文化的雪かき---「何でもカルチャー」のやさしい作り方

「君は何か書く仕事をしているそうだな」と牧村拓【冒険作家】は言った。
「書くというほどのことじゃないですね」と僕は言った。「穴を埋める為の文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき」
「雪かき」と牧村拓は言った。そしてわきに置いたゴルフ・クラブにちらりと目をやった。
「面白い表現だ」
「それはどうも」と僕は言った。
「文章を書くのって好きか?」
「今やってることの関しては、好きとも嫌いともいえないですね。そういうレベルの仕事じゃないから。でも有効な雪かきの方法というのは確かにありますね。コツとか、ノウハウとか、姿勢とか、力のいれ方とか、そういうのは。そういうのを考えるのは嫌いじゃないです」
「明快な答えだな」と彼は感心したように言った。
「レベルが低いと物事は単純なんです」
「ふうん」と彼は言った。そして十五秒ほど黙っていた。「その雪かきという表現は君が考えたのか?」
「そうですね。そうだと思う」と僕は言った。

  村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス〈上〉


 2003年度の放送から「とやま夢・航海」のスタッフが増えて、水曜日「富山文化探検」のうち「何でもカルチャー」の仕込みの仕事をキャスターの安田さんに依存する体質から若いスタッフを使って行う体制になった。今までは僕だけがネタを出すのだったが、スタッフからも提案することになったのだ。

 それで、若いスタッフに同じことを繰り返すのは嫌なので、まとめて書いておくことにした。

 今までのが成功しているとも思えないのだが、とりあえず、うまく行っているということで書いてあるので、「あんな番組程度で…」などと言ってほしくない。先人である安田さんは本当に苦労してきたのだ。

 若いスタッフ宛の文章なので、他の人には参考にならないかもしれないが、載せておくことにした。


 若いスタッフが「何カル」(“なんかる”といいます)の担当をして下さるのは大変嬉しい。

「ネタ切れ欣ちゃん」と呼ばれている僕にとっては110万の味方(110万というのは富山県の人口)を得たような気がする。どうしてネタ切れになるかとうと富山には文化と考えられる物が少ないのである。僕は多いと思うのだが、誰も発掘してくれないからだ。

 そこで、「何カル」の楽しい作り方を伝授しようと思う。伝授というほど知恵は出んじゅなのだが、ともかくヒントを書いておこうと思う。

 1年間やってきて、苦労の連続だったのだが、この苦労は僕の文法とNHKのというか、放送の文法が違っていたからである。

 でも、若いスタッフたちは放送の文法には馴れているはずなので、僕よりもずっと作りやすいはずだし、何よりも1年間、僕のコーナーを見てきて「けっ、これっくらいだったら自分でもできるわい」と思ってきたはずである。それでいいのだ。自分で番組を作る楽しみがきっと味わえると思う。

 それで、若い人たちに全てを任せればいいのだが、せっかく作っても「金川欣二の何でもカルチャー」という中でしか紹介されないのだから、とりあえず、僕の今までの路線(路線というほどのものはなくて、ぶらぶらと目的なく歩く散歩道程度なのだが)を書いておこうと思う。

 思えば、君たちの安田「先輩」(年齢はこの際無視して)が「何カル」を担当したのは2002年の5月29日だった。「国語辞典に見る富山」という滅茶苦茶な設定の番組で、安田さんは『新明解国語辞典』を隅から隅まで読んだものだった。揚げ句の果てに編者の山田忠雄の写真がないということになり、金川さんの友人の司書に聞いたら、彼の勤務先の富山市立図書館にはないけれど、県立にはあるはずの『三省堂ブックレット』の『新明解第5版』が出た直後の号に座談会があって、そこに写真が載っていたはずだ、というので県立まで調べに行き、写真も撮ったのに、ちゃんと写れていなくて、もう一度出かけた、なんて涙なしには語れない話が残っている。「こうしてオン・ザ・ジョブ・トレーニングをするのは君のため」という甘言に乗って、毎週月曜と火曜は眠れないままに、作り続けて来たのだ。

 若いスタッフは是非、先輩のことを聞いて、番組を盛り上げよう!


○「何カル」のコンセプト

 「コンセプト」って何じゃい、という人もいるかもしれないが、コンセプトというのは電気の入り口である(←それってコンセント)。入り口からどうやって歩くかという大事なところだ。何しろ「富山の文化を語りつくす新しい文化論」ということになっているのだが、やっている自分でもどう新しいのか分からない。ただ、今までの(こんな番組を作った人がいたかどうか分からないが…)文化論だと年寄り---見ている人が途中で解説の人が倒れないか心配するような---が出てきて、カビの生えたような話をして、自己満足して終わっていくというパターンが多かったように思う。ここでは少しだけ新しい文化論を考えたい。

 基本的に「お笑い」である。「ユーモアとジョークを交えながら…」と紹介されるように笑ってすます番組である。「お笑い」というのが言い過ぎだとしたら、「明るい富山」文化というものである。だから、気軽に作ればいい。論文を書く訳ではないし、僕自身も「何カル」を論文にしようと思ったことはない。ただ、嫌なことに論文と同じ手間暇がかかることがあるので、これは忘れないでほしい。「面白半分」なのだが、逆にいえば、「真面目半分」ということだ(half seriousというが、OEDにはjocoserious「半分真剣で半分ふざけた」という単語が記載されている)。

 笑いの中にきらりと真実が光る、なんていうのは最高なのだが、そんな器用なことが簡単にできるはずもない。だけど、哄笑から高尚な文化を考えるのである。養老孟司は『I KNOW YOU 脳』(かまくら春秋社)で「文系力」という仮説を出した。この「文系力」というのは一言で言うと「おもしろいことをいう力」だという。「面白いこと」というのは「凡庸ではないこと」である。つまり、「現象現実の諸相に対して、その傾向の一般化を目指し、皮膚感覚や体感に根ざした仮説を立て、その仮説を揺るぎない感覚的論理力で体感的に証明し、ひとつの理屈を得ること」ということである。これ以上、話すと面白くなくなるが…。

 アンドレ・ジイドは「賢者とはあらゆることに驚嘆する人をいう」と言っていたように、周りを観察すれば面白いことなどいっぱいあるはずだ。

 次に「別解」である。こんな見方もあったんかい、と視聴者に思わせたら成功だ。といいながら、成功した「何カル」があったかどうか知らない。誰も見ていないと思った方が気が楽だ。家族の者さえ見てくれないかもしれない。それほど反響のないコーナーなのだ。恐らく、これはコメンテーターのせいかもしれない。「別解」というのは、今までの常識を覆すことになるのだが、それほどの番組ではない。かといって「非常識」な番組でもない。せいぜい「反常識」とでもいえるかもしれない。ただ、視聴者に「へぇ、そんな話も考えられるのか…」と思わせたら成功だ。正解は一つではない、というのが大切だ。例えば、「人が十人乗ったら船が沈みました、どうしてでしょう?」というクイズがあって、この答えは「潜水艦だから」というのだが、それ以外に色々な可能性を考えてみるといい。また、“I love you.”というのはどんな風にも訳することができる。ただ、「私はあなたを愛している」という訳が不正解ということだけははっきりしている。だって、こんな言い方で口説く人なんていないと思うからである。大胆な発想をしたいのだが、そうコロコロあるはずがない。それに専門家が「そんなのは分かり切っていることだよ」といっても(いわれたことはないが)、気にしない。分かり切っていてみんな知っているのだったら、僕だって知っているはずだ。既知の事実があったとしても、知らない人は知らない。知っている人の数よりも知らない人の数に比べれば、ゼロにも等しいほどのものなのだ。

 例えば、フランス人というとベレー帽のイメージ=常識がある。ところが、鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)によれば、ベレーは元はといえばフランスとスペイン国境にまたがるバスク地方とベアルネ地方の農民の被り物にすぎない、という。

 ベレーという名は綿糸を編んで作る綿帽 bonnet を、ベアルネ方言で berret と呼んだところからきている。頂きのつまみは、最後に綿糸のはしをよじって作ったものである。
 では、なぜこのベレーが、少なくとも外国人の目にはフランス人の象徴と映るようになったのか。その原因は二つ考えられる。
 一つは、鉄道の普及により、十九世紀の後半に、貧しいバスク・ベアルネ地方から出稼ぎにやってきた人々がパリに多数定住し、ベレーを一般に広めた時期が、万国博覧会(1855年、1867年、1878年、1889年)の開催と重なっていたことである。万博見物にやってきた外国人はフランスの民衆はみんなベレーをかぶっていると思いこんだのだろう。
 もう一つは、第二のベレー流行期ともいえる1930年代から40年代にかけて、フランスの名画が世界中に配給されたことである。ベレーは、ジャン・ギャバンのようなジャガイモ顔にも、ダニエル・ダリューのようなエレガントな貴婦人にも、また可愛い子供にも、気取った芸術家にも等しく似合っていたので、フランス映画ファンのあいだで、フランス人はベレー好きという神話が生まれたのである。

 やさしく基本的な情報を提供する。これが大切なのだが、難しい話を簡単にすることは、口にするほど簡単ではない。絵にしたり、写真を使ったり、フリップを使ったりするが、なかなか難しい。君たちの大先輩である安田真理キャスターがいつも朝まで苦労していたところだ。というのも「『勧進帳』のルーツは安宅ではなくて新湊」みたいな話を作った時に、肝心の『勧進帳』を知らない人がいっぱいいた。そして、「如意の渡」を知らない人がほとんどだった。この時ほど世の中、不如意なものだと思ったことはない。だから、君たちの安田大先輩は絵を描いて『勧進帳』を示すことにしたのだ。

 おじいちゃん、おばあちゃんが相手。そう思った方がいい。働き盛りの人は数人を数えるだけの金川さんのファン以外は誰も見ていない。最近のベストセラーの書き方は中学2年生が読めるように、といわれる。つまり、分かりやすく、活字に馴れていない人にも分かるように書く必要がある。番組も教育も同じだが、中学2年生を侮ってはいけない。結構厳しいことをいってくるものだ。

 ゆとりある作り方が大事。ユーモアというのはゆとりから生まれるので、番組を作る時にゆとりを失ってはいけない。今は辛いかもしれないが、「あんな時代もああったねと…」いつか話せる日がくる、かもしれない。

 フットワークは軽く!

 視点を変えることだ。2002年度分で評価が高いのが「日本海は地中海」なのだが、これは能登半島を逆さにしてイタリア半島に「見立て」(アナロジー=類推だが)たものである。「リンゴは何故赤い?」という問題を考えるのもいいが、実は西洋ではリンゴは緑色だと思われている。また、「答えはリンゴです、問題は何でしょうか?」というように問い直すのも面白いかも知れない。逆転の発想はなかなか生まれないと思うが、若いスタッフには是非、勧めたい。問題のない人生に答えはないのだから…。

 斎藤美奈子は『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)の「ハッタリと脱線」で次のように書いている。

 批評であれ文庫解説であれ、まるで関係なく見えるAとBが「同じだ」と指摘されたとき、人はだいたい驚き、感動するのである。批評の要諦とはひっきょう「これってあれじゃん」だと私は思っているが、二人【高橋源一郎と丸山眞男】の解説はまさに「これってあれじゃん」だ。
 もとより『なんクリ』【田中康夫『なんとなく、クリスタル』】はおバカな若者の生態を描いた小説、『君たちは…』【吉野源三郎『君たちはどう生きるのか』】は少年向けの読み物という「軽く」見られがちな要素を内包している。そこに歴史的名著【マルクス『資本論』】をどんとぶつけるハッタリの技。AとBのギャップが大きいほど、興奮の度合いも大きい。

 サマセット・モームに『アリとキリギリス』という短編がある。ラ・フォンテーヌの寓話ではもちろん、働きもののアリが遊び人のキリギリスに勝つことになるのだが、この小説では遊び人の弟の尻拭いばかりさせられていた勤勉な兄が、年を取ったらどうなるか、今に見ていろ、と思って楽しみにしていた。ところが、弟は大金持ちの年上女と結婚して、数週間後に妻が死んで遺産が転がりこむという話だ。小説家というのもキリギリスみたいなところがあるから、モームの願望も入っているんじゃないかしら。

 視点を変えると芸術になる。創造になる。星新一に「探検隊」というショート・ショートがある。大きな宇宙船がやってきて、大きな宇宙人がやってきた。怖かったが友好的な宇宙人だった。調査が終わると帰るのだが、2頭の怪獣を置き去りにしていった。この怪獣が冬になると暴れ回って、村人が次々とえじきになった。ようやく宇宙人が戻ってきた。怪獣をやっつけてくれるかと思ったら、頬ずりをしたのだ。だれかがつぶやいた。「あの怪獣どもは、やつらのペットで、タローとかジローとかいう名にちがいない」。

 「見立て」というのも大切で、立山をディズニーランドに「見立て」ることはとても面白いし、発想を変える第一歩となる。「見立て」ができるためにはこれまで持っていた偏見、先入観、固定観念をなくすことである。これについては2003年度の「何カル」の第1回で「雪は白いか?」として作ったので、参考にしてほしい。落語には「見立て」がいっぱいある。「長屋の花見」では酒が買えないので番茶、毛氈がないのでムシロ、料理は沢庵を卵焼きに、大根のこうこ(漬け物)をカマボコに「見立て」ている。

「私は蒲鉾が大好きで、毎朝千六本に刻んでお味噌汁の実にしてる。胃の調子の悪いときは蒲鉾おろし」
「うまい蒲鉾ですね。やはり練馬の産ですか?」

 茶道具の薄茶を納める棗(なつめ)はナツメの実の「見立て」だし、濃茶の入れ物に下膨れの姿から茄子と呼ばれる型があるのも「見立て」である。「見立て」というのは広く日本の文化の根本に関わっているのである。

 また少し横に逸れるけど、「見立て」というのは日本の儀礼文化につきまとう要素です。何か驚異的なことがかつて神話の時代に起こった、その写し絵として現在の様式で反復してみる。日本の芸能にはそういうことは非常にたくさんある。江戸時代の歌舞伎などの芝居でも曲芸などの見せ物でも、たとえば源平合戦の壇の浦の戦いで誰々がこうしたという歴史的事実を、現実の地形や登場人物の行動を象徴する舞台上の道具立てとかパフォーマンスによって、神話的な「かたち」として展示することで表現していた。

 みなさんがたぶん知っている見立ては清少納言の『枕草子』でしょう。彼女がお仕えした中宮が雪の朝、「香炉峰の雪は」と問うと、清少納言は御簾を高く上げて庭の雪山を見せたという。中国の名山といわれる香炉峰に積もった雪---香炉峰はものすごい高い山ですからね---に見立てたやりとりで、中国の古典に表れる名山の巨大な神話的イメージを日常生活の庭という小さなものに反映している。このようにイメージを比喩的に写して反映したりすることを修辞学ではトロープ【trope】といいます。
     山口昌男『学問の春』(平凡社新書)

 「見立て」は大発見にもつながる。ベンゼン環を発見したのは夢で蛇が尻尾を加えている姿(ウロボロス)を見たからだとされる。湯川秀樹が中間子理論のヒントを得たのは、不眠症に悩まされ、眠れずに天井の木の板の年輪模様を眺めていた時だったと、吉田たかよし『元素周期表で世界はすべて読み解ける』が紹介している。年輪の真ん中にぐりぐりとした模様が二つ。ひょうたんの形をした年輪がそれを取り囲んでいる様子が原子核に見えたという。「われは物の数にもあらず深山木(みやまぎ)の 道ふみわけし人し偲ばゆ」というのが湯川の歌だ。ニュートンが「リンゴが木から落ちる」(真偽は分からないが)から「月と地球の関係」を考えたのも「見立て」である。最近では、回転寿司のヒントはビール工場の製造ラインから、マジックテープのアイデアはオナセミ(草むらでセーターにくっつく植物)から来ているというのも「見立て」だ。

 最後に「落としどころ」が泣きどころ。金川さんはいつもディレクターたちに話をして終わったと思ったら「ところで先生、落としどころは何ですか?」と聞かれて、控え室で泣いていた。控え室の床がいつも濡れていたのは金川さんの涙の跡だったのを誰も知らない(←本人も知らないかも…)。オチるかオチないか、それが問題だ、とハムレットも悩んでいたところだ。しかし、金川さんがどれだけダジャレの人間だとしても、ダジャレオチはいけない。落語では「地口オチ」というのだが、ダジャレで落とすと、今まで話していたのは一体何だったのかと視聴者から文句が出る(はずだ←というほど反響はない)。それに「辞書に出てくる富山の名産」の時のオチ、つまり、「生まれた子どもにはマツイカがついているかどうか、と富山ではいわれますが、これはNHKではマツイカ?」という程度のオチだと本人も恥ずかしがってしまう。

 金川さんの仕事は「文化的雪かき」みたいなものだ。雪が降ると分かるけど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらなければ結局みんなが困る種類の仕事だ。高い世俗的な評価を受けるチャンスはほとんどないけれど、人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)を少しだけ摘んでいるわけだ。「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。そんな風に思っているのは、この金川さんだけではなくて、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」も同じだ。ちなみに、牧村拓というのは村上春樹のアナグラムになっている。

 山根基世アナウンサーの『「ことば」ほどおいしいものはない』(講談社)を読んでいたら、五箇山を訪ねた時に「雪踏み当番」というのを知ったと書いてあった。「半日当番」が決まっていて、雪を踏み固めるという。女性の番組を通じて、日本社会の女性の前に立ちはだかる壁を感じることがあったというが、この時には「雪踏み当番」という言葉を思い出すという。

 【…】私は、後輩のために私の時代の新雪を踏んでおきたい、次の世代はその道をあゆみながら、また次の時代の雪を踏み固めていく……。
 旅先で出会った一つの光景が、一人の人間の生き方に大きな影響を与えるということがありうるのだ。十三年たったいま、旅のもつ意味について考えさせられている。【…】
 私が見た「雪踏み札」も「こきりこ節」も、この地域に長く伝わる「結い」の心情の延長線上にあるように思う。山間の小さな村に暮らすとき、感情の行き違いはさまざまあるとしても、それを乗り越え、人が互いに助け合い力を合わせて生きる叡知は、いつの時代、どこの国の人にも、美しく懐かしいものに感じられるのではないだろうか。

 これを文化番組でやるのが、「文化的雪かき」なのである。2020年にヨシタケシンスケ『欲が出ました』(新潮社)が出ました。人は「必要なところだけじゃまなものをどける」という。

 人生においても、その人その人のじゃまなもの、雪に変わる何かそういうものがあるはずで、みんなやっぱり雪かき的なことを毎日やりながら生きてるんだろうなあって、思ったんです。

 あの人は何をどけて生きているのか。
 普段何気なくどかしてるけど、どけたことを本人はわかってないかもしれない。
 それは、雪みたいに見えるようにできないだろうか、って。

「雪掻いてゐる音ありしねざめかな」---久保田万太郎

 同じようなことを内田樹は『下流志向』(講談社)のなかで次のように書いている。

 「雪かき仕事」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道ばたによせておくだけです。起き出した人々がその道を歩いているときは雪かきをした人はもう姿を消している。だから、だれがそれをしたか、みんなはそれを知らないし、当然感謝される機会もない。でも、この人が雪かきをしておかなかったら、雪は凍り付いて、そこを歩く人の中には転んで足をくじいた人がいるかもしれない。そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所にいないと、世の中は回ってゆかない。【…】
 若い人がよく言う「クリエイティヴで、やりがいのある仕事」というのは要するに、やっている当人に大きな達成感と満足感を与える仕事のことです。でも「雪かき仕事」は当人にどんな利益をもたらすかではなくて、周りの人達のどんな不利益を抑止するかを基準になされているものです。だから、自己利益基準に採る人には、その重要性が理解できない。

 ディレクターの仕事も「雪かき」だ。これだけのことを頭に入れれば、すぐに番組が作れるはずだ。

 とはいっても、作り方にコツがあるので、若い人だけに教えよう。これは年老いたディレクターたちにはくれぐれも見せないように! 

 この秘密を教えた途端、金川さんはコメンテーターとしての役割を終えて、明日から路頭に迷うかもしれないからである。

欲深き人の心とふる雪は積もるに連れて道を忘るる---落語「夢金」

 前田裕二『メモの魔力』(幻冬舎)によれば言語化が上手な人には大きく二つの特徴があるという。

  1. 抽象化能力が高い…特にアナロジー力が高い。アナロジーは、一見無関係なものの間に何らかの共通点を見つけて、結びつける思考法。身近で具体的な辞令の特徴を探して、抽象化して、それをまた別の具体に当てはめるわけだ。
  2. 抽象的な概念に名前をつける力が高い…まだ呼び名が決っていないものに標語をつける。キーワードをつける力。抽象的で名前をつけにくい概念を、言葉という確かな形で、この世に存在させる。


○文化とは何か? 

「文化 culture 」という語のもとの意味は「地を耕して作物を育てる」ことである。ところがこれが日本語になると、もっぱら「心を耕す」ことばかり考えられて、はじめの意味がきれいに忘れられて、枝先の花である芸術や学問の意味の方が重視されてしまった。しかし、根を忘れて花だけを見ている文化観は、根なし草にひとしい。
   -----中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』)

 という難しい議論はしない。ただ、文化というものが人間に高度に発達したものであることは間違いない。エリック・エリクソンは「人間の文化は擬種(ぎしゅ)である。要するに動物あるいは生物の種のごときものである」という。「擬種」というのは人間は生物としてはホモ・サピエンスだが、その上に文化という擬種をもっていて多様性を持っているということだ。岸田秀のように本能をなくしたサルという言い方もできる。つまり、本能の代理をしている文化をもって初めて人間はサルと同等になれるのである。それだけ不完全な存在なのだ。

 文化には上下左右はない。ゴッホの絵とピカソの絵とどちらが正解か、なんて問いがないように、文化には上も下もない。昔は芸術を大芸術と小芸術に、文化を(ハイ)カルチャーとサブカルチャーに分けたものだが、「下位文化」というのがあるはずもない。ビートルズをサブカルチャーとしていた人も「いいねぇ、ビートルズって」と言っているに違いないし、今ははげ上がっている人だって、昔はサブカルチャーだった長髪をしていたに違いない(←挑発的な文章になってしまいました)。漫画だって取り上げていいし、「越中褌」だって取り上げていい(はずだ)。

 やっかいなことに文化は統一性を失っている。これが富山文化だと提出することは不可能だ。例えば、ジェイムズ・クリフォードは『文化の窮状』(紀伊国屋書店)の中で次のように書いている。

あまりに多くの声が同時に話している世界、シンクレティズム(諸文化混交)とパロディによる創造が例外ではなくて常態であるような世界、組織化された移動性をともなう都市的で多国籍な世界では、たとえば韓国で作られたアメリカの服をロシアの若者が着る……そうした世界においては、人間のアイデンティティと意味を、ひとつの首尾一貫した「文化」や「言語」に結びつけることがますます困難になっている。

さまざまの全体性を非物質的なものとして表象することに意を用いていたバフチンにとって、統合された文化世界や言語は存在しない……。そのような抽象的な統一体を措定しようとするあらゆる試みは、モノローグ的権力の構築物なのだ。ひとつの「文化」とは、具体的には複数の下位文化、部内者、部外者、多様なグループなどの制限のない創造的な対話である。また、一つの「言語」とは、地方語、職業用語、一般的な決まり文句の相互作用や闘争であり、異なった年齢グループ、個人等々の発話である。バフチンにとって、多声的小説とは(ジョルジ・ルカーチやエーリッヒ・アウエルバッハなどのリアリズム批評家の議論とは違って)文化的あるいは歴史的な全体化による力業ではなく、むしろ多様性のカーニヴァル的競技場だ。バフチンは談話的複合性、ないしは複数の声の対話的相互作用に適した、あるユートピア的なテクスト空間を発見する。

 ここでは「ポストコロニアル」で行けばいい。つまり、東京の文化が偉くて、富山の文化が低いとは考えない。『オリエンタリズム』のサイードになったつもりで、富山文化を考えていけばいい。むしろ、富山から東京を眺めるのである。すると東京が見えてくる。つまり、「脱構築」である。サバルタンだって語ることができるのである。

 カドケシという消しゴムが売り出された。これって脱構築だ。消しゴムの本質はゴムだと思っていた人が多いかもしれないが、角だったのだ。角があるから消えるのだ。つまり、カドケシは角をたくさん作って消せるようにしたものである。

 文化へのアプローチとして歴史的な(通時的)ものと現在のものが(共時的)あるが、「何カル」の場合、どちらでもいいと思う。ただ、現在への視点というものがあれば、最高だ。歴史発掘物ではないからだ。

 だから、富山文化というと何もない、という話になるのだが、探せばいろいろある(はずだ)。

 一番手っ取り早いのは県外の人と話していて驚かれたことや、自分が県外に行って感じたカルチャーショックなどを手がかりにするのが一番いい。

 外国に住んだことのあるスタッフも多いから、外国でのショックを考えてみるのも面白いかもしれない。

 というのも、県民性を特殊だと思っている富山県民は国民性が特殊だと思っている日本人のミニチュアなのだから。

 僕らは自分を取り巻く文化的環境について知識と批判力をもつことが必要だ。文化に無自覚でいることは受動的なまま生涯を送ることになる。文化創造に積極的に参加してほしいと思う。つまり、スタッフには文化創造者になってほしいと願っている。


○「何カル」の作り方

 まず、テーマだ。テーマをどうするか、これが最大の問題だ。卒論と同じで、テーマさえ見つければ後は何とかなるはずだ、と金川さんはいつも思っているようで、これが君たちの安田大先輩に迷惑をかける諸悪の根元となっている。テーマは富山の文化関係だ。当たり前のようだが、「文化果つる地」という人もいる富山ではなかなかテーマが見つからない。金川さんはいつも書店で「何カル・テーマ集」という本が売られていないか期待しているようだが、そんな便利な本が出るはずもない。ただ、テーマというのはいい加減なもので、金川さんはタクシーだってテーマにしようとしている。富山には流しのタクシーがないのは何故かというテーマなのだが、ディレクターの一人が「それは会社の方針でしょう」といわれて、金川さんは放心状態になったという。そうした方針を作る富山の会社の文化もあるし、それを容認していて暴動を起こさず、手を挙げたまま松川の銅像になってしまった人々のことを考えると、これも立派に富山の文化テーマとなりうるのである。「富山の恐竜」というのもやったことがあるが、恐竜に文化がある訳ではない(←あったかもしれないが…)。でも、少なくとも発掘する人には文化があるはずで、「恐竜空白県」と呼ばれて奮闘努力している人はまさに富山の文化を体現しているのである。

 でも、それって県外の人じゃなかった、というかもしれないが、富山県に来てしまえば、もう富山の文化に巻き込まれているのである。君たちの大先輩である安田さんも最近は富山県民の顔をしている(ような気がする)。

 テーマに戻ると、テーマを考える時には動機が必要だ。先日も「私は高岡銅器でやりたい」といわれた。僕も銅像になった気持ちで「どうぞ」と言ったのだが、何故、富山土人形ではなくて、高岡銅器でなければならないか、動機をはっきりしてほしい。「ヤンサンマ(流鏑馬)と牛」というのを金川さんはやったことがあるが、これはヤンサンマの行事はどれも3回ずつ行われるのはどうしてか?と疑問に思ったことから始まっている。日頃疑問に思っていることを立ち止まって考えてみよう。富山の人はどうしてこんなんだ!なんて文句が出たらそれこそが「何カル」のテーマになる。

 丸谷才一は『思考のレッスン』(文春文庫)で「良い問」を立てるかが発想の第一だという。「良い問」は「不思議だなぁ」という気持ちから生まれるが、大切なのは「謎を明確化、意識化することです。そのためには、自分のなかに他者を作って、そのもう一人の自分に謎を突きつけて行く必要があります」という。発想を広げるには例えばアナロジーをうまく使えという。自分の得意分野をしっかり持っていた方がアナロジーがしやすい。「何かものを考える場合、常に複数の主題を衝突させて、それによって考えて行くとうまく行く」といい、「多様なものの中に、ある共通の型を発見する能力、それが仮説を立てるコツ」だという。仮説は大いに立てるべし、といい、「同じ仮説なら、ミンアガアッと驚くようなものを立てたほうがいい」という。そして、型の抽出に成功したら、名前をつけろ、という。命名することによって考えがはっきりしてくるのだ。

 ただし、こうした手法はカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)として蔑まれることがある。カルスタにはアナロジーの罠というものがある。例えば、石原千秋は『大学生のための論文執筆法』(ちくま新書)で次のように書いている。

 カルスタはアナロジーの論理によって事実をつなげていく。<あれとこれは一見まったく異なったレベルの出来事だが、構造がにている>と指摘することで、あそこにもここにも同じ権力を働かせているような見えない権力構造に思わぬ見晴らしを与えてくれることがある。これがカルスタの最大の武器だ。ただ、実際には単なる情報の羅列でしかない論文が大量生産されていることは、先に述べた通りである。

 最大の武器が最大の弱点になることはよくあることで、このアナロジーの論理はあれとこれとの「事実」としてのつながりをあまり考慮しないから、「実証派」からは「いい加減」という批判を浴びることになる。特に「事実」と「事実」との間を「実証」的に埋めていくしんどい考証を旨とする従来の歴史学からの批判は厳しいものがあると聞いている。また、カルスタの方法を採用する社会学がいわゆる一次資料に当たらずに立論するために<歴史の上前をはねているだけだ>という批判をあびることにもなるだろう(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社1998・3)。

 次にテーマは具体的に!ということだ。高岡銅器だけだったら、テーマが広すぎる。それに、高岡銅器の歴史とか現状なんていうのは他の番組でも色々放送されているところだ。「何カル」ではどうするか?というと最近、高岡銅器がよく盗まれるがどうしてか、という話にしたり(銅像が「どうぞ」といっている)、銅器の売れ方に何か県民性がないか、地域の偏りがないか、というような話だと文化ネタになる。 

 金川さんは高岡銅器で二宮金次郎の像が作られていたという話に興味があって、これが戦争でどうなったか、今現在はどのように生産されているか、そして、二宮金次郎は今の小学校でどのように受容されているかというのに興味をもっているという。でも、これって話が広すぎるといって他のディレクターから拒否されるのが決まっている。具体的にテーマを絞らなければならないということだ。

 だからテーマはある事柄とまるで無関係に見えるような事柄をリンクさせると面白くなると金川さんは勝手に思っているようだ。どうしてこんな展開になるの?と視聴者に思わせたら勝ちだと考えているようだ。とはいっても、あまりにも無関係の話をするとついて来れない視聴者がいっぱいいる。スイッチ一つで別番組に変えられる。まして、「敵」は懸賞付きの番組を作っている。

 身近なものをテーマにしよう。「万物の根源は水だ」で有名な哲学者タレスは天文学にも造詣が深かった。

 彼はあるとき、星を観察するために、老婆を伴って家の外に出たが、溝に落ちてしまった。そこで大声で助けを求めたら、その老婆はこう答えたというのである。「タレスさま、あなたは足下にあるものさえ見ることがおできにならないのに、天上にあるものを知ることができるとお考えになっているのですか」と。
     ---ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫)

 そうなのだ。「脚下照覧」が大切だ。

 テーマが決まったら、ある程度自分で調べてから金川さんに相談するといい。少なくとも次のところで金川さんが何て書いているか調べてから相談しよう(笑説 越中語大辞典)。NHKは相談料まで払っていないようだからといって遠慮することはない。適当な参考書を教えてくれるに違いない。参考書を教えてもらったら近くの図書館に行けばいい。有能な司書が相談に乗ってくれるに違いない。でも、参考書を全部読む必要はない。金川さんほど君たちはヒマではないだろうから、全部読まないで必要なところだけどきちんと読む必要がある。それから金川さんの知らなさそうな参考書があったら、ちゃんとコピーをあげてほしい。今まではそんなこともなかったようだが、「ほらぁ、こんな本もあるんですよ」といって脅かしてみよう。

 分かりやすく!「立山曼荼羅はテーマパークの原点」というのもやったが、曼荼羅をもっと分かりやすくするにはどうしようかという使命感が彼を駆り立てたのだという(←ウソ)。基本は人間に物語が必要だという話だった。つまり、ディズニーランドと他のテーマパークが決定的に違うのは物語を背景に持っているかいないか、なのである。他にも名山と呼ばれるものがあるだろうが、立山信仰にはそれぞれの物語が存在している。

 いままで話題を呼んだB級グルメの数々は確かにおいしいし、地場産のものをうまく使って特色を出している。でも、源さん【柿の葉うどんを売り出そうとしている組合長】はかねがね「B級グルメには大事なものが欠けている」と思っていた。

 その料理が生まれたそもそものきっかけや、その料理にまつわるエピソード、まとめていえば「物語」が弱い。

 たとえば、けんちん汁の「けんちん」は鎌倉時代の建長寺に由来しているとか、静岡県で近年ハンバーグがおいしくなったのは焼き肉料理の好きな日系ブラジル人が増えたからだとか、長さがそうめんの半分ほどしかない宮城県の白石温麺(しろいしうーめん)は、一説によると風邪をひいたお母さんがむせずに食べられるように口腔息子が麺を半分に折って作ってあげたのが始まりだとか……そういうウンチクや逸話が加わることで、料理はいっそう味わい深くなるはずだ、というのが源さんの考えだった。
     -----重松清『峠のうどん物語』(講談社)

 シナリオを書く前に他局だったらどう作るかをちょっと考えてほしい。ヤンサンマについて、他局や他の報道だったらどんな風に作るか考えてみて、それとは違う方向を見つけなければならない。地方新聞なんて毎年同じような記事を繰り返しているだけで、そこに出てくる固有名詞が少し違う程度だ。そんな番組作りは「何カル」でやってはつまらない。せっかくの機会だから冒険してみよう(←といいながら、ボツになることも多いのだ!)。

 リズム感が必要。金川さんはボケで、斉藤アナはツッコミだ。だから、二人の会話がうまく弾むように作っていかなければならない。まあ、爆笑問題の太田と田中だと思って作ればいい。とはいっても、金川さんに太田のような見事なボケは期待できない。二人の間に安田さんも合いの手を入れることができれば最高だ。金川さんにとって合いの手は愛の手なのだ。

 そうそう、大胆に端折ることも大事。ボルヘスの小説(「学問の厳密さについて」『創造者』国書刊行会)に出てくる地理学者は詳細な地図を作ろうとして、原寸大の地図を作ってしまったが、大胆にまとめることで意味のあることもあるのだ。

「あなたはどちらを応援してるの?」と208【双児の一人】が訊ねた。
「どちら?」
「つまり、南と北よ。」と209【双児の一人】。
「さあね、どうかな? わかんないね。」
「どうして?」と208。
「僕はベトナムに住んでるわけじゃないからさ。」
 二人とも僕の説明には納得しなかった。僕だって納得できなかった。
「考え方が違うから闘うんでしょ?」と208が追求した。
「そうとも言える。」
「二つの対立する考え方があるってわけね?」と209。
「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない。」
「殆ど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。
「多分ね。」と僕。「殆ど誰とも友だちになんかなれない。」

  村上春樹『1973年のピンボール』(講談社)

 二項対立でとらえてはいけない。これだと60年代の実存主義か構造主義かというのからちっとも進歩していないように思える。どちらも無視できないのだ。

「『優れた知性とは二つの対立した概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。』」【鼠】
「誰だい、それは?」【僕】
「忘れたね。本当だと思う?」
「嘘だ。」
「何故?」
「夜中の3時に目が覚めて、腹ペコだとする。冷蔵庫を開けても何も無い。どうすればいい?」
鼠はしばらく考えてから大声で笑った

  村上春樹『風の歌を聴け』(講談社)

 三田誠広は『こころに効く小説の書き方』(光文社)で次のように書いていて、社会も人生も同じように見ることができるという。

 実存と構造という考え方は、その意味【実存は一回きりの体験で、構造という考えからは無限に繰り返されてきたこと】では対立する視点です。鏡の表と裏のような関係といってもいいでしょう。しかし、どちらが正しく、どちらかが間違っているということではありません。一人の人間をその内部から見つめるのが実存だとすれば、空間的にも時間的にも大きな流れの中で、俯瞰的に見据えるのが構造という考え方です。
 わたしたちは、実存として生きています。同時に、構造の中を生きているのです。
 そのことを、はっきりと自覚して、小説を書く。その自覚が、主人公と作者の間に距離を置き、作品に深さと奥行きを与えることにつながるのです。

 俯瞰で思い出すのは正岡子規の絶筆三句である。「おととひの糸瓜の水も取らざりき」「嘆一斗糸瓜の水も間にあはず」で、脊椎カリエスで出る嘆を出すための糸瓜の水を一昨日も取らなかった。嘆が大量に出て糸瓜の水薬も間に合わなかったというものだ。これに対して「糸瓜咲て嘆のつまりし仏かな」と嘆をつまらせて死んで仏になった子規自身を真ん中に見据えて庭先に糸瓜の花が咲いているのを見ているという俳句になっている。

 展開はまっすぐに、枝葉をつけたりしない。金川さんはすぐに知識をひけらかして枝葉だらけの話になるのだが、枝は有能な庭師になったつもりで、どんどん切り取らなければならない。安田さんは初めて金川さんの研究室に行く時に、村山ディレクターから「先生の話はすぐに横に行って、それは面白いのだけれど真っ直ぐ前に進めるように話を聞いて来なければならない」とアドバイスされたくらいだ。君たちは夜のジャンボジェットのようにまっすぐ粛々と目的地に向かう必要がある。

 「週刊こどもニュース」のお父さん役・池上彰が『相手に「伝わる」話し方』(講談社現代新書)で「わかりやすく説明するための五箇条」を書いている。これが基本だろう。

1)むずかしい言葉をわかりやすくかみ砕く
2)身近なたとえに置き換える
3)抽象的な概念を図式化する
4)「分ける」ことは「分かる」こと
5)バラバラの知識をつなぎ合わせる

 展開は自由に。せっかく寝ずに展開を考えても、リハでひっくり返されることも多い。その前にチェックしてほしかったと思っても、誰も同情してくれない。どうじょうもない状態だ。金川さんの台詞は適当にしておけばいいので、むしろまっすぐな展開とメリハリとしっかりすれば十分だ。

 オチをきちんと。視聴者というのは途中はまるで見なくてオチだけを見る。2時間の映画が終わってから「ところで、悪者はどっちだったの?」と聞くようなものだ。内容は見ないで金川さんのネクタイだけ見たりするものだ。オチだけはちゃんと見せれば「何カル」は成功だ。

 特にディレクターは「で、富山的なところはどこですか?」と聞いてくる。そんなに何でもかんでも富山的なところがあってはおかしいのだけれど、他県と比べて変わっていることを一つでも話せれば充分だ。富山県民は多くの日本人と同様、自分たちが変わっていると考えているから、そのような答えを出してあげればいいのだ。

 これだけ守れば、「何カル」は簡単に作れるはずだ。

 高校生から大学生の間は友達と話すことは「おどかしっこ」(@庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』)なのである。相手の知らなさそうなことを、なるだけ嫌味なく自慢できたら最高だ。驚かすことが大切だ。驚きを忘れてはいけない。

 アリストテレスも『形而上学』(出隆訳、岩波)で「驚嘆することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合でもあのように、知恵を愛求し(哲学し)はじめたのである」という。哲学だって驚きから始まるというのだ。

 内田樹はホームページで驚くことについて次のように書いている。

「知性とは驚く能力のことである」というのはロラン・バルトの名言である。

「驚かない」というのは要するに知性が鈍感だということである。
自分の手持ちのフレームワークにしがみつき、どんな新奇なことに遭遇しても、既知に還元して説明しようとする人間は、その狭隘なたこつぼから一生出ることがない。
その反対に、日常的に経験するあたりまえの事象のうちに「ん? なんか、変じゃない?」というふうにひっかかりを感知し、あらゆることのうちに驚きのタネを見つけることができる知性の方ができはずっと上等だ。
「驚かない」人間はどんどん鈍感になり、「既知」のうちに安んじる。
「驚く」人間は自分の周囲にたえず「未知」を発見してわくわくする。
さて、命にかかわるような大事件が起きたときに、適切に対処できるのはどちらだろう。
もちろん「驚く」ことに慣れている人間である。
この人にとって「驚く」ことは主体的な営みである。自ら選んだ世界へのかかわり方である。
驚きに対して、能動的なのである。
だから、「驚く人は、驚かされない」。
ひごろ驚かない人は、その鈍重で堅固なフレームワークが「壊れる」まで、変化に気づかない。そして、何の準備もないまま、いきなり想像を絶した命がけの事件に直面することになるのである。
だから、「驚かない人は、驚かされる」のである。

 そのロラン・バルトは『表象の帝国』(ちくま学芸文庫)で女形(おやま/おんながた)について次のように書いている。

 東洋の女形は女性をコピーしない。女性を表象する。女形はそのモデルへと凝り固まらない。モデルから身をひきはなして表象する。女形は読みとられるものとして、女性を現前させるのであって、見られるものとして現前させるのではない。つまり、翻訳なのであって、変容なのではない。

 「表象」について『アニメーション55のキーワード』(ミネルヴァ書房)に「リアルだからおいしそう」ではない、という項がある。伊丹十三が「リアルとリアリティは違う」というの同じだ。

 ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた』(一九九八年)の中に、スタジオジブリの新人研修の様子が映っている。新人が取り組む課題は、写真のハンバーグステーキをみながら、自分で配色を考え、セルを塗り上げること。そこに宮崎駿監督がやってきて、ある新人のハンバーグを講評する。曰く、ハンバーグの色が黒茶色過ぎて美味しそうにみえない。もっと彩度(色の鮮やかさ)が高い色がおいしそうに見えるのだ、と。

 このシーンにはアニメーションで食事を表現するにあたって大事なポイントが含まれている。それは、現実模倣的に料理を表現することと、観客に「おいしそう=シズル感」を伝えることは別の話ということだ。シズル(Sizzle)感を伝えるには、現実模倣というより「おいしそう」なイメージを刺激する演出が必要なのだ。このことを念頭において、宮崎監督の『ハウルの動く城』(二〇〇四年)に登場するベーコンエッグをみると、色使いでおいしさが演出されていることがわかる。

 たとえば、ベーコンの肉の部分の明度(色の明るさ)は低めだが彩度は高い赤。黄色の卵の黄身も非常に鮮やかだ。ここにさらにハイライトがのせられている。ベーコンの上のハイライトは明るいクリーム色。あぶられて表面に浮いてきた油を表現している。卵の黄身の上にも明度の高い黄色がハイライトとしておかれており、ツヤツヤの質感が加わることで、出来上がりつつある料理の雰囲気を強調している。なお、色彩以外に目を向ければ、このシーンはフライパンで油がはじける音(シズルという言葉の語源でもある)も、おいしさの演出に一役買っている。【…】

 リアルさとは何か?岡真理は『記憶/物語』の「虚構のリアリズム」で次のようにスピルバーグを語っている。

 「リアルである」とか「ない」とか、「リアリティがある」とか「ない」とかいったことは、一般に、本物、現実と、再現されたもの、表象されたものの愛だの距離、表象が本物をどれだけ忠実、正確に再現しているか、というkとで測られるであろうけれど、参照とすべき本物、現実が存在しなくても、表象を「リアルな」再現と感じるのはなぜなのだろう。古生代の恐竜は当然のことながら、現代の戦場も、スピルバーグ自身おそらく経験してはいないのだ。そして、スピルバーグが、恐竜にせよ、戦場にせよ、自身のできごととして体験していたとしたら、彼はそれをあのようなあたちで---リアルというものに対する揺るぎない確信をもって---再現、表象することがはたしてできただろうか、と私は考える。

 『ウェストサイド物語』を何度か目に映画館へ観に行った時に、笑い出した女の子たちがいた。想像できない状況だったらしい。後にタモリも同じようにミュージカルは不自然だと言っていると聞いて引いてしまった。『ロッキー・ホラー・ショー』のように参加する映画もあることを知ったのは更に後だ。なぜかミュージカルが苦手なキーンさんは次のようにいう。

 芸術にはなにかしら不自然なことは付きものです。不自然なもの、あるいは、ありえないものを、当然のこととして受け入れる必要があります。

 オペラでは人が歌うということが不自然です。日常生活では、だれも歌いません。もし歌うことで、日常のコミュニケーションを計ろうとする人がいたとしたら、ちょっと頭がおかしい人間だと思われるでしょう。しあし、歌うことはオペラには絶対欠かせない要素です。
 文楽では、三人の人形遣いが一体の人形を動かします。きわめて不自然な行為です。しかもその三人は観客のだれからも見えるところで、人形を操っています。
 歌舞伎では、女形、代表的な女形だった中村歌右衛門といえども、その声は本当の女性sの声とはまったく違います。だれしも聞けば、それは歌右衛門の声であって、女性の声でないことはすぐに分かります。
 しかし、わたしたちは、頭のなかで、あるいは心のなかで、さまざまな不可能なことを可能にすることができます。ただし、絶対欠かすことのできない条件がひとつだけあります。それは優れたものでなければならないということです。優れていなければ、耐えられないのです。【…】
     -----『ドナルド・キーンのオペラへようこそ!』(文藝春秋)

 北斎の「凱風快晴」などは富士を描いているのではなく、「表象」しているのである。だから、「富士山を稜線に注意して正確にかけ」というと、誰しもモースの弟子たちのように小さい頃から心象に残っている鋭角の富士山を描いてしまう。オスカー・ワイルドのいうように「自然は芸術を模倣する」のである。

 「表象」というのはフランス語の“representation”で何らかの現実を「再」(re)「現」(presentation)したものだ。現実世界に基盤をもつ人間の表現は、すべて「表象」である。この「表象」には、ある種の「物語化」がつきまとう。人間は現実世界を自分なりに意味づけて認識するからである。例えば、日記を書く場合も自分の経験したことが整理され、一貫した流れの中で記述される。これが「物語化」で、正確には、日記を書く際に物語になったのではない。生の現実を認識していくときに、既に「物語化」が起こっているのだ。メディアも生の現実ではなく、なんらかの価値観のもとに再構成された「フェイク」をを配信しているのである。

 ディズニーランドが他のテーマパークと全然違うのは物語性がしっかりしているからで、原型となるアニメがあるからだ。実はアニメを見ている人は少ない(ミッキーマウスの映画を見た子どもはどれだけいるだろうか?)のだが、刷り込まれてしまっている。中には「カリブの海賊」のアトラクションだけがあったのに、後に『パイレーツ・オブ・カリビアン』という映画になってしまう場合もある。もちろん、ユニバーサルスタジオも同じように物語性を持っているから強いのである。同じように、アニメができれば、グッズが売れる。バービーやリカちゃんとは違うフィギュアなのである。リカちゃんもバービーと違って、家族を持っているが、日本人は「ままごと」で疑似家族を作って物語を楽しんでいるのである。


○「何カル」の独断と偏見

 独断と偏見がNHKにとっていいかどうかというと悪いに決まっている。しかし、「何カル」は大人の番組なのだ。独断と偏見を見せられて、自分で違うと思ったら、それで成功だと思っている。考える最初のヒントを与えればいい。

 無色透明で人畜無害の文化なんかありえないのは人畜無害の宗教がないのと似ている。

 これは僕だけの考えではない。動物学の日高敏隆・滋賀県立大学長は『僕にとっての学校』(講談社)で「おもしろい講義とは」でおもしろい講義というのは次のようだと書いている。

…それまで思ってもいなかった新しい問題を提起されたときだった。そういう問題があるとは夢にも思わなかったのに、じつはここにこういう問題があるという話を聞いたら、つい身を乗り出して聞いてしまう。それで、なるほどと思って、新しいことを学んだという気になる。それがおもしろい講義なのです。自分が知っていることを詳しく、細かく、NHKの解説のようにやさしく、「皆様はご存じないかもしれませんが、簡単にわかりやすくご説明いたしますと…」なんてやられたら、聞こうという気はなくなる。

 岐阜県立大では教養部をなくして「人間学」という講義群を作ったという。概論というのは受け身で習うものだから、ダメだと次のようにいう。

…概論というのは、もっとも受け身で聞くものです。おもしろくない。滋賀県立大の人間学の先生方には、とにかく一般論、概論ではなく、自分の独断と偏見に満ちた講義をしてくださいとお願いしています。たとえば、最近こういうことが起こっている。なぜならばこうだからだ、と自分の論拠をあげて自説を展開してください。その中に、いわゆる基礎的なことも盛り込んでください。そして最後に自分の結論として、私はこうだと思うと言い切ってください。それが全部まちがっていても構いません。

 そのときに学生はなにを学ぶか。なるほどこういう現象があるときに、こういうふうにつなげて論を立てることができるのだなということを勉強する。これはとても大事なことです。とくに日本人は立論がへただから。そういうことは身につけてもらわないと困る。そこで学生が、「あの先生、あんなことを言ってけしからん」と思ったら、それはそれでいいではないか。その学生が本を読んで、やはりあの先生の言うことはまるで反対だとなったら、その学生はそれで勉強してしまったことになる。勉強は一生続けるもので、大学にいるあいだで終わりということはないのだから。

 「真理は一つもない」というのが僕の信じる唯一の真実だ。『ボヴァリー夫人』を書いた作家フロベールも書簡の中で「馬鹿とは結論づけたがることだ」と書いている。

 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中で牧村拓という小説家が登場して僕と対話をする。「俺も警察は昔から嫌いだ。六〇年代には俺もひどい目にあった。樺美智子が死んだとき俺は国会の回りにいた。大昔だ。大昔には−−」といい、続けて「大昔には、何が正義で、何が正義じゃないかちゃんとわかっていた」というのに対して、僕も物書きの端くれだが、それはいわゆるライター的な仕事で、「文化的雪かき」だと思っているというと牧村は「ときどき俺もそう感じる。こんな文章を書いて何の意味があるのかと。たまに。昔はこうじゃなかった。世界はもっと小さかった。手応えのようなものがあった。自分が今何をやっているかがちゃんとわかった」という。更に「でも今はそうじゃない。何が正義かなんて誰にもわからん。みんなわかってない。だから目の前のことをこなしているだけだ。雪かきだ。君の言うとおりだ」という。

 「真理は一つもない」というのは天下のNHKでまずい、と思うかもしれないが、このコーナーは「金川欣二の何でもカルチャー」になっていて、クレームが来たら、金川さんに回せばいい。どんな事柄でも、いちゃもんをつけようと思えばつけれるものだ。クレームに臆病になってはいけない。金川さんのせいにして大胆になろう!

 「真理」を求めないでどうする、という人がいるかもしれないが、僕はコトの真理よりも「もっともらしさ」(plausibility)を大切にしたい。plausibilityはラテン語の「称賛に値する」という意味から派生した言葉【applaud「称賛する、拍手する」と同源】だが、「もっともらしい」と他人から認められればいいのだ。

 だいたい、文化の意味を問うこと自体、ナンセンスなのである。

 シェフが被っている「シェフ帽」はフランス語で“toque de cuisinier”つまり「コック帽」というのだが、鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)によれば、その高さは「じつをいえばまったく意味はないのだ。というのも、円筒形の高さはたんなる流行にすぎず、戦前は円筒がもっと低かったからである」という。スカートの丈がミニになったり、下がったりとちっとも変わらないのである。

 アメリカのある州にはライオンを連れて映画館に入ってはいけないという法律があるという。フランスでは豚の飼い主が自分の豚を「ナポレオン」と呼ぶのは犯罪だそうだ。イギリスでは男がスカートをはくのは普通だが(チャールズ皇太子などもよくはくし、パンツははかないそうだ)、イタリアでは男がスカートをはくと逮捕されるそうだ。これらは法人類学で学んだ。

 比較すれば、すぐに「正解」がないことが分かる。それが分かればもう大丈夫だ。パチン!

 二人が同時に全く同じ言葉をいうと「ハッピー・アイスクリーム」という。デズモンド・モリスは『ウーマン・ウォッチング』で書いている。

 ヨーロッパのいくつかの国では、二人の人が偶然、まったく同じ言葉を同時に言ったとき、「スナップ!」と叫んで小指をからませる。この間、二人とも無言で願い事を唱えてもよいとされ、指をほどくまでひと言も発しなければ願いは叶う。これもやはり、小指に心霊的な力があり、超自然的な力を伝える能力があるという大昔の信仰を反映している。

「スナップ」という言葉も指に関係がある。指を鳴らす(スナップ)動作の代わりに言う言葉で、この動作にも迷信的な期限があるからだ。親指と中指を合わせてぱちっと(スナップ)と鳴らす大きな音は、悪霊を脅して退散させると考えられ(このため、人の注意を引くのに指を鳴らすのは不作法とされる)、これが二人の人が同時に同じ言葉を発したときには必要とされたのである。 

 西江雅之先生は食文化についての話から次のように語っていた。

 人間は本来、種として「食べられる物」が一致している。それにも関らず、それぞれの集団で歴史を通じて蓄積されてきた文化によって、「食べ物」(それぞれの文化において食べ物だとみなすもの)と「食べられる物」(人類として食べることが可能なもの)とのギャップが大変大きくなってしまっている。本当は、人類が「食べられる物」をすべて食べれば、今のところ食糧危機は一切ないはずです。科学と文化の最も端的な違いがここにあります。

 われわれは、科学的に生きているわけではない。既存の科学で事足りるのは、人間が生きていることのほんの一部でしかありません。「食べること」のかなりの部分は精神的な行為であり、ゆとりであり、くつろぎであるんです。「食べられない物」についての宗教的な説明も、主義主張上の理由も、すべて「文化的いいわけ」(「文化的な根拠」)なんです。文化の重要性はそこにあります。特に「食べ物」の分野において、このポイントは顕著に現れます。【…】

 人間にとって食べるという文化には、どれもこうした入り組んだシステムが機能している。人は、これから逃れることはなかなかできない。ところが、やってる本人は自分がやっていることの文化的な意味に気がつかない、というか、ことさらに意識はしていない、きわめて当たり前の行為だと思っている。それが文化なんです。そして、その文化に対するさまざまな説明(または蘊蓄)は、すべて基本的には「文化的いいわけ」なんです。

 いなりずしには東西で四角と三角の大きな違いがあるが、お互いが自分のところが正しいと信じている。

 家庭料理としてのいなりずしの油揚げの切り方は、東の四角型と西の三角型と、ほぼ日本を二分するかたちで分布を分けている。その境界線は、大まかにいえば、志摩半島から琵琶湖東岸・白山西麓を経て富山湾を結んだ線になる。おもしろいことに、おたがいが正統だと思っているようで、たとえば四角型の栃木県河内郡で聞いたところによれば「稲荷とは稲の荷物、すなわち米俵の形に仕上げるもの」だという。カンピョウの産地であることが影響シテか、いなりずしをひとつひとつカンピョウで縛った「俵ずし」というのも見せてもらった。一方、三角型では、三重県で「お稲荷さまの使いはキツネ。だからいなりずしはキツネの耳を形取って三角につくる」という声を聞いた。
     -----日比野光敏『すしの歴史を訪ねる』(岩波新書)

 おにぎりも同様である。向田邦子の『阿修羅のごとく』では実家に集まって、帰りの遅い父・恒太郎を待っていて、深夜に「おむすび」を作る場面でも、さりげなく姉妹の立場の違いを描いていて、独身の三女・滝子にはカルチャーショックになっている。女性にとって結婚とは母の味から離れていくものなのである。

滝子「あら、巻子姉さん、三角なの?」
咲子「うち、俵じゃなかった?」
滝子「綱子姉さん“たいこ”型だ」
巻子「オヨメにゆくと、行った先のかたちになるの」
滝子「すみません、いつまでも俵型で」

 おにぎりの昔の形は三角だという説がある。最古とされる石川県杉谷チャノバタケ遺跡で発見された弥生時代中期のおにぎり(確定ではない)が鋭い三角形だったからである。横浜市上の山遺跡40号墓からも三角のおにぎりが出ている(中に銭が3枚入っていた)。先端を尖らせたのは神へのお供物だったからとされる。薬のなかった時代に神に備えて、それを口にすることで神の力を宿して健康を保つ風習(直会)だったのだ。なぜ三角かというと神はくもの上の高い所に宿る、つまり山と信じられていたからだという。おむすびが何を結ぶかというと、高木神社の境内にはおむすびがいっぱいあるが、高皇産霊尊(たからむすびのかみ)によって米と山の神を結んでくれるものと考えた。だから山の形の▲に結んだのである。平安時代には『源氏物語』にあるように「屯食(とんじき)」という食べ物が生まれ、丸い卵型のおにぎりだった(召使いなどの日常食が神に捧げるものと同じではいけないと考えたかどうかは不明)。いつの間にか丸も出てきたのだが、コンビニの登場でスペースを食わなくて、立てて転がらず、飾りやすい三角が主流になっていった。『おにぎりの文化史』(河出書房新社)には国語教科書で一番古い「猿蟹合戦」で出て来るのも三角おむすびだという。しかし、神様の、といわれると吉野椰枝子『おにぎりはどの角から食べるのがマナーですか?』(祥伝社)に出てくる留学生の気分になってしまう。

 正しいマナーというのもありえない。世の中が複雑になっているからである。

 たとえば、結婚式において。既婚の友人というのは、お祝いが入った袋を、嫁ぐ時に実家で作ってくれたと思われる、家紋入りの服紗で包んで持ってくるわけです。対して私を含めて独身の人達は、祝儀袋をバッグからそのまま出したり、ビニール袋から出したり、せいぜい香典返しでもらった安そうな服紗に包んでいたり。それは非常に小さな差ではあるのだけれど、互いの立ち位置の違いを感じさせるには十分な差でもある。そして私は、「世の親は、たとえ結婚していなくても、娘が三十を過ぎたら服紗をプレゼントしてやった方がいいのではないか ?あと、できればちゃんとした数珠と喪服も……」などと思うわけです。【…】
 昔は、家庭の中でオオヤケ社会のマナーはお父さんが知っていて、ワタクシ社会のマナーはお母さんが担当するというバランスができていたものと思われます。が、今や色々な生き方をする人がいて、その手のバランスは崩壊している。私のように、結婚せずに一人でワタクシ世界を放浪する人もいれば、離婚再婚国際結婚できちゃった結婚と、結婚や家庭の形態も様々。さらには、帰国子女がいたりガイジンがいたりと、育ったバックボーンも様々なので、「このマナーなら絶対」ということがないのです。
     -----酒井順子『黒いマナー』(文藝春秋)

 『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』はアメリカに住むギリシャ娘の結婚がテーマなのだが、結婚式で派手なウェディングドレスに参列者がみんな唾を吐きかけるシーンがあって、花婿が卒倒しそうになる。ギリシャでは魔よけのおまじないだというのだ。まあ、米をまくのも奇妙だが。いや、結婚式自体が奇妙ではある。

 茶道も同じである。僕らからするとたかだかお茶を飲むだけの行為を色々と理由をつけて礼儀にしている。流派によって全く違う所作をするのだが、それぞれにちゃんとした理由がある(ことになっている)。

 そう。偉そうにいっても、みんな「文化的いいわけ」をしているだけなのだ。

 ドイツの哲学者フッサールは「伝統とは起源の忘却である」といっている。つまり、起源をたどっていくと、まるで違うものに行き着いてしまう。

 例えば、クロワッサンの起源について木村尚三郎『ヨーロッパ思索紀行』(NHKブックス)はウィーンがトルコ軍に包囲されてお終いだと思った時に、イスラムの三日月をかたどって「トルコ歓迎パン」として作ったのが、天佑でドイツ・ポーランド軍のおかげでトルコ軍が敗走し、三日月パンを「勝利記念パン」として食べたキプフェルが起源だとしている。でも、どうやらさまざまな説があって分からないみたいなのだ。も鹿島茂『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)で書いているが、『十九世紀ラルース』には記載されていないことから分かるように、フランスで一般に普及したのは19世紀も後半で、『ロベール』によれば活字にとどめられるようになったのは1863年以降だという。

 蛇足だが、フランス人は月の形がCであれば“decroissant”(欠ける月=下弦の月)、Dであれば“croissant”(満ちる月=上弦の月)として反対にして覚えている。関係ないが、集合論で使う∪を「カップ」、∩を「キャップ」と名前をつけて区別するというのも一工夫なのだよ。

 小野二郎の『受け皿で紅茶を』(晶文社)のタイトルになった話だが、中国からの陶器が輸入された頃、紅茶の飲み方は受け皿に移されて飲まれていた。その頃の茶器にはティーカップに取っ手が付いていなかったので、熱い紅茶を受け皿に移すことで冷まして持ちやすくしたためという。1980年オランダから帰国したヨーク公夫人によって紹介された飲み方はやかんでお茶を沸かしミルクを加え、カップに注いで砂糖を溶かし、それを受け皿に移し頂くのが「正しい」マナーだった。

 スコットランドというとタータンチェックだが、歴史家のH・トレヴァー・ローパーが明らかにしたように、このスカートは18世紀にスコットランドの進出したイギリス人製鉄企業家が作業着として考案したものだとうい。それなのにハイランド地方の民族衣装として対外的に喧伝されて、「伝統」が捏造され、神聖化されてしまっている。

 僕らが「真理」とか叫んでいるのは小川洋子『博士の愛した数式』で数学雑誌の超難問懸賞問題を解いた博士が「僕は別に喜びたくはないんだよ。僕がやったのは、神様の手帳をのぞき見して、ちょっとそれを書き写しただけのことで…」というが、数学のような「真理」でも、その程度のことなのだろう。

 社会制度が「どうして今あるような不合理な制度が出来て、もっと合理的な制度にならなかったのか」と問うことは「どうして日本語は英語ではないのか」というのと同じくらいに無意味な問いである。ウソだと思うならレヴィ=ストロース(『今日のトーテミスム』)に聞いてみよう。

さまざまな信憑や習慣の起源について、私たちは何も知らないし、この先も知ることができないだろう。なぜなら、その根は遠い過去の中に消えているからだ。しかし、現在についてなら確かなことが一つある。それは社会的行動とは個人が自発的に演じうるものではないということである。

 社会制度についての問いかけは、二種類の自制を要求する。一つはレヴィ=ストロースが言うように「その起源について知ることは出来ない」という知的限界の自覚である。

 もう一つは「その起源を探求する」自分自身の知性の中立性を不当前提することの自制である。レヴィ=ストロースはこう続けている。

習慣は内発的な感情が生まれるより先に、外在的規範として与えられている。そして、この不可知の規範が個人の感情と、その感情がどういう局面で表出され得るかあるいは表出されるべきかを決定しているのである。


○ハイブリッド思考

 言葉を小説の書けるような形で記憶するためには、倉庫に次々木箱を運び入れるように記憶するのではだめで、新しい単語が元々蓄積されているいろいろな単語と血管で繋がらないといけない。しあも、一体一で繋がるわけではない。そのため、一個言葉が入るだけで、生命体全体に組み替えが起こり、エネルギーの消費がすさまじい。だから、簡単に新しい言語を取り入れていくことができない。

      多和田葉子「ロサンジェルス」『エクソフォニー』(岩波)

 いろいろ考えるきっかけとしてテレビと視聴者を結ぶ、そんな番組にしたいのだ。言葉尻を取られないようにしながら、もっともらしいことを語りたい。

 オンリー・コネクト!

 つまり、全く別の世界に存在すると思われていたことを結びつけることが大切なのだ。富山とイタリアなんて共通性がある訳がない。佐々成政とオセローに関係があるはずがない。国語辞典に富山が出てくるはずがない。けれど、これらに共通性、類似性、関連性を見つけることができる。小さな発見があればそれだけで面白い。

 ねじまき鳥さん、正直に正直に正直に言っちゃうと、私はときどき、ものすごく怖くなります。夜中に目が覚めて、ひとりぼっちで、誰からもどこからも五百キロくらい離れていて、まっくらで、どっちを見ても先のことなんかぜんぜんわからなくて、本当に大声で叫びだしたいたいくらいこわくなるのです。ねじまき鳥さんにはひょっとしてそういうことありませんか? そういう時、私は自分がどこかに結びついているんだと考えるようにしています。そして、結びついているものの名前をアタマの中で一生ケンメイ並べていきます。その中にはね、もちろんねじまき鳥さんもはいっています。あの路地も、あの井戸も、柿の木も、そういうものもちゃんとはいっています。

   村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)【「僕」のことを「ねじまき鳥」と名づけている笠原メイの手紙】

 外山滋比古は『新エディターシップ』(みすず書房)で「人間の知的活動のきわめて大きな部分が統合作用によっているわけで、人間はすべて生まれながらのエディターである。オーケストラの指揮者、仲裁者、司会者、演出家、生け花を活ける人、デザイナーなどなど、不調和を高度の調和にまとめ上げる機能をもつ人たちは、すべての人に潜在しているエディターシップを顕在させている、氷山の一角であるにすぎない」という。さらに「新聞、雑誌などの〈編集〉は、その氷山の小さな一角のさらにまた特殊な一部でしかない。したがって、エディターシップとは、いわゆる編集にその露頭を見せている全人間的機能ということになる。人間の文化とはこの広義のエディターシップの生んだ文化である」(統合の傾向)。人生そのものが編集作業なのである。

 アイデアを生む発想力というのは、遍在する膨大な記憶を徹底的に「検索」し、適したものを意識の表面に浮かび上がらせる力ではないかと思う。その力は筋肉と同じで鍛え続けないと退化する。そして発想力を鍛え、維持するためには、他の誰よりも「長い時間集中して考え抜く」という、ミもフタもないやり方しかない。だがおそらく考えている間はアイデアは生まれてこない。脳が悲鳴を上げるまで考え抜いて、ふっとその課題から離れたときに、湖底から小さな泡が上がってくるように、アイデアの核が浮き上がってくる。
 つまり藍であおちうものは常に直感的に浮かび上がる。しかし直感は。「長い間集中して考え抜くこと」。すなわち果てしない思考の延長上でしか機能してくれない。
    -----村上龍『無趣味のすすめ』(幻冬社)

 こんな風に「アイデアは組み合わせであって、発見などではない」と書かれていると気が楽になって物事が考えやすくなる。自分が考えつくものは、自分の頭の中に入っていることと何かのミックス、掛け合わせでしかないのだ。

 「ダブル・バインド」で有名なグレゴリー・ベイトソンによれば、コンピューターは人間のように考えることができるか?という問いに“That reminds me of a story.”「そういえば、こんな話を思い出した」と答えが出てきたという。話の中でつながりが見つかれば面白いのだ。そうだった!と思い出すことなのだ。これを嫌味なく出せればいい。

 結婚式と葬式は似ても似つかないはずのものだが、次のように並べると同じ儀式だということが分かる。

結婚儀礼 葬式儀礼
婚約式 通夜 変化の準備期間
結婚式 葬儀 状態が変化する集約的時間
披露宴 告別式 変化が確認される
新婚旅行 服喪期間 変化を定着させる

 だから、結婚式にも葬式にも似たような黒い服や白い服を着て参加するのである。第一、「結婚は人生の墓場」なのだから。

 小津安二郎の『秋刀魚の味』では、娘の結婚式の夜、友人2人と一緒に友人の妻の手料理でトリスウイスキーで祝杯をあげた平山(笠智衆)はバーに行く。平山が「一杯もらおうか」と言うと「水割りにしましょうか」とママ(岸田今日子)が聞くが「いや、そのままで」とストレートウイスキーを注文する。「今日はどちらのお帰り?お葬式かしら」とたずねられて、平山は笑いながら答える。「まあ、そんなもんだよ」と、一人静かにストレートウイスキーを飲む…。ちなみに、フランスでは秋刀魚が見当たらないため『酒の味(LE GOUT DU SAKE)』という題名になっている。

 小津の『彼岸花』には田中絹代が「モーニングだってまごつくわよ。今日お目出度で明日はお葬式(とむらい)じゃ」というセリフがある。

「娘たち」    茨木のり子

イヤリングを見るたびに おもいます
縄文時代の女たちとおんなじね

ネックレスをつらねるたびに おもいます
卑弥呼のころと変わりはしない

指輪はおろか腕輪も足輪もありました
今はブレスレット アンクレットなんて気取ってはいるけれど

頬紅を刷(は)くたびに おもいます
埴輪の女も丹(に)を塗りたくったわ

ミニを見るたびに 思います
早乙女のすこやかな野良着スタイル

ロングひるがえるたびに おもいます
青丹(あおに)よし奈良のみやこのファッションを

くりかえしくりかえす よそおい
波のように行ったり 来たりして

波が貝殻を残してゆくように
女たちはかたみを残し 生きたしるしを置いてゆく

勾玉(まがたま)や真珠 櫛やかんざし 半襟や刺子(さしこ)
家々のたんすの奥に 博物館の片隅にひっそりと息づいて

そしてまた あらたな旅立ち
遠いいのちをひきついで さらに華やぐ娘たち

母や祖母の名残の品を
身のどこかに ひとつだけ飾ったりして

 例えば、池内紀は『ちいさなカフカ』(みすず書房)ではカフカとサリンジャー、カフカとウィトゲンシュタインなどの類似性を指摘している。さらに「カフカと賢治」「カフカとクンデラ」「カフカと多羅尾伴内」「カフカと長谷川四郎」などという項目を見ているだけでわくわくしてくる。

 異質な物と物、物と人、人と人を組み合わせることによって、新しい、力強いものが生まれてくるのである。そうすることによって、放送局と視聴者が結び付くし、視聴者は視聴者なりの視点で僕らが思いもつかない別のものとつなげて文化を考えはじめるかも知れない。

 禅宗では「公案」などを用いて、「神とは何でしょう?」「お前は誰だ」みたいな禅問答をすることがあるけれど、これをハイブリッド思考と呼ぶことができる。ハイブリッド思考はファンタジーに応用ができる。ジャンニ・ロダーリは『ファンタジーの文法 物語創作作法入門』(ちくま文庫)の中で異化効果を生み出す技術<ファンタジーの二項式>という考え方を示している。物語が始まるのは、二つのある距離をもったことばのぶつかり合いからだという。もっとも公案の中には白隠(はくいん)が考えたとされる「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」といって、「片手の音を聞いてこい」というのもある。欧米でも“one hand clapping”と呼ばれるくらい有名なものだが、ぶつかり合わないで出す音も考えることが求められる。

 例としてガラス瓶と山、で、山の中のガラス瓶、ガラス瓶でできている山、ガラス瓶のなる樹のはえている山、ガラス瓶に入った山、などなどと発想していって、その違和感のようなものから、物語を広げていくと言うような発想法である。「犬」と「たんす」で考えればたんすを背負った犬がいれば面白いし、またたんすの中に犬がいればそれもまた面白い。何か物語が動き出す予感が生まれる。ロダーリは「闘争のないところに生はない」また「想像力とは精神のことであり、精神が誕生するのは闘争の中であって、平穏の中ではない」と語っている。

 同じようなことを、詩人のシェリーは「理性は物事の間にある差異を、そして想像力は物事の間にある類似を尊重する」という言葉で語った。

“Think about all the millions of oysters just lying around at the bottom of the ocean. And then one day, God comes along and he sees one, and he says I think I'm gonna make that one different. And you konow what he does? He puts a little piece of sand in it. And guess what it can do that the others can't?”
“What?”
“It can make a pearl.”

---Fried Green Tomatoes

「海の底に眠っている何千何百万という牡蠣のことを考えてごらん。そして、ある日、神様がやって来て、ひとつの牡蠣に言ったんだ。お前だけは他と変えてやろうってね。神様は砂をその中に入れた。その後、他の牡蠣にはできない何ができたと思う?」
「なあに?」
「真珠が作れるようになったのさ」

『フライド・グリーン・トマト』

 F.C.CrewsのThe Pooh Perplex: A Student Casebook(Dutton)という本では「くまのプーさん」の蜂蜜騒動が公的な許可も得ていないのに自分のものにできると信じ、自分の能力を過信し、墜ちるのは聖書のアダムが禁断の木の実を取った<堕落>の類比であると書いている。つまり、こんな童話の中にさえ、ノースロップ・フライのいう「グレート・コード」(=聖書)が隠されている、つまり合体していることになるのである。

 絵画でも同じで、ボッシュは人間と動植物や機械を合体させて「最後の審判」や「悦楽の園」を描いた。ブリューゲルは『ネーデルランドの諺』で、当時のことわざをそのまま絵画にしたし、ピカソはヨーロッパとアフリカ、現代美術と原始美術を合体させた。

 音楽では例えば、ベートーベンはシラーの詩に触発されて交響曲にはあまりなかった「合唱つき」の第九を作曲したし、リヒャルト・シュトラウスがニーチェの哲学に触発されて交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』を作曲した。

 「バタフライ効果」というのがカオス理論で知られていて、『ジュラシックパーク』の中でもややこしい感じの博士が語る。北京のチョウの羽による空気の動きが、めぐりめぐってニューヨークで大暴風を巻き起こすという効果である。これくらいの意外性がほしい。

 俳句で「取り合わせ」とか「二物衝撃」とか「配合」と呼ばれる手法も同じである。一つの素材しか使わなければ「一物仕立て」というが、例えば、「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 蛇笏」は一物で、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規」などというのは二物である。俳人の坪内稔典は「俳句レッスン」(『國文学』2001年7月号)で「取り合わせで作る俳句は、作者の感動を表現するというよりも、作った俳句によって感動する俳句。つまり、感動の発見装置としての俳句だ。小学生に、感動とか思いを五七五で表現せよ、と言えば困難を強いることになるが、取り合わせだったらとても気軽に出来る」といい、更に「取り合わせは、合理的に説明のつく場合は面白くも何もないが、子どもたちは五七五音に制約されてかなり強引に取り合わせを行う。そのためにしばしば突拍子もない取り合わせが行われ、片言的な俳句が出現する」「取り合わせる両者の関係があまりに近いと平凡な作品になる。逆に遠すぎると、読者には読み取りが難しくなる」と書いている。「柿食へば」はその前に漱石が作った「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」というのがあって、こちらはズレとか裂け目とか意外性はない俳句があったが、子規が「柿を食べる」ことと「鐘が鳴る」こととはなんの必然性もないし、心の中のつながりもないことが面白みを生んでいる。

 これはシュールレアリズムの手法の一つであるデペイズマン(転置=ずらし)と呼ばれるものでもある。最も有名な「解剖台の上のミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」というように、事物を非日常的で偶然的なコンテクストに置くことである。

 エリック・サティは変わった曲名で知られる。訳はまちまちだが、「3つの逃げ出させる歌」「犬のためのぷよぷよした前奏曲」「犬のためのぷよぷよした前奏曲」「官僚的なソナチネ」「あらゆる意味ででっちあげられた数章」 「甲殻類の胎児」「いんげん豆の王様の戦争の歌」「チューリップの小さな王女様が何んておっしゃったか知っている」「アーモンド入りチョコレートのワルツ」 「大きな頭の友人という存在をやっかみ」「彼のジャムパンを失敬して食べてしまう」「足のまめを理由に輪回しの輪を頂戴するために」「輪回し遊びの輪をこっちのものとするために彼の足の魚の目を利用する」「木でできた太っちょ人形のクロッキーと誘惑的なからかい」「いやらしい気取屋の3つの高雅なワルツ」「うまれつきのハゲ」「(いつも片目をあけて眠る見事に肥った) 猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ」「"社交界のおえら方" 用カンカン踊り」などである。ごく最近では椎名林檎の「無罪モラトリアム」「勝訴ストリップ」などがある。

 関係ないが、サティは曲の注釈も自由だった。『乾からびた胎児』の第一曲目の「ナマコの胎児」の楽譜には「歯痛のウグイスのように」ピアノを演奏するように指示してある。他にも「のどの中で」「ちと暑い」「眼の先から」「あらかじめつつしみ深く」「優越感に浸って」「さらに白く」「舌の上にのせて」「大いなる善良さをもって」「外出せずに」「あなた自身をあてにして」「思考の端末で」というのもあった。

 『機械の中の幽霊』(ちくま学芸文庫)のアーサー・ケストラー(プタペスト生まれのイギリス人でスペイン内戦に記者として派遣される。ヨーロッパで出現した全体主義の経験から、万物を支配するホロンの概念に到達した。子供の頃、カール・ポランニーのお姉さんが経営する幼稚園に通っていたという)はこの手法を『ホロン革命』(工作舎)で「創造のプロセスがはっきり姿を現すのは、ユーモアとウィットである」からで、ユーモアの理論で「ズレの理論」といわれるものをバイソシエーション(bissociation=associationの“bi-”で「二つからの連想」)という概念で説明する。二つの異なるものをぶつけ合うのだ。「二元結合」と呼んだが、笑いにもこの手法のものがある。織田正吉『ジョークとトリック』(講談社現代新書)には次のようなジョークがある。

 ある夫婦が離婚することになり、一人娘をどちらが引き取るかで言い争いになった。一計を案じた夫がこう妻に聞いた。「自動販売機にコインを入れてジュースが出てきた。ジュースはだれのもの?」すると妻はこう答えた。「当然、コインを入れたひとのものよ。」その瞬間、夫はこう言った。「じゃあ、娘はオレのものだ」。

 同じようなことが、映画『エイリアン』シリーズでいえる。『エイリアン』はハロルド・シェクターが『体内の蛇−−フォークロアと大衆芸術』(リブロポート)が明らかにしたように、体内の蛇=妊娠というメタファーをなぞっているにすぎない(この分析については内田樹『女は何を欲望するか?』径書房が素晴らしい)。

 多田道太郎は桑原武夫『第二芸術』(講談社学術文庫)の解説に次のように書いている(第二芸術とは俳諧のこと)。

 社交とは、そして人と人をつなぐとは、およそしんどいものである。ルソーは、人間はほんらい思考には向いていない。考えることは健康によくない、といったことがある。社交もまた人間の「自然」に反するかのようである。だから、人と人が会うときは、シャーマンのごとく煙をふかせたり、一味同心のごとく喫茶する必要がうまれてくる。文明の進展とともに、人はタバコをより多く吸い、茶を喫することいちじるしくなった。ことばの遊びもまた、然りである。

 俳諧はつなぐべからざるものを機智によってつなぐ。神と人とを、人と人とを、人とモノとを、モノとモノとを……。

 こうして、足し算ではなくて、かけ算になるような出会いが求められる。

 小川洋子も読売新聞(2008年6月8日)のインタビューに答えて作家と科学者、一見、接点のない二種類の人間の共通点は「発見」にあると語る。

『博士』では、元阪神の江夏豊投手の背番号28が完全数(その数自身を除く約数の和がその数に等しい自然数)だと気づいた時、物語が飛躍した。小説の1行目に私を導くのは妄想だけど、砂漠に埋もれた物語を発見するような体験が最後にできるといい作品が書ける。科学者は発見を目指し論理を組み立てる前に、仮説を立てる。近いものを感じます。

 アンリ・ポアンカレは「新しいアイデアとは、既存の情報の、まったく新しい異種結合である」という。

 グレゴリー・ベイトソンも『精神と自然』の中で、学校でもっと教えるべきは「物事を結び合わせるパターン」ではないかと強調する。

 サイードは『オリエンタリズム』『文化と帝国主義』で「対位法的思考」が大切だというが、二つを融合させるのではなく、互いに響き合うようにすることが大切なのだ。共鳴させるのだ。ポリフォニーなのだ。ポリフォニーとは「複数の声部が互いに独立的に進行し、横の線的な流れに重点の置かれる」音楽形式である(『平凡社大百科事典』)。

 異種結合はポストモダンの特色との一つなのだ。つまり、まったく別々のものを集めてきて、並べ、ごちゃごちゃに混ぜて新たなものを作ること。これは、驚異に満ちた新種を作りだす一種の結合術である。既知のものから未知のものを現出させるモンスター創造術なのである。

 結婚と言うの異種結合なのだが、何が生まれるか分からない。異種すぎて紛争以外何も生まれない可能性だってある。

「僕と妻の共通点は同じ日に結婚しているというだけだ」

 『ダンス・ダンス・ダンス』の中で羊男が語る。

「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。ほら、配電盤みたいにね、いろんなものを繋げるんだよ。ここは結び目なんだ---だからおいらが繋げていくんだ。ばらばらになっちまわないようにね、ちゃんと、しっかりと繋げておくんだ。それがおいらの役目だよ。配電盤。繋げるんだ。あんたが求め、手に入れたものを、おいらが繋げるんだ。わかるかい?」


 そうそう、担当は違うかもしれないが、富山をめぐる本と取り上げる映画とブックランキングは早めに金川さんに教えてあげよう。直前に300ページほどの本を読んだりするのはきっと大変だと思うよ。

 以上、「何カル」の簡単な作り方でした。明日からあなたもスタッフになれるかも…。

 僕も「文化的恥かき」にならないよう頑張ります。

 要は人間ひとりひとりが、他に代換できない《個》をもち、それを生き抜くということ。またそれにまつわることどもを、多分分かってくれる筈のただ一人の他の《個》にたいして、極微の縁をつなげようと努力するとき。そういうときにだけ、はじめて手紙というものが書かれるのではないか。
     -----由良君美『言語文化のフロンティア』(講談社学術文庫)


※後書き※

 上のように書いてから久しいが、「文化的雪かき」は辛い。難しいものである。

 どうして、こんなに難しいのか?富山だから難しいのか?と考えてみた。

 よく考えてみると、富山はベタ雪で、重い。融雪装置で融かすのが正しいのであって、雪かきなどしていたら、重くて腰を痛めるだけだ。

 ベタ雪の富山で雪かきはできない!

 あまりにも楽観的に書かれているので、一言。

 かのガリバー旅行記の第3編は天空の城ラピュタの話である。ラピュタの支配下にあるラガード大研究院で知識製造機が作られる。簡単にいえば、言葉をランダムに組み合わせることで次から次へと文章を生み出す機械である。実験を主導する教授はこれを駆使してあらゆる知識を総合する完璧な百科全書を作ろうとしている。西垣通は『ペシミスティック・サイボーグ』(青土社)の中で、次のように述べている。

 ハンドルを回し、現れた文字を記録すると、これが「知識」になるという器械。その起源は十三世紀スペインの僧ライムンドゥス・ルルスの「ルルス板」に遡るとも言われる。当時、ライプニッツ、ウィルキンズらを中心に盛んであった普遍言語運動に対するスウィフトの皮肉として解釈される。

 ランダムに組み合わせただけで知識は生まれない。狂人的な文を生むだけである。


 村上春樹『アフターダーク (講談社文庫)』について内田樹はブログで次のように書いている。

『アフターダーク』は二人の「センチネル」(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のぎりぎりまで来てしまった若い女の子たちのうちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である。
彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。
でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による(deus ex machina)解決も期待できない。
センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚とか、そういうものは「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。

仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。
というのが村上文学の「教訓」である。
それだけだと、あまり文学にはならない。
でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。
この勤労者的エートスに支えられたルーティンと宇宙論がどうやって接合するかというと、もちろんそれは「うなぎ」が出てくるからなんですね、これが(何?「うなぎ」のことをご存じない?困ったなあ)。

 同じことを村上春樹にご用心』(アルテス)で書いている。

誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。

世界にかろうじて均衡を保たせてくるのは、「センチネル(sentinel:歩哨)」たちの「ディセント(decent:人としてちゃんとした)」なふるまいなのである。

仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族は大切に。言葉遣いはていねいに。

というのが村上文学の「教訓」である。

それだけだと、あまり文学にはならない。

でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。【…】

ともあれ、私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友達に電話をしたりするのである。


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