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【プラハで】何を食べたか、なにも覚えていないが、店の経営者の名前(あるいは、レストランの名前かもしれない)は覚えている。それは”Vlk”というのだった。母音のない名前に魅せられ、ここで私は外国語は神秘的なものであるというもう一つの啓示を受けたのだった。 |
言葉には肌ざわりみたいなもののあるだろうに、僕は文学部にいても文学青年にはなれず、言葉の意味だけを考える散文的な人間になってしまった。
大岡信は中学生時代に「言葉に心臓をひっつかまれる」熱病にかかってしまったという。同じひっつかまれても、言葉を道具として扱う現代詩の方へ行くか、言葉そのものを目的とするかで同じ文学部でも大きく違ってくる。
専門が言語学だというと驚かれる。「言語学って何をしているんですか?」と聞き直されることが多い。まるで、僕という人間が不可解であるかのように、学問まで疑われている、そんな感じで問いただされる。
言語学が何か、というのはちょっと難しい話なのだ。ウソだと思ったら著名な言語学者に聞いてみるがいい。誰でも返答に困るだろう。
□ 『言語学は何の役に立つか』(大修館)というジュラヴリョフの本には次のような話が出てくる。
経済学者:あなたの専門は何ですか。 ------「学問の女王」と言われてきた最も古い学問です。
数学者:わかった。数学ですね。 ------違います。
化学者:その学問でノーベル賞受賞者は出ていますか。 ------一人もいません。おそらくこれからもね。
歴史学者:謎めいていますね。あなたは一体何者ですか。 ------言語学者です。…みんな、しーんとして口をつぐんでしまった。
ただ、全く訳に立たないかというとそうではない。
2000年に森喜朗総理が「神の国」と「国体」発言をしたが、そのとき、自民党の領袖・亀井静香は「言葉尻ばかりとらえるのだったら、言語学者が首相になるしかない」などと発言した。
言語学会の会長が総理大臣になる日も近い。
ついでに語学が役立つかについては西アフリカの言語の専門家・松下周二が次のように書いている【『月刊言語』(大修館)1982年5月号】。
[ハウサ語習得の利点]まったくありません。かたことのハウサ語を喋ったくらいで、胸襟を簡単に開いてくれる甘いハウサは、一人もいないでしょう。「言葉が通じれば、騙され易い」などというおそろしい諺もあるくらいです。
□ アメリカのSIL(Summer Institute of Linguistics)が企画する聖書翻訳プロジェクトの中で世界の無文字言語を記録に留める活動が行われてきたが、このSILの長老ケネス・パイク(Kenneth Lee Pike)はノーベル平和賞候補に何度もノミネートされていて、候補になった唯一の言語学者といわれた(2000年12月31日に死去)。
チョムスキーが政治活動をするのはノーベル平和賞への布石なのだろうか?
そのうち、翻訳機械や脳の解明でノーベル賞を取る言語学者が生まれてくるかもしれない。
しかし実際には「言語学博士」さえもないのが日本の現状である。散文をどれだけ研究しても「文学」博士になるしかない。
ちなみに、パイクは自分の知らない言語を話す人と、2時間ばかり対談すると、その言語の音韻体系と文法体系の大体をマスターできるとされていた。『言語生活』1986年4月号に金田一春彦が見聞した東大での実験が載っている。最初、アオキの葉を見せて学生は「アオキの葉」といったのだが、次にツツジか何かの小さい葉を見せた。学生は「わかりません」といってしまって結局失敗に終わった。彼女は葉の種類を聞かれたと思ったのだ。パイクは「大きい葉」と「小さい葉」を知ろうとしたのだが、そんな風に言い分けるのは、「小学校へ上らない子供の話で、おとなになったら、木の種類を答えようとするのが日本人である」。トランプのハートのクイーンは手に花を持っているが、アメリカ人に聞いてみたら、ただ「花デス」と答えられただけで、何の花か言わなかったという。「何の花かわからない、ただ花らしいものを書いてそれでいいとするのは、日本人の場合、これも小学校へ上らない子供のすることである。/日本人はかくのごとく、植物に関心が深い。植物の名の多いのは当然である。」と金田一は書いている。
□ イギリスのチャールズ皇太子が来日した時、国会でのスピーチで「自分は世界で二番目に古い職業に就いている」と話したのは有名な話である。
もちろん、一番目は売春婦というのをほのめかしているのだが、ボノボ(ピグミー・チンパンジー)やゴリラには「売春行為」が知られていて、人類の最初の職業ではないことが分かっている。
すると、王族ということになるが、少なくとも王族と呼べるような王族は文明による財の蓄積がなければ、生まれない職業である。文明は文字とともにあるというのが一般的な考え方で、文字を作って、農耕を管理することができたから、社会的余剰である王族が生まれたといえる。つまり、王族が生まれるためには文字の発明がなければならなかった。文字の発明のためには言語学者が必要だった。
言語学者は人類史で最初の職業であったのだ。
「わたし かずこ」 谷川俊太郎『にほんご』
ないたり ほえたり さえずったり、
こえをだす いきものは、
たくさんいるね。
けれど ことばを
はなすことの できるのは、
ひとだけだ。金田一京助の『私の歩いてきた道』に書いてあるが、文法書もない言語を始める時のコツはの「これは何というの?」という言葉を知ることだ。言語学者や人類学者の「開け!ゴマ」の魔法の言葉である。
医者と大工と政治家が世界で1番最初の職業が何かを議論している。
医者「アダムの骨からイブを取り出した。だから最初の職業は医者だ」
大工「いやいや。神はカオスの中から世界を作りだした。だから最初の職業は大工だ」
政治家「そのカオスを作りだすのはだれかね?」
さて、言語学という学問を説明すると、今度はその専門は何ですかと聞かれて困ってしまう。一応、一般言語学とか言語人類学とか答えるのだけれど、よけい混乱させてしまって、満足してくれる人は少ない。
言語学ってどんな学問ですかと答えるのと同様に難しい質問なのだ。僕が教わった、どの先生も狭い専門に限らず、広い分野で活躍されている。僕も浅くてエラーも多いが守備範囲だけは割と広いかもしれない、と慰めることにしている。
その次に聞かれるのが何語と何語をやったのですか?という質問だ。
そういう場合にはフィンランド語と答えるのが楽だとされる。『フィンランド語は猫の言葉』という本もあったが、誰も知らない。と思っていたら、『お買い物中毒な私』という映画で就職面接の時に「フィンランド語ができる」と答えたヒロインが携帯のノキアの社長と話すことになる。訳が分からないので相手を殴り、社長は「すばらしい女性です」と上司に話す。
□ 言語学と語学とは違う。言語学は特定の言語と言語どうしと言語の周辺の事実について考察する学問である。言語の構造を中心に学ぶので、言語学者といえどもプラクティカルに会話のできる言語は必ずしも多くない。逆にまた、多くの言語を知らなくても言語学という学問は成立するが、なるべくたくさんの言語を知っておいた方が普遍的な研究をするのに有利である。言語学者が語学を習得するのはちょうど工学系の学生がベーシックやフォートランなど様々なプログラミング言語を習得するのに似ているかもしれない。
知識には2種類あって、「宣言的知識」(declarative knowledge)と「手続き的知識」(procedural knowledge)である。前者はknowing whatであるのに対して、後者はknowing howである。言語学は「宣言的知識」であり、語学は「手続き的知識」である。母語については誰もが「手続き的知識」を持っているが、「宣言的知識」がないから、説明をすることができない。さらに、日本の英語教育は「宣言的知識」優先なので、語学力がつかないとされる。
語学は訓練だ。習うより慣れよの世界だ。言語学が“study”だとすれば語学は“learn”である。ある程度、強制でなければならない。鹿島茂は山崎正和の『文明としての教育』(新潮新書)の書評で次のように書いている。
これは外国語教師を三十年やってきた経験から言うのだが、外国語教育において最も好ましいものは「強制」であり、最悪なのは「自由」である。好きなときに好きなものをという自由放任の教育では、外国語は絶対に上達しない。いきなり、学ぶ理由も目的も教えられずに教室に閉じ込められ、頭からたたき込まれて初めて人は外国語に上達する。
なぜか? 外国語教育では、まずソシュール言語学でいうところのラング(規範体系としての言語)を徹底的に覚えさせなければならないが、これは、パロール(個人が運用する言語)とは異なり、先験的に存在するものであるから、外国語学習者を外部強制的にそこに着床させなければならないからである。
本書の教育論を理解するには、このラングとパロールの二元論を頭に入れて、前者を「文明」、後者を「文化」と置き換えて読み進めていくのがいい。著者によれば、文明とは、繰り返された共同体の思考・行動が一定の形式(規範)に整えられて「体系」となった言語・技術・法律・礼儀作法・思考などを意味するのに対し、文化とは「文明が人間の身についた姿」であり、「身体化された文明」であるという。
例としてあげられるのが「ピアノと楽譜=文明」と「ピアノが弾けること=文化」の違いである。ピアノや楽譜は西洋文明の典型であり、楽譜は頭の中の秩序、ピアノは頭の中の技術を物質化したものである。では、ピアノが弾けるとはなにか? 「たんにマニュアルに従い、順を追って鍵盤を押すということではありません。キーの前に座ったら、もう指が動いてしまっているという状態になったとき、真の意味でピアノが弾けるといえます。当然ながら、この行動には価値の上下があって、上手な人もあれば、下手な人もあるわけです」
頭の中にあるのが知識で、外にあるのが情報。例えば、語学の大部分は知識で、言語学の大部分は情報といえる。
最近の若い言語学者は別だが、言語学者はどちらかというと語学、特に会話が得意ではない(人もいると思う)国語教師がみんな文章もスピーチも得意ではないのと同様、言語学は研究が主眼であって、使うことが目的ではない。言語の対立ばかりに目を向ける言語学者は「弁別的特徴」(distinctive feature)で話すといわれた。
大言語学者メイエは『ヨーロッパの言語』(岩波文庫)で、英語の発音のやりにくさを批判しているが、訳者解説によれば、メイエの英語の発音は「標準的発音から相当に逸脱して」いて、講義を聴いた人々は理解することに困難を感じたという。
言語学の大御所・服部四郎だってそうだ。鈴木孝夫先生は田中克彦との対談『言語学が輝いていた時代』で次のように語っている。
つまり、ヨーロッパ的な解釈や考えに毒されまいとした。何しろ取り組む相手は、ヨーロッパでのサンスクリット、ギリシャ語、ラテン語以降の言語学の知識では歯が立たない、聖書に書いていない民族であり言語でしょう。服部先生は不満があったのです。
もうひとつは、戦争中に育った日本の学者は、アメリカ人、外国人との生の接触がなかったでしょう。ですから、結局、先生は会話が滑らかにできない。発音が上手でないから、自分の考えを説明しようと思っても、LとRがちょっとまちがったりしていうと、「おまえみたいな初歩的な英語ができない人間の音韻論、音声学なんて信用できん」ということになる。【…】
それで、ほんとうは服部先生のほうがわかっているのに、いざ言おうと思うと、だいぶやっつけられた。【…】
いや、文法書と会話の間には大きな隔たりがあるからでもある。多田道太郎は『物くさ太郎の空想力』(角川文庫)の「外人ずれ」という文章で、調査研究とかいうことでフランスの片田舎へ放り出された。その時、フランスの文物に驚いたのではなく、自分の習った語学なるものがいかに理念的、観念的規則に縛られていたか驚いたという。
フランス人のしゃべるフランス語は、初歩の文法できびしく禁じられていることばかりであった。たとえばVous allez ou?(どこへ行くの)といわれたときには、まったく仰天してしまった。ou(どこへ)という副詞が文尾にくるなんてどの文法書にも書いてなかったのである。
だから編集した『クラウン仏和辞典』(三省堂)でこの副詞ouの項目に上記のエピソードを文例として採用している。
言語学者は現実を見ないで遠い未来を見つめている。だから、黒田龍之助『物語を忘れた外国語』(新潮社)にはアーロン・エルキンズ『死者の心臓』(早川書房)に出てくる言語学者について書いてある。
さらに興味深いのは知識と興味の偏り方だ。【…】「エジプトに十八年間も住んでいながら、現代アラビア語はよく使うフレーズを三つ四つ覚えただけで、習おうともしない」という。これもまた言語学者の典型である。知識や理論には熱心である一方で、現実に目が向かない。これだから、言語学者は使えないといわれてしまうのである。
ありがたいことに、物語ではこういう輩が途中で殺され、舞台から退場してくれる。それが実際とは大きく違うところで、現実はこれがまだまだ続くのだから地獄だ。
こんなことを書いたら、言語学者から抗議されるのではないかと危惧する読者がおられるかもしれないが、心配は無用である。現代の言語学者は論文と会議と学内政治に忙しく、本書をお読みになる時間など皆無だから、まず気づかない。本書を読むような言語学者なら、笑い飛ばしてくれる。そして、どんな言語学者よりも、外国のガキの方がはるかに語学が達者である(当たり前だが…)。最近は帰国子女も多いので、語学教師で暮らしている言語学者は安穏な生活ができない。
軽薄でないと外国語は話せない。大学者が話せない理由を中村幸一は『言葉の森から出られない』(明治大学出版会)は次のように述懐している。
…初級の語学が退屈なのは当然である。赤子のようにならなくては天国へはいれない、と聖書に書いてあるが、語学も、幼稚な例文を、何百も覚えないと話せるようにならないし、ちゃんと読めるようにもならない。大人の外国語は大変である。
だから、逆に言うと、知性のある人は語学習得に向かないのではないか。思考を停止させ、理屈で言わずに覚えなければならないのでから、日本の大学者に、外国語が読めても、話せる人があまりいなかったのはそのせいだろう(長期留学した人を除く)。きちんと話せるようになるには、かなりの時間を、幼稚な条件反射の訓練に使う必要があり、そんなことは学者には無駄である。
知性があるから語学が苦手だと思うことにした。娘のフランス語のテキストの冒頭に「ナンパ男」が出てくるのだから、初歩語学なんかやってられない。
バーネットの『小公女』(菊池寛訳)ではいじわるなミンチン先生がセーラを虐める…。
ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セエラは行儀よく先生のところへ出て行きました。
「お父さんが、あなたにフランス人の女中を傭(やと)って下すったのは、あなたにフランス語の勉強を特にさせたいお考えからだと思いますが。」
セエラは少しもじもじしました。
「あの、お父様があの方を傭って下すったのは??あの、お父様が、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」
「どうも、あなたは‥‥」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父様はあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」
セエラはただ黙って頬を紅らめました。かたくなな先生は、セエラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセエラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セエラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセエラを生んで亡くなってしまった後も、よく赤ん坊のセエラにフランス語で話しかけたものでした。で、セエラも自然幼い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いを矯(ただ)すのは失礼なように思えて、申し開きも思うようには出来ないのでした。
「私??私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも??でも。」
ミス・ミンチンの人知れぬ悩みの重なるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべく匿(かく)し終(おお)そうとしていました。ですから先生は、セエラに何か問われて、ぼろを出してはならないと思ったのでした。
「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読をしてお置きなさい。」
セエラは席へ戻って、第一ページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、今更教わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。
ミンチン先生は、セエラの方をちらと探るような眼で見て、
「何をふくれているのです。セエラさん。」といいました。
「フランス語を勉強するのが、いやなのですか?」
「私、大すきなのです。でも??」
「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本を見るのですよ。」
セエラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエラはおかしさを耐(こら)えつづけました。セエラは心の中で、
「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。
ジュフラアジ先生はじき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。
「これが、私の方の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」
「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」
「それはいけませんね、お嬢さん(マドモアゼール)。」彼は親切そうにいいました。
「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」
セエラは辱められでもしたかのような気持で、立上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラアジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。女先生(マダム)にはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セエラはこういったのでした。「先生(ムシュー)が教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることはとうに知っているということを、女先生(マダム)に申し開きしたいのです。」
ミンチン先生はセエラが語り出したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエラを見つめました。ジュフラアジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑は非常に喜んでいるしるしでした。セエラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のはてのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。
「ねエ先生(マダム)、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃアない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」
「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエラに向き直るのでした。
「私??私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが拙(まず)かったんでしょう。」こうした事態に対処するためには「水を発見したのはだれか知らないが、魚でなかったことだけはたしかだ」というヨーロッパのことわざを思い出すがいい。水を一番よく知っているのは魚(ネイティブ)かもしれないが、近すぎて水を認めることができない。水を取り出して分析して見せるのが言語学者なのである。
これで思い出すのが、ウラジミール・ナボコフのことである。彼がハーバードで文学を教えようとした時に、同じ亡命ロシア人である言語学者のロマーン・ヤーコブソンが反対をしたのだ。丸谷才一の『快楽としての読書 海外篇』(ちくま文庫)には「しかし、ライオンが動物学を教へることはできるものでせうか」と反対したことになっている。実際には「象」だだった。水と魚の関係を考える言語学者ならではの言葉といえる。ドストエフスキーを認めないから不適格だとされたのだ(ナボコフのドストエフスキー評価については『ロシア文学講義』TBSブリタニカ)。
Gentlemen, even if one allows that he is an important writer, are we next to invite an elephant to be Professor of Zoology?
Roman Jakobson declining VN a position at Harvard in 1957 (The Garland Companion to Vladimir Nabokov Vladimir E. Alexandrov (editor). Garland Publishing, New York and London (1995), ISNB 0-8153-0354-8, page xlv)俳優の矢崎滋のお父さんは言語学者の矢崎源九郎で東京教育大学言語学科の先生だった。アンデルセンの翻訳家としても知られる。矢崎滋はFMラジオ番組(『日曜喫茶室 頭の特効薬』講談社)の中で「そのくせ【外国の言葉ばかりやっていたくせに】、外国へ行くのが怖くて、どこにも行ったことがないんですよ。だから、父の外国語はあくまで読み書きであって、まったくしゃべれなかったんじゃないかと思うんです」と謙遜混じり(?)に語っている。ちなみに矢崎滋は東大英文科を中退して、演劇に入ったが、ロンドンにも留学している。
言語学と語学は違う。前者はお金にならないが、後者は金儲けになる。例えば、同時通訳の日当は一日(7時間以内で)10万円、半日(3時間以内)で7万円である。国際通訳連盟(AIIC)というギルドがあって通訳料金の規準をつくっている。面白いのは通訳をする相手が誰であろうと、つまり身分や貧富の差などまったく関係がない。あらゆる顧客を平等に扱うという、とても民主的な組合なのである。同時通訳になるには本当に特殊な才能が必要だが、元は取れるし、目に見えて人の役に立つ。言語学はお金にならないし、人様のお役に立っているとはとてもいえない。見えないところで役に立っているはずだが、本当に見えないのである。
瀬尾まいこの『優しい音楽』に「がらくた効果」というのがある。「拾ってきちゃった」と同棲相手のはな子が今回拾ってきたがらくたは何と「佐々木さん」と名乗るおじさんだった。大学で言語学の教授だった佐々木さんはリストラされ、奥さんにも離婚を突きつけられ住む家を失い、はな子の勤め先の公園でホームレス生活をしていたのだった…。
「それでは、事情を説明させていただきます。先ほども名乗らせていただきましたが、私は佐々木平八郎ともうします。大学で言語学について研究をしつつ、学生たちに勉学を教え、生計を立てておりました。が、しかし、世の不景気のあおりも受けたのでしょう。今年の夏休み明けに大学から解雇を言い渡されました。論文もずっと発表できておりませんでしたし、私立の小さな大学でしたから、無能な人材を置いておくような余裕はなく、当然のことと思われます」
佐々木さんとの生活で、いつしか自分を見つめなおす章太郎。佐々木さんにとっても彼らとの生活は自分を見つめ直す機会となる…。
だから、言語学者は大切にしよう。清く、正しく、美しくありたい願いだけで、言語学を研究していたらモテるはずもない。
ジュリアン・ムーアがアカデミー女優賞を取った『アリスのままで』もよかったら見よう。家族性の若年性アルツハイマーになったコロンビア大学の言語学者の話である。言葉が武器の人間に言葉が出ないのだ。
では、言語学は何をする学問か?これについては千野栄一『言語学フォーエバー』(大修館)の最終章に詳しい。千野先生はプラーグ学派のV・スカリチカから直伝されたという(僕らは何度も千野先生から聞かされた)。
言語学は、言語とその部分との関係、言語と言語との関係、言語と言語外現実との関係の三つにわかれ、ここがすごいところだが、この三つ以外にはないという。そして、その三つは、それぞれ共時的、通時的の二つの観点から研究が可能であるとされている。言語とその部分との関係、言語と言語との関係の二つは、純粋に言語学的に研究が可能であるが、第三の言語と言語外現実との関係の研究には、言語学は補助科学を必要とし、補助科学を除去しようとした純粋な言語学という試みは、ことごとく失敗している。
どうすれば語学が得意になるか?言語学を学ぶ僕には分からない。東大の言語学研究室は明治19(1886)年に「東京大学」が「帝国大学」と名前を改めて発足したとき、「文科大学」にそれまでの「哲学科」「和文学科」「漢文学科」に加えて第四の学科として「博言学科」が加えられたのが始まりである。明治33(1900)年、「博言学科」は「言語学科」と名前を改めた。つまり、語学とは違うことを強調したかったのである。
語学の天才といっても2種類ある。ある言語が深くできる人と、たくさんの言語ができる人(ポリグロット“polyglot”という)である。前者には例えば、森鴎外をはじめとする明治の英語の達人がいる。鴎外はドイツで地質学者のナウマンと見事なドイツ語で論争したことが有名だ。
同時通訳で作家だった米原万里は岩波の『読書のたのしみ』(『打ちのめされるようなすごい本』文藝春秋に再録)で次のように書いている。
現在、曲がりなりにも私が母語の日本語と第一外国語のロシア語を使いこなし、両者のあいだを行き来する通訳という仕事で口を糊することができるのは、ふたつの言葉で多読乱読してきたおかげだと思っている。新しい言葉を身に付けるためにも、維持するためにも、読書は最も苦痛の少ない、しかも最も有効な手段である。だから、
「通訳になるにはどのくらいの語学力が必要なのでしょうか」
と尋ねられるたびに、私は自信満々に答えている。小説を楽しめるぐらいの語学力ですね、と。そして、さらにつけ加える。外国語だけでなく、日本語でも、と。作家の須賀敦子は『ミラノ 霧の風景』に次のように書いている。最初、パリ大学で比較文学を専攻した。フランス語以外に2つのヨーロッパの言語を習得しなければならないといわれ、イタリア語の勉強を始めた。驚くべきことはいきなり中級クラスからスタートした。どんな言語でも初級クラスは退屈なものだから、途中でくじけないよう、ちんぷんかんぷんでもいい、中級から、という理屈だった。
ドナルド・キーンは多くの語学を博く学んだが、一番深かったのは日本語だ。『私と20世紀のクロニクル』(中央公論新社)で書いているが、ケンブリッジにいた頃の話が笑えた。イギリスの名門大学は、すでに死語となっているラテン語や古代ギリシャ語を学ぶ伝統があったから、日本文学に興味を示した学生も、最初に接した日本語は古典で、しかも『古今集』の序文の原文だったというのだ!それでも、こんな質問があるという。
日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人を含めて多くの日本人が、私が日本語を読めるはずがないと思っていることである。日本語で講演した後に誰かに紹介されることがあるが、中には英語の名刺を持っていないことを詫び、あるいは名前に読みやすいように仮名が振っていないことを謝る人がある。東大のある教授などは、私が書いた「日本文学の歴史」を話題にして、「あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね」と言ったものだ。
この本が出た時に平野啓一郎と対談をしていて、次の発言に驚いた。
平野 新潮社の『決定版 三島由紀夫全集』に英語の講演のCDが入ってますね。それを聴くと、三島は英語下手だったと聞いてたんですが、意外と上手で。
キーン 彼は新しい言葉、英語でも流行語みたいなのをすぐ捕まえた。外国語としてはドイツ語を一番よく知っていた。ある年、私がドイツで講演したら、会場でおじいさんが立ちあがって、「私は平岡君(三島の本名)の先生だった。彼が一番だった」。
平野 へぇ。ドイツ語が上手だったって話は、意外と今知られてない。キーンさんが日本語と出合っていく過程にも興味を持ちました。最初は『源氏物語』に出合い、第2次大戦下では、日本兵が残した手記を読んで非常に感動したと書かれている。貴族文化の精髄と、一兵士が生きるか死ぬかの状況で書きつけた日本語と……。その二つは日本語の両極端で、作家はいつもその両極端の言葉の中で、文章を書きたいんじゃないでしょうか。ここから使う「〜カ国語」という概念は曖昧だ。「言語」と「方言」の区別ができていない(琉球方言はふつう1カ国語にカウントされない)し、語学の程度にもよる(「愛している」だけだったら何ヵ国語もいえる)し、母語にもよる(ラテン系やスラブ系の母語だと他の「外国」語が習得しやすい)し、あくまで便宜的なものだと思ってほしい。僕らは母語の日本語だって怪しい。
ポリグロットの方の語学の天才というとトロイを発見?したハインリッヒ・シュリーマンがすぐに思い浮かぶ。18カ国語(異説あり)ができたおかげもあって、商売は大成功だった。『古代への情熱』第1章に語学上達法が述べられていて「シュリーマン・メソッド」と呼ばれることがある。
(1) 非常に多く音読すること。
(2) 決して翻訳しないこと。
(3) 毎日1時間あてること。
(4) つねに興味ある対象について作文を書くこと。
(5) これを教師の指導によって訂正すること。
(6) 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること。クレオパトラも天才で9カ国語は話せたといわれるから、外交通の八方美人だったのだ。他にターザンも語学の天才で、親に学ばなくても絵本で語学ができるようになったし、動物とも話せた!
神聖ローマ帝国の皇帝フェデリーコ二世(『皇帝フリードリッヒ二世』中央公論新社という本も出ている)もドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、フランス語、イタリア語をはじめ、9カ国語を話せたとされる。世界最古の国立大学であるナポリ大学を創設しただけでなく、ルネサンスの庇護者であり、影響のもとでダンテやジョットが生まれた。
スタンダール『赤と黒』のジュリアン・ソレルがいる。彼は貧しい材木屋の三男として生まれ、家の仕事の合間にラテン語を勉強した。レナール夫人との最初の出会いで、旧約聖書と新約聖書のラテン語版のどこでもすらすら言えたというのだ。聖書を丸暗記することが大切なのだ。
ターザンも亡くなった両親が残していった絵本で育ち、8カ国語を話せたという設定になっている。
007も語学の天才だった。というか、超天才で『トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997年)でデンマーク語を学んでいるというジェイムズ・ボンドは(ビアーズ・ブロスナン)が“I always enjoyed learning a new tongue.”というのに上司Mの秘書ミス・マネーペニー(サマンサ・ボンド)が“You always were a cunning linguist, James”(狡い言語学者)という。つまり、Cunnilingusの人といわれているのだ。スパイは見破られないくらいに語学が得意でないと無理だろうと思う。
「あっぱれクライトン」Admirable Crichton(1560-1582)というスコットランド出身の学者がいたが、12カ国語に及ぶ知識と体育の万能によって有名だった。マントバ公に仕え、学者を論破し続けたのでねたんだ貴族によって惨殺された。殺されたら語学がどんなにできても意味がない!
ゲーテは16歳で大学に入るが、早熟の天才ではなかった。語学も天才で自伝に1ヶ月で英語をマスターしたと書いている。池内紀の『ゲーテさん、こんばんは』(集英社)によれば、これが教育パパの賜物だったことが分かる。
チャイコフスキーも才能は音楽よりも語学で先に開花して6歳でフランス語とドイツ語を話して、7歳でフランス語の詩を書いたという。両親は音楽家にするつもりはなかったので、法律家を目指して、法務局に勤めていたくらいだ。
いや、昔の教育がすごかっただけかもしれない。新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)にはサッカレーの『虚栄の市』(1847-48)の女子校の優秀な女性を紹介する部分が書いてある。
この二人の若い淑女はいずれも、ギリシャ語、ラテン語、そしてヘブライ語の基礎、数学と歴史、スペイン語、フランス語、イタリア語と地理、声楽と器楽、舞踏、そして自然科学の基本を教えるのに完璧な資格を持っています。二人とも地球儀を難なくこなせます。それに加えてミス・タフィンは、亡くなったトマス・タフィン牧師(ケンブリッジ大学コーパス・コレッジのフェローでいらっしゃいました)のお嬢様ですが、シリア語と、法律の基本を教えることができます。
ただ、ミス・タフィンは若くて器量がよいので相応しくないかもしれないとされる。新井によれば次のようだ。
じっさい、ガヴァネス【家庭教師】は、このように「不運な淑女」として同情の的である反面、その立場を利用して雇い主に取り入ったり、雇い主の交友関係を利用して、すきあらば玉の輿に乗ろうと狙っている、抜け目のない存在であるというイメージもあった。
現代アメリカではよくあることだが、若い頃、聡明な女性と結婚して業績を自分のものにして、自分が教授になったら別れて若い女子学生と結婚するパターンがある(「トロフィーワイフ」という)。
ボルヘスも語学の天才だった。スペイン語を話すようになる前に英語を喋った。1909年、ワイルドの『幸福な王子』をスペイン語に訳して新聞に発表したが、あまりに見事な訳だったため誰もが10歳の少年の仕事とは思わず、同じ名の父による訳文と誤信した。父が目の手術を受けるため、1914年に一家でスイスのジュネーヴに移住。カルヴァン高校に学び、フランス語とラテン語とドイツ語を習得。フランス語は苦手だったがラテン語に才能を発揮した。ドイツ語を独習したのは、ショーペンハウアーを読むためだったという。最初はそこそこの作家に過ぎなかった。1938年に事故で頭部を負傷し、敗血症になって生死の境界を彷徨した。言語能力と正気を失いかけたが、この経験が彼の中から最も深い想像力を解き放った。
村上春樹は『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』(マガジンハウス)の「並外れた頭脳」の中で「原爆の父」オッペンハイマーについて書いている。あるときダンテを読みたいと思い立ち、ただそれだけのために一カ月でイタリア語を習得した。オランダで講義をすることになって「じゃあまあ良い機会だから」と六週間勉強して流ちょうにしゃべれるようになった。サンスクリット語にも興味を持ち、『バカヴァッド・ギーター』を原典で読みふけったという。
でもオッペンハイマーさんの伝記を読んでいると、「天才じゃなくてよかったなあ」とつくづく思う。彼は大量破壊兵器を世に送り出したという心の重荷を抱えつつ、残りの人生を送らなくてはならない。なんとかその埋め合わせをしようと努めるのだが、もともと向いていない政治の冷徹な世界に深く巻き込まれ、更に傷ついていく。
オランダ語で思い出すが、『アンネの日記』のアンネ・フランクは語学の天才と考えられている。アンネはドイツ語で育っていたのだが、オランダに逃げていくとオランダ語をすぐに覚えてそれで日記を書いた。大人どうしの団らんの席ではドイツ語を使っていたというのに、ごく自然なオランダ語が書けたのだ。
日本で他に語学の天才と呼ばれた人には粘菌の南方熊楠、イスラム学の井筒俊彦、動物行動学者の日高敏隆、ロシア文学の川端香男里であろう(他にもいると思うけどお許しを)。
ドイツ語の関口存男(つぎお)は「関口文法」と呼ばれるものを作った人だから当たり前のように思われるかもしれないが、池内紀の『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社)によれば、滅茶苦茶だった。陸軍幼年学校に入り、ドイツ語の授業で辞書を引けるようになり、分厚い本を買った。辞書を片手に読み始めたのだが、『罪と罰』の独訳本で、2年たつと不思議に筋が分かった。文章の関係は分からなかったが、それでも3分の2まで進み、改めに冒頭に戻ったら、すらすら読めるようになっていたという。同じような方法で上智に籍を置きつつ、アテネフランセに通い、1年後にはアテネフランセの初等科の仏語教授になった。同じ年にラテン語の教授にもなった。
南方熊楠は何が専門かいえないくらいの天才で博物学、いや「南方」学の創始者とでもいうべきであろう。抜群の記憶力を誇り、幼い頃から神童といわれた。8〜9歳頃、書店では立ち読みして、蔵書のある友人がいれば遠路であろうが訪れて借りて読む。そして読みながら頭の中に叩き込んで帰宅してからその暗記したものを書き写す。そのように筆写したものは『和漢三才図会』105巻・本草綱目25巻・諸国名所図絵…など12歳の時までに成し遂げてしまう。その後、大学にも進まず市井で研究を重ねる。「エコロジー」(エコロギーと表記)を日本で最初に説いた人でもあった。イギリスの天文学の論文で1位になったこともあるし、科学誌にも多く寄稿していた。18カ国語(22カ国語という説も)に通じていたといわれているが、水木しげる『猫楠 南方熊楠の生涯』(角川文庫ソフィア)では何と猫語まで話せることになっている。外国語習得法は居酒屋と対訳本だったという。ただし、知の巨人であったことから一般人に役立つかどうかは分からない。
・その土地の居酒屋に行って、会話を聞く。どの土地でもたいてい会話の内容は一緒なので自然と言葉を覚えられる。
・対訳本(同じ文章を片ページ毎に違う言語で書いてあるもの)を一冊も読めばたいていの言葉は理解できる。井筒俊彦は優に30を越える言語をマスターしていたという。ネイティブ・スピーカーを家に呼び、1週間その言語だけにいり浸ってすごし、覚える。ヨーロッパの諸言語はすぐマスターしたがアラビア語学習にはてこずったのでイスラム学者になったというくらいで、若い頃は、ロシア語の教師をしていた(『ロシア的人間』中公文庫など)し、イスラム学では本国の学者も真っ青という読解力を示したという。酔っ払って新宿のゴミ箱で寝てしまったなどの奇行でも知られる。河合隼雄は『「出会い」の不思議』(創元社)の中で、井筒に「先生は語学は何カ国語お出来になりますか」と尋ねた話を書いている。
「さあ、今はどのくらいか……」と考えられ、明確に数えられない感じであった。どうも不要な語学は「引き出し」に入れて忘れておき、必要に応じて取り出して使うような方法をとっておられたようである。
井筒の弟子が鈴木孝夫先生なのだが、田中克彦との対談『言語学が輝いていた時代』(岩波)に次のように語っている。
サンスクリットの辻直四郎先生が私におっしゃったことがある。井筒君が若いときに、サンスクリットの文献を借りにきた。「ちょっと手に入らないので、先生」というから、どうせ読めないだろうと思ったけれども、せっかく借りたいというから貸した。そうしたら一カ月たったら返しにきた。ぜんぜん読んでいないんだろうと思ったら、全部暗記してわかっているという。「やっぱりすごいやつがいるものだ」と、辻直四郎先生は私におっしゃった。そういうふうに井筒先生というのは、あるものをしようと思うと、独学でやったのです。ロシア語も結核で戦後ずっと寝ていたときに勉強した。それで、あっというまにロシア文学史、ロシア精神史だとか、詩人のチュッチェフ、レールモントフとか、ロシアのものについて書いたりした。だから、弟子もやろうと思えばできると思っていた。つまり、できる人は先生としてはだめなのですね。監督も名選手は監督としてロクなやつはいないのですよ。苦労した人間は教えることができるけれども、天才的な名選手を監督にするとチームは強くならない。「打てるだろう」というけれど、こっちは打てないからこそ教わりたいのです。
ロシア文学者の川端香男里は川端康成の養子になった人だが、「16カ国語」というあだ名を持っている。美学者で妹の若桑みどりによれば香男里も耳から聞くだけで数ヶ月あれば外国語をマスターしてしまったという(阿部謹也編『私の外国語修得法』中公文庫)。「語学の勉強には年齢がないということは人のよく言うことであるが、二〇代初めの学習が語学においては決定的だということも真実である」という言葉は恐ろしく響く。
ムツゴロウ・畑正憲によれば、日高敏隆は23カ国語を操るらしい(上掲書)。日高の『ぼくにとっての学校 教育という幻想』(講談社)の第3章が「外国語」になっていて、18歳までに英独仏露と勉強していて、大学に入ってからギリシャ語をやろうと日仏学院に行ったという。先生がフランス人で、その先生のくれた辞書が希羅辞典だった。しようがないからラテン語の辞書を買おうと思ったら、あったのが羅独辞典だった。もう一つ独仏辞典も買って、結局、ギリシャ語をラテン語にして、ラテン語をドイツ語にして、ドイツ語をフランス語にして勉強したという。こうして一度に4つの言葉を覚えたのだという。大学院に入ってから、スペイン語やオランダ語を始めたという。比較言語学で勉強するといって「英語のもとは紀元十世紀ぐらいの古代英語である。古代英語のもとは古代高地ドイツ語である。古代高地ドイツ語のもとはラテン語である」などと無茶苦茶なこと【ラテン語とゲルマン語は近くない】が書いてあるが、とにかく語学はできたもん勝ちである。
…スペイン語は、どうにもものにならなかった。そのあとやったものは、さすがにものになっていません。だんだん忙しくなってくるからでしょう。記憶力も悪くなってくるのかもしれない。はやり「語学」は早くやったほうがいい。
哲学者の森有正は『エッセイ集成2』(ちくま学芸文庫)で「二十歳過ぎて始めたことは、よく持続しない」といい、次のように書いている。
私は、日本語を母親の乳房の間で始めた。フランス語は六歳の歳にフランス人の先生達について。音楽は十歳で母についてピアノを続いてオルガンを、引続いてオルガンの先生について。英語は十二歳だった。漢文も十二歳。新教の教理は十三歳(信仰告白)。(カトリック典礼に十六歳で触れる)。ラテン語、十六歳。ドイツ語、十七歳。ギリシヤ語はある神学教授のT先生について十九歳で。ロシヤ語は三十六歳ではじめた。先生についてきわめて規則正しい勉強をしたにも拘わらずうまく行かなかったのは、ロシヤ語たった一つだけだ。
精神科医の中井久夫も天才とされる。数多くのギリシャ詩の翻訳やヴァレリーの代表作『若きパルク』を詳細な注解付きで出版している。伝説によれば、「本の背表紙を眺めていると中身が全部出てきて苦しいからと、すべて逆さまに並べていた」「ドイツ語の読書で疲れた頭をフランス語の本で癒やしていた」などといわれる。ロシア語だけは色調が浮かばなかったからダメだったとか…。「記憶について」(『アリアドネからの糸』みすず)では次のように書いている。
私の場合、かなとかなりの漢字が学齢期までに頭に入り、ラテン文字も六歳から八歳までに覚えて使っていた。この文字は六十三歳の今も完全に流れとして、また塊として捉えることができる。十四歳の時に知ったドイツ語の亀甲文字もラテン語と同じ速度で読める。十五、六歳の時に覚えたギリシャ文字は少し劣るが、現代ではネイティブも使わない筆記体も含めて、ほぼ不自由がない。以上の文字は「自分の庭に遊ぶ感じ」がある。【…】
比較文学の平川祐弘が粕谷一希の『書物への愛』(藤原書店)で次のように語っているが、努力しないで天才にはなれないということだ。
いや私は語学の天才ではありません。習うのにかけた時間に比例してできるだけで、持っているのはある種の要領の良さだけです。そもそもヨーロッパ諸語は似ているから英仏対訳本とか独仏対訳本を学部学生の頃から使っていました。天才ではありません。それに私自身語学を教えていて授業は休んでもよく出来るというような天才には東大でもついに会わなかった。
人類学では博覧強記の山口昌男が語学の天才である。その山口が次のように話している。
比較文化といっても、一人の研究者が三十カ国語に通じて、それを駆使して多くの文化を比較するということはほとんどない。多くてヨーロッパの二つか三つの国の言葉である。日本を研究していれば日本のことしか知らない人が多い。ところがホイジンガはポリグロット(多言語使用者)で、ヨーロッパ諸言語や印度のサンスクリット語の達人であった。
僕の知っているかぎりでは、比較文化の分野で世界の言葉を一番たくさん知っていて自由に使いこなすことのできた人はC・M・バウラ、イギリスの文学研究者です。この人は『英雄叙事詩』Heroic Poetryという本を書いたんだけれど、生前キルギス語などを含めて三十六カ国語に通じていた。僕の知るかぎりでは彼が最高です。
-----山口昌男『学問の春』(平凡社新書)ちなみにホイジンガは自伝『わが歴史への道』で、「グリムの法則」といわれるゲルマン語の音韻推移現象を知ったときの感動が言語学研究の決心をかためさせたと書いている。
語学の天才にどうしてできるのか聞いてもちゃんとした返事が返ってこない。「なぜ、そんなに巧みに百本もの足を動かせるのか」とたずねられたムカデが、ハテナと考え込んだとたん足が絡まってひっくり返ってしまったようなものらしい(Centipede's Dilemmaといい、ケストラー『機械の中の幽霊』ぺりかん社にも出てくる喩えだ)。
鹿島茂が言っていたが、外国語学習の「秘密」はバルザックの座右の銘だかで「進みながら強くなる」というものらしい。 急に進歩することはないが、ある日、突然、こんなものかと思えてくる日もあるようだ(僕にはなかったから他人事)。
□ こうして天才の話を聞いていると暗くなってくるが、天才だからといってみんなが語学の天才になれるのではない(語学の天才でも平凡な人生を送る人もいる)。
「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能」ではなかった。正高信男の『天才はなぜ生まれるか』(ちくま新書)には「外国語のできないレオナルド」という章があり、レオナルドはどうやら学習障害で、特にワーキングメモリーがなかったと診断してある。ワーキングメモリーというのは例えば電話番号が覚えられないような障害で(僕がまさにその通りで電話帳を見てダイヤルする時には忘れている)、暗算も繰り上がりの時の記憶ができずに苦手なものである。この障害を乗り越えるためにレオナルドはメモ魔となったのである(僕も同じでメモをするのは忘れるためなのだ)。一般的にはレオナルドはラテン語を正式に学ぶことができなかったとされる。福岡伸一『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)には次のように書いてある。
西洋人にとって、ラテン語の読み書きができないということは古典に接することができないということです。残された手稿によれば、このことは生涯を通じて彼のコンプレックスになりました。ともすれば超人のように思われがちなダ・ヴィンチにも、たくさんのコンプレックスや欠点があり、失敗もしたし、悩みもした。そこがまた面白いのです。
ちなみに『天才はなぜ生まれるか』には「古典嫌いのアンデルセン」という章もあり、童話作家アンデルセンは文法障害だったとされる。
マルクス・ジョルジュ『異星人伝説―20世紀を創ったハンガリー人』(日本評論社)はハンガリーの独自性を見事に描写した本だが、第三部で多くの天才を輩出したのはハンガリーのギムナジウムのおかげだという。極めて優れた才能発見&発達システムを擁していたことを具体的に紹介している。例えば、流体力学のパイオニアというカルマンは回想して「ラテン語の授業では、文法から始めるのではなく、街を回って、銅像や教会や博物館などで使用されているラテン語の銘を模写してくるように言われた」「そうして集めた句をクラスに持ちかえり、先生がどんな言葉を知っているのか尋ねたものだ」「それから、先生は同じ言葉が違った形になっていることに気がついたかどうか尋ね、どうして形が違うのだろうかと疑問を発した。他の単語との関連で、異なる形をとっているからである」「こうした訓練を積み重ねることで、自然にラテン語の語彙が豊富になり、ラテン語の変化における基礎的なルールを導きだすことができた」という。言語学者のフィールドワークの手法なのである。ハンガリー出身の数学者のフォン・ノイマンは早熟で父親と古典ギリシャ語でジョークを交わしていたという(ノーマン・マクレイ『フォン・ノイマンの世界』朝日選書)。ナチスを逃れて渡米したのだが、英語はブリタニカ百科事典のいくつかの項目を丸暗記して覚えたという。ノイマンもそうだが、ユダヤ人には旧約聖書を丸暗記する人が多いという。これが彼らの英才を生み出していると考える人もいる。
真面目な人間は語学に向いていない。池内紀の『世の中にひとこと』(NTT出版)の「道化タイプ」には次のように書いてある。
なまじっかペラペラしゃべると、相手はこちらが英語ができるものだと思いこみ、さらに話しかけてくる。わかったふりをするのが誤解のもとであって、とんだ事態に
なりかねない。ほんの片コトと身ぶり手ぶりが、安全な海外旅行の秘訣(ひけつ)である。
さらに、外国語を上手に話し、それを「母国語とする人」となんらかわらず応対ができるためには、欠かせない条件がある。記憶力と耳を必要とするだけでなく、ある程度、小さな道化でなくてはならない。外国語を話す能力は、実のところ、かなりの程度まで、即席のおどけ者になれるかどうかにかかっている。
英語教育が問題になると、必ず実践的なコミュニケーション能力がいわれる。なにがなんでも話す力を身につけさせること。ためしに高得点をとるタイプを調べてみると、おもしろい結果が出るのではないだろうか。教育行政はよほど中身のない道化タイプを育てたいらしい。□ 僕は語学が苦手なのに、どうして言語学を選んだか。
実は映画『マイ・フェア・レディ』を観て、言語学者になればA・へップバーンのようなきれいな人と結婚できると思ったからである。その後の現実は大いに違ったが、少なくとも「踊り明かそう」を十八番(おはこ)にしている声楽家と結婚できた。モデルのヘンリー・スウィートは独身のままだった。映画『ピグマリオン』を観ていたら違っていたかもしれない。
もう一つは、あのヒギンズ博士のような書斎に住めるようになればいいな、と思ったことも大いに影響がある。しかし、現実は狭い家のままで本だけが多くて、歩くときはけもの道を通らなければならない。
語学が得意じゃないのに、どうして言語学が分かるのか?
チャーチルが絵画の批評をしていた時、「あなたは絵を描きもしないのに、批評なんかできるんですか」と言われて答えた。
「大丈夫です、私は玉子を生んだことはありませんが、玉子の良し悪しくらいは分かります」。
それに「語学」というものを多くの日本人は誤解している。活字型の語学もあれば、会話型の語学もある。レヴィナスの翻訳もたくさんある内田樹はブログで次のように書いている。
三砂先生との対談の「あとがき」を書き、『中央公論』の甲野先生対談のゲラを直し、アントワープからくる14人のダンサーのための合気道ワークショップの「せりふ」を考える。
初心者に合気道の説明をするのはべつにむずかしいことではないのであるが、それをフランス語でやらなければならないというのが面倒である。
ご存知のように、私は活字オリエンテッドなフランス語術者であるので、目の前にフランス語話者が登場することを想定しないしかたで語学力が構築されている。
私がフランス語をすらすら話せるのは、日本人でかつフランス語を解さない人々を前にした場合(たとえば本学のフランス語の授業などは理想的な環境である)に限られており、フランス語を母国語とする人々を面前にした場合、私のフランス語運用能力は有意な低下を示す。
それゆえに私のことを「フランス語がへたっぴな人」という印象をもつフランス語話者が多いのはまことに遺憾なことである。
私はフランス語話者以外の前ではたいへんに流暢なフランス語を語るという事実を彼らが知らないために、「私は大学のフランス語の教師である」という名乗りに対して、彼らは一様にジョークを聴いたかのように腹を抱えて笑うのである。
たいへん不愉快なことである。
私はそれらの諸君がおそらくはその一行とて解さないであろうようなたいへんに難解にして深遠なるフランス語テクストを二行くらいは解するのであるが、その彼らの母国語における圧倒的なリテラシーの差を彼らに彼らの母国語をもって理解せしめるだけの手段を持たないことが悔やまれるのである。
しかし、仮にもフランス語教師として禄を食んでいる立場上、フランス語話者たちが大学を公式訪問したような場合に「腹が痛い」というような言い訳をしてトンズラすることは許されない。
しかたがないので仏和辞典を引きながら「肘を支点にして腕を使ってはいけない」とか「体軸を整えて後頭部を天に向かって伸ばす」というようなフランス語作文をする。
言葉の力について谷川俊太郎は「実際には存在しないものを幻のように出現させる力、心ももっとも深いところを揺り動かすことのできる力」「詩はまず第一に一個の美しいものなんだ」とどこかで書いていた。言葉は人を生かすこともあるし、殺すこともできる。
ところが、誰も言葉について振り返ることはない。空気のように透明なものだと考えている。使い方によってはとても怖いものなのに反省がない。
言語学者の役目が何かと簡単に述べることはとてもできないけれど、空気は窒素と酸素と言葉からなっていることを知らせることだと思う。無味乾燥のものではなくて、豊かな匂いや深い味があるし、時には人を窒息させてしまう。
そんなメカニズムを考えるのが言語学という科学である。語学習得法を考えるのはあくまで「応用言語学」である。
言語学は理論である。語学は実践である。小谷野敦は『文章読本X』(中央公論新社)で書いている。
…実は言語学というのは、一般人が思っている以上に複雑で難しいのである。ところが一般人は、ふだん自分は日本語を使っているから、日本語がそんなに難しいはずはないと思い、分からないことがあると、日本語は(外国語に比べて)難解だとか、曖昧だとかという話ですませようとする。それが大きな間違いで、いかなる言語も、その構造を明らかにしようとすれば、複雑で難解なのである。
"I can say "I love you" in 13 different languages."
「13の国の言葉で"愛してる"と言える」
フィリップ(アンソニー・パーキンス)『さよならをもう一度』(1961)寅さん映画で樫山文枝がマドンナになって小林桂樹(彼が映画で『裸の大将』を演じたことを知っている人は少ない)が考古学の教授役で出ている『男はつらいよ・葛飾立志篇』(1975)で、寅さんが小林に「オナラって英語で何ていうの?」と聞くシーンがある。礼子は樫山文枝。
寅 「は〜…で、ね、この道じゃ少し偉い方なの?この人さ、え?」
さくら「ちょっとお兄ちゃん」
礼子 「さあ、どうかしら」
田所 「チッ…ま、一流じゃねえか〜」
さくら「アハハ」
礼子 「アハハ」
寅 「はあ〜自分の口からそう言う事言っちゃうかねえ。
とてもそう言う雰囲気じゃないけどなあ」
さくら「お兄ちゃん服装は関係ないでしょ仕事には」
田所 「そのとおり頭の中身だよ問題はァ」
寅 「ほー…じゃ何でも知ってるの?」
礼子 「知らない事無いのよこの先生なんでも聞いて御覧なさい」
寅 「本当?よし、おもしれえ。じゃあオレ聞いちゃおう。あのねえ、前っからオレ聞きたかったんだけどさ屁の事、おならの事を英語でなんて言うんだい?」
田所 「ファート -F・A・R・T-」
寅 「知ってるねえよしっ!じゃあドイツ語は!?」
田所 「フルッツ」
礼子 「フランス語は?」
田所 「ルペ、イタリア語ではスコレジャー、ギリシャ語ではポルリィー、ラテン語ではぺジター、中国語ではピー(屁)、朝鮮語ではパングー、どうだ、参ったかー!」
寅 「まいったあ〜…!田へしたもんだよ 蛙のションベン」
田所 「見上げたもんだよ屋根屋の褌ってなもんだろう!ハッハッハッハ…」
と言いながらタバコの灰をこぼす
寅 「知ってるねえ〜!」僕の教わった言語学者というのはまさにこのタイプの凄い先生ばかりである。ちなみに、この話の原型?は鴎外「ヰタ・セクスアリス」にある。
学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで可笑(おか)しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に上(のぼ)せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの瓦斯(ガス)を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。言語学は文学部にありながら、文学的ではない。次のような詩人の創造/想像には太刀打ちできないのが言語学なのだ。
「おならうた」 谷川俊太郎
いもくって ぶ
くりくって ぼ
すかして へ
ごめんよ ばおふろで ぽ
こっそり す
あわてて ぷ
ふたりで ぴょただ、ヒギンズ博士のような機械を使う先生もいなかったし、チョコレートももらえそうになかった。それどころか、服部四郎は口の中に鉛筆を入れて正しい発音を教えたそうだ。まあ、ヒギンズ博士もビー玉を使っていて、イライザが飲み込んでしまうと「心配するな、代わりがある」といってもう一つ口に放り込んだりしているが…。
斎藤美奈子は月刊『言語』2003年10月号に次のように書いている。
『言語』なんか読んでいるあなたは、もちろん完璧に岡倉先生【米倉斉加年が演じた牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた東大助教授】の一族である。自分が他人からどう見えているかを知るためだけにも、『男はつらいよ・寅次郎夢枕』は見たほうがいい。私はしょせん一介のフリーランサーだからいいけれど、大学に籍なんかあったらもう大変よ。本読みながらメシ食う人と思われているわよ、きっと。
なぜ、語学を学ぶ必要があるだろうか?もちろん、実用ということがある。でも、語学の達人は必要から語学を学んでいるわけではない。語学を楽しんでいるのだ。ところが、人は語学を学ぶというと必ず、どうして?と聞いてくる。英語を学ぶというと何も聞かないのに。
詩人の茨木のり子は韓国人の人が日本語を流暢に話すのを聞いて、これは同化の強制ではないかと思った。そこで自分でも相手の気持ちになろうと韓国語を学び始めたのである。『ハングルへの旅』(朝日文庫)で次のように書いている。
「韓国語を習っています」
と、ひとたび口にすると、ひとびとの間にたちどころに現れる反応は、判で押したように決まっている。
「また、どうしたわけで?」
「動機は何ですか?」
同じことをいやというほど経験し、そして私自身、一緒に勉強している友人に何度同じ問いを発したことか。
隣の国の言葉を習っているだけというのに、われひとともに現れるこの質問のなんという不思議。言語学者に何ヶ国語できるか尋ねるのは医者にいくつ病気を持っていますかと尋ねるようなものだ。どの先生にも何カ国語おできになりますか、なんて聞いたことがないが、概ね次のような感想を持った。
集中講義やモグリ(テンプラともいうが元は衣だけ変えた他大学生で、中身と外側が違うから)も含め、色々な大学でたくさんの先生に教わったが、一番多くの言語を実践的に話せたのは西江雅之先生で50カ国語話せるという噂だった(本人は否定しているが、話せる言語の多いことは事実である。先生の『花のある遠景』ちくま文庫などを読めばよく分かる)。だから、世界中のどこへ行っても苦労がない。坊主頭の魁偉な容貌のせいでもあるが、羨ましい位、現地にすっと入っていける。ただ、最近は風貌がすっかり柴田武先生に似てきた。
ゼロから有を生み出すには、できる限り「綿密な」夢を見続けていくしかない。
上達の極意は一つ言語を習得するとその周辺の言語、例えばイタリア語を学べば、姉妹言語のスペイン語、ポルトガル語も一気に仕上げてしまうことだという。また時々、日本語を外国語のように聞く訓練をする、という話だった(試せばすぐに分かるように大変難しい)。『新・「ことば」の課外授業』(白水社)ではこんなことも話している。
…非常に特殊な人間を除いて、一般的には、二つの言語を同時に勉強していったとしても、特に支障はないだろうと思います。というのも、たとえばある人が英語とフランス語を勉強していて、英語の単語も一〇〇〇しか知らない、フランス語の単語も一〇〇〇しか知らないとすると、「一つの言語の勉強に絞ったら、二〇〇〇の単語を覚えられたじゃないか」などと言われかねません。ところが実際にはそうはならないのです。なぜかと言うと、その人が使える単語の数の限界までは身についていくんですよ。二つの言語ともにです。でも、それ以上はいきません。
語学として学習したことがあるのは中国語だけだということである。学習しないで、どうやってマスターしたんですか?と聞いたら「解析するんです」とのこと。西江先生は、目的の言語が書かれてある本を買ってきて、それをじっとにらんで「解析」し、自分の言語としてマスターしていったのである。
『わたしは猫になりたかった』(新潮OH!文庫)は先生の半生記なのだが、好きな勉強しかしないから有名受験校を放校処分となって、「当時は易しい学校だった」早稲田の付属に入り、そのまま大学に上がる。
猫が家にずっと留まっていないように、先生もノマドだった。引っ越しが好きで僕が学ぶ時までは引っ越しのタグがいっぱいついて郵便が届いたと話していた。葛飾北斎もノマドで、90年の人生で93回引っ越したとされる。
「語学に王道はない」という努力の人でもある。大学時代、毎朝7時半ごろに大学の学生会館にいって外国語を独習した。また、とんでもない語学上達法「驚異の“二重時間割”あみ出す」という。「人間は怠惰なものである。そこで、自分の意志を超えた拘束を自らに課すことにした。そのためには授業寡黙を出来るだけ多くとり、授業を休まずに出席する。そして授業中はその科目とは別の自分の外国語学習に励む」。1960年に初めて外国に行くことになるが、大学生が組織した「アフリカ大陸縦断隊」の通訳としてであった。この時、先生は経済学部の学生だったが、ヨーロッパの主要言語の他、すでにインドネシア語、ハンガリー語、アラビア語、中国語、ヒンディ語、ウルドゥー語などを習得していた。通訳の仕事が回ってきたのは語学の天才だということが学内で知られていたからだ。「習慣になった努力を、実力と呼ぶ」という河合塾のコピーがあったが、先生にぴったりの言葉だ。ビートたけしというか北野武は「魚は努力して泳いでいるわけではない、俺も魚のように泳いでいるわけで努力はしてない。生き方なんだよ」と話したことがある。
西江先生には人類学と東アフリカのスワヒリ語を教わった。先生は15歳でスワヒリ語の文法書を出版したり、アフリカを徒歩で縦断したり、美学でフルブライト留学生になられたり、まさに天才肌であった。お陰でケニアに行った時、不自由せず、現地駐在員と間違えられるようになった。ただ、先生は年に数度しかお風呂に入らないという特技?)の持主で女子学生は「そんなに賢くなくていいからお風呂に入ってほしい」といっていた。漫画家の南伸坊が著名な学者の講義をモグリで聞いて書いた『笑う大学』(ちくま文庫)の冒頭に先生の講義が出ていて雰囲気がよく伝わってくる。「明解な妄想」「馬鹿げた努力」という言葉が似合う先生だ。
体操の練習でも,外国語の勉強の仕方でも,異常と思えるような没頭ぶりだ。中国語の学習に夢中になるあまり,日本語の本を音読することが難しくなったという。羨ましいが、普通の人はこれほど無防備にはなれない。
また、外国語教育は学生の実力や興味の一歩先を照らしてあげることだ、といわれ、極力、実行しているつもりだが本当に難しい。自分のお先が真っ暗だから…。
「コツがないことを自覚せよ!」が先生の語学のコツだともいう。
コツはただ一つ。努力である。時間をかける、集中する。これに勝るものはない。語学は、その後の話である。
しかし、このコツが受け入れられることは普通は望めない。人は、苦労せずに確実に外国語が身に付く方法の探求の虜になってしまうからである。 -----安原顕編『私の外国語上達法』(1994)
「駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」
「身勝手な話みたいだけれど」と僕は言った。
「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」
「そうでしょうね」と僕は認めた。
「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力せずに不平ばかり言うんだろうってね」
僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」
「たとえば就職が決まって他のみんながホッとしている時にスペイン語の勉強を始めるとか、そういうことですね?」
「そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスターする。英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたいはできる。こういうのって努力なくしてできるか?」
-----村上春樹『ノルウェイの森』(講談社)
研究の対象とする言語が多かったのは河野六郎先生【学士院会員で文化功労者】で、朝鮮語の権威なのだが、中国語はもちろん、古代エジプト語など数多くの言語の大家で『言語学大辞典』(三省堂)という全七巻の辞書の編集をされた。全三巻の『著作集』(平凡社)もある。文字論に関しては世界的な権威である。
先生には満州文語やエスキモー語の初歩を教わった。年を取られてからもアフリカの言語を順番に勉強しておられた。フランスの哲学者の本の翻訳もされている。
言語学概論は僕は聞かなかったのだが、後に辻星児【岡山大教授】さんから講義ノートを読ませてもらった。
先生のお兄さんの河野與一さん【哲学者・故人】は更に多くの言語を対象とされていて、岩波には「河野研究室」があって岩波文庫の翻訳は全て與一さんの息がかかっているといわれる。同じ語学の天才とされる中井久夫は『日時計の影』(みすず書房)の中で恐らく、岩波の書斎を使ったことを書いている。
私はいちど、河野与一先生という哲学者で翻訳家の書斎を、亡くなられる少し前に使わせていただいたことがある。書斎の片側が端から端まで、天井から床まで、ことごとく辞書、事典で埋まっていた。いかにも、翻訳家は料理辞典のたぐいまで必要だと納得した。
辞典・事典類はことごとく天地を逆さまにしてある。なるほど、棚から取ってページを開くまでに、普通は三挙動かかるところが天地逆さまだと二挙動で済む。プロはこうか、とうなった。猿真似をしたら、今までに見たことのない逆様世界に気がくるいそうになってやめた。他では見たことがないが、先生の独創だろうか。とにかく、私はここで世界各国の辞典を眺め渡す機会を持った。
語学の天才遺伝子ってきっとあると思う。「河野先生の思い出」刊行会編『回想 河野與一 多麻』(岩波ブックセンター信山社/私家版)の河野六郎「亡き兄と嫂を偲ぶ」には次のように書いてある(多麻夫人は『うつほ物語』の注釈で知られる平安朝文学研究者)。
…兄は私には親代わりであった。父が事業に失敗して隠居してしまってから、兄が家を一切仕切り、家族の面倒を見てきた。一介の教師としてその負担は大変なものであろうと後から思った。大勢の兄弟の中で末弟である私などは、普通なら到底高等学校や大学などに行く立場にはいなかったにちがいない。もっと早く進んで実社会へ出るべきであった。ところが、性来気が廻らないところへ、なんとなくどうにかなるだろうと暢気に構えていられたのも、やはり兄がそうさせたくなかったからだと今にして兄の気持ちに感謝している。それは、私が運良く第一高等学校の入学試験に通ったことを新聞で知ったとき(その頃は一高の入試合格者の氏名が夕刊に載ったものである)、兄の喜びが本人以上であったことでも分かる。
大学へ進むとき、私は兄の期待に反して東大の言語学科に入った。丁度そのとき、兄はヨーロッパに外遊中であった。兄は私に漢学を学ばせたかったらしい。漢文は兄にとって少年期の懐かしい思い出の種の一つであった。父から素読を授けられたと言っていたが、明治の末年にも漢文の素養を修めることがまだ残っていたようである。兄は晩年もいくつかの漢籍を読んでいたが、どういう事からか、易に親しんでいた。そんな関係で家には何冊かの漢文の本があって私も中学時代それを覗き見して、始めは漢文を専攻したいと思っていた。兄から武内義雄先生の「漢文研究法」のプリントを見せてもらって、それを熟読したのもその頃であった。しかし私には中国の学は、その殿堂の周りを廻るのみで、ついにその門にさえ入ることができなかった。
兄は言語が好きで、いろいろな言語を齧っていたが、言語学は好まなかった。そのお陰で様々な言語の入門書があったので、私は言語の多様性に興味を覚えた。ある言語について兄から直接手解きを受けたことはなかったが、一度だけ、兄がヨーロッパから帰って来た直後、ベルリンで覚えてきたばかりのアラビア語を教えてもらったことがある。残念ながらこの言語は今ではすっかり返上してしまっている。
【…】兄は人との交際を大事にした。そのため付き合いの範囲がかなり広かった。そして家に訪ねて下さる方々も多かったが、中でも忘れられないのは、東北大学へ移る前の数年、東京で、今はもう亡くなられた矢崎美盛氏と田辺重三氏がよく遊びに来られて、哲学の論議に花を咲かせていたことである。この三人の交友は誠に親密なもので、のち兄がヨーロッパへ留学したとき、ベルリンで再びこの二人と逢って、夜を徹して話し合ったことをよく兄から聞いた。帰朝後、やがて矢崎氏は九州大学へ、田辺氏は京城大学へ、そして兄は東北大学へと別れて行った。
【…】最後の入院をする前まで、岩波書店の兄の仕事を手伝っていたので、週一遍は店で会っていた。【…】ただこの仕事で教わったことは、辞典というものは、ある語の当該の箇所だけ引くのではなく、頭から読むものだということである。実際、一つの単語でも様々な辞典を納得の行くまで丹念に読んでいた。
こうして兄弟は語学者と言語学者に分かれていったのである。
紫綬褒章受賞や文化功労者になられた時に弟子たちがお祝いをと何度も持ちかけたのだが、固辞された。自慢することが一つもない、と自慢するしかない僕らとは雲泥の差がある。
先生は五代目古今亭志ん生によく似た風貌であった。東洋文庫でお会いしたのが最後だった。
僕は初めての講義でこの碩学に名前を聞かれて「欣二の“欣”はよろこびの意味の“欣”ですが、分かりますか?」といってしまった!?
河野先生は大学で同じ研究室だった“知の叡知”先生じゃなくて、千野栄一先生【東京外大教授を経て和光大学教授から学長】と一緒に毎週、色々な言語で書かれた論文を読んでおられた。習得した言語を忘れないようにしっかりとローテーションを組んであった。大学者なのに語学に関しては不断の努力をされている。
チェコの格言に「一つの言葉しか知らない者は、一つの人生しか知らない」というそうだ。
千野先生は外大から東大に学士入学して、そのままチェコに渡られて帰国後は教育大の助教授だった。その後、教育大はつぶれたので、知らない人も多い。先生にはプラーグ学派の機能主義などを教わった。
ユーモアにあふれるエッセイストとして有名な先生には『外国語上達法』(岩波新書)というベストセラーがある。読めばすぐに外国語が得意となるわけではないが、基本的な考え方が書いてある。なお、僕のエッセー「言語学者の異常な愛情」からのジョークが載っている。ここには上達法の極意が書いてあるが次の通り。
「学ぶ目的と、習得する程度を明確に」
「上達に必要なものは、お金と時間」
「覚えなければいけないのは、語彙と文法」河野先生と『言語学大辞典』(三省堂)という全七巻の辞書の編集をされ、僕は第1巻を結婚式に来て頂いた時の結婚祝いにもらったので全巻買わなければならなくなった。何しろ、1冊が5万もする辞典で一財産なのだ。
悪口が得意(?)でいつか言語学者列伝を書く、とおっしゃっていたが、さすがに出ていない。飲んでいても、誰かが帰ると「さあ、今度はあいつの悪口だ」といわれるので誰も帰れなくなる。
『ポケットの中のチャペック』(晶文社)というチェコの作家で文人のカレル・チャペックを描いた本も出しておられる。チャペックはロボットという言葉を作ったので有名であるが、エッセーや評論などすばらしい作品がいっぱい残っている。25年も後にチャペックは日本で正当な評価を得ているように思う。先生の翻訳ではないが、『園芸家12カ月』(中公文庫)は僕の大好きな本だ。そのまま先生のおうちに泊まったこともある。
僕が教わった先生方の中で千野先生は最も忙しく、ジャーナリスティックでマスコミ受けがいい。タモリがまだ無名だった頃に「タモリの言語学」というエッセーを出されてみんなアッと思った。『言語学の散歩』(大修館)が出版された時、三省堂書店で平積みされたというのが自慢であった。その後も、平積みされる本をいっぱい出された。国語学では大野晋さんがいるが、言語学で平積みされるのは千野先生くらいである。ただの自慢だが、僕の『おいしい日本語』も八重洲ブックセンターで横積みされた(きっとファンだったのだ)。
ただ、先生の欠点は同じジョークを何度も繰り返されることで色々なところで似たような話をしておられるから混同されるのだと思う。辻さんの結婚式でも同じジョークを聞いた。これを『ジョークの耐えられない軽さ』と呼ぶ。ジョークの繰り返しが多くて困る先生だ、と友人に話したら「お前、前にもその話をしたよ」と言われた。一番得意だったのはこれだ。
大塚英語研究会の記念パーティに出席した時、スピーチで「今日だけはチョムスキーの話をやめましょう」といったら皆賛成したのだけど、10分後にはまたチョムスキーの話に戻ってしまった。
ちなみにフランスの文人ラ・ロシュフコーも「どうして私たちは過去の出来事をこまかく記憶しているのに、それを何度同じ人に話したか、覚えていないのだろう」と嘆いている。
最初に教わった時、先生はチェコのズデンカさんと結婚されていた。子どもの花江たちのバイリンガルぶりを描いたエッセーはとりわけ素晴らしい。後に国際離婚し、58歳で28歳の女性と結婚するという快挙?を果たされた。まあ、ハイデガーは34歳の時に17歳の教え子ハンナ・アレントとつきあっていたのだから言語学は哲学には勝てないかもしれない。奥様とチャペックの愛犬ぶりを描いた『ダーシェンカ』(メディアファクトリー)を翻訳されていて、うちの娘の愛読書になっているのは本当に嬉しい。ちなみに、パブロ・カザルスは80歳で21歳で美貌のマルチータと結婚したし、アンリ・ファーブルも63歳で23歳の女性と結婚している。レセップスは64歳で21歳のルイズ・ブラガールと結婚して男女6人ずつ12明の子どもをもうけたという。運河、じゃなくて運が良かったのである。
外語大学ではスラブ語学科を開設された。後に和光大学の学長になられた。言語学者で学長になったのは大束百合子さん(明海大学)、井上和子さん(神田外国語大学)などが知られる。
2000年にはチェコ共和国でヴァーツラフ・ハヴェル大統領より国家功労メダルを授与された。
マルチで活躍されているから色々な所で名前を見る。ある時、作曲家の林光の文章を読んでいたらシューベルトの関係で千野先生の名前が出てきて驚いた。妻がドボルザークの月の曲を歌おうと中丸三千繪のCDを見たら、翻訳は先生だった。
でも、今では一番有名なのはミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』などの翻訳である。教わった先生の中で一番著作が多いのは間違いなく、千野先生だ。
○単著
『言語学の散歩』(大修館書店, 1975年)
『言語学のたのしみ』(大修館書店, 1980年)
『外国語上達法』(岩波書店[岩波新書], 1986年)
『注文の多い言語学』(大修館書店, 1986年)
『エクスプレスチェコ語』(白水社, 1986年)
『プラハの古本屋』(大修館書店, 1987年)
『言語学への開かれた扉』(三省堂, 1994年)
『ビ‐ルと古本のプラハ』(白水社, 1997年)
『ことばの樹海』(青土社, 1999年)
『言語学フォーエバー』(大修館書店, 2002年)
『言語学--私のラブストーリー』(三省堂, 2002年)
○共著
(千野ズデンカ)『チェコ語の入門』(白水社, 1975年)
○編著
『講座言語(4)言語の芸術』(大修館書店, 1980年)
『日本の名随筆(別巻93)言語』(作品社, 1998年)
○共編著
(亀井孝・河野六郎)『言語学大辞典』(三省堂, 1988年)
(竹林滋・東信行)『世界の辞書』(研究社, 1992年)
(亀井孝・河野六郎)『日本列島の言語』(三省堂, 1997年)
(亀井孝・河野六郎)『ヨーロッパの言語』(三省堂, 1998年)
(河野六郎・西田龍雄)『世界文字辞典』(三省堂, 2001年)
(石井米雄)『世界のことば・出会いの表現辞典』(三省堂, 2004年)
○訳書
ビレーム・マテジウス『マテジウスの英語入門--対照言語学の方法』(三省堂, 1986年)
P・G・ボガトゥイリョーフ『呪術・儀礼・俗信--ロシア・カルパチア地方のフォークロア』(岩波書店, 1988年)
カレル・チャペック『ロボット(R.U.R.)』(岩波書店[岩波文庫], 1989年)
バーツラフ・ハベル『ビロード革命のこころ--チェコスロバキア大統領は訴える』(岩波書店, 1990年)
イヴァン・ヴィスコチル/カリンティ・フリジェシュ『そうはいっても飛ぶのはやさしい』(国書刊行会, 1992年)
ミラン・クンデラ『微笑を誘う愛の物語』(集英社, 1992年)
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社, 1993年)
オルドジフ・レシュカ/ヨゼフ・ベセリー『必携ロシア語変化総まとめ』(白水社, 1993年)
ズデニェック・スヴェラーク『コ‐リャ愛のプラハ』(集英社, 1997年)
オタ・パヴェル『美しい鹿の死』(紀伊國屋書店, 2000年)
アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』(集英社, 2001年)
ペトル・ヤルホフスキー『この素晴らしき世界』(集英社, 2002年)
ヤン・ムカジョフスキー『チェコ構造美学論集ム美的機能の芸術社会学』 (せりか書房、1975年)2002年の3月16日に古稀祝いのパーティを開くことになっていて、僕も発起人だったのだが、ご病気で延期になり、3月19日に亡くなられた。嗚呼!
旅行中で葬儀には出られなかったのだが、大学関係者など人がいっぱいで教え子はみんな末席になっていたらしい。女友達が大塚の江戸一の女将さんを見つけたのだが、先生が最後に倒れたのが江戸一だったという。一番好きなお店で倒れたのだから、これも本望だと思う。僕らにとって確実に先生に会えるのは江戸一と新宿のライオンでしかなかった。
「我々は皆、この地上で宮廷道化師に過ぎず、我々の生死を司る全能者によって単にその慰みのために生かされているだけなのだろうか?」---アヴィグドル・ダガン 千野栄一・姫野悦子訳『宮廷の道化師たち』(集英社)
※2002年4月9日朝日新聞「惜別」に学芸部・伊左恭子さんの追悼文がある。そして、同年、最後の文章を載せたアンソロジー『言語学フォーエバー』(大修館)が出版され、年譜も掲げられている。
※教育大や外語大で学んだのではないという黒田龍之助の『語学はやり直せる!』(角川Oneテーマ21新書)には先生に対する次のような文があるが、僕の周りで敬遠する学生はいなかったと思う。
C先生の最大の魅力はその博学さである。セルビア語の授業なのにチェコ語の話になる。さらにブルガリア語やポーランド語の話題へと広がる。それが急に日本語の話になって、ビックリしていると「さあ、黒田くん、これはロシア語でどうなるの? えっ、そんな答えをしているようではアウチ(先生独特の表現で、要するにダメってこと)だよ」なんていう感じで叱られて、まったくウカウカしていられなかった。
テキストを読むときには、一語たりとも疎かにしてはいけないと注意された。一つ一つの文法形態をよく確かめて、納得できなければ辞書や変化表で調べ直し、あやふやな点を残さない。こういうことについては、とくに厳しかった。【…】
ものすごく口の悪い先生で、それで敬遠する学生も多かったようだが、わたしは気にしなかった。口は悪いけど意地が悪いわけではなく、授業が終わったあとは必ずビールを飲みに行き、そこで聴く話はいつも面白くて為になった。ここで学問上の常識を養ったとさえいえる。わたしのように、はじめから希望する言語が勉強できる大学に進学できなかった者に対して、C先生はとても親切だった。
黒田は『ロシア語だけの青春』(現代書館)で千野先生の授業を「名前カード方式」を実践していると紹介している。
やり方はこうだ。授業の第一回目に、生徒にカードを一枚ずつ配る。トランプくらいの大きさがいい。そこに各自で名前を書いてもらい、回収する。このカードを元に、授業中はこれをシャッフルしながら、アトランダムに生徒を指名するのである。
これは気が抜けない。一度当たったからといって、しばらく休めると思ったら大間違い。カードが新たにシャッフルされれば、次の自分の番がいつ回ってきてもおかしくない。以前、廊下でミール【ロシア語学校】の授業を待つ先輩たちが、自分が何番目に当たるかを互いに見当をつけている姿を眺めながら、これはよろしくないなと感じていたのである。【…】いつ指名されるかとドキドキし、心臓に悪いから止めてくれと、多くの生徒から懇願されたが、わたしは決して止めなかった。
実はこの方法も、私のオリジナルではない。「プロローグ」で登場した、言語学とスラブ語学で有名な大学の先生が、採用していたやり方である。わたしは大学生の頃、ミールに通いながらも別の講習会で、この先生からセルビア語やチェコ語を倣った。そのときの方法が、名前カード方式だったのである。それではこれがこの先生のオリジナルかといえば、それも違うらしい。先生ご自身がプラハに留学されていた際に、セルビア語の授業で採用されていた方式だという。
教育法というのは、こうやって伝わっていく。こうやって伝わっていくものしか、わたしは信じない。
※千野先生と一緒に『マテジウスの英語入門 対照言語学の方法』(三省堂)を訳した山本富啓君(教育大後輩)について知っている人がいたら教えてください。
岩波文庫の『旧約聖書』を翻訳している旧約聖書学の関根正雄先生【当時、教育大教授】には翻訳論の講義だけしか開講されなくてへブライ語を学ぶことができず、残念だった。ナイダの翻訳論の翻訳が誤訳だらけでおかしかった。
先生もやはり語学の天才だった。もちろん、クリスチャンで18歳の時に内村鑑三の聖書研究会に入り、1944年ドイツのハレ大学で神学博士を取得。内田に連なる無教会派であった。49年から千代田無教会集会(無教会新宿集会)を主宰し、聖書講義を始めた。国際基督教大学の並木浩一教授も教え子であるが教育者としても知られた。
『旧約聖書文学史』2巻、『古代イスラエルの思想―旧約の預言者たち』(講談社学術文庫)、『新訳・旧訳聖書』(個人全訳で世界にも例がない)などがあり、『関根正雄著作集』全20巻(新地書房)にまとめられている。
後に日本学士院会員になられた。2000年9月9日に急性循環不全のため自宅で亡くなられた。享年88。国文学者の関根慶子は姉。三男の関根清三も旧約学で東大の教授だ。
※朝日新聞2000年9月19日朝刊『こころ』に「関根正雄氏を悼む」という小田垣雅也・国立音楽大学元教授の追悼文が載っている。また、10月3日には池田洋一郎記者による追悼記事が載っている。
田中春美【南山大学教授】先生も教育大の言語学科の助教授で核文法のフィルモアの講義をされた。僕らには英語の先生という感じだったが、ルーマニア語を教わった学生もいるはずだ。何よりもコーディネーターとしての役割が大きく、『言語学入門』など多くの入門書を、最近では奥さんと一緒に書いたり訳したりしておいでだ。
馬鹿馬鹿しい話だが、コンパで飲んでいる時に「私の名前は左右対称でいい」と言われたことがすごく記憶に残っていて娘の名前を決める時に「魅蘭」ではなく、左右対称の「未蘭」にした!
大学入試の珍問について、30年ほど前の小欄が書いている。「三重、東京、静岡、青森、富山、福岡」の中から、共通点のないものを二つ選べ、というのがあったそうだ▼太平洋側と日本海側?――などと頭をひねっても、正解には遠い。答えは「静岡と福岡」。ほかの四つは、名前の字をタテに割ると左右が対称になる。それが「共通点」なのだそうだ。頓知(とんち)まがいは受験生がかわいそうだと、筆者は嘆いている【…】
「天声人語」朝日新聞2008年5月11日※井上史雄『言語楽さんぽ』(明治書院)には屋外広告史の文献を漁っていたら「中世にのれんによる店名表示が普及し、裏からも読める文字が重宝された」と書いてあったそうだ。通りからも店からも風で裏返しになっても、鏡に映っても読める文字「三井、三菱、本田、豊田」などが好まれたという。
言語学に関して最も影響を受けた松本克己先生【元日本言語学会会長】はホメロス時代のギリシャ語が専門で、古代ギリシャ語の方言学の講義がすばらしかった。内的再建で時代を推定していくという方法論だった。
先生は高津春繁の弟子である。千野栄一『外国語上達法』(岩波新書)にはこんな風に登場する。
古代ギリシャ語の先生だと思っていた方が三百頁もあるロシア語の本を三日ほどで読みこなして、『ねえ、君、一八六頁の例文おかしいね』とかいわれると、その本を読むだけでも一カ月は必死だったが、やっと読み上げてその先生のところへ顔を出すと、『あれねえ、この方がもっと面白いよ』と、別の本を差し出されるのである」という一節があるが、この「先生」が高津春繁である。
柳沼重剛の『語学者の散歩道』(研究社出版)にこんな風に書いてあった。
…この高津先生がまたたいへんな探偵小説ファンで、なにしろ京都へ行くと英語の探偵小説が片道に一冊ずつ要るからねという先生で、ある時大岡昇平が高津宅に現れて、読んでばかりいないであなた自身もお書きなさいと言ったと、半分嬉しそうな、半分迷惑そうな顔をして先生が言われたのを覚えている。【…】
松本先生は大論争を巻き起こした古代日本語の音韻に関する講義も聞かれ、やはりオールマイティであった。従来は橋本進吉の8母音説だったが、先生は5母音説、服部四郎さんは6母音説で、学習院大学で大野晋さんを加えてシンポジウムが開かれた。これは現在ひつじ書房から出版されている。ヤコブソンなどの翻訳も多い。
最初は、怖かった。今も怖い。何しろ、質問して「その問題はイレレバント(無関係“irrelevant”)だよ」と言われたらおしまいだ。
現在は言語の普遍性に関する論文を多く出されている。ソシュール『一般言語学講義』の原書講読(フランス語)も素晴らしい内容だった。ソシュールは内的再建でないと思われていた喉頭音(laryngeal)を発見した印欧語学者である。チョムスキーなどと接点がないように思われるが、とんでもないことで、チョムスキーがやっていることは内的再建を共時態に適用しただけだ。彼の博士論文はヘブライ語に関する内的再建だったことからもよく分かる。
語学ではギリシャ語とラテン語を教わり、苦労した。語学の達人のNさんと二人だけで講義を受けたのだが、語学は水泳と一緒で、後からついて行くと先頭の波をかぶる。とにかく、他人より前に出ていなければならない。お陰でNさんばかり上達していった。
ケンブリッジ大学に留学されていた時にイギリスで碁のチャンピオンになられたことがある。その時、弟子だった数学者は数学を止めて、碁のライターになったということだ。
秋葉原で部品を集めて、パソコンを自作されたという。古稀をすぎてからというのはギネスものである。
結婚式に出席してもらったのだが、僕について話し足りないといって2度スピーチをされた。
今は年に1度、先生をお呼びして「不肖の弟子会」を開いている。『世界言語のなかの日本語』(三省堂)のような難しい本ばかりでなく、入門書を是非、とお願いしたら、そんなのは書く気がしない、金川君に任せるといわれたのだが、こちらにはそんな技量はない。傘寿を過ぎても専門書をまだ書き続けるのはすごい!
そうそう、ギリシャ語を勉強する時にはオックスフォード大学から出ているリデル&スコットのギリシャ語辞典を使うのだが、このリデルという人は『不思議の国のアリス』のモデル、アリス・プレザンス・リデルのお父さんである。
【上の文章が契機となって『本とコンピュータ』2002年秋号に「自作パソコンでデータベースをつくる 言語学者 松本克己さんにきく」という記事になった---その後『世界言語への視座』(三省堂)を出版されたが、TeXで自作されて信じられないくらいに安い価格の本にしあがっている---コンピューター言語にも強いのだ!】
インドのサンスクリット語(梵語)を教わったのは印度哲学の原実先生【東大名誉教授】に初歩と風間喜代三先生【東大名誉教授】で風間先生には一対一で手ほどきを受けた。皆んな避けたのだが、友人の松本先生の弟子ということで僕は逃げる訳にはいかなかった。
文字表記のむずかしさもさることながら、一対一では一分だって気が抜けない。あんな大学者の大切な時間を無駄にした人間として僕は名が残るかもしれない。
先生の方はリグ・べ−ダを読みながら、これは小唄の何とかに似ていると神田生まれの江戸っ子ぶりを示されて余裕があるのだが、僕の方は地獄だった。
ごく最初はアルファベット表記だったが、「金川さん、来週からデーバナーガリ(梵字)にしましょう」とあっさりいわれた。梵字はリガチャー(抱き字)というのがあってこのバリエーションを覚えるのは凡人の及ぶところではなかった。でも、次週の講義には何とか間に合わせた。覚えるのは大変だったが、忘れるのは早かった。
今でも授業風景の夢でうなされる。月曜日だったので日曜日の夜にうなされるのだ。
同じことは東洋大学の印度哲学科に入って梵語や巴利(パーリ)語を学んだ坂口安吾が経験していて、その「勉強記」には次のような話が出てくる。
梵語とか巴利語はなるほど大変難物だ。仏蘭西(フランス)語は動詞が九十幾つにも変化するということだが、そんなもの梵語の方では朝めし前の茶漬けにもならないという話なのである。それというのが後年栗栖按吉が仏蘭西語の勉強をはじめたからで、このような鈍物でも、梵語の方で悩んできたあとというものは恐しい。九十幾つの変化なんていやはや、どうも、やさしくて仕方がないのだ。覚えまいと思っていても覚えるほかに手がないという始末である。だから栗栖按吉は仏蘭西語を勉強しようという人に、こういう風に言うのであった。キ、君々々。ボ、梵語を一年も勉強してから仏蘭西語としゃれてみろ。あんなもの、朝めし前の茶漬けだぜ。え、おい、君。
梵語の方では名詞でも形容詞でも勝手気儘に変化する。ひとつひとつが自分勝手と言いたいほど不規則を極めている。だから辞書がひけないのである。
按吉はどこでどうして手に入れたかイギリス製の六十五円もする梵語辞典を持っていた。日本製の梵語辞典というものはないのである。これを十分も膝の上でめくっていると、膝関節がめきめきし、肩が凝(こ)って息がつまってくるのであった。これを五時間ものせている。目がくらむ。スポーツだ。探す単語はひとつも現れてくれないけれども、全身快く疲労して、大変勉強したという気持になってしまうのである。単語なんか覚えるよりも、もっと実質的な勉強をした気持になる。肉体がそもそも辞書に化したかのような、壮大無類な気持になってしまうのである。先生は「言語学は人畜無害」だと仰る。
ただ、日本語の五十音図は梵語学(正確には悉曇学)からきているので日本人にはサンスクリット語の辞書は引きやすい。
Oxford Sanskrit Dictionary(現在のハ行は昔はP音だった)
宮岡伯人先生【北海道大学教授を経て京都大学教授】はエスキモー(イヌイット)の人々にエスキモー語を教えている(母語を奪われている民族が世界には多い)くらいの先生だが、今まで教わった中で最もむずかしいのがこのエスキモー語であった。抱合語といって一語一文になるので辞書も簡単に引けない。この言語の難しさには身の心も凍ってしまった。講義は先生の英語の論文を使った。
発音も滅法むずかしく、よくこんな言語が話せるな、と感心した(『エスキモー』(岩波新書)は先生の人柄がよく出た、とても面白い本である)。編集された『言語人類学を学ぶ人のために』(世界思想社)も大変面白い。先生は人類学としての言語人類学(Linguistic Anthropology)をお考えで西江先生の方は言語学としての言語人類学(Anthropological Linguistics)を考えておられる。方向性が違っている。
この本に出てくるqayaqの例が分かりやすい。「俺の大きいカヤック」はqayar-pa-kaとなり、-pa-が「大きい」で-kaが「俺の」である。qayar-pa-li-sqe-ssaaq-a-m-kenで「俺はお前に大きいカヤックを作ってもらいたいのだけれど」という意味で、-li-が「作る」、-sqe-は「してほしい」。-ssaaq-は「だが(実際は)」、-a-は直説法他動詞、-m-は「私が」、で-kenは「君に」と分解できることはできるのだが、これらの要素は単独では使えない。
あとがきには次のように書いてある。
人間にかんする文化的現象は、いずれもことばにこめられて、人文・社会諸科学の対象となっている。ことばをはなれて人間の文化的側面をあつかうことはむずかしい。ことばが文化の形成と継承と発展において果たす役割を考えれば、当然のことであろう。
富山大学に集中講義にこられた時、庄川の料亭へ飲みに行ったのだが、料理を細かくメモしておられ、その綿密さに驚いた。料理もフィールドワークなのだ。
先生によればグリーンランドの言語には「よい」goodに相当する言葉がないという。それをいうためには「悪くない」という言い方しかない。善悪というのは人類普遍の論理だと思っていたが、そうではないらしい。
エスキモーの人々は苺が採れる季節にいっせいにいなくなって、アイスクリームを作るという話も大好きだった。どうりで「エスキモー・アイスクリーム」というのがあるはずだと思った。後に『開高健 一言半句の戦場』(集英社)を読んでいたら「ロシアの冬の舌の愉しみ」というエッセイの冒頭に「初雪が降った日に、雪の中でアイスクリームを食べる。これがモスクワっ子だ。長い、酷寒の冬の始まりを、ロシア人はこうして迎えるそうです」という文を見つけた。更に、丸谷才一の『猫のつもりが虎』(マガジンハウス)にロシアやアラスカなどの極寒の地では真冬にも人気があり、零下20度の気温の中で、体温36度の人間が零度のアイスクリームを食べると、格別にうまいという。
エスキモー語よりも面白かったのは研究者たちのお話で、研究のために結婚して相手の財産をつぶした学者など無茶苦茶な世界が広がっていた。
ニスベットの『頭のでき』(ダイヤモンド社)にはユダヤ人の頭の良さを考察した章があって、「学者の娘と結婚するには、持ち物をすべて売り払わなければならない。娘を学者と結婚させるときも然り」という言葉が「タムルード」ペサヒーム49aにあるという。
未開の地域の言語は単純というのは全くの誤解である。文法も複雑で語彙も多い。南アフリカのコサ語(Xhosa)などは80を超える音韻があって発音が大変な言語も多い。コサ語には舌を打つチェッという吸着音だけで十二種類もある。これがきちんとできるのは西江先生と土田先生くらいのものであろう。
土田滋【東大教授から台湾の博物館長】先生には最初、音声学を教わった。教育というのはできる人に教わってはいけない。どうして生徒ができないか先生には理解できないのだ。
「来週までやってきてください」と本人は実に楽そうなのだが、絶対にできない。服部四郎さんの弟子で当時は口の中に鉛筆を入れられたものだということだった。母音の位置が違うということなんだろうが、怖い。服部四郎さんは放出音(ejective)ができなかったというので、これができた時は嬉しかった。
2年目はポリネシア語を学んだ。
先生はエール大学に8年も留学されていて、当時、フィアンセだった奥さんがずっと日本で待っていたというお話だった。日本からエールを送っていたことになる。
教育大の最後だったのでいつも研究室のコンパに呼んで飲んでいたものだ。教わった先生の中で一番お酒が強い。恐らく日本言語学会/学界一だろう。
定年後は台湾の故旧博物院近くの順益台湾原住民博物館の館長を務められた。
したがって、映画監督ウディ・アレンの鼻の頭を赤くすると土田先生になる。
宮岡先生の前に京大教授だった西田龍夫先生【京大名誉教授】には集中講義だが、教わったことがある。西田先生はなんと西夏文字の解読に成功しておられる。日本のシャンポリオンなのである。
教わったのは東南アジアの言語でフィールドワークで集めてこられた言語データが見事に整理されて話された。どうしてあんな温厚な先生があれだけのフィールドをこなす体力をお持ちなのか信じられない。
中国語とロシア語は教養として教わっただけだ。アイヌ語とユーカラ文学は岩井隆盛【金大名誉教授、故人】先生に、右から左へ文字を書くアラビア語は松田伊作先生【九大教授】に、モンゴル語は小沢重男先生【東京外大名誉教授】に教わった。
岩井先生は講義ノートを読み上げるというオーソドックスな講義だった。
小沢先生は外国語大学へ願書を出しにいって、全く予想もしなかったモンゴル語を気まぐれで選択してしまったという。そうした気まぐれで大学者になれるのだからすごい。
最初に英独仏露中以外の言語を教わったのは徳永康元先生【東京外大名誉教授】でウラル語を習った。徳永先生は作曲家の柴田南雄と従兄弟で音楽の世界に誘ったのは先生の方だという。講義に黒い風呂敷を持ってこられたのが今でも強い印象に残っている。ハンガリー語というのは日本語と語順が同じで、かつては日本語はウラル・アルタイ系だといわれた所以である。先生は高校時代にモルナールの『リリオム』の芝居を見たいのがきっかけでハンガリー語を目指した。ところが、入った東大言語学科には先生がおらず、独学をして、第2次世界大戦開戦前の年にブタペストに留学した。亡命直前のバルトークの演奏会にも行ったという。文部省の民族研究所などを経て、満州で敗戦を迎え、東京外国語大学で千野先生など多くの学者を育てられた。学長に選ばれた時は、辞任して関西外国語大学へ移ってしまった。
先生は本の中に埋まっているという話が有名で探せずにもう一度買ってきた方が早いこともあるといわれた。僕の家もボツボツそんな状態になってきたが、こちらは整理が悪いだけだ。先生は70歳まで著書がなかった。理由を聞くと「日記をつけるのに忙しい」ということだったが、おじいさん譲りのメモ魔で少年時代から1日もかかさず日記をつけておられた。『ブダペストの古本屋』『ブダペスト回想』『ブダペスト日記』という、とても暖かな気持ちになれる著書がある。そして、愛弟子だった千野先生には『プラハの古本屋』という著書がある。
※2003年4月5日に心筋梗塞で亡くなられた。享年91。5月20日朝日新聞「惜別」に佐久間文子さんの追悼文がある。
外国語を学ぶことは日本語についても学ぶことである。國廣哲彌先生【東大名誉教授】には日本語の意味論を教わり、大学院では意義素論のゼミに加わった。学部の講義ではきちんとした大部のハンドアウトを作ってこられて驚いた。
先生の編集された(初版は僕も協力した)『ラーナーズ・プログレッシブ英和辞典』(小学館)は日本語と英語の比較が見事でイディオムなどの説明も詳しく、日本語を振り返りながら学べるようになっている。この辞書のwearの日本語訳を見てもらいたい。「あいくち」をwearすることを何ていうか、実は「のむ」というのだが、これを見るまで知らなかった。高校生は「あいくち」すら知らないだろう。
國廣先生は映画が大好きでテレビで上映される映画は全て(録画せず)ご覧になるという。『トップガン』が映画化された時はすごい映画でケリー・マクギリスの大ファンになったという長い手紙をいただいた。『刑事ジョン・ブック 目撃者』も彼女の出演映画だから大好きだという。『フラッシュダンス』も大好きで、音楽にも詳しく、気持ちが実にお若い。
意味論などで引用される文章を見ていると先生の読書家ぶりがよく分かる。実に色々な分野の本を読んでおられる。
本を出すたびに丁寧な長文の手紙をいただき、恐縮しているところである。
言語学者によっては文学を全く読まない先生もおられるが、そんな人はあまり信用できない気がする。ちなみに東大の初代教授である上田萬年(かずとし)の娘が円地文子である。上田は「せっかく楽しいこの世の中を、固い理屈で無が無に刻む。野暮じゃ、先生ちょとふりむいて、こちらの花をも見やしゃんせ」という都々逸をよく口にしていたという。
言語ではなく、理論だったが、湯川恭敏【AA研→東大教授】先生にはバントゥ語のアクセント体系に関して教わった。先生は東大に在学中から理論派で知られていた。しかし、バントゥ語話者があんなに複雑な規則で話しているとは今でも信じられない。
語学以外だと池上嘉彦【東大名誉教授】先生の記号論の講義は実に刺激的だった。黒板を抱き込むような仕種で講義をされる。それまでの自分の考えというものを一つの思考にまとめることができた。
僕は専門を記号論ということがあるけれど、先生のおかげだ。
方言地理学は集中講義だけれど柴田武【東大名誉教授】先生に教わった。これが最後の講義というのを聞いた。富士山麓に引退して研究します、ということだった。
糸魚川の有名な調査結果とコセリウの先生の訳された本を使ったのだが、僕が持っていたコセリウの本が古い訳だったので読んでいる途中で慌てられた様子がおかしかった(学生に当てて読ませる講義形式だった)。先生はグロータース神父と『誤訳』という有名な本を書いておられるのに、自分のはなかなか難しいものらしい。
東京外国語大学の南不二男先生の日本語論をモグリで聞いた。『現代日本語の構造』(大修館)を中心とした論点で、多くは国立国語研究所の調査結果などを元にされているのだが、日本語の現状がよく分かる名講義だった。
チョムスキーを教わった先生は当時生成文法のメッカだった教育大の二人の先生、太田朗【中央大学】先生や梶田優【中央大学】先生、長谷川欣祐【東大教授】先生という最高のメンバーに教わったが、痕跡理論あたりで挫折して今は跡形もない。
太田先生はとても優しそうだったが、優しいという字を書く梶田先生の方は怖くて仕方がなかった。当時、他の多くの大学から教育大のお二人の地下一階にある研究室でのチョムスキー&ハレのSound Patterns of Englishを読むゼミなどに参加していた。英文科の連中は1年の時からアメリカ式にカリキュラムが設定されていて見事な学者に育っていった。羨ましかった。例えば、山梨正明さんはこちらの修士の間にPh.Dを取ってこられたはずだ。
長谷川先生の講義に出ていた中では寺津(今西)典子さんがすごいと思った。富山出身で富山大学に少しおられてお茶大に戻り、後に東大の先生となった。商船高専の同僚だった成田先生の富山高校での教え子だった。
ただ、チョムスキーをやっている先生たちが自分たちの学問を言語学とおっしゃるのには少し抵抗がある。まだ、英語学の域を出ていないような気がするのだが、これには反論があるだろう。でも、もっと色々な言語を研究してほしいと思うのだ。
宇賀治正朋先生のSamuelsのLinguistic Evolutionの講読に出たが英語学者と言語学者ではずいぶんアプローチが違うと思った。
鈴木孝夫【慶応大学名誉教授】の講義も大変面白かった。『日本人はなぜ日本を愛せないのか』(新潮社)という本もあるくらい、日本こそ地上に残された唯一のユートピアといってはばからず、国粋主義的でイデオロギーにはついていけない部分があった。朝日新聞に見られる自分の身内の悪口をいそいそと外に言いふらす姿勢を「いいつけ外交」と決めつけていて、もっと日本を理屈抜きで誇り高く宣伝しないといけないと語る。例えば、「日本人の日本語観を問う」(『国際化の中のことばと文化』成文堂)の中で、こんなふうに書いている。
日本人はイギリスを100年以上勉強してきましたが、イギリスはどんなひどいことをアフリカでやったか、インドのムガール帝国をつぶして、プラッシーの戦いでフランスを敗かして、フランスをインドから追い出したといった、軍事支配や世界征服の野望などということを知っている日本人は少ないと思います。私はそういうことを知っている例外です。
「雑学の大家」と自称するだけあって何でも詳しい。鳥類の研究も現在の研究の先端を行っていた。また、旧ソ連の悪口などいっぱい聞かされたが、その通りになってしまった。99年には岩波書店から著作集も出た。『私は、こう考えるのだが。』(人文書館)は副題が「言語社会学者の意見と実践」になっていて、「社会言語学」ではなく、「言語社会学」というのが先生らしい。
「日本語教」の教祖だと自認している。「世界中に日本語を広めて、この美しい言語と、それに固く結びついている本来は外国との対立抗争と無縁であった文化の持つ良さを、残念にも知らずに死んでゆく可哀想な人間を、この世から一人でも少なくしたいという慈悲の気持ちに目覚めよ」というのが宗旨である。
慶応の湘南(SFC)は先生の考えが色濃く出ている大学である。そのため、『私は、こう考えるのだが。』の江藤淳(江頭淳夫)批判は実に手厳しい。
医学部から文学部に転入した異色の人だ。ドイツ語が得意だったため古英語の授業で好成績を取り、その先生に見こまれて古英語の後継者となるはずだったのに、どうしたことか井筒俊彦の門下に鞍替えしてイスラム圏研究の道に入る。ところが、在外研究員として派遣されているときに井筒に「一週間後にスーフィズムについて発表したまえ」と山のような文献を手渡されて困り、苦し紛れに日本語の自称詞/他称詞の問題について発表したのが言語学に入るきっかけだったという。
イギリス人がジェントルマンというのは嘘だ。ブルドックが帝王切開でしか産めなくなったのは彼らの悪質な品種改良のせいだという。
隣がソニーの盛田昭夫会長宅なので新製品で試した後のものがゴミとなっているので、貰ってきて使っているという話が一番受けた。
お中元とか歳暮は受け付けないという主義で、送られても送り返す。なまものは食べて、同等品を送り返す、という徹底ぶりだ。
そう思っていたら、『人にはどれだけのものが必要か』(飛鳥新社)という本も出された。もちろん、トルストイの『イワンのばか』の「人はどれだけの土地がいるのか」に倣ったタイトルだ。ちなみに、一日で行って来れる距離の土地を与えると言われた農夫が無理に走って帰って死んでしまう話だ。
妻にこの本を見せて「こうしたいと思っているのは僕だけじゃないだろう」と言ったら、「(先生と)二人だけでしょうね!」と合理主義の僕に答えた。
中央大学のソシュール研究家でよく知られていた丸山圭三郎先生にも教わったことがある。基本的には講談社現代新書の『言葉と無意識』と岩波書店の『ソシュールの思想』を読めば先生の考えが分かる。
それでも、ちょうど東大に教えにきておられて出席した。自分で大量のプリントを用意し、自分でフランス語を読んで訳していくスタイルには驚いてしまった。誰も当てたりせず、実に丁寧で夜の急行のように淀みなく、淡々と講義が進んでいった。著書では深読みではないかと思うところがあるが、講義は全然違った。学生の(僕から見てもつまらないような)質問にも真摯に答えておられた。
考えてみるとどの先生も著書と講義が一致しない。書いたものがあんなに面白いのに講義はつまらないとか、逆も大いにある。
もっと驚いたのは92年に『人はなぜ唄うか』(飛鳥新社)というカラオケに関する本を出されたことで、哲学者というのは学問に無限の広がりをもつのだということが分かった。93年9月に60歳の若さで亡くなった。
若くして亡くなったといえば、橋本萬太郎【アジアアフリカ研究所】先生だ。エール大学で長年、中国語文法と言語学を教えておられた。集中講義で言語類型地理論(『言語類型地理論』弘文堂)を教わったのだけど、そのダイナミズムには驚かされた。つまり、中国の言語はどんどん新しい言語が北の方からやってきて変化していく過程を緻密に追ったものだ。東大の中国文学科の博士課程のご出身でチョムスキー理論にも精通されていた。
先生は「言語学」よりも明治期の「博言学」という言葉がお好きで、『現代博言学』(大修館)という素晴らしい本も出しておられる。「日本人なら言語学をやらぬ手はない」というのが持論で、膠着語の日本語、孤立語の中国語(漢文)が既に頭に入っているし、屈折語も比較的容易に勉強できるからである。
集中講義にポラロイドカメラをもってこられて、みんなで撮影しましょうといって一枚一枚丁寧に撮られたのがまるで昨日のようだ。
講義でもコンパでも話が脱線してどこまで話されたかまるで分からなくなるというのが不思議だった。
僕が船の学校にいるというと留学からの帰りにトウモロコシをいっぱい積んだ船に乗って帰って来たという話をされた。
どうしてあんなにいい、賢い先生が早く亡くなるのだろう。
先輩で千葉大の先生だった志部昭平さんも若くして亡くなった。富山大に集中にこられて一緒に飲み、非常勤宿舎でそのまま泊まったのだが、朝4時には目を覚まして研究をしておられた。アルタイ語をあれだけ研究されたのにもったいない。
タダでさえ無気力な僕などは志部さんを思い出す度、よけい無気力になる。西アフリカには、こんな格言があるという。「老人がひとり死ぬのは、図書館が一つ焼け落ちるようなものだ」というのがあるが、萬太郎先生にしろ、志部さんにしろ、検索自由な、使い勝手のよい、大きな図書館を失ったようなものだ。
学問して何になるのだろう?
なお、千葉大などには言語文化という学科があるが、これは言語学が実験系になっているため、新設学科を実験系にしないための文部省の策略という。
哲学といえば、言語哲学の西山祐司【慶大教授】先生にも教わった。アメリカから帰られたばかりで熱の入った講義だった。ある時、英語の大学院生たちと一緒に新婚ほやほやの先生のお宅を訪ねたことがある。すごくきれいな奥さんでピアニスト。ソクラテスの時代の哲学者とは違うな、哲学者になればよかったと思った。
ご夫婦手作りの料理はホントにおいしかった。NHKの子供用絵本『お料理しましょ』で独学したとのお話で、その後、結婚する女友達には必ずプレゼントしたものだ。
極めつけは奥さんとピアノの連弾をされたことで“competence”以上に“performance”も大切だな、と思った。
金沢での言語学会でお会いした時のこの時の話をしたら恥ずかしそうにされていた。
思えば凄い先生たちに教わったものだ。「アクセント研究の鬼」上野善道【東大教授】先生を始め、出会った先生を含めるとものすごい数になる。共通していえることはどの先生もすごく優しくて実に物知りだということだ。もちろん、中には言語学以外のことは何も知らないという先生もおられた。それは学問の深さというものだろう。
実は教わらなかった唯一の先生がいて、それは文化勲章を受章した服部四郎さんだ。教わるチャンスもあったのにわざと外したような気がする。理由はきっと怖かったからだと思う。それに人間にとって言語とは何か知りたかったのに答が遠い感じがした。それだけ学問というのは遠回りなのだろう。
それに、口の中に鉛筆を入れられるのは嫌だ。上野先生は朝の5時頃まで研究をされていて、それなのに6時位に服部さんから電話がかかってくるという話だった。人並みに眠りたいというのが先生の夢なのである。
先生たちから教わった言語や理論が全部身についていれば僕も大学者になっているところだが、人生そう甘くない。結局、専門は言語学ではなく、言語ギャグになってしまった。
もちろん、博士課程に入る前に大学が潰れてしまったということがあるが、何よりも先生たちはあまりにも高く聳える山脈だったのだ。
富士山なら登る気になるが、エベレストには登る気にならない。 あとでこんな言葉も知った。
小さな炎は小さな風なら大きく燃えあがるが、
烈風にあえばあえなく吹き消されてしまう。
シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』第2幕第1場 Though little fire grows great with little wind,
Yet extreme gusts will blow out fire and all.
語学が上達しなかった理由を鹿島茂が『上等舶来・ふらんすモノ語り』(文藝春秋)で書いている。ただし、これだけの碩学が謙遜して書いているので、僕らに当てはまるかどうか分からない。しかもこれは「謙遜ではない」というから困ってしまう。
まず第一は、気質の問題である。語学の上達に必要不可欠な従順さが私にはまったく書けている。これは世代的にもいえることで、あらかじめすべてを疑ってかかる傾向のある団塊の世代に語学の達人は少ないのではないか。
第二は環境の問題である。語学の最高の環境は刑務所であり、反対に、語学の最大の的は自由である。つまり、やりたいことが山ほどあり、すべての事象に好奇心が向いてしまうときには、語学に神経が集中できるわけがない。外国語の学習というのは、一意専心、語学的上達だけを心掛け、ほかのことに一切関心が向かないようにすることが必要だが、われわれの時代環境【大学紛争の頃】はまことにもって不向きなものだった。
ちなみに、鹿島は「語学頭脳容量定量説」のを唱えている。
つまり、人間の語学頭脳というのは、フロッピーと同じでその容量に定量があって、母国語があらかじめたくさん詰まっていると外国語を受け入れる余地がない。これに対し、母国語がさほどインプットされていない人の頭脳は、その分、外国語を詰めこむ余地があるので、たやすく外国語の達人になる。過去の文豪を見よ。外国語に堪能だった者はあまりいないではないか。逆に語学の達人と呼ばれている人で、日本語でも名文を綴れる人はそれほど多くはない。もっとも、私の場合は日本語もあまり詰まっていないのにフランス語も入らないのだから、まったく処置はないのだが。
しかし、これが当てはまらないのは明白で漱石や鴎外、そして僕の恩師の文章力の素晴らしさを見れば一目瞭然である。あーあ。
言い訳だが、池内紀は『無口な友人』(みすず)「外国語はトツ弁がいい」で次のように書いている。もちろん、池内と同じにはできないが…。
外国語はトツ弁がいい。ペラペラしゃべってろくなことはない。第一に、おしゃべりを通して、その人の素地が見えてしまう。立て板に水式にしゃべりたて、中身がカラッポぶりを見せることになりかねない。第二に、便利屋を押しつけられる。ペラペラのおかげで雑務に走りまわらなくてはならない。どうかすると、トツ弁氏の通訳に狩り出される。相手が聞きたいのはペラペラ氏ではなく、トツ弁氏のひとことなのだ。
第三に、あまり上手だと気味悪がられる。私達だって外国の人がいとも上手に日本語で話しかけてきたら、まず警戒するのではあるまいか。何か魂胆ありげな気がして、いつまでも用心の目つきで見てしまう。
□ 言語学で色々な言語を学んで、たくさんの言葉でごっちゃにならないかというとそうでもない。例えば、「人参」が英語“carrot”,フランス語“carrotte”,イタリア語“carota”、ラテン語“carota”,ギリシヤ語“caroton”,スワヒリ語“karoti”などは似ていて紛らわしいが、それぞれに固有の文字と発音の規則があって区別できるものである。うっかりスペリングを間違うととんだ恥になる。平川祐弘は『日本をいかに説明するか』(葦書房)の中でドナルド・キーンが「翻訳者は裏切り者」のイタリア語の諺を“traduttore, tradittore”(“traditore”が正しい)と間違えたことをロシア語主任でポリグロットだった木村彰一が「あの男は無知ですな。話の枕の引用ぐらいきちんと書けても良さそうなものだ」と話したことを披露している。弟子のレベッカ・コープランドまでも同じミスをしたとして「この師にしてこの弟子あり」と書いている。
□ いろんな外国語で何か話してみて、とよく言われるが、言語学での教育は普通の語学と違うのでラテン語で「こんにちは」はどう言うか全く教わっていない。ドイツ語も最近は第九を歌うのに役立つ程度で利用する機会は少ない。
しかし、英語の語彙の多くがギリシャ・ラテン語から借用しているので英単語を説明する時には大いに役立つ。外国へ行っても語学での不安は感じない。また、オペラの多くがイタリア語なのでラテン語とフランス語から類推して意味を声楽家に教えることもできる。
年をとってからは学生時代教わった言語をもう一度やりなおそうと思う。語学は奥が深く、ボケ防止にとてもよいのである。逆にいつも接していないとすぐに錆び付き、忘れる。大人になってからの語学は甘いケーキのようなもので、別腹感覚で楽しむのがいい。
※実際に年をとってからは、やり直そうと書いていたことを忘れていた!
□ 小話を知るのにも打ってつけだ。ギリシャ語の本にこういう話が載っていたのを覚えている。
ある男が、訪ねてきた友人に、私の妻はこの木で首吊り自殺をしたといった。すると友人は是非、その枝を分けてくれ、と頼んだ。
この話は『吾輩は猫である』の「首懸(くびかけ)の松」の話に似ている。絞殺刑が「オディセーの二十二巻目に出ております」と書いているから、漱石はイギリスでこのネタを仕込んできて小説に使ったのかもしれない。
「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。
「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。
「鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺を見渡すと生憎誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危ないからよそう。しかし昔の希臘人は宴会の席で首縊りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。撓り按排が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」
□ 僕が統計学を教わった先生で、戦犯だった人がいる。先生は「監獄なんてものも考えようによってはいいものだ。思想的な本は読めないが、じっくり語学はやれる」と豪語していた。
無政府主義の大杉栄も「一犯一語」を唱えた。彼は強い吃(きつ)音で、日常生活ではしゃべるのが困難だったらしいが、保子夫人の回想によれば「外国語で話すときは少しもどもらなかった」(山田登世子『「フランスかぶれ」の誕生』藤原書店)という。天才的な語学の才能があった。山川均の自伝には大杉がカキクケコの発音にさしかかると、あの大きな目をパチパチさせて、金魚が麸を飲みこむような口つきになったことが述べられている。陸軍幼年学校に入ったとき、「下弦の月」と言えないので、「上弦ではありません」と云って切り抜けたという話も残っている。また、後藤新平のところに借金に行ったとき、500円を借りるつもりがゴの発音が出ず、仕方なく300円と言って馬鹿をみたというような話を大杉自身が吹聴している。鎌田慧『大杉榮―自由への疾走―』(岩波書店)によれば、陸軍幼年学校に入れたのだが、14歳から始める外国語でドイツ語のクラスに入る予定がどうしたことかフランス語のクラスに入ってしまったという。陸軍連隊の大隊長をしたお父さんは「フランス語をやっていなかったら、社会主義者なんかになっていなかった」と嘆いていたという。
ひどい吃音だったのに、演説はうまかった。フランスへ行ってサン・ドニのメーデーで演説をして捕まるのだが、聴衆はみんな“C'est ca, C'est ca.”(そうだ、そうだ)と相づちを打っていたという。
「一犯一語」という原則を立て、一犯ごとに一外国語を覚え、「エンゲルスを気取るわけでもないが、年三十にいたるまでには必ず十カ国語をもって吃ってみたい希望だ」と語った(エンゲルスは24ヶ国語を使えたという)。
それで、未決監ではエスペラント語、巣鴨の監獄ではイタリア語、というように勉強して、3カ月で初歩、6カ月で辞書なしに本を読むといったマスターぶりで、ロシア語もスペイン語もものにしていった。エスペラント語にも異常な情熱を見せた。『自叙伝』からは監獄でバクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタなどの本をどんどん読んだことが分かる。独仏、伊仏、西仏辞典というように、フランス語を軸にして語学を習得していったようだ。
「監獄大学」も立派な大学となる。どうして語学に牢獄が合っているか分かったのはずっと後の2017年だ。
免色は言った。「私はそこ【東京拘置所】で狭い場所に絶える術(すべ)を覚えました。日々そのように自分を訓練していったのです。そこにいるあいだにいくつかの語学を習得しました。スペイン語、トルコ語、中国語です。独房では手元に置いておける書物の数が限られていますが、辞書はその制限に含まれなかったからです。ですからその拘留期間は語学を習得するにはもってこいの機会でした。幸い私は集中力に恵まれている人間ですし、語学の勉強をしているあいだは、壁の存在をうまく忘れることができました。どんなことにだって必ず良い面があります」
どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いてる。-----村上春樹『騎士団長殺し』
ちなみに、労働運動をしている人で語学の天才が多い。マルクスもレーニンも語学が得意だった。マルクスは十数か国語に通じるポリグロットで大英図書館では彼の席が決められ、観光スポットになっている。「マルクスとレーニンが出会った時には何語を使ったか?」というクイズもあった(答え)。
日本語が難しいだろうというのも大誤解で、確かに文字体系は一見複雑そうだが、馴れてしまえばこんなに便利な言語もない。明治以来、多くの人が日本語のために日本は世界の進歩から遅れると指摘したが、ワープロもある現在は表意文字を使う日本語の便利さについて再評価が進められている。ドイツ語とフランス語は高校生の時にラジオ講座を聞いて勉強した。日本では主要な言語が独学でどれだけでも勉強できるようになっているから是非利用してほしい。友人の中には高卒後、働きに出たので英語に自信がなく、ドイツ語の問題の方が易しいからといって独学で学んだドイツ語で受験した人もいる。
最近、長男が通っている保育園にブラジルの子供が入園してきて国際化の波を感ぜずにはいられない。企業の多くが海外と取引をしている。「語学は闘争の武器だ」といったのはマルクスだったが、これからの国際社会での闘争の武器であることは間違いない。自国語の英語しか話せなかったアメリカ人の経済力がどんどん落ちていくのを目の当たりにすると語学の大切さを痛感せざるをえない(90年代には随分異なった状況となった)。英語は他のどの言語に比べても習得しやすい言語である。ただ、イディオム(熟語)がむずかしく、日本語と同じように奥は深い。
寺田寅彦に「数学と語学」という、一見異なってみえる二つの能力を比較したエッセーがあるが、語学は単語を暗記したりする文科的な側面と文の構成を解析する理科的な側面とがある。だからこそ、面白いのである。
東大大学院の先生で名訳も多い柴田元幸も『舶来文学柴田商店』(新書館)の中で次のように書いている。
といっても僕はべつに、外国語というものは学べば学ぶほど奥が深いことを思い知らされる、とか、いまさら言ってもはじまらない一般論を言おうとしているのではない。単純にもっと現実的なレベルで、僕の語学力はチャチなのである。英語の映画を字幕なしで見たらわからないところがいっぱいあるし、ラップの歌詞なんて本当にギリシャ語のごとくチンプンカンプンだ。読む方なら何とかなるというと、これがまた、トロい。日本語を読む速さを1とすれば、英語を読む速さはせいぜい0.3である。内容吸収率にしても、日本語を1とすれが英語は0.4くらい。したがって、読みの総合的効率としては、日本語の1に対し、英語は0.12ということになる。要するに、僕にとって英語とは相変わらず、文字どおりの「外国語」なのである。
唯一そのことに慰めを見出せるとすれば、いつまで立っても外国語であるということは、いつまで立っても「読み解くだけで楽しい」という状態にいられることである。
多くの学生はヨーロッパの諸語、フランス語やドイツ語、ロシア語以外の言語に触れることはなかなかできないだろうが、せめて英語くらいは操作できるようになって国際社会に船出していってほしい。
「武器」 茨木のり子(「スクラップブック」から)
研がなくちゃならぬ
ぎと ぎと と
言葉で人を殺せるまでに
寸鉄人を刺す では まだ足りぬ
息の根とめる 武器となれ!紡がなくちゃならぬ
せっせと記憶を
レース編むように
模様編みの目をひろうように
あの記憶とこの記憶は結ばれたがっている
遠い記憶と近い記憶も化合したがっている
紡がれた記憶よ 攻撃となれ!ふっくらとした言葉ばかりが能じゃない
かくしもつ やいばの 鋭く きらめくとき
女の魅力もかがやくだろう世界じゅうで それは まだ
さだかに気づかれてはいないけれど語学は若いうちに自分で繰り返し努力しなければ身につかない。そして努力するためには、その外国語をめいっぱい好きになることである。好きになるためにはもっともっと勉強することである。“Genius is an infinite capacity for taking pains.”(天才とは無限に努力することのできる能力のことである)。
Repetitio est mater studiorum.
(繰り返しは勉学の母である)
※文中、「先生」と「さん」と分けたのは「少しでも教えたことがあるのに年賀状なんかで○×先生と書いてない手紙をもらうと返事を出す気がしない」とおっしゃったC先生の言葉を受けて集中講義であろうと講義を受けた先生は「先生」とした。中には迷惑だとおっしゃる先生もおいでのはずだ。なお、C先生には「C先生」と書いて年賀状を毎年出すが、返事が来たことはない。
※「おなら」を何ていうか?せっかくだから教えてあげよう。恥ずかしい言葉なので、別の言い方もいっぱいあるはずだ。
日本語“he”、英語“fart”、フランス語“pet”、ドイツ語“Furz”、オランダ語“scheet”、ノルウェイ語“fis”、デンマーク語“fis”、フィンランド語“pieru”、スウェーデン語“fis”、イタリア語“scoregiarre”、スペイン語“pedo”、スワヒリ語“jamba”、中国語“放屁(fangpi)”など。
※村上龍の『13歳のハローワーク』で「外国語の言語学者」が紹介されている。日本語の言語学者はいらないのかとツッコミしたくなるが、とてもいい文章でリンクが変わらないようにコピーしておく。
誤解されがちなことだが、言語学と語学はまったくの別物。言語学は言葉を理論として科学的に研究する学問で、語学は言葉をあやつる技能である。言語学者だからといって、必ずしも語学堪能であるわけではなく、むしろ外国語は論文や発表のための英語程度という言語学者のほうが一般的だという。ただし外国語を研究する言語学者は、実際にその言語が使われている地域を訪れて調査することもあるため、自分の研究する外国語は、コミュニケーションに不自由しない程度にはあやつることができなくてはならないだろう。言語学の研究対象は主に人間の言語だが、場合によっては動物の言語なども含む。流行り言葉や方言なども研究対象である。言語学者は、正確なデータを収集し、分析する。言語学者になるには、大学の文学部や外国語学科に入り、大学院に進んで研究を続け、研究者になるのが一般的だ。また日常から話している言葉に対する、冷静な観察眼が必要とされる。世界には何千という言語があり、いまだに体系的にとらえられていない言語も多くある。未知の世界に分け入る面白さを味わえる分野だ。