笑説 越中語大辞典



●もうとも

 「毛頭」。例:「こっから、もうともせんちゅうがかいね」(これから二度としないというのですね)。

●もうもう(もうも)が来る

 「人さらえが来る」と同じように使った。富山市で80年生まれの学生が聞いたことがあるというからまだ使われているのだ。

 これについては柳田國男が『妖怪談義』で富山地方では幼児を脅すのに「泣くとモーモに噛ましてやるず」と言った例を載せている。柳田は蒙古から来ているという説を退け、はじめに「咬もうぞ」という語があって、それが猛獣などの真似をして相手をおどすときに使われたのだが、東北の方では第一音節に力が入らないでモウコとなったという。

 田辺聖子の本に「カモカのおっちゃん」というのが出てくるが、同じ語源だということであろう。

 『大辞林』には「むくりこくり」として記載されている。漢字は「蒙古高句麗」で〔「むくり」は蒙古(もうこ)、「こくり」は高句麗(こうくり)のこと。元寇のときに、「むくりこくりの鬼が来た」と言って恐れたことから。「もくりこくり」ともいう。意味は次のとおり。

(1)恐ろしいもののたとえ。子供を泣きやませるときなどに言った。
「天人の玉子ではない―が玉子にてあらうず/咄本・醒睡笑」
(2)無理非道なこと。
「神国に生まれて、神沙汰を停止とは、正真の―/浄瑠璃・日本武尊」

 真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には「もー・もーこ・もんこ」が青森・岩手・秋田方言とされていて次のように説明している。

「もーこ来るど」という表現から、いわゆる「蒙古襲来」の「蒙古」を連想する人もいるが、これは民間語源。ムササビやモモンガの類を古く「もみ」と呼び、これが転じた「もも」にこれらの動物の鳴き声を付して「ももんが」という語が生じた。この「ももんが」が「もんか」→「もんこ」と変化し、さらに意味の上でも、奇妙な鳴き声を発して暗がりを滑空する動物から、恐ろしい化け物を意味するようになった。ほかに、「もののけ」が転じた「もんけ」から「もんこ」となったとする説もある。単独で用いられる「もー」は「こ」が指小辞と意識されたことにより生まれたもの。

●もえさし

 「燃え残り」。

●モータープール

 大阪中心の「駐車場」。金沢で一度見かけたことがあるが、富山では記憶にない。

●モクズガニ

 「上海蟹」の近縁種であるが、新湊では「たあだんがん」と呼んでいた。小矢部川が有名。

●もくぞ

 篠崎晃一『ひと目でわかる方言大辞典』(あかね書房)によれば、「ゴミ」のことを富山だけでいうと書いてあるが、「大水のあと、川などにひっかかっているものを言う」と説明が書いてある。

●木造校舎

 城端中学が木造だった。消防法の改正によって2019年に3校が統合してできた星の杜小学校が木造3階建てになった。

●杢目羊羹(もくめようかん)

 1866年(慶応2年)創業、富山の老舗「鈴木亭」の銘菓。立山杉の年輪に想を得た。江戸時代、幕府の注文を受ける「鈴木越後」という菓子屋が江戸にあった。特にようかんが有名で、人気が高かった。初代はこの店で15年間修業し、故郷富山に戻って鈴木亭を興した。杢目羊羹には、鈴木越後以来の江戸練りようかんの伝統が流れているのである。

●もぐらもち

 「もぐら」。僕は使わないが母親が昔使っていたという。日本の主なモグラには2種類いるが、富山はコウベモグラではなく、アズマモグラ。

●もざく

 「引き裂く」。

●モスク

 「富山(新湊)モスク」がある。旧新湊市殿村で8号線のトナミ運輸の近く。前はコンビニだった場所だ。この辺りから「パキスタン街道」が始まるから当然の建物なのだろう。礼拝の時はあちらこちらからたくさんの人が集まってくるのでびっくりすることがあったが、中古車市場の変化とともにパキスタン人が減った。

●餅 

「餅について」 長田弘『食卓一期一会』

冬はおもいきって寒いのがいい。
風はおもいきって冷たいのがいい。
頬は赤く、息は真ッ白な冬がいい。
子どものころ、田舎の冬がそうだった。
空気がするどく澄んでいて、
終日、ぼくは石蹴り遊びに熱中し、
搗きたての餅が大の好物だった。
じんだ餅。たかど餅。つゆ餅。
のり餅。くるみ餅。なっと餅。
あんころ餅。ねぎ餅。からみ餅。
餅は食べかたである。
つくりかたでさまざまに名が変わる。
つくるとは、名づけること。

 富山の食文化は餅と共にある。富山市の餅消費量は日本で一番である。「娘三人おれば臼乾くことがない」といわれるくらい、餅を配る行事が多い。富山の餅米は「新大正黐」である。

 餅の種類は形によって丸餅、とぼ、のし餅があり、外観からは白餅、色餅、混ぜ餅(豆・昆布・あん入りなど)に分かれる。また、正月のお鏡、仏事用のおけそく、針歳暮、祝い事には紅白の丸餅、桃の節句は白と緑、端午の節句は白と黄、誕生餅は白と豆餅など、行事によっても決まりがある。

 餅について柳田國男は「食物と心臓」の中で、餅や握り飯の形は人間の心臓を模したために丸いという。折口信夫は餅=霊魂説を説いて、餅が霊魂であるとうい考えに立つ限り、餅が丸いのは必然的なことだという。「たましい」「みたま」というように、霊魂は「たま」であり、「たま」は丸いものなのだ。

 「日本では餅は単なる食べ物というよりも、精神的な価値を付与された特別な存在として扱われてきた」(渡部忠世・深澤小百合著『ものと人間の文化史 もち』)ので、懐妊、出産、誕生祝い、婚礼などの儀礼に際し、餅が食べられてきた。土地によっては葬儀まで。正月だけでなく、ほかの節句や年中行事でも同様だ。

●持ち家率

人みなが家を持つてふかなしみよ
墓に入るごとく
かへりて眠る---石川啄木『一握の砂』

 持ち家率日本一というのが富山県のウリだ。「家持」が国府を治めていたから当然だろう。

 2000年国勢調査によると、都道府県別の持ち家世帯の割合は、富山が79.3%と全国1位。2位は秋田県(77.8%)、3位山形県(75.8%)、4位福井県(75.4%)と、日本海側が上位を占める。全国平均は61.1%で、最下位は東京都(43.7%)。一世帯当たりの延べ面積も、本県が146.4平方メートルで最も広く、2位は福井県、3位は秋田県で、日本海沿いの恵まれた住宅事情が読みとれる。逆に、民間借家世帯の割合は、東京都が40.3%とトップで、富山の13.2%が最低となっている。

 富山の家が大きい理由として次のことが挙げられるだろう。

〈1〉土地が安くてたくさんあること
〈2〉次男以下が独立する時に親が家を建ててあげる
〈3〉雪の重さに耐えられる頑丈さが必要だった
〈4〉家族が協力して農作業に従事するなどしたことから、家族の人数が多い
〈5〉勤勉で堅実な県民性から共稼ぎが多く、資金面の裏付けがあった

 しかし、一世帯当たりの人数(老人ホームや寮など「施設等の世帯」を含む)は、1950年の5.23人をピークに縮小を続けている。60年に4人台、75年に3人台に減少。2004年10月には、ついに大台を割って2.99人(推計値)となった。

 一方、世帯数そのものは増えている。終戦間もない1947年は191920世帯。以降、60年に20万台、85年に30万台へと増え続ける。2004年10月の世帯数は372868に達した。

 ところが、2008年の総務省の住宅・土地統計調査結果が公表され、自らが所有する家に住む世帯割合を示す県内の「持ち家率」が03年の前回調査より2ポイント減の77・6%(全国61・2%)となり、全国2位となった。富山県が1963年の調査以来、維持してきた「持ち家率日本一」の座を譲ったことになる。全国トップとなったのは秋田県で78・4%。富山県の持ち家率が低下した理由について県統計調査課は「核家族化が進み、若い世代が民営借家に住むケースが増えたため」という。1戸当たりの住宅の延べ面積は前回より4・65平方メートル減の147・23平方メートル、1人当たりの居住室の畳数は前回より0・61畳増加の16・48畳で、それぞれ全国1位の広さとなっている。

 2018年に「崩蝕の国土」というドキュメンタリーが放送され、持ち家率が地域を苦しめている状況を訴えた。

●もちかち

 「餅をつく」とは言わないで「餅をかつ」というので「餅つき」。「餅を二十九日に搗いてはいけない」は「苦餅」になるからというので避けられた。でも、「三三九度」はいいのか?というと「めでたい三を重ねたから、よいこと」とされる。例:「もしかして明日、もちかち?」。

●もち食い地蔵

 氷見の上日寺にある地蔵にまつわる話。昔、鬼のように怖い継母と女の子がいた。継母は意地悪ばかりをしておやつを食べさせなかった。ある日、わざと家の中にもちを置いて家を出た。女の子は我慢しきれず、もちを食べてしまい、継母に叱られた。言い訳で「朝日山のお地蔵さんが食べた」と嘘をつく。継母は女の子を寺に連れて行って、地蔵の前にもちを置いて、「本当に食べるのか」と女の子を責めた。すると、地蔵はもちをぱくりと食べ、その姿に継母は改心をして、優しい母親になったという。この話をきっかけに鐘つき祭り「ごんごん祭り」が始まった。

●もちのき

 「とねりこ」の木。

●もちもち〜もつもつ

 「ふっくら」。例:「もっちもちのほっぺたしとるねけ」(ふっくらとした頬をしているね)。

●もちもちラーメン

 餅が入ったインスタントラーメンのエースコックの「もちもちラーメン」は昭和57年全国で発売だが、平成19年から北陸限定となっている。富山は餅の消費量が全国で3位だそうで、そのせいらしい

●もっかい

 「もう一回」が縮まったもの。例:「もっかい、して」(もう一度して)。

●もっこう

 亦紅のことで、富山の家紋に多い。「吾(われ)も亦紅(またくれない)なりとひそやかに」(高浜虚子)。「すぎもとまさとの歌う「吾亦紅」(ちあき哲也作詞、杉本真人作曲)は、中年の男が墓参りをして亡き母をしのび、もうじき離婚することになった身の上を墓前に告げる歌である。

●もったいない

 廃語になりつつある共通語だが、富山ではまだ使われる。田中耕一は失敗した試薬を「もったいない」と思って、別の用途で使ったのがノーベル賞につながったという。「もったいっしゃ」(もったいないことや)という言い方もある。大量消費と飽食で「もったいない」は半ば死語のようでもある。「まだ使える物を捨てて新製品に飛びつく価値観が人間と地球の使い捨てにつながる」というのが評論家の石垣綾子の警告だった。

 同じくノーベル平和賞(2004年)を受賞したケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイは05年に来日した際、この日本語を知って、感銘を受けたという。国連の「女性の地位委員会」閣僚級会合ではこう演説している。消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)という「4つのR」を、日本では「もったいない」の一言で表している、と。この言葉を強調し、マータイは環境保護や平和推進で女性が果たす役割の大切さを訴えた。

 江戸期の『柳多留』に「母親はもつたいないがだましよい」という川柳がある。母親の甘さにつけ込む、困った道楽息子の本音。とはいえ、そんな息子でも母親を「もったいない」とありがたがる謙虚さがうかがえる。「もったいない」は物を惜しむ場合にもよく使われるが、そこには節約の意味だけではなく、例えば親に対するような感謝や謙虚の心が込められていよう。かつて日本人は「もったいない」をよく口にした。ご飯粒を残しても、そうしかられた。食や物を大事にするつましさや、たしなみ、作った人への感謝を教える言葉である。

 立山町は05年から、町民の窓口となる「住民環境課」に「環境ISO推進もったいない係」(通称・もったいない係)を新設する。町独自の環境ISOやリサイクルなどの「4R」の考え方を普及させ、町政の柱の一つである環境施策を推進。人、物、金などにわたり「もったいない」を合言葉に取り組むことになった。立山町は「3R」に「リフューズ(断る)」を加えた、より積極的な「4R」の意識の下、世界に誇れる環境の町づくりを進める。大辻町長は「よく母親から『あったらもんな(もったいない)』と言われた。大量消費から、人や物、金を大切に使う時代。子どもたちにも考え方を広めたい」と話している。

 河合隼雄の対話集『いのちの対話』(潮出版社)に次のような発言があった。

「もったいない」ということは、ものがないことを前提にして子どもの躾の中核だったんです。日本人は日常生活と深く結びついたものを通して心を教え、宗教を教えるというようにやってきたのに、これだけものが豊富になったらそんなパターンは全然守れませんよ。ましてキリスト教のように明確な教会という存在を持った文化圏ではないんです、日本は。そうなると、各人に課せられる課題が大きくなります。とくに家族や子どもの問題がこれまでと違う意味を持ってくる。

●もったげる

 「持ち上げる」。

●もない〜ものい

 「物憂し」から「面倒で難しい」さま。「もの」が取れて「憂し」だけで「うい」となった。仕事や体のつらさを語る時に使い、金沢でも使う。例:「か、何ちゅう、もない問題やろか」・「そんなもないことやっとられんちゃ」。真田信治・友定賢治『地方別方言語源辞典』(東京堂出版)には「ものごい」が福井・石川の方言として載せられている。

●ものもらい

 僕は「めぼろ」だったが、県内では「めもらい」というのがあって可愛いといわれる。

●もみじこ

 スケトウダラの真子を塩漬けしたタラコを、優雅に「紅葉子(モミジコ)」と呼ぶ。ちなみに「明太子」の「明太」というのはハングルで「スケトウダラ」の意味。

●ももたぶ

 「股」。

●ももつけない

 「むごい」。

●森の名手・名人100人

 国土緑化推進機構(東京)が認定する「森の名手・名人100人」に、八尾町高野の津田利雄と平村下出の宮本外次が選ばれている。

●森の夢市民大学

 2002年で閉校になった洗足学園魚津短大の施設を利用して魚津市にできた“新大学”の名称。2002年6月に開講。「文化による地域おこし」に熱意のある市民がつくる。テレビキャスターの筑紫哲也を学長に、市民ボランティアによる運営体制ができている。

●森山啓(もりやまけい)

 新潟県出身の詩人、小説家。旧制中学校教師の父の転任に伴い、高岡市に移り少年期を過ごす。 1912年、福井市に移住。福井中学の同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞。

●…もろう

 「…もらう」。例:「ゆんべ、来てもろうてぇ、気の毒な」(昨日、来ていただいてありがとうございます)。

●…もん

 富山だけではないが「…者、物」。例:「田舎もん、余所もん、安もん、みゃーらくもん」。

●紋左【もんざ】

 朝日町にある老舗旅館。「横浜事件」はここで起こった。女将の柚木ひさは官憲の弾圧にも耐えたという。

●『紋章』

 横光利一『紋章』の小説。魚醤つくりに捧げて周囲から変人あつかいされるほど一途に研究に打ちこんでいる男と、思考力過剰でなにも行動が起こせなくなっている男を軸にして、官界、学会、実業界の人間模様を描いた小説。ネタばらしをすると、真宗王国の富山では魚の醤油など売れなかったという結末。

 荒川洋治『霧中の読書』(みすず書房)の「テレビのなかの名作」p.180に次のような紹介があった。

 まずおぼえているのは、横光利一「紋章」。雁金という男は、サツマイモから醤油をつくるという奇妙な発明家。モノクロの画面だった。家屋に光がさし、男がひとりで何か考えている、というような映像が漠然と浮かぶ。そのことを書いたら編集部の人が調べてくれて、NHKの「文芸劇場」(金曜夜八時並ー九時)という番組で一九六二年八月三一日に放送とわかった。ぼくは中学一年だったことになる。主演は、宇野重吉、庄司永建、高森和子など。脚本は藤本義一(のちに直木賞を受賞する作家)。「紋章」は横光利一の代表作のひとつで、一九三四年に発表。二八年後にドラマになったのだ。

●もんぺ

 富山方言ではないが、語源がよく分かっていない。


英語

数字

序文

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