「人間嫌い」

エリアント  だけど、普通の恋って、そんな風なものではないわ。恋をする人は、いつも自分の選んだ相手をほめるものよ。夢中になっていて、相手のよくないところなんぞ、目につくものではないわ。【…】だからあたくし、真剣になって恋をしている男の人というものは、相手の女の欠点までも愛するものだと思うわ。
アルセスト  でも僕は、どうしても僕は…。
     -----モリエール『人間ぎらい』(内藤濯訳・新潮文庫)


☆「人間嫌い」と呼ばれて

 今日、これからビアパーティに行くのだが、出たのは14年ぶりである。というのも初めて開かれた1995年の夏、副校長から嫌がらせを受けて、それ以来出なかったのだ。とはいえ、それなりの任務をいただいているので、今回は出なくてはならなくなった。

 実は、忘年会も出ていない。こちらはセクハラを受けたから止めた。今だって声楽家の妻とのことでセクハラを受ける。内容はとても書けない。

 で、その時の情景を思い出した。いきなりOがやってきて、「金川先生、あんた、人間嫌いだから、こんなパーティに出ないと思っていた」というのだ。その当時までは忘年会だって出ていたから、今ほど宴会嫌いということはなかったし、そう思われてもいなかったはずだ。なのに、いきなり「人間嫌い」と来た。

 びっくりしていると、「あんたは学生を大事にしない、奥さんばかり大事にしている」という。「そうですかね」というと、「そうだ」という。

 考えてみると、その前にも同じ話をされたことがあった。妻が地元のNHKのロング・インタビューに出ていたのだが、通勤途中にこれを聞いたという。「奥さん、家族に感謝していると話していたけど、あんた、家族のことしか考えてないやろ」といわれた。妻はその中で、「こうやって声楽家を続けていられるのも、家族のおかげです」と言っただけで、特に僕がどう関与しているかなど話していなかった。通常の挨拶だ。アカデミー賞受賞者じゃなくても、誰だってそう言うだろう。そんな言葉の切れ端を捕まえて、そんなことを言ってくるのだ。

 Oがどうして僕にそこまで敵愾心を抱くのか分からなかったし、今、こうやって書いていても分からない。

 こんなこともあった。担任を持つことになっていた入学式の前の日に、始まったらなかなか行けないだろうと、お医者に寄ってきた。まあ、研究室に入ったのは9時半ごろだったと思う。いきなり、Oが入ってきて、「遅い、何をやっているんだ」という。「医者へ」というと即座に「ウソつけ」という。仕方がないので、注射の跡を見せたら、引き下がっていった。

 その後、誰かの歓迎会だったと思うが、出席していたら、ビールを注ぎに来て、「どうだ、天敵のビールは飲めるか?」という。仕方がないので、「ええ、点滴はしたことがないのですが、体にいいと言われていますから」と言って飲んだこともあった。

 この日のビアパーティで、英語のK先生というのが側にいて、さすがにまずいと思って、僕のことをかばってくれた。すると、

「お前は奥さんとK先生ばかり大切にする」。

 今ならパワハラで訴えられるかもしれないが、こうした理不尽なことに耐えなければならないのが、渡世というものであろう。

 シェイクスピアの「リア王」のように「老人が支配するのは奴に力があるからではなく、こちらがおとなしく忍従しているからだ」と思って我慢する。

 Oをそれなりに評価する人間もいたが、「だれも彼も尊敬するのは、だれも尊敬しないのと同じだ」と、『人間ぎらい』のアルセストのように叫びたくなる。

 悪意の人というのは絶対にいる。本人は正義の人だと思っているからタチが悪い。しかも、年齢を経るとより悪くなるから悲惨だ。小津安二郎の『小早川家の秋』(1961年)で原節子に「品性の悪い人はごめんだわ。品行はなおせても、品性はなおらないもの」と言わせている。縁談に心揺れる義理の妹の役の司葉子に助言する場面だ。

 いきなり訳の分からない不条理に先ゆく道を妨げられて、戦うのが村上春樹の世界で教えられたことでもある。

 そういう人に限って「アドバイスだ」と言い寄ってくるものだが、ただの文句にすぎない。だから、どんな人も相手にしないことにしている。

 イソップに「ヘラクレスとアテナ」という寓話がある。ヘラクレスが道を歩いていると、リンゴのようなものが落ちていた。踏みつぶそうとすると二倍の大きさになった。更にその物体をさっきより強く踏みつけ、棍棒で殴りつけたが、ますます膨らみ、道を塞ぐほどになった。唖然とするヘラクレスの前にアテナ女神が現れ、「おやめなさい。それは敵愾心であり、争い<の精>なのだ。放っておけばそのまま。もみ合うほどに大きくなる」。

糸井重里(伊勢丹)
ネクタイ労働は甘くない。

 もし、Oの指摘している人格が、モリエールの『人間ぎらい』のアルセストのように、本音と建て前を使い分けることを嫌うような偏屈な人間のことを指しているとしても、当時の僕も、今の僕も当たってはいない。今も昔もお追従だらけの人間で、「気配り欣ちゃん」というのが僕の愛称だったからだ。

 僕はOに何も悪いことはしていない。それがあるなら、ちゃんというべきだろうし、酔ってもいないのに、(酔っていても問題だが)、そんなことをパーティで話してくる人間は全く信用できなかった。

 「ホルモン」の語源が「放るもの」から来ている、というと、ひどく喜んだことがあった。でも、証拠を見せろ、という。語源に証拠などはなく、これが唯一正しい答えだと僕が主張しているのではないのに、「いい加減だ」と決めつけてきた。

 「お前の悪い点はそこなんだ」といわれたら、「その点以外は評価しているから頑張れ」という意味だとか、「こんなことも分からないのか」というのは「理解力があるはずなのに、そこは直せ」という意味に取るべきだという人もいた。しかし、十数年たって、客観的に見ても、Oは間違っていたと思う。

 そうそう、Oは授業の下手な先生を最後の1年、干してしまった。もちろん、悪いのは「忍者」と呼ばれた先生なのだが。

 イソップにこんな寓話がある。

 その昔、プロメテウスは人間を創ると二つの袋を首に掛けさせた。
 体の前には他人の欠点を入れる袋、背後には自分の悪い所を入れる袋。それ以来、人間は他人の欠点はたちどころに目につくのに、自分の悪い所は予見できない、ということになった。

 「ブーメラン効果」というのがあ。学生に喫煙をやめるよう先生が諭す場合、好きな先生に言われるなら効果があるが、嫌いな先生だと、むしろ逆効果になることもある。「お前にだけは言われたくない」という気分になるものらしいが、僕はその意味で学生たちと変わらない。

「反射」(『希望  杉山平一詩集』 編集工房ノア) 

毛布はあたゝかい
そんなことはない
あたゝかいのは
あなたです
ダイヤモンドは
光るのではない
光を反射するだけだ  
あたゝかいのは
あなたのいのち
あなたのこゝろ 
冷たい石も 
冷たい人も
あなたが
あたゝかくするのだ

 どちらが「人間嫌い」なんだ、と言ってやりたかったが、力関係がそれを許さなかった。こうして、夏のビアパーティも冬の忘年会も、全体の歓迎会も出なくなっていったのだった。ところが、今度は「教養学科の出席率が悪い」と文句を言って来た。「強要学科」じゃない。

 こうしてますます人間嫌いになってしまった。

 ↑やっぱり、人間嫌いだったんじゃないかー。

 しかも嫌なことはOも山本周五郎が好きだということだった。

 黒澤明の映画『赤ひげ』の原作でメンターの赤ひげ【映画では三船俊郎】はいう。

「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」
「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもない」
     -----山本周五郎『赤ひげ診療譚』

 最後の方で主人公の保本登【加山雄三】がいう。

「貧富や境遇の善し悪しは、人間の本質には関係がないと思います」と登は云った。
「わたしは先生の外診のお供をして、一年たらずの期間ですがいろいろの人間に接して来ました。不自由なく育ち、充分に学問もしながら、賎民にも劣るような者がいましたし、貧しいうえに耐えがたいくらい悪い環境に育ち、仮名文字も読むことさえできないのに、人間としては頭のさがるほどりっぱな者に、幾人も会ったことがございます」
     -----山本周五郎『赤ひげ診療譚』

 そのうち分かったことは劣等感がある人ほど理不尽な叱責をする。相手が屈服すれば、ますます優越感にまみれる。劣等感は“inferiority complex”、優越感は“superiority complex”というが、「コンプレックス」、「複雑なわだかまり」、つまり劣等感の裏返しがそうした人を生み、他人に厳しく当たるのだから、僕らはそうした理不尽に耐えて、前向きに仕事をしていく他はない。

 ラ・ロシュフーコー『箴言集』は「凡人は、概して、自分の能力をこえることをすべて断罪する」と書いている。

 山口周『劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか』(光文社新書)によれば、「オッサン」とは「古い価値観に凝り固まり」「過去の成功体験に執着し」「回想序列の意識が強く」「よそ者や異質のものに不寛容」な人々のことをいう。人材育成コンサルタントの著者によれば、劣化は組織の宿命だという。なぜなら「一流は二流より圧倒的に少なく、二流は三流より圧倒的に少ない」からだ。つまり、権力を手にする機会は一流より二流が多く、その二流が三流からへつらわれ、周囲の一流を抹殺していく。山口のいう処方箋は二つで「オピニオン」と「エグジット」だ。おかしいと思った時に「意見」を言う。状況が変わらない場合は、そこから「退出」する。その自由度を自分に担保していくことが、きわめて大事な時代になっているという。

 なんだ、僕が嫌いだったのは「オッサン」だったのだ。

怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし---石川啄木『一握の砂』

 Oも僕も人生には周五郎だけでいいかもと思っているが、Oには周五郎しかなかったのだ。他人を「人間嫌い」呼ばわりするのは「無教養な人間のやる不作法な態度」というものである。


☆地獄からの脱出法

 スヌーピーの漫画『ピーナッツ』では「雨は正しいものにも正しくない者にも降るのさ」という言葉がある。そこまで卓見しよう。

 しかし、勝手に師匠になってもらっている西江雅之先生は「開放的自閉症」を標榜して、次のように書いている(『わたしのこだわり』岩波書店)。立場的には似てきているのかもしれない。

 人間関係ということに関しては、もう何十年も前から、わたしは“開放的自閉症”であると自己診断してきた。老若男女、身分、職業、国籍、目や髪や肌の色、身体の強弱、貧富、その他、相手の人間を包む如何なる背景にも囚われることなく、誰とでも同じ調子で付き合える。どんな話も、困惑することもない。如何なる立場に立った話題にも、怒るということもない。開けっぴろげなので、誰とでもその場を保てる。しかし、これは考えてみれば、対人的には本気になることができないからであって、実は、人間が冷たいとまでは行かなくても、他人には無関心という性格ではないかと思う。少しは他人の行為に怒れ、批判せよ、怨め、悪口を言え、けなせ、世間を憂えよ、日本を批判せよ、と意識して自分に言い聞かせることもあるが、そんな思いはたちまちのうちに忘れてしまう。

 要するに、世間はそんなものだと受け入れているのである。ところが自分が一人で行っていることに関しては、世間の評価などは基準にしていない。流行などに巻き込まれることも、まったくない。自分の世界には、堅い壁が張り巡らされているのである。そして、その閉じられた世界の住民は、わたし一人だけなのだ。

 世間と自分の内面世界。その二つの世界の瞬時的な使い分け。“開放的自閉症”我ながら良い自己診断だと思っている。

 僕も人間は良い面も悪い面もどちらもあるように思う。Oを一概に悪いとは思っていない。だって、慕っているOBも多いのだから。

 イタロ・カルヴィーノに『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)は戦場で大砲に撃たれ、体を縦二つに割られた子爵の話だ。帰還後、一方の半身は残忍のかぎりを尽くし、他方は困窮する人々への奉仕に身を捧げる。体が再び一つになった時に子爵の思慮深さは、人間においてはつねに相容れぬものがせめぎ合うとの洞察からくる。そして「彼にはひとつになる以前の半分ずつの経験があったから、いまでは充分に思慮深くなっていた」と甥っ子は思うのだ。

 清濁合わせ持つのが人間であり、人生だ。喜びばかりの人生などありえない。喜怒哀楽が相俟って人生模様を描いている。喜怒哀楽の総量が人間の人生の豊かさだと思う。

 是枝裕和監督『万引き家族』がカンヌでパルムドールを獲た時に是枝監督は「薄汚れた世界がふと美しく見える瞬間を描きたい」と語っていた。人の弱さが監督には美しく見えるのである。

 いつだって自分は過ちがないかのように仕事をしていた。

仲畑貴志(西部百貨店VARIE)
まっすぐの人間だから、よくぶつかる。

 会田雄次が『新選 日本人の忘れもの』という本に「私たちは、間違わない奴ほど世の中でイヤな人間はいないのだ、ということを本当に知り、過ちを恐れず、自分の欠点も隠さず、もっと気楽に世の中を送るようになるべきだと思う」と書いていたが、間違いの人生などないはずなのだ。

 村上春樹は『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』(マガジンハウス)で次のようなことわざを紹介している。

Those who live in glass room shouldn't throw stones.(ガラスの家に住む人はみだりに石を投げるべきではない)

 ネットでも誹謗中傷を受けることがある。ウィキペディアなどは最低で、まるで地雷原を歩いているみたいだ。うっかり、自分が一番詳しいと思っている人が仕切っている項目に加筆したりすると、とんでもない中傷を受けることになる。

 そんな時は太宰の『ヴィヨンの妻』のラストシーンを思い出すことにしている。この作品は有名な詩人ではあるが、大酒のみで、生活費をかすめ取り、家庭をかえりみない夫に業を煮やしながら健気に耐えていた「私」が最後には他の男と姦通してしまうという話だ。

 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 と言いました。

 その後、佐藤正午の『豚を盗む』(岩波)を読んでいたら、「人嫌い」というエッセイがあった。佐藤は「人に会うと不幸になる」という一行を含むエッセイを書いたことがあり、それ以来こだわっているのだという。更に『ビコーズ』という小説で「人嫌い」という言葉を使ったら、ある女性から「人嫌いって言葉はほんとに日本語にあるんですか?」と聞かれたそうだ。辞書にはあるのだが、その女性の辞書にはなかったようだ。いまでも彼女の辞書にその言葉が載っていなければいいな、と願っている。という。

 出会いが大切だ、という人は多いが、出会いによって人生を破滅する人だってたくさんいたはずだ。のりピーだって、あんな旦那に会わなければ…。

 でも、報道によれば、お父さんも怖い人だったらしいから。親って選べないものなぁ。

 商船高専で多くの人間を学んだ。栄二のおすえの衝撃の告白を聞いた後のセリフを「寄場」(よせば=罪人の支援施設)を僕の「学校」に変えて読んでほしい。

「……おれは島へ送られてよかったと思ってる。寄場であしかっけ三年、おれはいろいろなことを教えられた。ふつうの世間ではぶっつかることのない、人間どうしのつながりあいや、気持のうらはらや、生きてゆくことの辛さや苦しさ、そういうことを現に、身にしみて教えてくれたんだ。読本(よみほん)でも、話でもない、なま身のこの躯【身+區】で、じかにそういうことを教えられたんだ」
     -----山本周五郎『さぶ』


☆「他人を適切に嫌いになる作法」

 自分だって好きになれないのに、みんなを好きになることなんてできない。

 荻上(おぎうえ)チキがヨシタケシンスケとの共著『みらいめがね』(暮しの手帖社)に「他人を適切に嫌いになる作法」というエッセイがあった。おかげで溜飲が下がった。自分のことを守るためには、「他人を適切に嫌いになる作法」が必要だという。もちろん、程度にもよるが、八方美人で生きることはできない。実は「八方ふさがり美人」にすぎなかったりする。

 人を適度に嫌いになるために、自分なりに守ろうとしている作法がいくつかある。

  • 「その人に付属しているものまで嫌いにならないこと」【「これだから女は」「「これだから○○出身者は」など】
  • 「他人にその人を嫌いにってもらおうと求めない」【みんながその人を嫌いになる訳ではない】
  • 「何かを誉めるために、何かを嫌いにならなくていい」【自分が嫌いなものを好きな人まで嫌いにならなくていい。詛いは時として自分に返ってくる】
  •  僕が加えるとしたら、「根に持たない」を挙げたい。嫌な相手は「消えろボタン」を押して消してしまえばいい。今なら総領込み1000円+税で売ってあげよう。

     ヨシタケシンスケの『このあと どうしちゃおう』(ブロンズ新社)には 「いじわるなアイツはきっとこんなじごくにいく」では、トイレがいっこしかない、まいにちじゅうなんたいそう、なにをしてもおこられる、よるねるまえにかなしいおはなしをきかされる、どこでもギュウギュウ、とにかくくさい、たんじょうびにもれるケーキがものすごーくにがい、というのがあり、《じごくのせいふく》は、すっごいちくちくする【服】、すっごいキツい【靴】、ぬれててつめたい【服】、いっつもこいしがはいっている【靴】から成っている。《じごくのいちにち》は「あさ;2しゅるいのまざったすなをわける」、「ひる;からまったいとをほどく」、「よる;シールをきれいにはがす」となっている。

     ヨシタケシンスケの『ころべばいいのに』は更に進化していて、いじわるな人はみんな石につまづいてころべばいいのに、と思う女の子の話である。

    ああ、だれかを にくんでいるじかんが もったいない!

    きらいなひとは、いつも あたまのなかで こうやって やっつけている
     ギューーーーーとちいさくして てにのせて パーン!
     おなかひやしロボを あやつって おなかをいたくさせる
     ハチをあやつって あたまのまわりを ブンブンさせる【…】

    あいつを よろこばせるのは くやしいから、わたしは イヤなことがあっても おもいどおりに いかなくて、
    「なんとかなるんじゃない?」なんていいながら、じぶんの すきなことを さがしてやるんだ
    そうして、まいにち たのしいきもちで おふとんに はいってやるんだ。
    アイツが どうすれば ひどいめにあうか、いっしょうけんめい かんがえて、
    そのとちゅうで すてきなひとと めぐりあって、 「いっしょに アイツを きらおう!」って もりあがって、
    アイツを きらうパワーを つかって、
    おもしろいことを たーーーくさん かんがえるんだ!【…】

     学生たちも就活や卒論なので不満がいっぱいたまっている。適切に嫌いになっていいんだよ、といって、嫌いな相手を必ず殺す呪文を教えてあげる。な〜に、簡単なことで、その呪文を相手が亡くなるまで続けるだけなのだ。

     是非、地獄に堕ちてほしい。でも、自分でまるで努力しないで、神頼みしている訳ではない。

     神様、願いを聞いてくださったら、2千円くらいはお支払いできる用意はしてあります。

     ここで終わってもいいのだが、不愉快な思いをした時の対処法でワイズマン『その科学が成功を決める』(文藝春秋)の言葉を紹介しておく。

  • 前より強い人間になれた。あるいは自分の中に、それまで気づかなかった強さがあるのがわかった。
  • 前より自分の人生を大切に感じるようになった。
  • 前より賢くなった。あるいは大切な絆が強まった。
  • 前より自分の感情をうまく伝えられるようになり、嫌な関係を終わらせる自信や勇気がもてるようになった。
  • 前より人に対する思いやりが深まり、人を許せるようになった。
  • 自分を傷つけた相手との絆が強まった。