ普及したとされる。そりゃ、そうだ。欧米は下水が完備していたからだ。日本に不要だったのはリサイクルが江戸時代からしっかりしていたからで、エコロジー満点の都会だった。GHQの命令で厚生省が試作したものに、使いものにならず、無理矢理、川崎市が買い取らされ、職員が改造に乗り出して今の形のものができたのだ。とはいっても、バキュームカーを知らない子どもたちも増えてきた。

 「アナウンサー」という職業もないことに気づいた。日本の局アナはニュースからヴァラエティまで何でもこなすが、外国ではそれぞれが専門になっていて、「キャスター」とか「アンカー」と呼ばれるのだ。お笑いをやっているアナウンサーがニュースを読んでいると信用できないという。恐らく宮根のようにワイドショウを2局で出ている人はいないだろう。

 松岡正剛は『日本という方法』(NHK)などで、日本の方法として「苗代」の方法、間接話法、部分の重視を主張する。「苗代」こそ、きわめて日本的な方法であり、徳川社会において「苗代」を確立していた。「苗代」とは、いったん苗代という仮の場所に種をまいて、ちょっと育て、その苗を田んぼに移し替えていく。それから本格的に育てるという方法であるという。

 つまり、時代、時代の一番おいしい文化から、日本に根付く部分だけをうまく摂取するのが得意だというのだ。

 日本製品の多くがガラパゴス化しているので、外国人は見てびっくりするものが多い。百均は彼らにディズニーランドかもしれない。

 どの映画か忘れたが、ビートたけしがビニール傘を差して出た時に、これは一体、何なのだと外国人が騒いだという。イギリス人なんか雨が降っても傘を差さない男が多いのに、驚いたのだろう。

 日本の都会の無秩序さには驚く。馬場あき子には「都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ」(『世紀』)という短歌があるくらいだ。しかし、東京の方がきれいというフランス人だっているのだ。


 『逆欠如の日本生活文化―日本にあるものは世界にあるか』(思文閣出版)という本がある。「欠如」とは「外国にあるものが日本にはない」というものの見方であり、「逆欠如」とは「日本にあるものは外国にもある」というものの見方で園田英弘が理論化したものである。この本では華族、魚肉ソーセージ、芸者とホステス、花見、名門女子大(ブリンマー、ヴァッサー、ラドクリフ=ヘレン・ケラーや『ある愛の詩』のヒロインの大学でハーバードと統合している)などいっぱいあった・あると思うし、『お熱いのがお好き』ではトニー・カーティスがブリンマーの名前が出た後に「名門大出の女性の悲劇を知ってる、友達を裏切ってブラジャーで絞め殺された」なんてセリフがあるくらいだ)、連れ残業・天下り、志向など14人の論客が蘊蓄を披露している。

 とはいえ、外国にない、という証明は「悪魔の証明」になってしまうので、ここでは「知っている限り、外国にない」ということにならざるを得ない。 というのも『永遠のこどもたち』というスペイン映画では“1,2,3 toca la pared. ”という遊びが冒頭に出てきて、意味は「1,2,3 壁にタッチ!」なんだけど、日本の「達磨さんが転んで見た」と同じ遊びで、この中では重要な役割を果たすのだ。「見猿聞か猿言わ猿」なんていうのも外国にあるし、「孫の手」だって中国の仙女の「麻姑」に由来する。

 誰でも、外国旅行をすると当たり前のようなものがなかったりするのに驚くが、これである。自分の経験から書いてみると。

 トイレ自体が外国には少ないし、無料トイレとなると更に少ないし、温かい便座(昔はウォームレットという名前もあった)もない(南イタリアでは便座自体なかった)し、ウォシュレットもない。トイレットペーパーなどというものもちょっと前までなかったのだ。

 野外の自動販売機もそうだ。大体、金庫を町中に置いてあるようなもので、治安の悪い国では置けない。おでんの自販機まである。自販機の多さにびっくりしていた外国人に「日本には自販機の自販機もある」といったら更にびっくりしていた。そんなものある訳がないが…。アメリカでは2020年のコロナCOVID-19の際、マスク$4の自販機が設置されて驚かれた。

 スリッパというものもあまり見ない。スイスのリゾートホテルで見たことがあるが、もしかしたら、日本人が多いから置いてあるだけかもしれない。そして、他の国の人は一体これは?と思って見ているのかもしれない。『ジーニアス大英和』には「普通はサンダルと靴の中間のもの:日本のかかとのない「スリッパ」は通例mule.《米》scuff」と書いてある。鹿島茂は『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)でベランダもスリッパも欧米にはない話を書いている。そして、入浴した後に欧米人は何を履くかというと、室内履きの靴(仏pantoufle 英pantofle)を履くのである。これは日本ならカジュアルシューズで通用するようなもので、スリッパよりは靴に近い。素材も布製やフェルト製があったが、最近は革製の堅牢なものもあって、「ようするに欧米人は寝室などでも靴をはいていないと気が落ち着かないということである」という。スリッパに一番近いモノはミュールで、中世の終わりにヴェネチアではやったバックレスの上草履が赤い色をしていたことから、赤色魚muleにちなんで命名されたという(ただし、最近では成句を除いて踵の高い婦人用の履き物を指す)。日本のスリッパを知って来日した外国人は更にトイレ用のスリッパがあることにも驚いてしまう。

■ソックスを誰もはかない
 パリにも存在しないものの筆頭に、わたくしは女のソックスを挙げたいと思う。
 ローマにも存在しない。そもそも全然売ってないんじゃないかな。売ってても誰も買わない。誰も買わないからどこにも売ってない、こういうことでしょう。
 では、なぜ誰もソックスをはかないのかということになると、それはこういうことだと思うのです。
 そもそも女の足もとというのは、単純で、すっきりと、軽やかなのが一番美しい。足もとが、細っそりと軽快であるほど、他の部分の曲線や量感が、女らしく、優しくなるではありませんか。ういういしく感じられるではありませんか。見ればわかるのです。
     -----伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)

 ホステスというのも中途半端な存在で、すぐに寝てくれる訳でもないし、友だちともいえない。とはいえ、実際にあることが間違いなく、「枕営業」は妻が不快に感じても不法行為ではないという判決まで2018年に出ている。経営者を「ママ」というのも日本人が疑似的な母親を欲していることが分かる。そんな中途半端な状態の女性がいるから、忘年会でOLをホステスと間違えてセクハラするおじさんが大勢いるのである。2013年に橋下徹大阪市長がアメリカ軍の幹部に「風俗業を利用して性犯罪をなくせ」みたいなことを言って物議をかもしたが、「風俗業」などというものが英語に翻訳できるはずもなかったのである。

 僕はホステスとつきあったことがないので分からないが、島田雅彦は『快楽特急』(朝日新聞社)の「幼児性の発揮」で次のように書いていた。なるほど、日本人には必要なものだと理解した。

 拗ねる。駄々をこねる。わがままをいう。それらは必ずしも幼児の専売特許というわけでもなく、大人のあいだにもよく見られる行動だ。しかも、社会的地位が高く、金もある大人ほど幼児性を発揮する。

 たとえば、社長や重役、文豪や巨匠、親方や監督といった客の面々が集う銀座のクラブは保育園のような場所だ。彼らの愚痴や説教の聴き手になってやり、煙草の火をつけてやったり、飲み物をつくってやったり、つまみを口に入れてやったり、痛いところをさすってやったりするホステスたちは保母さんみたいなもので、客はベビーシッティングされにそこへ行くのである。

 金も地位もある幼児たちの言葉は無内容で、独りよがりであることが多い。【…】

 『日の名残り』を書いたカズオ・イシグロはインタビューなどで「人はみな執事である」と話しているが、日本ほどホスピタリティの進んだ国も少ないかも知れない。何しろ、「お客様は神様です」という文化なのだから。こんなことばかりいうと「芸者文化」だという人が出てくるかもしれないが…。

 本国にない「外国」が日本にはある。ウィーンにウィンナソーセージはない(フランクフルターと呼ばれる)。ウィンナ・コーヒーはない(アインシュペーナー「一頭立ての馬車」と呼ばれる)。アメリカにアメリカン・コーヒーはない。どのコーヒーも薄くてアメリカンだ。アイスコーヒーというのも外国にはない。スターバックスが日本に進出した時に、アイスコーヒーがないなんて、と言われて出したのだが、おいしいので今では本国でも出すようになったという。缶コーヒーも外国にはなかった。食事の時か、コーヒーショップで飲むものだとされていたからだ。

 映画『ホタルノヒカリ』は綾瀬はるかがローマでナポリタンを食べたいといって新婚旅行に行く話である。ナポリにも「ナポリタン」はない。横浜のホテルで進駐軍がスパゲッティにトマトケチャップをかけていたのを見て作った。伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』には「いためうどん」と批判している。が、ヤマザキマリはイタリア人に歓迎されたと描いている。2012年にはナポリでナポリタンを提供するイベントがあって、ナポリ市長もブオーノと話していた。

 スウェーデンに「バイキング料理」もない。あるのは「スモーガスボード」だけで、北欧=バイキングという連想で名づけた帝国ホテルの想像力には敬意を感じる。モンゴルには「ジンギスカン料理」はない。日本に「天皇料理」という名前のものがあるのかとモンゴル人は怒っていた。長崎にはトルコライスというのがある。ビストロボルドーという店が作ったもので、トルコのピラウ(サフランライス)にナポリタンとトンカツをトッピングしたもの(2013年に長崎市が「トルコライスの日」を制定したが、大使館から豚肉は食べないと指摘されて中止になった)。佐賀にはご飯の上に肉と野菜が載ったものがあり、シシリアンライスという。イタリア料理のタベルナという店のオーナーが考案したもの。福井県の武生などにはボルガライスというのがあり、オムライスの上に豚カツがのった食べ物だ。福井のパリ丼はメンチカツが載った丼。イギリスは島原の海藻(イギス藻)を固めた食べ物。静岡県島田市ではメキシコ寿司を食べる。

 名古屋にある台湾ラーメンも台湾と関係なく、味仙の台湾人オーナーが作ったもので、台湾ラーメンのアメリカンというのもある。まあ、ラーメンだって、「拉麺」という漢字を当てているが、本当は何だったかよく分かっていない。日本のカレーだって、別物だからインドにないというとない(海軍で船の揺れでも食べられるようにトロミをつけたとされる)。最近はカツカレーに始まるトッピングが素晴らしいとされて外国人からも好かれるようになった。

 これらは外来食の「日本化」としてまとめられるが、2013年に無形文化遺産に和食が入った時に「三世代前の日本人が家庭で常食としていたもの」と定義されている。すき焼き、豚カツ、コロッケ、カレー、オムライスなどは入るが、焼肉やハンバーガーは入らない。ラーメンとキムチも怪しい。鮓や鮨は東南アジアの魚の保存として発達したものだったが、現在の形になってから三世代たっているか怪しい。

「国民食」というのも怪しいことになる。イギリスに「料理」はないが、フィッシュ&チップスだけは別だ。しかし、ユダヤ人の食と南米の食が混交して生まれたものだ。

 井上章一の『人形の誘惑』(三省堂)によれば、サンダース人形があるのは日本だけだというが、今では逆輸入されているという(9・11の犠牲者の家族のトラウマを扱った映画『再会の街で』でなぜか主人公の部屋に飾られていた)。日本はフィギュアがあふれた文化だからだ。薬局にぞうさんやうさぎさんのフィギュアがなかったら、つまらないでしょ。不二家にペコちゃん人形がないと誰も入らない。

 そして、鹿島茂『パリの秘密』(中央公論新社)の「フランス人形の幻影」によれば、フランスにフランス人形というものはない。本物のフランス人形(ビスク・ドール)は江戸時代のひな人形と同じくらいにレアのものだという。

 日本のすごいところは(右翼じゃないが)文楽(人形浄瑠璃で)ある。外国でも人形劇は多い。ただ、これを芸術まで高め、人間国宝などによって演じられるのは恐らく日本だけだろう。オペラの人形劇だと考えるべきだ。三人遣いなどどこの国にもあり得ない。実際、文楽の影響はミュージカル『ライオン・キング』に見事に引き継がれているが、創始者は日本で文楽を学んだ女性なのだ。

 クリスマスカードはあっても年賀状はない。毎年、自分の家族の写真を送りつけるなんてすごいことだ。出来合いのカードではなくて、それぞれが趣向を凝らしたものを送る。ただ、鹿島茂の『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)ではフランスにも賀状に相当する行事はあったらしい。19世紀まで日本と同じように新年の挨拶回りをするのが習慣になっていたからだという。ところが、時代が下がるに従って、できるだけたくさんの義理を果たそうとしたために、門番のところに自分の名刺を置いてくるだけになって、更に、名刺配り専門の請負業者まで出現するようになったという。これが進化すれば賀状になったのに、残念だった。お歳暮もフランスにあって、アパルトマンの管理人に買わなければならない。19世紀の生活百科にも、年末の付け届けを欠かさぬようにという注意書きがあるという。管理人がアパルトマンの住人の薪から自分用の分を抜き取る権利が形を変えたものだというから人さまざまである。お年玉(etrenne)も20世紀の初めまであったが、今ではアメリカ式にクリスマスにプレゼントするようになったという。

 門松というのは富山などでは飾らない。フランスでも飾らないのだが、ヤドリギguiの葉と枝を詰めたかごを肉親にプレゼントしたり、自宅に飾る習慣は今でもあるという。フレーザーの『金枝篇』を読むまでもなく、ヤドリギに不思議な力があると考えられたからだ。

…じつは、これ、フランス人の祖先に当たるガリア人から伝わった異教的な風習である。

 ガリア人はヤドリギが大地に根を持たず、しかも冬でも枯れないことを不思議に思い、ヤドリギが葉を出したカシの木には神が宿っているにちがいないと考えた。そこで、新年の初めに、ドルイド教の僧侶のかしらが黄金の鎌でヤドリギを切り取り、これを祭壇に捧げたといwれる。

 この風習がローマ人やゲルマン民族にガリアが征服されキリスト教化したのちも残ったのである。ただ、そのころには、ヤドリギの神性への信仰は失われ、むしろ、幽霊や魔女から子供や家畜を守るための厄よけとしての意味が強くなったようだ。

 イギリスでは、ヤドリギは新年というよりもむしろクリスマスの装飾用植物で、それらが飾られている下で女性に出会った男性はキスの特権を得るということになっている。ただし、キスをするたびにヤドリギの白い実を取るので、それが終わったところで特権は消えることになっている。

 「新年おめでとう」を古くは“Au gui l'an neuf!”と言った。“s'embrasser sous le gui”というとヤドリギの下にいる娘には誰でもキスをしていいということになる。イギリスでも一部の人はケルト民族の血がまざっているので、クリスマスの飾りにヤドリギが使われている。

 ちなみに、ドルイド教では井戸“le puits”も神聖なものとして考えられ、シャルトルの大聖堂の地下にも井戸がある。日本でも弘法大師の出した井戸は多いし、キリスト教でもルルドの泉のように同じ考えから生まれている。

 日本でも寄生木(やどりぎ)を「寄生(ほよ)」とか「飛蔦(とびづた)」とか呼んでいた。万葉集に「あしひきの山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ」(4136)という大伴家持があって、この場合、どちらもに同じような信仰があったのは興味深い。

 バレンタインのチョコレートもよく知られているように、韓国や中国では日本の影響で増えているというが、外国にはない。鹿島茂『フランス歳時記』(中公新書)にはなぜかイギリスの風習が書いてある。「レディ・アン」という男女が輪になってボールを回していて異性を当てるというゲームや恋占いも盛んでボウルに入れた水に投げ込んだ麻の実が水分を吸って膨らんでアルファベットの文字になれば、そえが未来の伴侶の頭文字とされるという。家の形になれば大金持ちから、王冠に似ていれば権力者から、求婚されると考えられているという。

 交番という制度も外国にはなかったが、今では東南アジアなどに「輸出」しているはずだ。

 中国が起源のはずのラーメンだって、1982年に中国の人がラーメンをおいしいといって「これは何て食べ物ですか?」と聞いていたのを目撃している(この頃には中国でもインスタントラーメンは作られていた)。それが今では世界で知られている食べ物になっている。とはいえ、本当に何でも理解されているかというと怪しい。

 僕のポーランドの友人が家で「見ないで」と言って醤油たっぷりスシを食べたのを忘れられないが、同様の体験を玉村豊男は『食卓は学校である』(集英社新書)の中でフランス人はスシが大好きだといって書いている。ミシュランで日本料理をも評価する権利があるのだろうか?

 彼らはまず小皿に醤油をたっぷり容れ、そこにワサビを大量に溶かし込みます。その緑黒い(としか表現のしようがない)不思議な流動体の上に、スシを置き、こんどはスシのネタの上に、ガリをまた大量に載せるのです。スシ、ガリ、ワサビ。いまではどれもフランス語として、誰もがよく知っている言葉です。下方からは緑黒い流動体がじわじわと白い米粒を浸潤しはじめ、上方からは甘酸っぱいガリの酢がたらたら垂れてきて、それはわずかのあいだに日本人にはとてもスシとは思えないような物体に変容していきますが、フランス人はその不可思議な物体を不器用な箸使いでさらに崩壊させながら食べ、
「スシはスパイシーだから好き」
というのです。まったく、なにやってんだか。

 外国を旅するというのは、そんな異文化とまではいかなくても、色々な差異について考えられるから面白いのだと思う。

 小熊英二に『インド日記』(新曜社)というのがあって、デリーの国立博物館で貴族たちの肖像画を見たのだが、伝統的な服装をしていながら、西洋の技法で描かれた絵を「アジア諸国のナショナリズムに共通の現象である」といって次のように書いている。

 伊藤博文は、ヨーロッパ諸国が君主の名所旧跡を保存していることを参考にして、日本の名所旧跡を保存する提案を行なった。「伝統文化を国家や民族のシンボルとして大事にする」という発想じたいが、西洋から入ってきたものだったといえる。

 それゆえナショナリストというものは、しばしばもっとも西洋化された人物である。岡倉天心は外国人に教育されたため、英語は得意だったが子供時代には日本語が読めなかったし、前にも述べたように三島由紀夫は『ダフニスとクロエ』にヒントを得て『潮騒』を書いた。

 ブランド志向などというものもない。ないとはもちろん断言できないのだが、日本人、特に日本女性ほどのブランド好きはいないだろう(最近の中国などアジアは分からないが)。フランス語ではブランドをmarque(印、商標)という。ちょっと前までエルメスを知らない女性も多かったのだ。通じなくて、「それってles objets de luxeじゃないの」なんていわれることもあったのだ。さらに、本当のセレブは他の人の手に入るものを見向きもしないだろうし、エルメスで頭からつま先まで統一して使うことで自分に誇りを感じるものだそうだ。モノグラムはヴィトンが日本の江戸小紋に影響を受けて考えたものとされるが、モノグラムだけにこだわる日本人とは違う(ヴィトンは家紋やダミエ=Damier市松模様を日本文化から借りているから「逆輸入」みたいなもの)。経済学では安い物より高い物を買うのを「ヴェブレン財」という。

 本当はブランドというだけで一緒くたにすること自体がブランド思考にはまっているのだ。グッチの好きな人とそぎ落とされたフォルムこと上質でセクシーと考えたディオールの好きな人ではまるで違う。藤原家や信長や秀吉はグッチ派だろうが、室町の足利家はディオール派である。

 檀ふみは『どうも いたしません』(幻冬社)の「美意識」の中で、ド・ゴール空港でエルメスの40万のバッグを買った時の話を書いている。金持ちでさえ躊躇するバッグを日本ではフツーの女が持っているのは不思議だ。

わたしはモノに対する執着がうすい。「ブランド信仰」みたいなものも、あまりない。
だがそんな私も、エルメスのバッグだけは持ってみたかった。いいバッグはオンナに品格を与えると信じるからである。
しかし、いかんせん高い。
ここ数年来、パリに行くたびに、エルメスの本店を覗いていたが、ショーウィンドーの中のバッグを、「見せてくださいな」と言う勇気すらない。
だが、このままではバッグを手にすることなく、死んでしまうかもしれない。よし、今度こそ買おうと、先日、パリでかたく決意した。【…】

 ブランド好きな男は信用できない。だから、本田透『電車男』では「エルメスを買いあさる人生より萌えられる人生のほうが幸せだ」などという言葉が出てくるのだ(オタクも信用できないけど)。ちなみにオタクというのは日本だけの人種ではない。『トレイン・スポッティング』という映画があるが、“train-spotter”というと「電車オタク」であり、いつもフードのついたアノラックを着ているから“anorak”とエスキモー語で呼ばれることがある。

 ブランドというのは長く付き合うものだと思うのに、日本人女性はブランドの流行に敏感である。

 「これ見よがし」のスタイルが現れると何の選択の基準もなく、次から次へと手を出す。刺激の強いものでないと、着ている気にならない、という、一種の病気のようなものにみんなが取りつかれている。困ったことではありませんか。
     伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)

 中島義道は『女が好きな10の言葉』(新潮社)で、女は権威主義だと言って次のようなエピソードを書いている。

 ある日のウィーンからの帰りの飛行機の中で。(何かの)ブランド品を特別な低価格で機内販売しますというアナウンスが入ったとたん、そのワゴンが通路を動き出すや、あちこちの席から橋田壽賀子のような(?)おばさんたちが、次々にむくむくと眠りから覚めて立ち上がり、そのすべてが私の席の真横で停まったワゴンめがけて突進し、お互いに突き飛ばし、ものすごい光景が私の眼前で繰り広げられました。そのほとんどすべてがむっちりした大腿部と尻を浮き立たせるスラックス(こういう場合は「ズボン」というほうが適している)を穿いていて、その肉の塊どうしが私の眼の前を左に揺れ右に揺れ、踊り続ける。しかも、大声で喋りまくり、ものすごい形相で笑い続けるのですから、もう生きた心地がしませんでした。どうして、ほとんどの女は、ルイ・ヴィトンのバッグを持っていることを、軽佻浮薄、付和雷同の象徴として恥じないのでしょうか?エルメスのスカーフを巻いていることを、身分不相応、いや容貌不相応な屈辱的なことだと感じないのでしょうか?不思議でたまりません。

 これについて鹿島茂が『上等舶来・ふらんすモノ語り』のあとがきで次のように書いている。

 以前、森茉莉について書いたとき、「事物×想像力=1」という反比例式を披露したことがある。※

 すなわち、森茉莉が米軍払下げ物資の中から、薄緑色の安物のコップを見つけ、その「かすかに橄欖(オリイブ)色が入っている厚手の洋杯(コップ)」に、なんとボッティチェルリの女神の羅(うすもの)の色」を見たというエピソードのなかに、事物が舶来の安物であればあるだけ、かえって、そこに西洋への憧れを喚起されるという彼女の想像力の質があらわれていると感じたのである。森茉莉はこうも言っている。

「大金を投じて購うということはただの贅沢であって、そこには夢がないし、愉しさがない」
 本物の高級品になると、逆に想像力が刺激されず、夢も生まれないというわけだ。【…】
 「上等舶来」という言葉は【…】かすかな手掛かりから外国の生活を夢見るという想像力の本来あるべき姿を物語っているような気がする。
※『森茉莉全集第2巻』(筑摩)月報 「橄欖色の洋杯(オリイブ色のコップ)」

 つまり、ブランド崇拝は想像力の質の堕落と深くかかわっていて、「舶来品」が「ブランド品」と名前を変えたときに、日本人は自分たちのもっとも貴重な財産を失ったのだという。

 80年代にはジャン・ボードリヤールの社会消費論がよく読まれた。「ブランド品が高価なのは、コストがかかっているからでも、特別な機能があるからでもない。単に特別のコード(記号)を持っているからだ」と論じている。百円ショップの品物が一部の人に嫌われるのはこの反対の効果なのだが、ワインの値段を上げたらよく売れたなどという話がある。モノやサービスに対する「他人の消費量」が自分の満足感に影響を与えるのを「消費の外部性」ともいう。自分で買っているように思えて、他人のまねをしているだけなのだ。つまり、「恥の文化」で世間を気にする日本人にはつけいる隙があったのだ。高い物を買うことで、自分は他人よりも贅沢に生きられるという満足感と、品質を知らないで買っているという馬鹿さ加減とが微妙に混ざってブランド信仰が生まれる。

 ボードリヤールはオリジナルのない模像を「シミュラークル」、シミュラークルを作り出すことを「シミュレーション」と呼んだ。オリジナルのない模像が現実に作られると、何がオリジナル(現実)で何が模像(非現実)か分からなくなる。現代社会はそのような環境で取りまかれていて、こうした状態をボードリヤールは「ハイパーリアル」と呼んだ。例えば、ディズニーランドを自分の本来の居場所と考えたり、故郷のように感じる若者などが典型的だ。アメリカの歴史学者ダニエル・J・ブーアスティンも我々が「疑似イベント」を欲するために、幻影が生の現実を凌駕してしまうと指摘している。

 一億総中流幻想が消えた格差社会ではヴェブレンの『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)がよく読まれるようになった(ガルブレイスは「ヴェブレンを理解するためには、ゆっくり読まなければならない」という)。高い物が売れるのを「ヴェブレン効果」(Veblen effect)という。初期段階では「顕示的消費」(見せびらかしの消費)が主流である。働かなくてもいい有閑階級が、財産を持っていることを示すために、高価な物品やサービスを消費することである。やがて階級の低い人々にも世間体を保つための顕示的消費が広まり、美しいから高価なのか、高価だから美しいのか分からなくなっていく。現代人は生活必需品と同じくらい、他人との差異を生み出す記号の消費を行なっている。商品の実質的な機能を購入するのではなく、他者との差異化のための記号を購入(記号的消費)する。ブランドはここに付け込む。実質的機能は同じだが、ブランドという記号が加わることで価値が上がる。消費者会は「ちょっとした違い」でしかないのに差異の記号を作り続けることによって消費欲を無限に掻き立てる(差異の原理)。新作だ、健康だ、エコだ、有名人が使用したというストーリーや会員や期間限定、シリアルナンバーがついているとか、差異を生み出す記号は無数ある。最近はエシカルであることも注目されるようになっている。「倫理」なんて言葉が使われる時代になるとは…。

 一点物、限定品に飛びつくのは「スノッブ効果」である。逆に、みんなが持っているから買うのは「バンドワゴン効果」という。かつては90%が「中流」と勘違いしていた国の中で、前者は自分だけが中流でないことを示す行動であり、後者は中流だからこそ起きる行動といえる。

 日本女性がブランドを好むのは文化の同質性にも求められるだろう。フランスの哲学者ルネ・ジラールは『欲望の現象学』の中で「欲望は他者の欲望を模倣することでできている」という。人間には「模倣の欲望」(Desir d'imitation)というものがあるのだが、日本人は周りを見過ぎて欲望が増大するのだ。

 姜尚中は『トーキョー・ストレンジャー』(集英社)の中で、銀座のシャネルを訪問した時のエッセイにこんな風に書いている。

 今やブランドは世界共通の言語ですから、初めて会った人でも、言葉が違っていても、そのロゴマークをつけていれば、その人の価値観やテイストを見抜くことができる。表層的にでも理解しあえる。「あの人のバッグは私のバッグと同じブランドだわ」という共通認識。それと同時に互いのバッグがわかるうえで生じる差異。この二つの微妙な調整の上に、ブランドは成り立っているのだと思います。
 さらに言えば、この記号はお金があれば手に入るものです。だからある意味、いちばん平等であり、そしてある意味、いちばん不平等である。とてもよく考えられた経済のシステムなのです。この記号をめぐる差異化、これからの格差社会ではさらに激化しそうです。ブランドの価値はますます増していくのでしょう。

 加藤秀俊は『常識人の作法』(河出書房新社)の「トーテミズムの現在」の中で、マスコットキャラクターの大氾濫について次のように書いているが、確かに菊の紋所をはじめ、日本にはモノグラムがあふれている。実際には日本の家紋を見てルイ・ヴィトンはモノグラムを作ったのだった。日本では板垣退助が最初に買ったという。世界進出の1から3が東京、4から6店が大阪だった。ごく普通のスピーディはオードリー・ヘップバーンが愛用して広まったという(折り畳める)。2017年からは純和風のデザインを使っているという。ダルマのデザインは山本寛斎が扱った。

 かくのごとくに「マスコット・キャラクター」がいたるところに氾濫し、かつそれをふしぎに思わないのは日本文化のなかに「紋所」というものがあったからではあるまいか、とわたしはおもっている。古くは源平藤橘、日本にはさまざまな「紋所」があった。
 紋所ということばからすぐに思い出すのがご存じ水戸黄門、あのご老公さまの印篭。【…】
 日本だけではない。西洋にも「キャラ」の原型となる「紋所」があった。
 歴史的にいうと、たとえばイギリスのばあい王室には「紋章官」(Officer of arms)という専門のお役人がいて、あの紋所の異動を調査研究し、またデザインしていたらしい。紋章、あるいは「旗印」を英語では「ヘラルドリー」(Heraldry)という。【…】
 さきほどみた日本の紋所がおおむね梅、菊、葵など植物系のものであるのと対照的に西洋の紋所はクマ、ライオンなど動物系のものが多く、しかもゴテゴテの装飾であるようにみえるが、いずれにせよ「ヘラルドリー」の伝統からもわかるように、西洋社会でも紋所がずっと続いているのである。【…】
 その【トーテムポールの】展示をみたとき、わたしはすぐにレヴィ・ストロース先生の『今日のトーテミズム』(初版一九六二年)を連想した。そして、現代のもろもろの「キャラ」も世俗化した「トーテム」であろう、と思った。【…】タカがカバンひとつ、なんだっていいじゃないか、というのは理屈であって、現実にはブランドの「旗印」がくっついていることが安心と誇りの根源なのである。これらのマークのついた純正商品を手にすることでひとは「シャネル族」「アルマーニ族」「エルメス族」……等々の「部族」の一員となるのである。

 もっと可愛らしいブランド指向もある。映画『下妻物語』(原作にはない)では桃子(深田恭子)と移動販売の八百屋さんとのこんな会話がある。

「東京まで? 何しに?」
「お洋服を買いに。」
「服買いになんでわざわざ東京まで行くの? ジャスコがあんのに。」
「ジャスコって……スーパージャン。」
「なんも知らねえんだなあ、おめえは。下妻のジャスコはスーパーなんてもんじゃねえの。なんだってある。なんもかんも揃ってる。東京のパルコ以上だ。ほれ、このポロシャツも、ジャスコで、980円だよ。」

 いずれにしろ、バルトがいうように日本は『記号の帝国』だ。

    夢を買う話(森茉莉「私の美の世界」)

 「羅馬にゆきしことある人は、ピアッツァ・バルべリイニを知りたるべし」
 この『即興詩人』の文章が頭に浮かんで来て、石畳の上を軽く蹴る、馬車の蹄の音が聴こえてくるような電気スタンドを、私は持っている。十年前に近所の店で安い値段で買ったもので、店にあった時から大分古びていた。伊太利の古い銅版画のように黒くなった、鈍く光る銅製(銅かどうかあやしいが)で、十六、七の男と女の天使が手をつないで踊っている彫刻がある。
 私は何か買う時、品物そのものを買うというよりも、”夢”を買ってくるような、奇妙な場合が多い。だから常識人は首をかしげるような損な買い物をする結果になることが多いのは当然のなりゆきというものである。 
 私の頭の中にはいつも、昔見た伊太利の空、ボッティチェリの「春」の画面にある空、女性の羅の秘かな橄欖色、同じく「ヴィーナスの誕生」の海の薄い透明な緑、その画面に散っていた花々、明るい空の下の、澱み腐敗したような運河の鈍い緑。又はシンガポオルやペナンの明るい透き通った海の薄緑、アマルフィの海岸の檸檬の黄色、僧院を改造したレストランの、白い円柱や廻廊に落ちていた野薔薇の影の薄紫、巴里のキャフェの、フランボワアズ入りのアイスクリイムの、牛乳をまぜたような薔薇色。きりがないのでやめておくが、それらの色があって、そういう色をみつけるとやみくもに、欲しくなる。
 同じ薄緑色の紅茶茶碗が並んでいる場合、どうかした具合で特に薄く、鈍い色に上っているのを、わざわざ選んで、はっきり鮮明に上っているのと同じ値段で嬉々として買いとる。
 硝子が安もののために、硝子特有の不可解な透明の中に、かすかに橄欖色が入っている厚手の洋杯を私は本郷の、米軍家族の払下げた家具什器を売っている店で買った。笑ってはいけない。その微かな、あるかないかの橄欖色は、ボッティチェリの女神の羅の色なのである。向こう側にあるものが見えるような、見えないような、あの、曇りのある硝子の透明は、安ものの硝子にしかない。
 私は又道玄坂の或る店で、ヴェルサイユ王宮のゴブラン織りを発見した。その小さな壁かけは三年くらい前からそこの壁に止めてあった形跡歴然としていたが、そのために伊太利の運河や橋、岸の風景、すべてが古び薄れていて、確実にヴェルサイユ王宮のゴブランの色を呈していた。その色調は美術鑑定家がみても本物に酷似していることを認めるにちがいないが、色の褪めた壁かけを値切りもせずに買った私の、欣然とした顔色を見た商人は妙な顔をしたのである。
 ヴェルサイユ宮の森と、猪の背に跳びかかる猟人を彫った彫刻を織り出した本物のゴブランがあったら私は魂を奪われるだろうが、買うことはないだろう。大金を投じて購うということはただの贅沢であって、そこには夢がないし、愉しさがないからである。

 ブランドを好む最大の理由は見栄である。東海林さだおと『ショッピングの女王』の中村うさぎの対談で、中村は水商売の女と、医者の奥さんとお坊さんの奥さんがブランド好きだという。

東海林 ブランドものを着たいというのは、何なんでしょうね。
中村  見栄です(キッパリ)
東海林 じゃ、常にギャラリーがいなくちゃいけない。
中村  そうですね。私は誰も見てない家の中ではジャージで生活してる(笑)。
東海林
 っていうことは、「どうだ!」っていう……。
中村  ええ、やっぱり、「どうだ!」って見せびらかしやすいものは、服とかバッグになるわけで。
 

 林真理子はブランドの使い方が上手だ。『秋の森の奇蹟』は白金でイタリア家具店の店長をしているヒロインが出てきて、親の介護から不倫までさまざまな40代女性の問題が出てくるのだが、たとえば、「いくらか迷った揚句、裕子はアルベルタ・フェレッティの若草色のスーツを着ていくことにした」と書き、「素材と色の美しさがさすがで、重宝する」という。ただ、このブランドものが「バー炎で買ったもの」と書き加えている。まさに現実の「ちょっと」だけしか上をいかない日常感があふれている。そう思っていたら、ブランド品を月額いくらで提供するサービスが日本でも始まった。

 伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』から半世紀もすれば、ブランドの意味も変わってくる。

いつか自分も正しいスパゲッティを作って食べ、ロンドンに行き、そこでホンモノに出会いたいと思ったが、【…】(それが実現してしまった今は)懐かしく、ほほえましく、少しだけ悲しい。【…】彼の啓蒙がおおかた達成されたにもかかわらず、あるいはその結果として、この国がこんな風になってしまった。【…】これはもう悪い冗談のようなもの。ルイ・ヴィトンはよいブランドだが、だからといって誰も彼もがあのバッグを持てばいいというものでもないだろう。
     池澤夏樹(伊丹十三『女たちよ!』新潮文庫解説)

 「買い物依存症」というのは資本主義とともにあった。フィッツジェラルドの『夜はやさし』に出てくる美女ニコルは罪の意識を持たないできまぐれに散財できる特殊な能力を持っている。自分の価値を容姿やファッション以外に見つけることができたら結果は違っただろう。

 自分もブランド依存症と思うことがある。同じ品物で仮に派手なものがあっても、ブランドなら何を着ていても大丈夫と思わせる力があるのだ。つまり、ブランドは自分に自信のない僕らの味方ということになる。

 もちろん、国内にも同じことがいえて、富山で当たり前のとろろ昆布を巻いたおむすびなど東京にはない。昆布巻きのカマボコも、鯛のカマボコもないし、板のついてないカマボコも少ない。故郷が懐かしくなる瞬間だ。

 世界に戻ると、今ないからといって昔なかったことにはならない。この辺が習俗の難しさなのだが、例えば、生卵は日本以外ではあまり食べない。白いご飯もなかったりする。米食があって食べそうな地域ではサルモネラ菌が心配だ。

 炊き立てのご飯に生卵!これさえあればどこでも生きていける。特に小寒から節分までを「寒の時期」といい、その間にできた卵は特に滋養が豊富で身体に良いだけでなく、黄身がくずれにくく、金運をももたらすと言われ、珍重される。高浜虚子は「熱あつの飯に割り入れ寒玉子」「ぬく飯に落して円(まど)か寒玉子」「手にとればほのとぬくしや寒玉子」「寒玉子割れば双子の目出度さよ」などと吟じた。

 東海林さだおも『キャベツの丸かじり』(朝日新聞社)の中で「この世で“醤油を二、三滴たらした生卵”以上においしいものはない」と断言しているくらいだ。いや、昔の人は八百屋に寄って、生卵をそのまま呑んでいた。精がつく、と言われたからで、映画『おとうと』には川口浩が結核になって、生卵を丼でかきこむ場面があった。高かったから大変なごちそうだったのだ。加山雄三が出ていた『二人の息子』では卵一つで家族がもめるシーンがあったくらいだ。

 ところが、米原万里の『旅行者の朝食』(文藝春秋)によれば、ラテン語の熟語で“AB OVO USQUE AD MALA”というのがあり、「卵から林檎まで」という意味だそうだ。つまり、ローマ人の宴席でも、最初に卵、最後に果物が出たらしい。この伝統はルネサンス期まで続いていて、2001年の日本でのイタリア年の行事で披露されたルネサンス期の正餐の献立も、最初は卵で最後はフルーツだった。ただし、ルネサンス人の卵はゆで卵だったのに対して、ローマ人はゆで卵でもオムレツでも目玉焼きでもなく、生のまま呑み込んだと伝えられている。本格的な料理をいただく前の食前酒のような前菜のような位置づけだったみたいだ(ホラティウスにも古代ギリシャの饗宴としても描かれている)。映画『ロッキー』ではスタローンが5個も生卵を食べるシーンがある。

 もちろん、今でも例外的に風邪を引いた時の「エッグノッグ」(『あなたが寝ている間に…』ではクリスマスにエッグノッグを飲んでひっくり返りそうになるシーンがある)というのがあるし、声楽家が声に艶を出すために飲むこともある(喉に脂をとステーキを食べる人も多い)。

 『恋愛小説家』ではジャック・ニコルソンが朝食にいつも「卵3個の目玉焼き、ソーセージにポテトフライ、パンケーキにコーヒー。砂糖はダイエットシュガー」と注文する。ヘレン・ハントに「偏食症で死ぬわよ」といわれて、「人はどうせ死ぬんだから」なんて憎まれ口をきく…。

 『ひまわり』でもソフィア・ローレンとマストロヤンニが新婚生活で嫌ほど食べるシーンがある。結婚式の翌日にマストロヤンニが作るのは死んだ祖父も父も同じプレーンオムレツを作っていたからだという。バターで焼こうとするのに、ローレンは「私の家は油よ」といってたっぷり油をひいたフライパンに卵24個も流し込む。田舎風のパントワインを添えて食べ始めたのだが、食べきれず、「しばらく卵とは絶交だ」という。

 それなのに、米原によれば、今のイタリア人は生卵どころか、ほとんど卵料理を食べないという。朝ご飯にも出てこないで、フェトチーネの和え物用に黄身をつなぎとして使うくらいだという。

 オムライスというのも日本人の発明であって、多くの外国人が日本ですっかり大好きになる食べ物だ。

 卵みたいなおいしいものでも時代によってこんなに違うのだから、安易に逆欠如というのはいえない。大体、「ない」という証明は「ある」という証明に対してずっと難しいのだ。UFOがいる、いないという議論があるが、「いない」というとどうやって証明できるという人がいる。そんなことは永遠にできっこない。それなのに反論した気持ちになっているのだ。じゃあ、出してみろ。

 鈴木孝夫先生は『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)の中で次のように書いている。

 一般に欧米のスポーツでは、何よりも勝つことに主眼が置かれ、勝負経過の途中で示された、気迫とか精神力などに注目して、それに賞を与えるということは、あまり見られないと思います。敢闘賞をあらわすのに用いられた三つの単語【fighting spirit prize】のそれぞれは、どれもごくふつうの英語ですが、これらをfighting spirit prizeと組み合わせることで、これまでの英語の世界になかった物の見方、価値のあり方を、新しく英語の文化の中に表現し、定着させています。この意味で、日本の文化が英語世界の豊かさを増すのに、貢献したといえるわけです。

 ところが、これに対してマーク・ピーターセンが『ニホン語、話せますか?』(新潮社)の中でアメリカにだって似たような賞はあると、反論している。

 上述の主張の「あまり見られないと思います」という根拠のない意見から、「これまでの英語の世界にはなかった物の見方、価値のあり方」というとてつもない断言への突飛な飛躍は、面白い。日本のことをさほど分かっていないアメリカ人学者の「日本人論」にもよく見かけられる現象である。

 村上春樹は『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮社)の中で「裸で家事をする主婦は正しいのか?」というエッセイを書いている。人生相談の内容が日米で違うという話なのだが、「自分はいつも全裸で家事をしているのだが、あるときに裏口から入り込んだ男にレイプされてしまい、大きな精神的ショックを受けた。どうすればいいか?」というのがあって、驚いたと書いている。「全裸家事主婦」というものがいるのかどうか、という話である。問題はこのエッセイが出た後、すぐに日本の主婦たちから「男の作家なんて、本当のことを何も知らないのね。かわいいのね」というような手紙がいっぱい来たという。本当にそんな女性がいるのだろうか。村上春樹は言う。

 でもその後も「全裸家事主婦」のことは、不思議に僕の頭を離れなかった。電車の吊り革に一人でつかまってぼおっとしていると、裸で白菜を切ったりアイロンをかけたりする主婦の姿がふと頭に浮かんできたものだった。そもそも人はいったいどのような過程を経て、全裸で家事をしようという発想にいたるのか? そんなことをあれこれと考えているうちに僕も、「いや、服を脱ぎ捨てて裸で家事をするのは、けっこう気分のいいものかもしれないぞ」と考えるようになった。一度実際に試してみようかとかなりマジに考えているのだが、いざ実行する段になると二の足を踏んでしまう。こっそりと全裸で大根をおろしているときに、うちの奥さんが突然帰宅したりしたら、いったいどのように言い訳すればいいのだろう。正直に事情を説明して、果たしてそれを信じてもらえるだろうか……なんてぐずぐず考え出すと、やはり全裸の腰が引けてしまう。さしあたってレイプのことまでは考えないまでも。

 東海林さだお『だれだってズルしたい!』(文藝春秋)では自作の「明解料理用語辞典」を載せている。

●にこみ 煮込み
 寝入っているところを襲うのを「寝込みを襲う」と言う。
 同様に、煮こんでいるところを襲うのを「煮こみを襲う」と言う。
 新婚の妻が食事を作ろうとして何かを煮こんでいるところを、つい夫が襲うというシーンが、裏ビデオなのにはよくあるという。

 「ない」と断定することは本当に難しい。実は、妻の友人で、お風呂あがりは下着もつけないでビールを飲むのが趣味という人がいる。弟さんは止めてくれ、と帰省するたびに懇願しているそうだ。この女性が結婚したらやっぱり「全裸家事主婦」になるのだろうか?

  しかし、本は読むもので、川上弘美の「ときどき、きらいで」(『ざらざら』マガジンハウス)にははだかエプロンが出てきた。ミコちゃんの娘のえりちゃんがくみちゃんに提案するのだ。

 ほら、珍しくミコちゃんがサラリーマンとつきあってたころ。その人って、決まった時間に帰ってくる人だったんだ。で、その時刻になると、ミコちゃん、あのはだかエプロンして、もうしわけみたいな目玉焼きかなにかつくりながら、待ち構えてたのよ。それでねえ、くみちゃん、はだかエプロンて、ほんとは一回、してみたいと思ったことない? えりちゃんはひと息に言って、首をかしげた。
 何と答えていいかわからないまま黙っていると、えりちゃんはちょっと困ったような表情のまま、ねえくみちゃん、と繰り返した。

 で、しばらくのすったもんだのあげく、わたしたちは結局「はだかエプロン」をしてみたのである。【…】

「ねえ、ミコちゃんて、はだかエプロン、似合ってた?」わたしは聞いてみた。
「うん、ものすごく」えりちゃんは答えた。
 わたしたちはお互いのはだかエプロン姿をあらためて見合った。えりちゃんとわたしは、たぶん同じことをそのとき思いめぐらしていた。わたしたちには想像もつかない、バラエティーにとんだミコちゃんの恋愛、およびそれに伴う性生活のことを。

 結婚の前のお見合いについても西欧にはないらしい。そうは言っても、世話をする女性はいるものだし、それとなく合わせるなんてことはいっぱいあったと思う。西欧の女性はお見合いを羨ましがることもあるようだが、多くの場合、日本のお見合いは封建的なものだと思われている。だから谷崎の『細雪』はフランスでは『四人姉妹』というタイトルになっていて、ルノンドーの翻訳の文庫版では次のような表紙になっている。誤解するわな〜。

 もう一つ、ジャンケンというものが欧米にはない。「ロック・ペーパー・シザーズ」といって、最近では使うこともあるのだが、コイン投げしかなかった。こんな偶然に任すべきではない、いう欧米人もいた。ジャンケンがないから、議論が始まる。日本は議論がなくて、ジャンケンで決着させてしまう。

 そうそう、リンゴの皮むきというのも外国人はやらない。日本人がリンゴの皮をくるくるとむくのは奇跡のように思えるらしい。スペインのルイス・ブニュエル監督の『ビリリディアナ』には日本的な丸くむくき、後に自殺する叔父さんが「とても私にはできない」という場面がある。1964年のイタリア映画『あゝ結婚』でソフィア・ローレンが今の若い人のように4つ切りにしてから皮をむくシーンがある。外国人たって、全部調べられないけど…。

 両国橋で男がりんごの皮をむいていた。途中で切らずに隅田川の水面まで皮を到達させることができるかというのだ。野次馬が大勢おしかけた。この実験が成功したかどうか伝えられていないが。伝えられているのは、野次馬の財布が一つ残らずなくなっていたことである。---和田誠

 内田樹×三砂ちづる『身体知』(バジリコ)でヨーロッパでは学校が「文化資本」を提供することはなく、日本は誇れるものだということを二人で語り合っている。

内田 スイス人の友だちが来た宴会の席で、ドイツ語で「野薔薇」を歌ったらびっくりしていましたよ。何で歌えるのって訊くから、中学校で習ったって。【…】

内田 【フランスなどではクラブ活動がなく】日本の場合はやろうと思ったらテニスも乗馬も何でもクラブ活動できちゃんですからね。その点は誇っていいと思いますね。【…】

内田 日本の教育にだっていいところはあるんですから。

三砂 文化資本の下支えがあると思うのです。美術では、彫刻も水彩もふつうにやりますね。版画もやっているし、浮世絵の模写までやっていたりする。ブラジルでは絵の具なんかみたこともない子どもは山ほどいるわけですから。それに、家庭科の効用、というのもあります。わたしの世代の男声で、「ボタンをつけられるのは小学校で習ったから。本返しも半返しもできるよ」といわれる方を何人も知っています。

内田 ヨーロッパでは男の人が針仕事をするところって、見ないなあ。

 校歌が外国の学校にはないという。あっても、みんな知らないし、校歌を歌って涙を流すこともないという。映画『チップス先生さようなら』の白黒版には校歌が出てくるからおかしいと調べたらパブリック・スクールはあるそうだ。水崎雄文『校旗の誕生』(青弓社)というのが目に入った。ヨーロッパでは校旗はなく、国旗をかかげるだけだという。アメリカには校旗はあるが、スポーツ用のもので、デザインも簡単なもので関係者以外は知らないものらしい。この本によれば、校旗は欧米に倣ったものではなく、近代日本が独自に作り上げた学校文化だという。もっとも古いのは1873年に開校した開成学校の標旗だが、「開」だけの簡単なものだったという。現在確認できるもっとも古い校旗は高知尋常中学が1887年に制定したものだという。軍旗とも深い関係があったという。ちなみに、娘の出た大学は校歌もなければ、校章もなかった。校旗もない。東大は校歌はないが、校章はある。立派すぎる人ばかりで校歌は作れないのかもしれない。「チコちゃんに叱られる」という番組では東大の先生だった男が「フランスの国歌を真似て、国力を増そうとした一貫だ」と話していた。「ラ・マルセイエーズ」の革命性が富国強兵の日本で使われたのだという。

 言語学的な話をしておけば、表現というものが欠如していることがある。日本語の「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」もそうだし、「いただきます」「ごちそうさま」などもそうである。「頑張れ」だってどの国の言葉にもある訳ではない。いきなり「ワン・プリーズ」という人がいて何かと思ったら「一つよろしく」と言ったつもりだった。

 細かくいうと、例えば「マンション」というのは英語では大邸宅なのでないことになる。「ジェットコースター」は英語で「ローラーコースター」というから、ないことになる(ちなみにフランス語ではmontagne russe「ロシアの山」というが、ロシアの王侯の一人が考え出したから)……とやっていけばキリがない。

 「感性」という言葉も英語にはないから河合隼雄はKANSEIとして使っていた。日本の行政は「ゆとり」とか「豊かさ」というのが好きだが、ぴったりの英語はない。“true sense of afluence”“high quality of life”と訳した英字紙もあるようだ。

 他人に妻を紹介する時に「愚妻」といって、更に英語で“My foolish wife”などという人もいる。英語では使わない表現なので、よっぽど離婚が近いと思われる。“My wife isn't so beautiful and doesn't cook very well.”などというから、よほどブスで料理も下手かと思われる。ここで「愚妻」があって「愚夫」がなく、「悪妻」があって「悪夫」がないことに女性は怒りを向けるべきなのだ。“I love you.”と常日頃言われないことに異義を唱えるべきなのである。その意味で村上春樹は欧米化している。ついでながら、妻のことを言及する時に、日本語に詰まってしまう。「愚妻」はもちろん、「女房」なんて古臭い言葉は使えない。「うちの奴」といわれて相手が妻と分かるとは限らない。最近は「ぼくのパートナー」とか「連れ添い」(なんだか老後みたいので「ツレ」)という人がいるかもしれない。西江雅之先生は「僕の奥さん」だった(米国人)。他の言語学者は?と思ったけどみんな離婚か再婚していて聞き損なった。

 鹿島茂『「悪知恵」の逆襲』(清流出版)によれば、「応援」という言葉も外国語に訳せない単語の一つだという。チア・リーディングなんかの応援とは違って、「私もこれから応援していきます」なんて時の「応援」だ。フランス語で無理に言えば“soutenir”(英語にすると“sustain”)となるだろうが、「物理的」ではなく、あくまで「精神的」に支えるだけだといって、ラ・フォンテーヌ「乗合馬車とハエ」の寓話を紹介している。

 日本びいきの本や番組が増えて、やたら日本や日本語をほめる人が増えたが、英語にない日本語なんていう本もいっぱい出ている。大切なことは英語に言い換えることができるとしても(「お待たせしました」をSorry to have kept you waitingと訳せる)、普段から使っているかどうかは別問題なのだ。語用論の問題なのだ。

表と裏、本音と建前、ウソも方便、甘え、談合、根回し、自然体、渋さ、喧嘩両成敗、我慢、けじめ、腹芸、ご縁、間(ま)、義理と人情、和、水に流す、らしさ、公案(直観的師弟問答)、よろしく
     松本道弘、ポイエ・デ・メンテ『「日本らしさ」を英語にできますか?』Japanese Nuance in Plain English!(講談社インターナショナル)

「便利!」「面白い!」と人気の日本語 「和の精神を感じる!」と感心される日本語 「その発想はなかった!」と驚かれる日本語 「そのまま英語化すべき!」と絶賛される日本語

お疲れさま
懐かしい
どうも
忘れ物
落とし物
草食談し
食わず嫌い
積ん読
きゅんとする
どっこいしょ
別腹
食い倒れ
へそくり
つんつるてん
耳障り
口欲しい
噛ませ犬
内弁慶

フォーンクルック幹治『ネイティブが感動する 英語にない日本語』(河出書房新社)

妖怪
いただきます
頑張る
いってらっしゃい
いってきます
お帰り(なさい)
お世話になります
初心
締め
神隠し
言霊
一生懸命
なあなあ
八方美人
お邪魔します
よろしく(お願いします)
花鳥風月
金継ぎ
幽玄
鯖を読む
忖度
阿吽の呼吸
浮き世
ほだされる
おじさん、おばさん
おにいさん、おねえさん
ありがた迷惑
恐れ入ります
喉ごし
甘える
ツンデレ
○○さん・○○様
○○ちゃん
上京
手酌
お通し
おつまみ
面食い
寸止め
寝正月
出戻り
一番風呂
おのぼりさん
地団駄(を踏む)
居留守
しょうがない
晴れ男・晴れ女
猫舌
花吹雪
おかげさまで
先輩
後輩
無礼講
渋い
生き様
かわいい
真面目
三日坊主
エンガチョ
すねかじり
口直し
あかんべい
箱入り娘
けんけん

 『逆欠如の日本生活文化』に戻って、おかしかったのは、水虫つまり白癬菌は世界のどこにでもいるが、完治しにくい国民病となってしまっているのは日本だけだという眞嶋亜有(まじま・あゆ)の指摘だ。外国に「水虫」はあっても(athlete's [athletic] footというようにスポーツマン特有の病気だと考えられている)「水虫問題」はないという。水虫の薬か毛生え薬を発明すればノーベル賞、というのは日本だけのおとぎ話なのだ。そして、水虫の原因は日本の近代化の逆説的展開にある「清潔志向ゆえの水虫問題」なのだという。だから、『ブレード・ランナー』を見た時に、雨ばかり降る都会でみんな水虫にならないだろうかと心配したのは杞憂にすぎなかったのである。

 「盲腸」というのもない。正確には虫垂炎なのだが、手術をするのは圧倒的に日本人だという。左腹が痛くても、「あんた、左利きだから」といって盲腸の手術をされそうな雰囲気が日本にはある。食べ物が違うとか、腸の長さが違うとかいろんな話がある。日本語の「盲腸」はオランダ語のBlinddarm「盲目腸」から来ていて、1774年の『解体新書』にも載っているのだが、appendicitis(盲腸炎)は1884年に出されたOEDには記載されていない。

 「肩凝り」が外国にはない、というのも有名な話だ。正確には「肩」だけを悪者にすることが外国にはないのだ。同僚のチャーリーが「夏ばてした」というので、「夏ばてって英語で何ていうの?」と聞いたら、ないという。チャーリーは最近、肩凝りもひどいらしい。しかし、これも日本人はコミュニケーションでうなずくことが多くて、肩を凝らしているという説もある。

 そういえば、欧米に耳かきがない。愛する人の膝枕で耳をかいてもらう、そんな情景が彼らには楽しめないのだ。人間の耳あかにはカサカサした「乾型」と、ネトネトした「湿型」があって日本人の8割前後が乾型を持つ。家族がみんな乾型で耳掃除は綿棒よりも耳かきという人は多いだろう。ところが、この割合は白人や黒人では大逆転する。ウェブスターは "earpick" を "a device often of precious metal for removing wax or foreign bodies from the ear" と説明している。しかし、英語を母国語とする人たちにとって "earpick" という単語はおそらくなじみのないもので、実際、標準的な英英辞典にはこの単語は登録されていない場合が多い。フランス語の "cure-oreille" に関しては、たとえば Petit Robert に "Instrument, petit spatule, pour se nettoyer l'interieur d'oreille."(耳の内部をきれいにするための小さなスパチュラ=へら状の道具)という説明があるが、これもフランス人にとってはなじみのない単語の一つだろう。またドイツ語に関しては"earpick" に当たる語を掲載している辞書はほとんどないという。びっくりしたのはチンパンジーのアイが機嫌が悪い時には耳かきをしてあげるという。

 “toothpick”はどうだろう。爪楊枝である。これは外国にもあるが、レストランで見ることは少ないように思える(高級レストランに入ったことがないもので…)。ただ、スイス・アーミーナイフには爪楊枝がちゃんとついていて、説明書にも“toothpick”とあって驚いたことがある。

 しかも、欧米には楊枝を手で覆ってせせるというマナーがないという。丸谷才一が『双六で東海道』(文藝春秋)で書いているが、辻静雄がこれをやるのを見てアメリカの美食評論家が驚嘆し嘆賞したという。

 佐田智子「<歌俳(うたはい)>欄は世界にあるか---新聞に見る「日本」の固有性」によれば、日本以外で詩歌の投書を掲載するのはアラブ圏の新聞だけだそうだ。1900年正岡子規を選者とする短歌欄が『日本』新聞に登場し、『東京朝日新聞』は1910年石川啄木を選者として、『大阪朝日新聞』は1915年若山牧水を選者として「朝日歌壇」を創設している。この「うた」文化は1920年代、すわなちラジオ時代に飛躍的な拡大を遂げ、今日に至っている。佐田は次のように総括している。

 日本の新聞は、その基層で「うた」を歌い続けてきたのではないか。「歌俳」的、「うた」的であるということは、共感性、共有性、代弁性、無署名性、擬似共同体的幻想を包含している。……「歌会始め」を年初に天皇家が主宰し、一年を予祝する。新聞というメディアはそれを伝えることによって、「歌俳」欄をほぼ100年間発展、継続することによって、大衆的レベルでの現代の勅撰和歌集を継続させ、埋もれかけた、古い共同体の記憶の残滓、共同体の祭祀のはるかなる下請けを、自身も意識しないまま続けてきたのかもしれない。

 園田英弘はこの本の中でも忘年会を扱っているが、シーズンに合わせて面白い本を出した。『忘年会』(文春新書)だ。忘年会は年中行事を扱う本などでもほとんど忘れ去られ、というか無視されてきた行事で分からないことが多いという。それでも、忘年会の起源は室町期の「としわすれ」に起源のひとつが認められ、江戸期、明治期と、主に武士・官僚層によって年の終わりに持たれた「会」に、整いゆく形が見えるという。

 面白いのは「忠臣蔵」討入りが成功したのは「忘年茶会」の夜に決行されたからだという。小さい頃からおかしいとは思っていたが、吉良亭には3倍の手勢がいたにもかかわらず、赤穂浪士側は死者なし、打撲傷が3人。一方、吉良側は「首級(しゅきゅう)」を取られただけでなく、討死が16人、手負いが21人だったという。江戸川柳にも「明日しらぬ吉良の屋敷の年忘れ」とある。

 アメリカ人哲学者のマイケル・ブロンコの『僕、トーキョーの味方です』(メディアファクトリー)にも「騒音の『年間予算』――忘年会」として出てくる。

 アメリカのクリスマスパーティは、たいてい自宅や職場でこぢんまりと祝う。家族や親しい友人が集まり、甘すぎるデザートとエッグノッグ(卵に牛乳と砂糖を混ぜ、ラムを加えた飲み物)とプレゼントを囲む。家庭で祝うクリスマスは、退屈で気づまりなものだ。七面鳥がテーブルの真ん中に陣取り、テレビのスポーツ中継や特別番組がいい退屈しのぎになる。

 東京の忘年会シーズンは、十二月いっぱい続く。同僚、友人、知り合いの知り合い、予約とは決して一致しないほどたくさんの人数が集まり、にぎやかな宴会が繰り広げられる。飲んで、食べて、しゃべって、すべてがふだんの二倍になる。アメリカでも日本でも、十二月は消費の月だ。アメリカ人はプレゼントに、日本人は居酒屋に金を注ぎこむ。

 キリスト教国にはないが、東アジアには日本の忘年会が輸出されているという。アメリカではクリスマスを祝うことができなくなっている。キリスト教徒でない人に配慮したもので、ブッシュ大統領だって2004年から「ハッピーホリデーズ」というようになった。「メリークリスマス」はPC(政治的に正しい)とはいえないのである。キリスト誕生の絵は公共の場から消え、公立学校では「きよしこの夜」も歌えない。「クリスマスツリー」が「コミュニティーツリー」、「クリスマスパーティー」は「ホリデーパーテイー」と言い換えられてきている。ユダヤ教とは「ハッピーハニカ」などと言っている。

 それに対して、忘年会は非宗教的で融通無碍だからこそ生き延びてきた特異な習俗なのだ。元々、クリスマスはキリスト生誕の話がヨーロッパ古来の冬至の行事と結び付いたもので、宗教色は後からついたものだ。クリスマスの代わりに忘年会。

 おおっ!忘年会はこれから日本が輸出できるソフトパワーの一つなのかもしれない。居酒屋とそのもてなし、というのも世界にないものである。

 日本人は日本の良さを認めようとしない。もちろん、謙虚に反省すべきことは多い。だが、いいものがいっぱいあるのだから、もっと誇りに思っていいはずだ。

 鈴木孝夫先生は日本人の持っている、絶えず、いいところは他にあると思う傾向を「地上ユートピア主義」と言っていた。本物が目の前にあっても、まだまだ別のところに本物があると信じて、音楽の「本場」などに無条件で憧れるのである。「地上ユートピア主義」が近代日本を作り上げてきた。モースも『日本その日その日』で日本の国民があらゆる文明から最善のものを探し出してきて、それを即座に採用するという位置要るC特長を賞賛しているし、外交官だったアストンも「日本人は、単に借用することで決して満足しない。美術においても、政治組織においても、宗教においてさえも、他国から取り入れたものは何でも広範囲にわたって修正を施し、それに国民精神の刻印を押すという習性を持っている」という。チェンバレンは『日本事物誌』で「独創性の欠如であると、彼らは言う。ところが、たいていの価値のある思想の風に吹かれて、すでによく身にしみているという世界では、この模倣性は実際的知恵の証拠であるという人もある。これが良いか悪いかは別として、模倣が手のこんだ細部にまで浸透しているのを見ては驚嘆せざるを得ないのである」と書いている。

 これからの日本はもう一度、模倣と独創の連続で巧妙に作り上げてきたさまざまな日本文化を再発見していかなければならない。

 とはいえ、僕が忘年会や新年会など飲み会が嫌いなことは変わらない。勤務校では積立をしていて、わずかのお金で忘年会に出席できて、欠席してもキャッシュバックはなかったが、今年からさすがに欠席者にお金が少し戻ることになった。欠席する権利が少し認められることになったといえるかもしれない。

 と、こんなグチを積み重ねていけば、いつか展望が開けるかもしれない。と、年の暮れに思うのである。

【初掲:2006年12月1日】


□プロムの恐怖〜日本にない外国

※その後、高田公理『にっぽんの知恵』(講談社現代新書)という本が出た。これを読めば、どれが日本的か分かるようになっている。目次を見るだけでも何をいいたいか分かる。

第1章 湯浴みにくつろぎ、穏やかに暮らす
銭湯/刀狩り
第2章 草木虫魚に親しみ、サルからも学ぶ
花見/里山/サル学/菊人形
第3章 「ありあわせ」を活かし、遊び、親しむ
ありあわせ/からくり/缶コーヒー/だし
第4章 普通の人々の好奇心と表現の試み
おけいこ/カラオケ/第九/モバイル
第5章 柔らかな人間関係が生み出す世界
根回し/お歳暮/いろ/ママ・女将
第6章 八百万の神と単一原理からの自由
神さま仏さま/ちょうど好い加減

 軍隊に戻ろうと考え始めていた脱走兵を銭湯に連れていったら、軍隊に帰るのを止めたという話が感動的である。橋本峰雄の論文『風呂の思想』(現代風俗研究会編『現代風俗 77』)の「もともと、キリスト者が入浴を禁圧する傾向があったのと対照的に、仏教においては入浴は徳を得るものであり、「施浴」は功徳・追善の行事となるものであった」というのが引用してある。

 『「COOL JAPAN」かっこいいニッポン再発見』(NHK出版)によれば、外国人が見た日本のクールは次のようである。

1.洗浄機付き便座 2.お花見 3.100円ショップ 4.花火 5.食品サンプル 6.おにぎり 7.カプセルホテル 8.盆踊り 9.紅葉狩り 10.新幹線 11.居酒屋 12.富士登山 13.大阪人の気質 14.スーパー銭湯 15.自動販売機 16.立体駐車場 17.ICカード乗車券 18.ニッカボッカ 19.神前挙式 20.マンガ喫茶


 

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