無意味の意味…どっこいしょ!? 「無意味の意味」といっても高邁な思想を語ったものではないので、誤解している人はお帰りください。
ケビン・コスナー主演のサム・ライミ監督の1999年の映画『ラブ・オブ・ザ・ゲーム(For Love of the Game)』には恋人の娘が「平和調」と漢字で書いてある服を着ている。「平和調」って日本語としてもおかしいし、そんな意味の分からない服がかっこいいと思われていることに戸惑ってしまう。イタリア映画『踊れトスカーナ!』では主人公が着ているTシャツに「癇癪持ち」と書いてある。
よく、日本人のTシャツが間違った英語が書いてあると非難されることがある。でも、外国人が着ている漢字のTシャツなんかもひどい日本語が書かれていて、どっちもどっちだと思う。ネットで調べてみると、 「毎日が地獄です」(寄席文字で)「あかんやつダイナマイツ」「食事処」「太もやし」「あそこ」「大馬鹿野郎」なんてTシャツがあったようだ。
2000年に村上春樹が『村上T』(マガジンハウス)というTシャツコレクションの本を出したのだが、欧米でも訳の分らないTシャツがいっぱい出ている。もちろん、スペリングミスなどはないのだけど、作家のポール・セローにもらったTシャツにはスペイン語で「ドナルドはアホだ」と書いてあるという。びっくりしたのは「トニー滝谷」(『レキシントンの幽霊』)はハワイで1ドルで買ったTシャツから発想を広げたものだという。
タトゥにも日本語の漢字が人気になり、「永谷園」「狂犬」という外国人もいた。映画『トランスポーター3』には誘拐された女性が首の後ろに「安」というタトゥをしている。『シャークトパス』という超B級映画ではレポーターの女性が「永世」じゃなくて「永生」というタトゥを背中に入れていた。ちなみに刺青/入墨は日本の文化だった。一説によれば、漁師が亡くなった時に身元が分るようにということだ。これはスコットランドのセーターの編み目が島や家ごとに異なっているのと同じだという。では「倶利伽羅紋紋」(倶利伽羅竜王の刺青を背中に彫ったから)はどこから来たか?最初は分らないが、江戸時代に儒教によって刺青が武家社会で禁じられているのと逆に町民の間に「江戸の華」である喧嘩と火事の時に目立つように刺青をした男たちがいたからではないだろうか?もちろん、「背中の桜吹雪が目に入らぬか?」という奉行もいたらしいが。やはり日本の美まで昇華させたのは谷崎潤一郎で『刺青』(しせい)は若い刺青師清吉の宿願と背中に大きな女郎蜘蛛を彫ったヒロインお酌が驕慢(きょうまん)な美女に変身していく耽美を描いたものだ。火事に喧嘩に耽美と退廃の極みである。それに比べたら、・が溢れる外国のタトゥはお笑いだ。
黒田龍之助『その他の外国語』(現代書館)には旧ソ連で女の子が「尿素」と書かれた手作りバッグを持っていたという。教えてあげようかと思ったが、その女の子が気の毒に思ったから止めたという(どうせ誰にも分からない)。
笑いたかったら『日本語でどづぞ』をごらんあれ。
Tシャツのsuperflyという会社の売れ行きがいいのは日本語の漢字とひらがな、カタカナを合わせたような表記がなされているものだという。やり方は自動翻訳サイトを使って翻訳して、字面のいい適当なところでちょん切ってデザインとして使うのだから、誰にも理解できない言葉になっている。言い訳がすごくて、「日本のTシャツだって、英語はめちゃくちゃでしょ」と会社のお偉いさんは語っていた。
女優のアンジェリーナ・ジョリーはお腹に“Quod me nutrit me detruit”というタトゥをしているが、これはラテン語で「私を育むものは私を滅ぼすものである」という意味だ。何のこっちゃ。相当な確執があったとインタビューで答えていたが、お父さんのジョン・ヴォイド(『真夜中のカーボーイ』!)のことを指しているのだろうか?
僕のような高齢者が入れるべきタトゥーは住所だと、アメリカのお笑い芸人ジム・スタッフォードがギャグにしている。
もし、日本人のTシャツが漢字で書いてあったら、日本人にとっては意味が直接、脳に入って来てうるさくて仕方がない。英語やフランス語などでワンクッション置いているから楽しめるのだ。
電器製品も日本人が使うのに英語ばかりだとよく文句を言われた。だけど、訳の分からない英語で書いてあるから、かっこよく見えるのであって、スイッチに「再生」とか「取り出し」と書いてあったら、若者は誰も買わなかっただろう。ただ、最近はみんな日本語を使うようになってきていて、少しは楽になった。
とはいえ、小学校の時の放送設備の電源を切るボタンには「復帰」と書かれていて、使い方を聞かなければ絶対に分からなかった。今も勤務校の放送設備には同じく書かれている。問題は、消費者を無視するような態度なんだと思う。
お経が分からないから、仏教は庶民から離れている、なっていない、ともいわれる。でも、キリスト教だって、ラテン語が分かる人は少なくなっているからお経と同じような状態になっている。クラシックの起源は「グレゴリオ聖歌」(ローマ法王グレゴリウス一世が大成したとされる)だとされるが、できた頃から大衆には分からなかったといわれる。西洋音楽の源泉は「グレゴリオ聖歌」にあるとされるが、この曲が出来た9世紀ころにはもうラテン語(「キリエ」はギリシャ語)は分からなくなっていたという。どちらも、分からないから有り難いのである。分かったら何ということもなくて、お坊さんたちは失業してしまうかもしれない。
日本のお墓の卒塔婆には梵字を使ってあるが、欧米のお墓にはラテン語が使ってある。だから、日本でも使えるようなクイズもある。
Why do we still use Latin on tombstones?(なぜ私たちはいまだに墓石にラテン語を使うのか?)
Ans. Because it's a dead language. (ラテン語が死語だから)例えば、般若心境の最後のところに「羯諦(ぎゃーてい)」という呪文がある。この「羯諦」は「前に前に行って一歩も下がらない」との意味で、「行こう、行こう」と言っているだけなのだが、「ぎゃーてい」などといわれると何だか有り難く思えてくるから不思議だ。密教でも邪気を払う時に「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」の九字(くじ)からなる真言(マントラ)を唱える。この九字の意味は「臨める兵、闘う者、皆陣をはり列をつくって、前に在り」というものらしいが、だからどうだというのだ。物事が成就するための 修験道系の文珠に「アビラウンケンソワカ」というのもある。
お葬式に行っては「なまんだぶ」などと一緒に唱えているが、「南無阿弥陀仏」などといっても何のことか、知らないままである。でも、唱和することによって、弔っているという実感が沸くから不思議である。
西行はお伊勢まいりをして「なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と歌った。「畏れ」というものを知ることになる。
…この間もテレビで雅楽の演奏をみていたら、そばに座っているひとから「この曲は何を表現しているのかしら?」ときかれたので、「何も。これは千年近くも前から日本の宮廷で行なわれてきた儀礼用の音楽で、誰かの感情を表すという目的は全くもっていない。要するに、これは、喜怒哀楽といった感情とは全く縁のない音楽なんです。」と私は答えた。【…】
…それが生み出された環境から離れてもなお、きく人に感銘を与える力のなくなっていないもの、そういうものは時代を超えてすぐれた音楽と呼んで良いのではないだろうか。
こういうこと【旧約聖書の英雄を基にしたヘンデルの曲が相撲の千秋楽で使われている】は、また、何も儀式用の音楽に限らない。ある種の音楽は、音楽以外の何かを表現するというのではなくて、曲の中にこめられた「表現の力」そのものによって、きく人に、その曲独特の感銘を与えるようにできている。
それが何を表現しているか。悲しい気持ちか、やるせなく憧れにみちたものか、それとも楽しい気持ちか、あるいは「月の光」か「春のそよ風」か、そんなものを気にすることはない。ある曲をきいて、崇高な感じにすっかり捉えられ、しばらくは口をきく気にもなれなかったとか、限りなく優しい感情にひきつけられて、思わず涙が出てしまったとか。きいていると楽しく、今日こそ何か良いことにぶつかるような気がしてきたとか。人間にとっては、そういった経験をどこかでしたことがあるかないか、それが大切なのだ。音楽が好きか嫌いか、音楽がわかるかどうかなどというのは、ひとえに、それぞれの音楽に含まれている、こういう「力」に感応するか否かの問題なのだ。
-----吉田秀和『音楽の光と翳(かげ)』(初出は『マダム』1981年5月号)
マルセル・デュシャン「泉」ほか、現代芸術は何を表現しているか聞いてもムダだ。おそらく、それはビートルズのいうようにSomethingそのものなのだ。
□ 子どもにも「痛いの痛いの飛んで行け!」などと口走ったり、「ちちんぷいぷい」などと言ってみたりするが、いずれも無意味である(ただ、CMによれば世界中にあるそうだ)。合戦の時の「えいえいおう」というのもよく分からない。
外国にももちろん、いっぱいあってabracadabraが有名だし、『メリー・ポピンズ』では“supercalifragilisticexperidocious!”というまじない言葉が出てきて、これさえ唱えれば元気が出るという。意味などあってはいけないのである。
『アメリカン・スウィートハート』の中で、妻のキャサリン・ゼタ・ジョーンズをスペイン男に寝取られておかしくなったジョン・キューザックにカウンセラーが次のようにいう。
Wellness Guide: We have a saying, Edward:"Meck-a-leck-a-hala-vabeem-sala-beem".
Eddie: What is that? Bean salad?
Wellness Guide: "Meck-a-leck-a-hala-vabeem-sala-beem".
Eddie: What does that mean? 【どんな意味?】
Wellness Guide: I don't know what it means, it's very old. 【知らん、昔からそう言う】実際、この呪文を調べてみてもこの映画しか出てこないので、多分デタラメなのだと思う。でも、心が落ち着くのだから、これでいいのだ。
どっこいしょ。
□ 分かりやすい講師が講演をするのはいいのだが、あまりにも分かりやすいことをいうと、知っていたことをわざわざ聞きに行ったような気になって、損した気分になる。僕だけかもしれないが。でも、少しは難しい話がないと締まらない感じがする。僕の場合、講演の多くが言葉の話なので、「なんだ、そんなこと知っていた」と言われそうなことばかりである。清少納言は『枕草子』で「説教の講師は顔よき」でハンサムな方が内容が頭に入るという。
レナウンがダーバンというブランドを出したことがあるが、この時はアラン・ドロンが“D'URBAN, c'est l'elegance de l'homme moderne.”と叫んでいたが、このフランス語が分かる人などいなかったのである。でも、高級感が伝わってきて、人気ブランドになった。もし、ディカプリオが英語で語っても人気は出なかっただろう。分かるからである。
映画も吹き替えになってしまうと、ありがたくなくなる。僕を含めて何を言っているのか分からずに楽しんでいるのだから、不思議だ。もちろん、本人の声と違うのがイヤなのだが、意味が日本語で伝わりすぎるということもある。ゴダールの映画が好まれるのも訳が分からないからである。「じゃあ、あんた、分かっているの?」と訊くことさえ恥ずかしいことだから、誰も尋ねては来ず(というかほとんどの人は観てないか、寝ていた)、安全地帯にいることができるのである。
ちょうど、身もふたもないヌードがいきなり出てくると引いてしまうようなもので、見えるか見えないかが面白いのである。隠すから面白いので、あからさま、というのは何だって面白くない。今の社会はヌードが溢れているが、死からは遠ざけられている。だから、「死のポルノ化」という現象が起きる。ネクロフィリア(necrophilia)なんていうのがいたりするから怖い。
昔の辞書は訳が分からなかった。いやらしい言葉を調べようとしても堂々回りで、何がなんだかという感じだった。「生理」というのもどういう意味が全く分からなかった。薬局の前に書いてある「強壮」というのも意味が分からなかった。だから、よけいに探究心が生まれたのかもしれない。
人は無意味だからこそありがたがる。鹿島茂は『フランス歳時記』(中公新書)で次のように言う。
世界の多くのモニュメントの中で、エッフェル塔はかなり特殊な位置を占めている。なぜなら、これだけ徹底して意味を欠いている塔も珍しいからだ。つまり、エッフェル塔は寺院でも宮殿でも祈念碑でもなく、ただの塔なのである。しかも、それ自体がなにかを象徴しているというわけでもない。無意味にそこにある。そして、そのことが逆に意味をもつようになったのである。
【…】一言でいえば、エッフェル塔は意味を欠いていたがためにパリと一体化することができたのである。
分からないからクールということをジョナサン・エイブルがシンポジウムで話している。東浩紀『日本的想像力の未来』(NHK出版)の「クール・ジャパノロジーの不可能性と可能性」という発表の「翻訳不可能性の生みだすクール」の中で、例えばよしものばななの小説に出てくる「カツ丼」は空虚なシニフィアンだという。つまり、「カツ丼」に込められる意味内容については翻訳できないからだという。
興味深いことに、このような日本における英語フェティッシュを受けて、日本に来た外国人観光客が日本風英語の書かれたTシャツをおもしろがってお土産として買うといった現象があります。外国人の観光客にとっても、日本風の英語Tシャツが「クール」なものとなっているのです。というのは、アメリカ人にとって無意味な日本風英語が、無意味であるがゆえにクールだと見えるのです。これはテレビ岸組「COOL JAPAN」とよく似た構造です。自分が理解できるはずのモノ(この場合「英語」)が、理解できないもの(この場合「日本風英語」)になっていることが、「クール」なのです。
逆の例もあります。アメリカでは一〇年ほど前から、理解しないままに日本語の漢字をタトゥーの模様として彫ることが流行っています。漢字の意味が分からないからこそ、それは「クール」とされます。つまり、「超然とした」という二つ目の意味での「クール」の材料を異文化に持ち込んだとき、それは「未知のものへの憧れ」という一つ目の「クール」へと代えられてしまうのです。クールの形式から生まれたものが、クールの欲望まで交換するのです。
言葉の機能は断じて伝達ではない。分からない言葉でカタルシスを感じているのだ。田村隆一「帰途」のように「言葉が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかつたか」と思うのである。
母が亡くなった後に残された掛け軸に書いてある字が読めないと、姉たちは騒ぐのだが、読めないからありがたいということが分かってくれない。掛け軸なんて、みんなそんなものだ。
「王の耳はロバの耳」という話を知っているだろう。ギリシャ神話のミダス王はアポロンとパンの腕比べの審判を頼まれた。アポロンの銀の竪琴よりパン(「パニック」の語源となった笛の名手)の葦笛の方がいいとパンに勝ちを与えたら、アポロンが怒ってミダスの耳をロバの耳にしてしまう。ミダスは帽子で耳を隠していた(みだすなみ?)が、散髪屋にだけは厳重に口止めをして散髪してもらった。散髪屋はこの事実を隠すことが辛くなり、とはいえ死刑になるのも嫌なので、野原に行って穴を掘り、「王様の耳はロバの耳」と叫んで穴を塞いだ。
語ることによって緊張を発散できる。これがホントの「語る・死す」なんちゃって…などといって今日の憂さを晴らす欣ちゃんなのであった(←語るに落ちる)。
『大鏡』にも「おぼしきこと言はぬは、げに腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘り言い入れはべりけめとおぼえはべり」と書いてある。
□ 誰でもそうだろうが、年寄りになると早起きになる。それは構わないのだが、僕のような鬱的人間はああでもない、こうでもないと昔のことを思い出してはギャッと叫んでしまう。二度寝したいのだが、起きる時間まで悶々としてしまう。体が辛い。そこでNHKのニュースを聞くことにした。民放だとCMがうるさいのでダメだった。
笑ったのはカウンセラーに「眠れますか?」といわれて「大丈夫です」と上の方法を教えたら、先生が「私がお経のテープで寝るのと々ですね」といったことだった。
□ 『法然上人絵伝』に出てくるが、浄土宗の法然上人は四国へ流された時、途上で遊女が救いを求めてやってくる。「遊女をやめられるのなら、すぐにやめたほうがいい。しかし、どうしてもやめられないのなら、そのままで南無阿弥陀仏と唱えなさい。阿弥陀仏は、まさにあなたのような人を念頭に置いて、『必ず救う』と誓われたのです。あえて卑下することはありません。あなたは必ず極楽へ行けます」と語った。遊女は随喜の涙を流したという。南無阿弥陀仏と唱えるだけで、本当に救われるのだろうか、と問いたが、もちろん、既に上人のこの言葉で救われているのだ。
南無阿弥陀仏!
□ 小説家や映画監督が作品を仕上げると、必ず「この作品のテーマは何ですか?どんなメッセージがあるのでしょうか?」と慇懃無礼に尋ねるアナウンサーがいるものだ。メッセージを伝えたいだけだったら、黒澤明もいうように、看板を掲げて銀座を歩けばすむはずのものである。
長新太(ちょう・しんた)は奇妙な絵本をいっぱい出した作家だ。何の意味もメッセージもないと読者から批判を受けた時に、しつけや感動といった「指導」より、生きるのは楽しい、不思議がいっぱいと、子ども自身が感じる方が先だという。「ためになる」かどうかより「生理的に心地よいこと」が生きることの根底になければといい、「ぼくはナンセンスなものを描いているわけだから、その意味づけを云々されたも困るわけ」と語っている(松田素子編『絵本のこと話そうか』KTC中央出版での五味太郎との対談)。
リドリー・スコットの『ブレードランナー』は2019年のロサンジェルスを舞台にしているが、訳の分からない日本語だらけの街になっている。未来は誰にも分からないのである。
谷川俊太郎は和合亮一との対談集『にほんごの話』(青土社)で和合が「メッセージをいただけると嬉しいのですが」といったのに次のように語っている。
出た!僕はそのメッセージっていう言葉が大っ嫌いなんですよ(笑)。いま求められる言葉がみんな何かへのメッセージであったり意見だったりするのはすごく問題があると思っているんです。詩というのはメッセージでも意見でもないから稀少価値があるはずで、そういうメッセージを、とかご意見は? ってつい言っちゃうんですよね。僕が書き始めたのなんて、友達に誘われたからでしかないし、書き続けてきたのも、書けばお金がもらえて、そいうすれば自分もそれに見合うぐらいは社会の中での役割を持たなきゃいけないだろうというので、いままでなし崩しにやってきたようなものですから、そんな人に偉そうに言えるようなことなんてないですよ。
和合が「では、詩人の社会的役割は何か」と聞いたら、「非常に微細なエネルギーが人にある程度影響を与えるということを信じるということじゃないでしょうか」と答えている。
「道を歩いていると 2 意味』」 谷川俊太郎(『詩の本』集英社所収)
道を歩いていると
橋の上に意味がひとつ落ちていた
けばけばしい色だ
拾わないと後ろ指をさされそうだが
拾ってしまうとあとがおそろしい
そのまま行き過ぎようとしたら
「何か落としたよ」と声をかけられた
振り向いたら小さな女の子だ
「落ちてたんだ」と答えて
意味を拾って川へ捨てた
川では蛙が泣きやまない
ぐりり るるるり ぐるり るるり荻原浩の『ちょいな人々』(文藝春秋)に「犬猫語完全翻訳機」というSFがある。すでにタカラトミーから「バウリンガル」という犬の気持ちが分かるおもちゃが出ているのだが、これを完璧にしたような機械だ。
ある会社が社運をかけて完全翻訳機を開発する。これをモニターしてもらう話なのだ。美咲が飼っている犬のミルキーは生理中の美咲に「血だ、血の臭いだ」なんて迫ってくる。フレアスカートの裾をくわえて、かくかくと腰を動かしはじめ、「メスだ、メスだ。メス、メス、メス」といって飛びついてくる。…こうして美咲はワン×2ボイスの電源をオフにしてしまう。
潤一が飼っているアレックスはディスクドッグ、いわゆる犬のフリスビーをして遊ぶのが好きだ。最初は完全翻訳機で気持ちが分かってよかったのだが、そのうち、「うまくなったな、おまえ」という言葉が聞こえてくる。「でも、こんどは、もう少し、まっすぐ投げろ」という。「それと、投げるのが遅い。もっと早く、タイミングよく」なんていう。そして、「お前はのろまでいけない。俺や家(うち)のご主人様たちに、これ以上叱られなくなかったら、もっとしっかりやれ」…潤一の手から、ぽとりとディスクが落ちる。
直樹の夫婦はダイゴロウにニャン×2ボイスをつける。第一声が「お、きんたま」なのだ。「きんたま舐めるの、忘れてた」などという。どっちが好きか調べようとしても猫は関心をもたない。自分のことしか興味が眼中にないのだ。「お、肛門だ。肛門舐めるの忘れてた」なんて会話ばかりしているので、スイッチを切ってしまう。
幸造が飼っているリンは16歳で、人間ならば80歳の老婆だ。何をしても「頭はやめれー、尿がもれるぅぅ。目が、目が、かすむぅー」という調子で、何十年ぶりかの同窓会で、初恋の人の変わり果てた姿を見てしまったような気がして、スイッチを切った。最後の言葉は「雨の日は、関節が痛いわな」だった。
犬猫語完全翻訳機の販売を見合わせた会社はこれを改良してフィンガーレスフォンというのを作る。人間が思ったことを言葉に変換できてメールできるという代物なのである。ところが、人間というのは本心をそのまま出したら大変なことになってしまう、というSF「正直メール」とになっている。
くわばら、くわばら!
□ 20世紀からの現代芸術はピカソにしろ、T・S・エリオットにしろ、ストラヴィンスキーにしろ、意味をそぐことから始まった。
それでもピカソを見れば、人の顔だと分かるし、エリオットだって無意味ではないし、ストラヴィンスキーの音楽を聴けば感動する。
『ピカソ』 長田弘『世界は一冊の本』(みすず書房)
なぜ芸術を、人は理解したがるのか
夜を、花を、すべてのものを
理解する代わりに、人は愛するのに頭蓋骨のうつくしさを見たまえ
そこにはつねに指の痕がある
それを仕上げた、神々の指紋だパブロ・ピカソはいった
客観的真実なんてものはないのだ
ただ具体的事実があるのだよ神々がつくり、ひとが発見する
パブロ・ピカソはいった
発見したものに、私は署名しただけだPablo Picasso(1881-1973)
アンディ・ウォーホルは「意味あるものはおぞましい 無意味なものほどかっこいい」と言った。
意味を全く拒否するとジャクソン・ポロックのようになってしまう。
□ 日本には訳が分からないことに感動する伝統がある。西行は伊勢神宮を前にして「なにごとのおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠った。
漱石の『吾輩は猫である』では苦沙弥先生の許に天道公平(てんどうこうへい)という男から手紙が届く。やたら哲学じみたことが書き連ねてあるだけで、意味がさっぱり分からない。「頭脳の不透明を以て(もって)鳴る」主人は、すぐにも引き裂いて捨てるだろうと思っていたら、「打ち返し打ち返し讀み直し」た上にいう。
…「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴(あっぱれ)な見識だ」と大変賞賛した。この一言(いちごん)でも主人の愚(ぐ)なところはよく分るが、翻(ひるがえ)って考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高(けだか)い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴(ふいちょう)するにも係(かかわ)らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌(しゃべ)る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺(なへん)に存するかほとんど捕(とら)え難いからである。急に海鼠(なまこ)が出て来たり、せつな糞(ぐそ)が出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家(どうけ)で道徳経を尊敬し、儒家(じゅか)で易経(えききょう)を尊敬し、禅家(ぜんけ)で臨済録(りんざいろく)を尊敬すると一般で全く分らんからである。但(ただ)し全然分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。??主人は恭(うやうや)しく八分体(はっぷんたい)の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手(ふところで)をして冥想(めいそう)に沈んでいる。「あなたのことをもっと知りたい」というのは愛の言葉で、「あんたなんか分かってしまった」というのは別れの言葉なのである。お互いに知らないから生きていける。
コミュニケーション論というと、どうすれば分かりあえるか、ということばかり考えるものだが、分かりあえなくてもちっとも困らないのである。
人生を悩んだ人が哲学に走るのは、どの哲学書も訳が分からなく書いてあるからである。モンテスキューは「驚くべきことに哲学のすべては次の言葉に要約される。すなわち、勝手にしやがれ!」と喝破している。けれど、僕ら凡人はこの哲学書が分からないのは自分の頭が悪いからだ。頭の悪い自分は何も考えなくて生きて行こうと、未来への希望を見つけるのである。
という、無意味なエッセイでした。
読み疲れた人は「どっこいしょ」とでも唱えてください。力は出てくるかもしれません。
「得賞歌」とか「祝典曲」と訳されている、「ユダス・マッカベウス」のことで、オラトリオの一節「見よ、勝利の勇者の帰るを」である。「若き日は再びあらず…」という日本語の歌詞があることを知っている人も少ない。だが、もともとヨーロッパ18世紀の王侯貴族、頭からすっぽり長い髪のかつらをかぶっていた人々のための曲が、太鼓腹にまわしを一本しめただけの素っ裸の力士の「勇姿」の前で演奏されるのは「そのあまりにも徹底的で珍妙な大正に、私の胸は、まず、どきんとし、それから笑いだしてしまう」という。