比較文化講義
伝統とは何か?
アリストテレスは本質は起源に遡らなければならないと考えた。でも、起源というのはそんなに簡単に分かるものではない。
伝統というのは楽だ。「これは伝統だから」と言っておけば、何も考えなくても前の通り仕事をすれば済む。
宗教も同じだ。こういう風に教えられたと言えば、済む。一神教世界では神様が正しいと認めてくれるか否かが大切だった。
日本の明治以前は「しきたりにしたがうこと」だった。ただ、みなその家の「身分」や「格」が決まっていて、みなと同じ行動をすることではなく、家ごとに合った「身分」や「格」に応じた行動をすることが大切だった。こうした前近代の社会では独創的である必要はなかった。「罪」や「恥」に従って行動すればよかったのだ。
人は伝統に憧れるものだ。何しろ知らない世界だから、古い時代には今のつまらない時代に比べてきっと良いものがあったに違いないと想うのである。多くは共同幻想にすぎない。「直近の歴史」にすぎないのに、はるか昔からあるように錯覚してしまう。古いから価値があると思いながら。
しかし、伝統ってそんなにすばらしいものなのか?
伝統の第一法則「人は、自分が生まれた時にあるものは、みんな大昔から続いてきた伝統だと思う」
伝統の第二法則「伝統は、自ら過去に遡っていく」
伝統の第三法則「人は、自分がいま見ているものが、開始当時から不変のまま続いてきた伝統だと思う」
伝統の基本法則「発信者側にメリットがある伝統は、長く続く」
1)伝統の金銭的メリット〜「伝統ビジネス」(「旧国名+もの=伝統」という図式)
2)伝統の権威性メリット〜「伝統マウンティング」【伝統を絶やすな、守れと発言する時、実は発信者側から受け手に対して、序列を確認・強要している→「着物警察」】-----藤井青銅『日本の伝統という幻想』(柏書房→新潮文庫)
例えば、次のものの起源は新しい。
靖国神社/明治12年。前身の「東京招魂社」は明治2年【漱石の『吾輩』にも娘が(お祭りが多いので)結婚したいという場面がある】 初詣/明治18年 蚊取り線香/明治23年。「渦巻き型」は明治35年 橿原神社/明治23年 夫婦同姓/明治31年、最初は「夫婦別姓」だった(明治9年、太政官指令による) 良妻賢母/明治32年 神前結婚式/明治33年 告別式/明治34年 国技・大相撲/明治42年【新しい体育館の名前が「尚武館」の予定が「国技館」と命名されたから「国技」ということになった】 古典落語という名前/昭和23年 恵方巻という名前/平成10年。風習は昭7年頃? 例えば、次の京都由来のものの起源も新しい。もちろん、しば漬け、すぐき漬け、九条ねぎ、みずな、堀川ごぼう、加茂なす、聖護院かぶなど古いものもある。
千枚漬け/慶應元年=1865年 都をどり/明治5年=1872年 平安神宮/明治28年=1895年 時代祭り/明治28年=1895年 よーじやのあぶらとり紙」大正中頃1920年頃 「万願寺(まんがんじ)とうがらし」大正末〜昭和初期1926年頃 「ちりめん山椒」昭和46年=1971年 正月の定例行事を考える。おせちを江戸時代には関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」と別名だったようだ。江戸後期になると現代のように数の子が子孫繁栄などと一品ごとに意味を込め、新年を祝って食べている。重箱詰めは明治以降らしく、「おせち」と呼ばれるのは戦後になってからだった。
年賀状はどうだろう?平安時代から正月に手紙を出す伝統があったというが、これは上流階級だけの風習だった。江戸時代になって寺子屋の普及で識字層が増えて手紙を出す習慣が増えたという。ただ、郵便制度ができたのは明治になってからである。賀状を出す習慣が定着したが、正月になってから送るのが常だった。今のようなお年玉つき年賀状は1950年からで戦後の混乱で行方を心配する意味もあったという。また寄付もできるようになり、正月前に出すことが普通になった。ネットの普及とともに使われなくなったが、2020年のコロナ禍で2021年の賀状は増えたという。
初詣も調べてみた。三ケ日にお詣りしなければならないとはどこにも出て来ない。だいたい、神道というものに「聖書」はないのだ。「幸先詣」というものがあり、年を明けずにお詣りすることだ。ただし、富山県内ではないという。しかし、射水神社では「幸来(さき)詣」というものをしており、明けなくてもいいことになっている。越中一宮高瀬神社でも縁起物を歳末に売り出しているという。これは混雑して買えないという人の声に合わせたものだという。
日本は伝統と近代が両立しているという。だけど、「日本文化」の代表の絹の着物も、瓦屋根も、畳の間も一般市民が使うのは明治以降である。
更に「日本文化」の代表というと着物、茶道、華道、わびさびかもしれないが、着物は成人式に着るだけで、他の文化と触れることも皆無だ。
「伝統の国」というとイギリスを多くの日本人は思い浮かべるだろう。本当はギリシャやローマを思い出すべきなのだが、古代の人々ほど立派に思えない気がする。
イギリス人は日本人が勝手に「紳士の国」だと信じている。本当は残酷さの上に豊かさがあって、その中で紳士だけが都合良く暮らせただけかもしれないのに、検討しようなどとは想わないのである。鈴木孝夫先生は国粋主義者であって、いつもイギリスの悪口を言っていたが、稀であった。
ちょっと考えてみれば分かるが、阿片戦争などは中国が阿片を拒否しようとしたのを激怒して戦争を起こしたのである。
イギリス王室のセックス・スキャンダルを書いてみても仕方がないが、ヘンリー8世以来(以前を日本人は知らないだけかも)ダイアナ姫の事件まで続いている。
イギリスの国会は伝統だけでやっている部分があり、経験主義の国だとつくづく思い知らされる。
国会が開かれる時に女王が開会を告げるのだが、開口一番の言葉が“My Lords and Members of the House of Commons”なのである。つまり、「(私が選んだ)貴族院議員と庶民院議員たち」なのである。言葉だけなら何とも思わないが、女王はRobing Roomを出てRoyal Galleryを通って貴族院議場に入って玉座に着席。黒杖官(こくじょうかんBlack Rod)が下院議場に赴き、女王の下に参ずるようにという女王の命令を伝達、貴族院議場に移動。黒杖官の眼前で下院けの権威を示すために下院の扉が閉められる。庶民院議員(首相、閣僚を含む)は全員、貴族院の端で入場を阻まれ、椅子もなく立たされる。3度叩くと開けられる。この間、貴族院議員(今も無給)はかつらと緋色のマントを着用して、ゆったり着席しているのである。
雨傘は雨が降ると濡れるからといって差したりしないのがイギリス紳士なのだ。
日本でも「伝統の祭」というのが各地にあって、見る度にこんなところに生まれなくてよかったと思う。伝統って大事なんだろうけど、面倒だ。
伝統ビジネスというものがある。「旧国名+もの=伝統」という旧国名マジックである。ただの「うどん」が「伊勢うどん」になったのは1972年である。
日向かぼちゃ(1907年)⇔宮崎かぼちゃ、讃岐うどん(1960年代)⇔香川うどん、越前竹人形(水上勉が「空想の所産だ」と書いたように1963年の生まれ)⇔福井竹人形、若狭塗⇔福井塗、越前ガニ⇔福井ガニ、加能ガニ⇔石川ガニ、伊予柑(1966年)⇔愛媛柑、飛騨牛(1988年)⇔岐阜牛など、現在の地名では迫力がない。「越前そば、出雲そば、信州そば、美濃和紙、越前和紙、京野菜、加賀野菜」があり、「江戸切子、薩摩切子は昔からありそうだが、他は怪しい。更に「〜塗り、〜焼き、〜染め、〜織り」などが控えている。牛肉などは「近江、伊賀、但馬、米沢、能登、氷見、若狭、石見」などや「上州和牛」などがある。鎌倉末期の「国牛十図」という図説に筑後牛、淡路牛、丹波牛、越前牛などが登場する。実は農耕用だが、国名が付くと妙に立派に見える。
ただ、「九条ねぎ、堀川ごぼう、加茂なす、聖護院かぶ」などは伝統があるそうだ。
ただイメージも問題だ。「越中和紙」以外、「越中」は歩が悪いというか、ゆるくなる。「加賀料理」と「越中料理」だとどちらに入りたいか?というのは地元の北日本新聞が「越中料理」キャンペーンを張ろうとした時に反対したことがあるからだ。社内で検討して僕の意見を無視して突っ走ったのだが、失敗したとしか思えない。提案は「ありそ料理」だった。
ちなみに「氷見寒ぶり」はブランドになっている。しかし、そのずっと前に「氷見鰯」というのが『大言海』に載っていた。
笑えるのは本家と元祖が争っていることだ。「巨人阪神伝統の一戦」というのも比較的新しい。ライバルを作ることで古く見せたいビジネスが入り込む。
「ゆるキャラ」の名付け親として知られるイラストレーター、みうらじゅんさんのマイブームの一つに「SINCE」がある。レストランや喫茶店の看板などに書かれている、創業や設立の年を示すあの数字のことだ。カメラ片手に街の中を探しながら歩き回るという。
▼自分と同じ年のSINCEを見つけたり、ほんの数年前のSINCEに驚いたり。楽しいゲームのように思える。さてこちらも、SINCEをめぐる問題である。京都の銘菓・八ツ橋の老舗が「元禄2(1689)年創業」と掲げているのは事実と異なるとして、別の老舗が表示をやめるように求めた裁判の判決があった。【…】
日本人が好む4つの時代があるという。
- 源氏物語の時代(平安中期)※1000年くらい…「京都」マジックの伝統がある。
- 時代劇の時代(江戸・寛永〜元禄〜亨保)※1624年〜1736年…「江戸」マジックの伝統がある。
- 司馬遼太郎世界の時代(明治後期の国威発揚期)※1900年前後…「明治」マジックの伝統がある。
- 映画『三丁目の夕日』の時代(戦後昭和の高度成長期)※1955年前後…「昭和レトロ」マジック。
伝統は「こうあってほしい」と思う内容に、遡って修正されていくのだ。
「創られた伝統」がときに危険をはらむこともある。藤井も書いているが、幕末に誕生したソメイヨシノがきっかけで「パッと咲いてパッと散る」という新しい美意識が生まれて戦意高揚に利用されたのだ。
勤務校の商船学科卒業式では帽子を飛ばして「ごきげんよう」というのが「伝統」になっているが、 1989年が最初である。他人には昔からあるように話しているが、実は18期生が初めてで『愛と青春の旅だち』(年)の影響である。次回は21期生となるが、最初から受けようとは思っていなかったし、先輩の卒業式を1年下の後輩は実習中で見ていないからである。『愛と青春の旅だち』はアメリカの陸軍学校ウェストポイントの卒業式を描いている。映画のような光景がいつからかは調べなければならない。
「ランドセルって何で使うの?」と聞かれて「学校で決まっているから」とか「昔からそうだから」などと答えると「ボーッと生きてんじゃないよ」と「チコちゃんに叱られる!」ことになる。ちなみにランドセルは学習院が一般の子どもも入学させていて、馬車で従者と来るような貴族の子どもとの貧富の差を隠すために採用したものである。
ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』では最初に“Tradition”という曲が歌われるのだが、「伝統」は3人娘によって見事に裏切られ、ロシア政府によってユダヤ人が追放されていくことになる。タイトルは屋根の上で不安定のままバイオリンを弾いているアナテフカ村の人々を指したものである。伝統というのは不安定なものである。
笑えるのは「着物警察」という人々がいることで、若い者が着物を着ていると誰彼となくチェックして文句をいう女性のことだ。実は妻がそうで、着付けの免状を持っているものだから、テレビなんかの他人の着物の着方を見て帯の締め具合とか、着物の丈とか、ぶつぶつ文句を言っている。
2020年のコロナCOVID-19の時には「自粛警察」というのが問題になった。日本人はとかくお互いの生活に干渉したがる傾向があり、ピアプレッシャーが生まれる。「自粛警察」の原型は戦時の「隣組」である。ちなみに「とんとん、とんからりと隣組…」という歌を岡本太郎の父親・岡本一平が書いている。
『日本の伝統という幻想』のハイライトは相撲の女人禁制である。当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の戦いは埀仁天皇7年(BC23年?140歳まで生きたとされる伝説の天皇)の頃で、『日本書紀』に「相撲」が載っている最初が雄略天皇13年(469年)にある。「相撲」とはいえない。腕自慢の木工師がいて手元が狂うことはないという。そこで天皇が采女(うねめ)たちを裸にして褌を締めて相撲を取らせた。木工の気を散らせようとしたのだが、やはり手元が狂った。天皇は「死刑!」を差遣だが、助命の願いを聞き入れて、「よい天皇」らしくしているという。だが、パワハラ、セクハラのひどいこと!「国技」の起源もひどいが、伝統というのはいい加減である。相撲の朝ドラ「ひらり」も書いている内館牧子は采女の話が相撲とは関係ないとして女性を土俵に上げるのを反対している。
一番面白いのは第三章「『先祖代々之墓』を守れ?」で、今のような葬式仏教が栄えたのは元禄(1688〜1704年)の「宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)」という文章以降で、葬式、法要を檀那寺で行え、寺の改築・新築費を負担しろ、お布施を払え、戒名を付けろ、檀那寺を変えるななどとされた。もともとの仏教には戒名もない。仏壇のルーツは「玉虫厨子」だとされ、一般的となったのは蓮如が「各家に仏壇を置いて、阿弥陀如来を祀るように」と言ったからだとされる。位牌のルーツは仏教ではなく、儒教からだという。沢庵和尚は遺言で次にように書いた。
「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出して後や魔に埋めて二度と参るな。墓を作るな。朝廷から禅師号(ぜんじごう)を受けるな。位牌を作るな。法事をするな。年譜を誌(しる)すな」。
お墓が一般的になるのは明治政府の「家制度」以降だという。しかも明治6年(1973年)に「火葬禁止令」が神道から出され、あっという間に土地が足りなくなり、2年で廃止したという。中江兆民は海中に投棄してほしいと語っている。火葬率は明治半ばで約30%で、大正で40%、1950年代で50%を超え、1980年代に90%を超え、現在は100%である。明仁上皇と美智子上皇后は自分たちを火葬にしてくれ、と希望した。最近ではアメリカ映画などで「火葬にしようか?」と自問する人が描かれるようになってきた。コロナで亡くなった人を土葬しているのを見ると大丈夫かしら、と日本人は思ってしまう。ヨーロッパは土地が足りないからすぐに、アメリカもそのうち火葬が増えるだろう。
今の墓のスタイルの「カロートに骨壷がある石柱のお墓にお参りする」のを思い浮かべるのはせいぜい戦後のことだという。「先祖代々之墓」ではないし、「○○家」というのも明治以降のことである。
僕の経験から言っても、葬式自体、父親の時と母親の時とは全然違ってしまった。セレモニーホールで行われるようになる前は「焼香順」があって、人の順序を決めるだけで気をつかったものだった。大きな造花を飾るのが富山では当たり前だったが、ほとんどなくなった。都会の家族葬が田舎でも一般的になることは明白だ【と書いてからまもなくコロナでみんな家族葬をしなければならなくなり、新聞の「おくやみ欄」に「葬儀終了」と書かれるか、載せない家族も出てきた---伝統はアッと言う間に変わるのだ】。
マナーがうるさいのは葬儀と結婚式である。どちらも伝統に合ってないなどと揶揄されることが多い。斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波書店)が詳しい。
常識的に「喪服は黒」になっているが、服飾史学者の増田美子によると、『日本書紀』や『隋書倭国伝』等にある喪服は白だったという。平安時代、唐の影響で薄墨色の喪服が生まれたが、実はこれも書物を読み違えたためで、実際に中国で着られていたのは白だったらしい。その後、室町時代に白い喪服が復活。江戸時代には水色も登場するが、しばらくT白の時代Uが続いた。再び黒が台頭し始めたのは明治維新後、欧州の影響を受けてのことで、「喪服は黒」が浸透したのは昭和以降のようだ。
結婚式にいたっても現在のような(とはいえ、戦後だけでも変遷が大きい)結婚式スタイルになるのは大正天皇の結婚式以降だとされる。
ついでに言えば、雛人形が現在のように整ったのは江戸中期とされ、紙から「すわり雛」となり、5、7段の雛壇に飾るようになった。源流は祓いのために人形(ひとがた)に供物をささげて水に流した古代の風習にあった。雛人形の男雛、女雛の位置も京雛は向かって右側に男雛、関東雛は向かって左側に男雛となっている。大正天皇の即位式で採用された左右が西洋式になって左を偉いとする文化とは異なるようになったのだ。
日本を懐かしんでいる人は、酒井順子『昔は、よかった?』(講談社)、大倉幸宏の『昔はよかったと言うけれど』(新評論)などもお勧め。大塚ひかりのシリーズ『愛とまぐはひの古事記』『カラダで感じる源氏物語』『ブス論』『女嫌いの平家物語』(以上、ちくま文庫)まではいいが、『快楽でよみとく古典文学』(小学館)『本当はひどかった昔の日本』(新潮社)『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社)などは若い人は読まないことを勧める。だって、姥捨て、人肉食、虐待など揃っている。
もちろん、日本人が立派だったという記録もある。でも、大平洋戦争までの日本人、正確には軍部は最低である。
1690年に来日したオランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペルの伝記はボダルト・ベイリーによるもので『ケンペル 礼節の国に来たりて』(ミネルヴァ書房)と名付けられている。彼は「鎖国」という言葉を残したことで有名で、日本の風俗習慣、屎尿処理に詳しいが、五代将軍綱吉の多岐に渡る好奇心にも驚いている(吉宗は興味を持たなかったという)。その後の「お雇い外国人」らによる幕末から明治の日本の印象は渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)にまとめられている。裸が平気で男女混浴に驚く外国人も多かったが、「江戸期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである」と書いている。
和食と呼ばれるものもせいぜい室町あたりまでしか遡れない。醤油、味噌、豆腐などは雲南省あたりの「照葉樹林文化」の中で生まれている。蕎麦も日本だけでなく、イタリアでも栽培されて、調理法は違うものの食べられている。フランスのクレープ、特にビリターニュのガレットは蕎麦粉を使うのが当たり前で、蕎麦は”sarasen”と呼ばれる。「サラセン帝国」から入ってきたものとされる。
日本だけの問題ではない。世界の観光地では普通の恰好をした人びとがいきなり「原住民」になって現れることが多いのだ。フィンランドのサーミ族は犬ぞリ観光を目玉にしている。だが、『ナショナル・ジオグラフィック』によれば犬ぞりの文化もハスキー犬はなかったどころか、衣裳だって別のものだったという。1980年代に持ち込まれたものだという。エヴァンス・プリチャードの名著で有名なヌエル族に民族調査に行った日本人は現地の人にスマホを見せられ「そんなの“Nuer tradition”“Nuer culture”などと検索すればいいのに」といわれたという。彼の持っていたガラケーに驚いていたともいう。他も同じで、サイードのオリエンタリズムなんかぶっ飛ぶ。ゲイリー・ラーソンの漫画で「人類学者!」が来たと叫びながら、テレビなどを片付ける「原住民」というのがある。
バリ島に行くとバロン・ダンスやラーマーヤナ・バレーなどを楽しむだろう。でも、実際には観光客用にアレンジされたものである。ケニアに行った時にたまたま出会った現地のガイドにマサイの村に一緒に行かないかと誘われたことがある。他の連中が「どうせ観光客用になってるんだろう」と反対したので行かなかった。しかし、マサイ族の本当の生活なんてどこにあるのだろう。人類学者ならフィールドワークの「参与観察」を2年することになっているが、それで全てが分かるはずもない。だって、僕の町に人類学者が住んで「これが日本の生活だ」と言われたら戸惑うだろう。では、誰が「本物」の日本文化を体現しているだろうか?天皇?歌舞伎役者?誰?
お土産だって同じだ。かつては日本製の海外土産が多かったが、今は韓国産か中国産である。
和食が誤解されているといって「スシ・ポリス」を作ろうという人たちがいた。しかし、中国の人が日本のラーメンを、インドの人が日本のカレーを「間違い」だと非難するだろうか?農林水産省のHPの「和食の四つの特徴」を見ると「一汁三菜を基本とする」「季節の花や葉などで料理を飾りつけ」と書いてあるが、一汁三菜なんて考えたことのある日本人はいないだろう。
オリジナルなものなどない。これは「本物」(authenticity)などないと同じことだ。何をもって「本物」だといえるのだろうか?
最後に。伝統というのはむいて行くと何も残らないものかもしれないが、今現在「伝統」として機能しているならば、それなりにリスペクトして残していきたいものだ。ただ、伝統には新しいものを加えていかなければ継続はできないものだと思う。イギリスの暦しかホブスボウムとレンジャーは『創られた伝統』(The Invention of Tradition)という本を出しているが、後から「発明」されたものだから残っているのだ。「伝統である」ではなく「伝統になる」ともいおりじなるわれる。
レヴィ=ストロースは日本文化は科学技術の中に「野生の思考」が残っていると考えたが、次の言葉を大切にしていきたい。日本文化論というのはほとんどがけなされるために生まれた気がするが、誉められるのも気持ちがいい。
もちろん、もっと広い意味なのだが、ヘーゲルは「人間はかつて歴史から学んだことなどなかった」という。E・H・カーのいうように歴史とは「現在と過去との対話」なのであろう。