あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 は〜ほ は バーバラ 寺岡(てらおか)
本名同じ。風土&フードディレクター。1945年ハンガリー生まれ。母親エリザベートがハンガリー人で、外交官の父とともに世界各国に移り住み、15歳で日本へ。各国の料理をはじめ、西洋・東洋医学をもとに、衣食住全般と風土との関係を研究。独自の健康法、美容法、ファッションを開発し、普及させてきた。
はかま 満緒(はかま・みつお)
本名・袴充男(はかま・みつお)。放送作家として「シャボン玉ホリデー」や数多くの人気番組を手掛ける。また自らもテレビ「脱線問答」や「朝のワイドショー」などの司会としてブラウン管に登場。この間、萩本欽一やポール牧など多くのコメディアンを育てる。NHK・FM「日曜喫茶室」は20年以上にわたって好評放送される。
萩原 朔太郎(はぎわら・さくたろう)
本名同じ。1886年11月1日で朔日(ついたち)生まれで「朔太郎」となった。「名前の話」『阿帯』に次のように書いていた。
僕の名前の由来について、時々人から質問を受けることがある。中には「朔太郎」といふのが本名か雅号かなどと問ふ人もあるが、紛れもなく、親のつけてくれた本名である。僕は十一月一日に生れた。長男で朔日(ついたち)生れの太郎であるから、簡単に朔太郎と命名されたので、まことに単純明白、二二ヶ四的に合理的で平凡の名前である。若い時の僕は、その平凡さが厭やだつたので一時雅号をつけようとさへ思つた。(その頃は、文人の間に雅号をつけることが流行した。北原白秋、室生犀星、山村暮鳥等、皆雅号である。)だが考へて見たら、一人前の文士にも成らないものが、麗々しく雅号をつけるなんかテレ臭いので到頭本名で通してしまつた。(もつともこの考への誤りは後で解つた。一人前の文士になり、世間に名を知られてしまつてから、後で雅号をつけたところで通用しない。)
しかし世の中は不思議なもので、こんな平凡な僕の名前が、却つて今の一般人には、風変りに珍らしく思はれるらしい。何処へ行つても、お名前はと聞かれて、サクタラウと答へると、屹度作文の作ですねと言はれる。【…】三好達治の「師よ 萩原朔太郎」という詩があって、詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかけ、「あなたのあの懐かしい人格は/なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。
映画『世界の中心で、愛をさけぶ』では主人公の名前がサク(朔太郎)で命名の理由を聞かれて次のようにいう(なるほど看病のかいもなく亡くなる所は同じだが…)。
「朔太郎って、おじいちゃんが萩原朔太郎好きだったんです」
「ああ、智恵子抄の」
「違いますよ」
「じゃあ、なんだっけ?」
「・・・・・・」作家・萩原葉子(ようこ)は1920年東京生まれ。朔太郎の長女として生まれたが、8歳の時、母親が家庭を捨てて駆け落ち。精神に障害を持つ妹とともに、前橋市の祖母のもとに預けられ、幼くして人生の辛酸をなめた。42年、父が死去した。戦時中に結婚して離婚。洋裁で生計を立てていたが、30代半ばから文章を書きはじめ、59年、父の思い出を書いた『父・萩原朔太郎』で日本エッセイスト・クラブ賞。66年、朔太郎に師事した詩人の三好達治の知られざる一面を描いた『天上の花―三好達治抄―』で新潮文学賞と田村俊子賞を受けた。『蕁麻(いらくさ)の家』『セビリアの驢馬』『毀れた仮面』など。
映像作家・多摩美術大教授の朔美(さくみ)は葉子の長男。
土師(はじ) 清二
本名・赤松静太。母の実家があって、埴輪伝説のある岡山県邑久郡国府村土師の地名から採った。「土師器」(はじき)というのは埴輪などの焼き物。
蓮實 重彦(はすみ・しげひこ)
本名同じ。表象文化論、映画評論家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。1997年から東京大学学長。言語学者グロータース神父から来た手紙に名前が間違っていたといって怒っている文章があった。
草野進(くさの・しん)というペンネームで野球評論『世紀末のプロ野球(『どうしたって、プロ野球は面白い』改題)』(角川文庫)、『プロ野球批評宣言(草野進編)』(新潮文庫)、『読売巨人軍再建のための建白書(草野進・渡部直己)』(角川文庫)などがある。草野は美人で華道の先生という話にまでなっていた。ラジオに蓮實が出演して電話で草野と話すなどというあざとい仕掛けもあったという(小谷野敦『軟弱者の言い分』晶文社)。
父・蓮實重康は美術史家で元京大教授。著書に『雪舟』『雪舟等揚論』『弘仁・貞観時代の美術』『ほほえみの美学』『雪舟等揚新論』などがある。
息子の蓮実重臣は「PACIFIC 231」で作曲家。
長谷川 時雨(しぐれ)
本名・ヤス。円地文子、林芙美子を育てる。二人目の夫が三上於菟吉。「雨も好きだったせいもあるが、【…】変名をせまられ、内緒でという意味と、忍びやかに人知れぬようにという心から」。
長谷川 四郎(はせがわ・しろう)
本名同じ。『北海新聞』主筆の清(別名淑夫。楽天、あるいは世民とも号する)の四男として函館に生まれる。兄に作家・海太郎、画家・濤二郎、ロシア文学者・濬がいる。海太郎は林不忘(はやしふぼう)、谷譲次、牧逸馬(まきいつま)のペンネームを使った。
長谷川 伸
大衆小説家。本名「伸二郎」、のち「伸」と改名。大正6年頃から、「長谷川芋生、浜の里人、山野芋作」名義で小説を発表。大正11年から長谷川伸名義で小説を発表。『瞼の母』(『ま、豚の母』ではない)で有名。
長谷川 天渓(てんけい)
本名・雅也。評論家。荘子「逍遥遊第一」から「天池」としたが既に星野天知がいたので「池」を「渓」に変えた。
長谷川 如是閑(にょぜかん)
本名・万次郎。ジャーナリスト。
長谷川 龍生(りゅうせい)
本名・名谷竜夫。1928年、大阪市船場生れ。戦後詩誌『列島』『山河』に参加。初代『現代詩』編集長。記録芸術の会に所属し、安部公房・花田清輝・佐々木基一と共に運動を展開する。現在、南日本新聞「南日詩壇」愛媛新聞「愛媛詩壇」選者、一方、「日教組現代詩部門」「全治労文学賞」選者。日本現代詩人会会長(1998年から)、大阪文学学校校長など。
長谷 健
本名・藤田正俊。
馳 星周(はせ・せいしゅう)
本名・板東齢人(ばんどう・としひと)。北海道浦河郡生まれ。横浜市立大学文理学部仏文科を卒業後、出版社勤務。「本の雑誌」に本名の「坂東齢人(としひと)」名義で書評を連載(『バンドーに訊け!』本の雑誌社)。ペンネームは氏が大好きな香港のスター俳優「周星馳」(チャウ・シンチー)をひっくり返したものという。「不夜城」という香港も舞台にした映画の原作も書いているからややこしい。
波多野 鷹(はたの・よう)
本名・波多野幾也(いくや)。1967年東京生まれ。学習院大学文学部心理学科中退。85年、物書きになる。92頃から鷹狩りを始め、95年に日本放鷹協会諏訪流鷹匠に認定される。妻は作家の久美沙織。
畑 正憲(はた・まさのり)
ごぞんじ「ムツゴロウ」先生。本当は「せいけん」だったはずなのに、「まさのり」で定着した、有職読みの逆(無職読み?)。
蜂飼 耳(はちかい・みみ)
早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、女性詩人(活動は多岐にわたる)、第一詩集「いまにもうるおっていく陣地(紫陽社)」で第五回中原中也賞受賞、第二詩集「食うものは食われる夜(思潮社)」で第56回芸術選奨文部科学大新人賞受賞。ペンネームの由来は「耳」の部分は、「みみ」という音が気に入ったのと、古代の話で「××耳」という名前が多く出てくるところからつけたという。
八匠 衆一(はっしょう・しゅういち)
作家、本名・松尾一光(まつお・かずみつ)。『生命盡(つ)きる日』で第10回平林たい子賞を受賞。
服部 まゆみ
本名同じ。東京・日本橋生まれ。現代思潮社美学校銅版画科卒。版画家。恩師に加納光於(かの・みつお)がいる。日仏現代美術展でビブリオティック・デ・ザール賞受賞。パリで行われた受賞式のため海外旅行を経験し、その旅行の思い出をモチーフに書いた『時のアラベスク』が横溝正史賞受賞。
花登 筐(はなと・こばこ)
本名・花登善之助 (はなと・ぜんのすけ)。筐は「しょう」とも読むらしくて【普通は「きょう」で「しょう」なら「笙」?】、文豪ジョージ・バーナード・ショーにあやかって付けた名だという。ちなみに「筐」は竹で編んだ、目の細かい籠で、「花筐(はながたみ)」というと花などを摘んで入れる籠のことである。「形見」と通じるので掛詞としても使われる。「細うで繁盛記」など。女優の星由里子と結婚していた。
花村 萬月
本名・吉川一郎。『小説すばる』の横山編集長が「よし、おまえは花村萬月だ」と3時間かけて、多少投げ遣りに決めた。『笑う山崎』『皆月』など。
埴谷 雄高(はにや・ゆたか)
本名「般若豊」(はんにゃ・ゆたか)の漢字を変えた(異分析という)。「般若」は高岡にも多い名前だが、「豊」が平凡すぎて嫌いだったのでは?天文学の書物を読むことを「最終ページのない探偵小説を読むのと似ている」と言っていたが、命日を「アンドロメダ忌」という。
馬場 あき子(ばば・あきこ)
本名・岩田暁子。1928年、東京都生まれ。「かりん」主宰。歌集『早笛』『桜花伝承』『葡萄唐草』、研究書『鬼の研究』他。
帚木 蓬生(ははきぎ・ほうせい)
本名「森山成彬(なりあきら)」。「ははきぎ」とはホウキグサの別称で何よりも『源氏物語』の巻名。雨夜の品定めと、源氏と空蝉との交渉の前半部にあたる。福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒、九州大学医学部卒。TBSを退職後に、医学を学び精神科医に。その傍ら小説を執筆。『三たびの海峡』(吉川英治文学新人賞)や『閉鎖病棟』(山本周五郎賞)などで知られる人気作家であり、医療法人社団翠会・八幡厚生病院の副院長でもある。
馬場 孤蝶(こちょう)
本名・勝弥。自由民権運動家の馬場辰猪の弟。荘子「斉物論第二」の「胡蝶の夢」から“こちょう”を採って「ひとりぼっちの蝶」とした。
浜田 広介(ひろすけ)
本名・広助。児童文学者。
葉室 麟(はむろ・りん)
本名・本畑雄士。北九州市生まれ。76年西南学院大学文学部卒業。地方紙記者を経て、2005年『乾山晩愁』で歴史文学賞受賞。『乾山晩愁』『実朝の首』『銀漢の賦』など。「蜩ノ記(ひぐらしのき)」で2012年に5度目の候補で直木賞。
早坂 暁(はやさか・あきら)
本名・富田祥資(とみた・よしすけ)。小説家、脚本家。松山市生まれ。旧制松山高等学校卒業後、日本大学芸術学部演劇科卒。雑誌記者、編集長を経て「ガラスの部屋」(61年日本テレビ)で脚本家デビュー。人間をテーマにした独自の作風を築く。代表作は「夢千代日記」「空海」「花へんろ」「天下御免」など。
林 あまり
歌人。本名「林真理子」だったが、既に小説家の林真理子が存在していて自分が余って「あまり」にした。電子メールのアドレスの先願主義みたい(hayashiが先に付けられていたらahayashiなど別の名前にしなければならない)。俳句では大木あまりという人がいる。「あなたに重なりゆら体を揺らしているどうしてこんなにやすげるのか」など。
林 郁 (はやし・いく)
本名・川名郁子 (いくこ)。
林 京子(はやし・きょうこ)
本名・宮崎京子。
林 青梧(はやし・せいご)
作家、中国・南京大名誉教授、本名・亀谷梧郎(かめがい・ごろう)。『足利尊氏』『満鉄特急あじあ物語』『中国の希望と絶望』など。芥川賞と直木賞の候補にそれぞれ3回ずつなった。
林 望(はやし・のぞむ)
本名同じだが、かつて小説執筆時に「沢嶋優」(さわしま・ゆう)を使ったこともある。「リンボウ先生」。“Rymbow”と表記する(意味はなさそうだ)が、恐らく詩人のランボーが“Rimbaud”だから混同を避けるためだろう。ちなみに“limbo”だと「キリスト教で洗礼を受けていない死者が行く場所。地獄と天国の中間的な場所で善人が住むところ」と「リンボーダンス」という意味になる。東大総長・林健太郎の弟、国語学者・林四郎の兄、健次郎の息子で歴史学者と国語学者を合わせると書誌学になるのかと勝手に思う。妹に「さきく」というのがいることが『東京坊ちゃん』で分かった。リンボウ先生、幸くあれ!
林 房雄
本名・後藤寿夫。ヒサオ→フサオ?占領軍によって追放処分を受けていた時に読売新聞の文化面で「白井明」(白い眼)というペンネームで文壇をなで切りしていたこともある。
林 不忘(はやし・ふぼう)
本名・長谷川海太郎。「林不忘」名義で時代小説を書き、「牧逸馬」(まきいつま)名義で探偵小説や現代小説を、「谷譲次」名義でメリケンジャップものを発表し、戦前大衆文壇の怪物といわれ、『一人三人全集』を残した。言論人だった父・長谷川清のライバル「“林”儀作の存在を“忘れず”」という意味。小説家の長谷川四郎は弟。
林 芙美子
本名・フミコ。早大卒の小林正雄(担任)が芙美子の文学的才能を早く認め、尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学することになる。「秋沼陽子」のペンネームで地方新聞に詩や短歌を載せる。この時代に小林正雄のすすめで「芙美子」とペンネームを決め『放浪記』の原型ともなる『歌日記』と題する作品を書き始める。川端康成が葬儀委員長を務めたが、弔辞の中で「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、あと一、二時間もすれば林さんは骨になってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許してもらいたいと思います」と述べたが、これは嵐山光三郎の『追悼の達人』(新潮社)によれば若い女性作家の進出をさまざまに妨害したことを指すという。若い頃苦労したら人に対して優しくなるというのは凡人の考えで、苦労したからこそ若い人の台頭に自分の地位が脅かされるように思ったのだろう。
林 真理子(はやし・まりこ)
本名。井上ひさし『ふかいことをおもしろく』(PHP)に、浅草フランス座の文芸部員募集に行った時の話が書いてある。
劇場に行ってみると、応募者がなんと二百人あまりもいました。そして僕ら全員に「一週間以内に原稿六十枚の一幕ものの芝居を書いてくること」という課題が出されました。
ところが、きちんと書いてきた人は、なんと二百人中たった四人。「ストリッパーのヒモ狙いの人が大勢いたらしい」という噂はほんとうだったようです。そして、僕と早稲田の演劇科に通っていた学生が採用されました。
彼は、作家の林真理子さんのおじさんでした。葉山 嘉樹
本名が「嘉重(かじゅう)」か「嘉樹(よしき)」という問題がある。「嘉重」という説もあったが、浦西和彦によれば謄本には「嘉樹」と書かれていて「嘉重」というのは真っ赤な嘘で、改名した形跡もないという。誤りが流布してしまった例。
原 リョウ【寮―ウ冠】
本名・原孝。佐賀県生まれ。九州大学文学部美学美術史科卒。
原田 マハ(はらだ・まは)
本名非公開だが、ブログの「マハ裸々日記」(Maharala Diary)の冒頭に絵が張り付けてあるように、ペンネームはゴヤの「裸のマハ」から来ている(「マハ」というのはスペイン語で「いなせな女、ちょっと小粋な女」という意味)。東京都出身。早稲田大学第二文学部美術史科卒。大手商社、大手都市開発企業美術館開設室、ニューヨーク近代美術館(MoMA)勤務を経て、2002年に独立してフリーランスのキュレーターとなる。2003年より、カルチャーライターとして執筆活動開始。小説は初挑戦の第1回日本ラブストーリー大賞受賞作『カフーを待ちわびて』など。兄は作家の原田宗典(はらだ・むねのり)。
原 りょう(はら・りょう)
ペンネームは「原寮」だが、「原りょう」を多用。本名は原孝。鳥栖市生まれ。九州大学文学部美学美術史科卒業。福岡高校の同期に医師の中村哲がいる。『私が殺した少女』や『愚か者死すべし』の主人公、中年の私立探偵「沢崎」は下の名前を著者しか知らず、発表の予定も公表するつもりもないようだ。両切りのピースを吸い、ブルーバードに乗っている。
春乃 れぃ
小文字の「ぃ」を使った珍しいペンネームでどう発音すればいいのやら。ケータイ読書界で大人気の作家。恋愛エッセイ『モテれ。』が、満を持して書籍化された。2005年4月のデビュー作『恋愛博打〜ヤル前に読め!(;゜Д゜)』のヒット以来、新刊発売の翌週には上位にランクイン。本人のホームページのプロフィールによると1900年代後半、台湾で生まれる。米国L.A.と関西育ち(14歳まで)。最終学歴の高校は3年間で卒業。バイセクシャルでアブノーマルで完全S。
春山 行夫
本名・市橋渉。詩人、評論家、文化史家として活躍した人には「石橋を渉る」ような名前よりも「春山を行く」方が春山行夫らしく軽快だ!
半村 良(はんむら・りょう)
バーテンをしていた新宿のバーに来たイーデス・ハンソンさんに惹かれてつけたというのは有名な話でとってもイーデス。本人がこれを否定しているエッセーもどこかで読んだような気がするが、ハンソン説の方が圧倒的に面白い。本名・清野平太郎(きよの・へいたろう)。「水戸宗衛」というのもあるが「みっともねえ」。なお、当時、バーに行けば半村に、ニューオータニに行けば森村誠一がいて他の作家は困ったという(森村は作家がホテルに預けた原稿を読んで自分もなれると思った)。
ひ ピーコ
映画・ファッション評論家。本名・杉浦克昭(すぎうら・かつあき)。映画評論家で「おすぎ」と兄弟。お腹弱くて下痢ばっかしてるからって『ピー子』とかいう下品な芸名をつけられたという。
東 峰夫
本名・東恩納(ひがしおんな)常夫。『オキナワの少年』などを書いたから「おんな」は要らなかった?
東野 圭吾(ひがしの・けいご)
本名同じだが、最初は「とうの」と呼んでいたのを父親が「ひがしの」と呼ぶようにしたという。大阪市生まれ。大阪府立大学工学部電気工学科卒。日本電装(現デンソー)に入社。勤務の傍らに書いた『放課後』で江戸川乱歩賞受賞。
干刈(ひかり) あがた
本名・浅井和枝。『ウホッホ探険隊』など。1967年、会社を辞め、フィリピン・台湾・香港をまわり、乗り継ぎで3日間沖縄に滞在した。月刊誌『若い女性』に、その旅行の体験記を「柳和枝」の本名で掲載、同年結婚。82年、「樹下の家族」(『海燕』11)で第1回「海燕」新人文学賞を受賞した。この作品から「干刈あがた」のペンネームを用いた(「干刈」は「光」の替え字。「あがた」は漢字を当てると「県」で、国に対する地方、中央に対する周辺の意味)で「光よあがた(辺境)まで届け」という願いが込められている。同年、離婚したが、復姓しなかった。
樋口 一葉(ひぐち・いちよう)
本名・なつ(戸籍面は「奈津」)。日記の表紙には「なつ」「夏」「夏子」とも自署し、本名の奈津より「夏子」 を用いることが多かったので、樋口夏子が最も一般的な呼び方として通っている。歌人としては「夏子」、作家としては「一葉」、新聞小説の戯号は「浅香のぬま子」「春日野しか子」として筆名を使い分けた。「一葉」というのは達磨が乗って渡海した蘆(芦)の一葉にちなんだもので、達磨には「お足(銭)がない」という洒落。平田禿木は香奠(香典)に窮した一葉が歌った「我れこそはだるま大師に成りにけれとぶらわんにもあし(銭)なしにして」に注をつけて「この歌によって『一葉』という号が、桐の『一葉』でなく、達磨が芦の一葉に乗って梁の武帝に見えた(まみえた)という芦の『一葉』であることが分かる」(『樋口一葉全集』日記一)と書いている。
他の説として、一葉は歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入る前から蘇東坡の詩「前赤壁賦」を暗誦していたが、 その中に「駕一葉之扁舟」の一節があり、また小説習作の余白に「一葉舟士」の書き込みがあることや、未完成作品に「棚なし小舟」があり、他の作品や日記にも舟や浮き草のイメージを繰り返し描いていた。一葉は早くから、零落し転居を繰り返す自分の人生を、彷徨し行く手を阻まれる<漂う舟>のイメージと重ね合わせていた。一葉は晩年の病床で「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」と雑記に書き込んでいる。流転する舟の意識は一葉の生涯を貫いていたから、これが筆名になったと考えることもできる。
一葉の日記は全編借金の日記と称されるくらいであり、21世紀になってから5千円札の顔になるというのは財政破綻した日本の象徴か?
影響を与えた半井桃水(なからい・とうすい/本名は洌“きよし”)とか同時代の北田薄氷(うすらい)などは難読名の一つ。
一葉が通う歌塾の先輩で「藪の鶯」を書いて女流作家の魁となった田辺龍子(筆名は田辺花圃と書いて“かほ”で後に三宅雪嶺と結婚して三宅花圃)、一葉の親友で同じ夏子という名前であることから「い夏」と呼ばれる伊東夏子(ちなみは一葉は「ひ夏」と呼ばれている)などがいた。
樋口 有介(ひぐち・ゆうすけ)
本名・樋口裕一。群馬県前橋市生まれ。国学院大学文学部哲学科中退。劇団員、業界誌記者、青焼工の後、『ぼくと、ぼくらの夏』でサントリーミステリー大賞読者賞受賞。
久石 譲(ひさいし・じょう)
作曲家、エッセイスト(映画のエッセイはすごい!)。本名・藤澤守(ふじさわ・まもる)。大学在学中に、音楽家として活動する以上、それなりの名前が必要ということで、友人と話し合った結果、好きだったクインシー・ジョーンズから名付けることとした。「クイシ・ジョー」だって!?
久生 十蘭(ひさお・じゅうらん)
本名・阿部正雄。パリ高等物理学校、国立パリ技芸学校で演劇映画を学ぶ。新劇界の重鎮シャルル・デュランCharles Dullinに師事し、十蘭の筆名の元となる。「久しくは生きとらん」「久生(食う)とらん」の洒落でもある。「谷川早」名義でも「顎十郎捕物帳」シリーズを発表。「六戸部力」とも。
土方 巽(ひじかた・たつみ)。
舞踏家。本名・元藤九日生(もとふじ・くにお)。米山(よねやま)姓で生まれたが、元藤【火+華】子(あきこ)との入籍により元藤姓となる。舞踏の創始者であり、 暗黒舞踏という新しい表現形式を確立し、ジャンルを超えて様々な芸術家たちに影響を与えた。『犬の静脈に嫉妬することから』『病める舞姫』など。【火+華】子は1952年に「アスベスト館」を造ったが、アスベストは後のように毒とは思われていなかったのである。
澁澤龍彦は「さようなら、土方巽」(『都心ノ病院ニテ幻覚を見タルコト』)の中で次のように述べている。
ヒジカタ・タツミ。この名前のリズムのすばらしさは、いったいどこから来ているのでしょう。いままでだれも、この点を問題にしたひとはいなかったと思いますが、このヒジカタ・タツミという芸名を考え出しただけでも、彼の詩人的天才は証明されると思います。
土方 与志(ひじかた・よし)
本名・久敬(ひさよし)。演出家。
秘田 余四郎(ひめだ・よしろう)
映画字幕翻訳家。海外小説の翻訳(一部、姫田嘉男名義)もおこなった。小説家として「香具師もの」小説を書く。本名・姫田嘉男(ひめだよしお)。ペンネームは本名に別の漢字をあてて一ひねりしたもののようだ。明治41(1908)年徳島に生まれ、東京は牛込に育った。府立四中に入学するも素行不良(?)で退学になり成城中学から東京外国語学校フランス語科に進んで昭和6年に卒業。高三啓輔『字幕の名工−秘田余四郎とフランス映画』(白水社)がある。
日夏 耿之介(こうのすけ)
本名・樋口国登(くにと)。漢字多用の独特の世界を作った詩人。
火野 葦平(ひの・あしへい)
本名・玉井勝則。女たらしの火野正平(本名・二瓶康一)はこの人から名前を採ったのかしら?これが本当の「火遊び」。小説家。福岡県若松市生まれ。早稲田大学英文科中退。大学では田畑修一郎らと『街』を創刊したり詩誌を発行したが、卒業を前に福岡歩兵24連隊に入隊、除隊後は家業の沖仲士玉井組を継ぎ、かたわら沖仲士の労働組合を結成して文学廃業を決意。しかし検挙されて転向、地元の同人誌で文学活動を再開。『糞尿譚』(37)が芥川賞を受賞。ついで『麦と兵隊』(38)を戦地から送って反響をよび、帰還後は兵隊作家とよばれてマスコミの寵児となり、太平洋戦争中は報道班員として活躍した。父・玉井金五郎の青春期を描いた『花と龍』(52〜53)が評判を得て、藤(富司)純子が蝶々牡丹のお京を演じ、その後「緋牡丹のお龍」シリーズになった。遺稿となった『革命前後』(59)が睡眠薬自殺後、芸術院賞を受賞した。
日野 啓三(ひの・けいぞう)
本名同じ。作家、読売新聞編集委員。東京生まれ。銀行勤めの父に伴われ5歳で朝鮮にわたり、16歳の終戦を京城(現ソウル)で迎えた。敗戦後、父の実家のある広島県に引き揚げ、翌年上京し旧制第一高校に進む。一高では詩人の大岡信、作家の佐野洋らと同人誌を作り、両氏と共に東京大学へ進学、相次いで読売新聞に入社した。韓国特派員、ベトナム戦争時の南ベトナム特派員などを務めた(開高健『ベトナム戦記』に登場する読売記者が日野)。帰国後小説を書き始め、74年「此岸(しがん)の家」で平林たい子賞、75年「あの夕陽」で芥川賞、最初のがん手術後の93年自伝的長編「台風の眼」で野間文芸賞を受賞した。鋭い文明批評に裏打ちされた小説世界は日本文学に新たな領域を切り開いた。
氷室 冴子(ひむろ・さえこ)
本名・碓井小恵子(うすい・さえこ)。岩見沢出身で氷室の冴え冴えとした様子が出ているペンネーム。
姫野 カオルコ
ハイパー文学の旗手。本名・香子(きょうこ)。滋賀県生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒業。在学中より雑誌に短編小説を書いていたが、90年の『ひと呼んでミツコ』(講談社)がはじめての単行本。アルバイト以外の職歴はなし。『ひと呼んでミツコ』『ガラスの仮面の告白』『恋愛できない食物群』『空に住む飛行機』『四角関係』『変奏曲』『喪失記』『愛は勝つ、もんか』『短編集H』『愛はひとり』『ブスのくせに!』など。小学生の頃から高橋玲子と伊藤茉莉子という名前に憧れていたが、目立たないと編集者にいわれたという。また、旧弊な考えの人が多い場所に暮らしていて、親戚に迷惑をかけたくなかったためにペンネームを考えたと「筆名の耐えられない軽さの重さ」で書いている。
私の名前は、香子(きょうこ)という。これの読み方を変えて、さらにカタカナにしたのである。馨子だったり薫子だったらばれてたかもしれない。カタカナにするとまったく印象がかわる。
また、カタカナにしたのは親類縁者対策だけでなく、先の編集長のアドバイスと、あと姓名判断の易者のアドバイスにも従ったのである。
「カタカナにすると芸術分野の職業において成功する総字画数になる」
と易者(姓名判断師?)は言った。べつに易者に全面的心服をおいていたわけではないが、縁起ものの置物を買うくらいの気分はあって従った。そしてなにより、カタカナにしたときの、その軽さ、そのおかしさとヘンテコさを、私が気に入ったのである。人を上から見下ろしてナルシスティックに蘊蓄たれるのではなく、人といっしょにたのしもうとするタランティーノの気骨を生涯忘れまじと。
以来、ずっと姫野カオルコで暮らしている。小説を書くというのは己の生理と合体している仕事だから、今では、きょうこさんと呼ばれてもなにやら別人のようでモゾモゾする。落ちつかない。書き出してもう二十年近くにもなるのである。途中、筆名を変えたらどうかという機会もあった。そのさい、「今までのはアルバイト、これからは正社員なんだから」 というようなことを言う人もいたが、変えなかった。アルバイトしていたのも私、これからも私。そう思ったからである。『不倫(レンタル)』の力石理気子は34歳の処女だが、SMポルノ作家。機会を失ったままズルズルと来ているが、二人の男が現れる。一人は霞雅樹という男だが、もう一人は190センチの野獣のような男で名前は「澁澤龍彦」という!
平石 貴樹(たかき)
ミステリー作家。本職は東京大学のアメリカ文学教授で翻訳や解説書などの著書がある。
平井 照敏(ひらい・しょうびん)
本名・照敏(てるとし)。詩人、評論家として出発したが、30歳代半ばから句作を開始。加藤楸邨に師事し、俳誌『寒雷』の編集長を務めた。74年に『槙』を創刊、主宰。句集に『猫町』『天上大風』『夏の雨』、評論集に『かな書きの詩』『蛇笏と楸邨』など。代表句に「雲雀落ち天に金粉残りけり」「いつの日も冬野の真中帰りくる」。88年に『かな書きの詩』で俳人協会評論賞受賞。青山学院女子短大名誉教授。
平田 オリザ
劇作家。平田オリザは本名。ラテン語で「稲」の意味で、宮沢賢治の小説からシナリオライターのお父さんがつけた。1962年東京生まれ。旅行が好きで、中学2年の時に世界一周をしようと決心。子供の冒険旅行を両親は信じなかったが、お金を貯めるため定時制高校に進学。親の理解を得て休学し、1年半をかけ単独自転車で世界26か国を回り、『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』を書く。劇団「青年団」主宰。駒場アゴラ劇場支配人。桜美林大助教授など歴任。95年「東京ノート」で第39回岸田國士戯曲賞を受賞。「この名前は気に入っていますけど、でも、オリザなんて名前をペンネームにつける奴とは、友達になりたいとは思いませんね」。
平塚 らいてう(らいちょう)
本名・奥村明(はる)。「らいてう」はもちろん「雷鳥」をかなにしたもので「雷鳥」の美しさと気高さに憧れたため。自伝で筆名について「太古、日本の氷河時代から澄んでいたときいてはいっそう心ひかれていた」と書いている。女性解放運動を始めたり、『煤煙』事件(森田草平との塩原心中未遂事件)で本名が知れ渡ったために父(会計検査院次長)に気兼ねしてペンネームを使うようになった。
平野 啓一郎
1975年生まれ。京都大学法学部に在学中の99年、『日蝕』で芥川賞を受賞。長編小説『葬送』など。『フェカンにて』では作家の〈大野〉が文化庁の派遣でパリに住む。中世フランスの異端審問を題材に『太陽と月の結婚』でデビューし、『葬儀』ではドラクロワとショパンの生きた時代を描いている。平野の小説『日蝕』『葬送』をほのめかしているが、私小説ではない作品に仕上がっている。08年にモデルの春香と結婚。
平野 謙
これほどの評論家でもペンネームなのに驚く。本名「朗」も「謙」もあんまり違わないような気がするが「謙」の方が剣先が鋭い?初期の筆名「小林良雄、荒木信五、松田康雄」など。平野謙は小林秀雄とお母さんどうしがイトコというのを法事で知ったという。本多秋五、荒正人、埴谷雄高、山室静、佐々木基一、小田切秀雄らと『近代文学』の同人。
平林 たい子
本名・タイ(当時、桂首相の愛妾に「お鯉」という名前の女性がいて、それにあやかったという。流石に時代を感じる)。
ひろ さちや
本名・増原良彦。東大文学部インド哲学科卒業。「ひろさちや」で『釈尊物語』『禅』など多くの仏教解説書を、本名で雑学の本をたくさん出していて、1980年度日本雑学大賞受賞。「ひろ」は、サンスクリット語の“hira ”「金剛、非常に堅い」、「さちや」は“satya”で形容詞で「実際の、純正な、真実の、誠実な」、“〜m ”は副詞を表して「実際に、真実に、確かに、正しく」であろう(オウムの「サティアン」と同じ、もちろん、作家と無関係だし、「ガス工場」とも無縁の言葉)。「印哲」というとお金と無縁の学科だが、2001年1月に、泥棒が入って自宅に置いていた現金1億7千万円を盗まれたが、金の延べ棒はそのままだったという。慌てて警察に届けたのだが、恐らく脱税目的のこれらのお金を隠し持っていたことはこの精神性の高い、雄弁な宗教評論家のペンネームの裏に隠されたものを見たような気がした。
広瀬 正(ただし)
本名・広瀬祥吉。東京・京橋生まれ。日本大学工学部卒。バンドマンになり、「広瀬正とスカイトーンズ」を結成。ジャズ・テナーサックス奏者として活躍。バンド解散後、SF小説を書いて期待されたが、心臓まひで急死。
広津 柳浪(りゅうろう)
本名・直人。深刻小説を書いた。「柳浪」の号は戯作の筆もとった祖父の号に由来。広津和郎(かずお)は次男。
ふ 深沢 七郎 (ふかざわ・しちろう)
本名同じだが、「ふかざわ」なのか「ふかさわ」なのかは出版社によって異同がある。3歳ころから角膜炎で眼を病んで成人後も右眼はほとんど見えなかったという。小さい時から親戚の家をあちこち預けられたり、転々とする。「ジミー川上」の名前で旅回りのバンドに入ったこともある。52年、40歳にして日劇ミュージックホールの正月公演「一日だけの恋人」に特別出演したが、この時の芸名は「桃原青二」(ももはら・せいじ)で「もも」「はら」という特異な名前になった。ホールの構成演出の丸尾長顕の勧めで文章を書き始める。
深田 久弥(ふかた・きゅうや)
作家、登山家。石川県大聖寺(だいしょうじ)町(現・加賀市)に生まれる。東京帝国大学在学中の1926年(大正15)より3年間、改造社に勤務。『津軽の野づら』(1935)連作により文壇に登場、『鎌倉夫人』(1937)、『親友』(1943)、『知と愛』(1953)などを発表。一方、山岳紀行・随想に生来の個性を発揮して『わが山山』(1934)、『山岳展望』(1937)などを刊行。第二次世界大戦後は名山巡礼の山旅を続けるとともに、ヒマラヤ登山の黄金時代と相まってヒマラヤ研究に没頭し、『日本百名山』(1964)、『ヒマラヤの高峰』(1964〜65)を完成した。登山中に死去。「深田久弥 山の文化館」(館長は作家の高田宏)が2002年12月、加賀市に開館した。
深田 祐介
本名・雄輔。東京都生まれ。早稲田大学法学部卒。
福井 晴敏(はるとし)
東京都墨田区生まれ。千葉商科大学経済学部中退。警備会社に勤務。『川の深さは』で江戸川乱歩賞最終候補に。『Twelve Y.O.』で同賞受賞。
福田 定良(ふくだ・さだよし)
本名・瀬川行有(せがわ・ゆきあり)。哲学者。東京都生まれ。戦時中、徴用労働者として南方戦線に。戦後、法政大学教授を務めたが、生活者の感覚にこだわり、70年代以後大学を離れて思索を続けた。著書に『めもらびりあ』『仕事の哲学』『落語としての哲学』『民衆と演芸』『ひとりよがりの哲学』『新選組の哲学』『宗教との対話』など。川田順造の『コトバ・言葉・ことば』(青土社)の中に、高校生の川田が福田から文化人類学という領域があることを教えられる場面が描かれている。
福田 蘭堂(らんどう)
ラジオドラマ『笛吹童子』の<ヒャラーリ、ヒャラリーコ…>の作曲家だが、随筆も書いた。井伏鱒二や開高健が仰ぎ見る釣りの「鬼才」で、『釣った魚はこうして料理』という本もだしている。父親は『海の幸』で有名な天才画家・青木繁。愛人で同じ洋画家の福田たねとの間に生まれたのが蘭堂で『海の幸』から幸彦と名付けられた。蘭堂の本妻は松竹のスター川崎弘子だった。蘭堂の子どもがクレージーキャッツのメンバーで料理研究家の石橋エータロー。『画家の末裔』(講談社文庫)という三人の文章が入った本が出ている。池内紀は『池内式文学館』(白水社)で蘭童の『釣った魚はこうして料理』を紹介しながら、次のように書いている。
【尺八の】師は琴古流荒木派の関口月童、ついで水野呂童に学んだ。蘭童の名前は、この師弟の縁による。中学生のとき、すでに師範格だった。同時にピアノを習い、洋楽を学び、独立したのち一派をおこして、これまで秘伝扱いされていた尺八の五線譜を導入した。そんな大胆な試みのせいか、力量を認められながらも保守的な尺八の世界では、しだいに孤立していった。【…】
昭和五十一(一九七六)年、死去。晩年は東京・渋谷の「三漁洞」主人だった。釣った魚を見ず知らずの人にもふるまいたいというので店をつくった。「三漁」の名前は「海釣り・川釣り・陸釣り」にちなんでいる。女を釣るの意味の陸釣りが入っているのが、女性によくモテたこの人らしい。福永 武彦(ふくなが・たけひこ)
本名同じ。これ以外に「加田伶太郎」のペンネームも持つが「だれだろうか、ふくながだ」のアナグラム。戦争中、参謀本部で暗号解読に従事した。作家の池澤夏樹は子。
まず自分の名前を製造にかかった。それをアナグラムで行くつもりで、やたらに原稿用紙にローマ字を書き散らした。アナグラムというのは、文字の書き換えである。…この式を真似するつもりで僕の考え出したのが、
加田伶太郎(Kada Reitar )つまり「誰ダロウカ」(Taredar ka?)
である。…次に名探偵の名前は、やはりアナグラムで行くことにして
伊丹英典(Itami Eiten)
と名づけた。つまり
「名探偵」(Meitantei)
である。
と「素人探偵誕生記」で語っている。福永が「地球を遠く離れて」(1958年)というSFで用いた船田学というペンネームは、Fukunaga daのアナグラム。
福地 桜痴(おうち)
本名・源一郎。通った吉原の娼妓「桜路」が好きで「桜」に入れ揚げた「痴れ者(しれもの)」という意味。
福原 愛姫
『【手+那】威没有森林(ノルウェーに森はない)』(若【丹+彡】じゃくとう訳)の著者。内蒙古はフフホトの遠方出版社から2004年5月に翻訳出版された。「村上春樹の『ノルウェーの森』の続編的存在」「村上春樹は彼女の夢の中の恋人なのか?」とか、「村上春樹にあてた公開ラブレター」とオビなどで宣伝していた。福原愛姫は村上の『ノルウェーの森』は完結していないとし、続編を書こうと思い立ったらしい。張競の『海を越える日本文学』(ちくまプリマー新書)には「思ったほどわるくありません」という。「ペンネーム」は恐らく中国でも人気のある卓球の福原愛にちなんだものらしい。中国には「春樹」という若い女性作家もいて、こちらは本物だという。当時の報道によれば次のよう。
1967年横浜生まれで、早稲田大学演劇学科卒。1992年に短編小説集『鳥鳴』で日本文学新人賞を受賞。同年、村上春樹と知り合う。清純美女作家と呼ばれた彼女だが、渡米した村上春樹を追いかけて米国へ。二人の仲を疑うパパラッチが彼女の動向を追うが、彼女の消息は途絶える。それから5年、1998年に突然帰国すると、成熟した数人の男性との愛の遍歴を書いた『精霊之書』を発表。自叙伝風の内容に加え、本の扉に「魂の師、村上春樹に捧げる」の文字があったことから、メディアで話題に。村上人気にあやかった自己宣伝との批判も上がったが、多くのメディアが本書は偉大なる続編として評価した…。
藤井 常世(ふじい・とこよ)
歌人。本名そのまま。「常世」という名前は折口信夫が命名した。はるかなる異郷「常世の国」のとこよを、自分の愛弟子(藤井貞文・國學院大學教授)の子どもにつけたのだ。母親も国語教師だった。
藤枝 静男(ふじえだ・しずお)
本名・勝見次郎。49年、親友の平野謙、本多秋五の勧めで処女作『路』を発表したが、この時の筆名は本多の命名で「藤枝」生まれで、夭折した高校の友人・北川「静男」の名前から。眼科医だった。命日は作家小川国夫によって「雄老忌」(ゆうろうき)と命名された。
藤木 稟(ふじき・りん)
幼少より風水、占星学に親しみ、その知識は占いの域を越え、その方面での信奉者も多い。新鋭女流作家として、1998年『陀吉尼の紡ぐ糸』でデビュー。その作品世界が、新本格推理のジャンルに新鮮な衝撃をもたらす。探偵・朱雀十五を主人公としたシリーズで確実なファンを増やしている。
藤沢 周平
本名・小菅留治。ペンネームの「藤沢」は、故郷の鶴岡郊外の「藤沢」という地名(無名の時代に早世した妻の故郷)。甥の名前から「周」、何となく「平」。全集の年譜や回想記「半生の記」には、日本加工食品新聞で働いていた63年から懸賞小説に応募したということが書かれているのみ。65年に「ペンネームに初めて藤沢周平を使用」とある。 ところが、2006年に62年末から64年半ばまでの「読切劇場」「忍者小説集」など、高橋書店が発行する3種の時代小説雑誌に13編が藤沢(藤澤)周平の名前で掲載されていることが分かった。業界紙記者時代にアルバイトで書いたものらしいが、後年の藤沢文学の芽がすでに見える。なぜ時代小説を書くのかと問われたという。「時代小説の可能性」の中では、こう述べている。「時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい」(『藤沢周平全集』文芸春秋)という。
藤沢の時代小説には「海坂藩」(うなさかはん)という架空の藩がしばしば物語の舞台として登場するが、療養時代になじんだ俳誌にちなんでの命名という。命日は「寒梅忌」という。ちなみに、中田喜直は「雪の降る町を」の曲想を鶴岡で得たという。
藤田 宜永(ふじた・よしなが)
本名同じ。福井市生まれ。早稲田大学第一文学部中退後、渡仏。76年から80年、パリにてフランス航空旅客課勤務の後、帰国。フランス語の塾教師などをへて作家に。作品に「鋼鉄の騎士」(日本推理作家協会賞)、「巴里からの遺言」(日本冒険小説協会最優秀短編賞、直木賞候補)、「樹下の想い」(直木賞候補)、「求愛」(島清恋愛文学賞)など。長野県軽井沢町在住。01年に直木賞受賞するが、妻の小池真理子も96年に直木賞を取り、同賞では初めての夫婦受賞となる。
藤野 千夜(ふじの・ちや)
本名・高迫(こうさこ)久和。福岡県生まれ。漫画雑誌の編集者をしていたが、途中から女性の服装で出社してトラブルになった。「退社に追い込まれ」て失業中に投稿を始め「午後の時間割」で海燕新人文学賞。「性転換準備中」と発言して周囲を驚かせた。「夏の約束」で芥川賞。
藤本 義一(ふじもと・ぎいち)
本名「よしかず」で有職読み。「義一」の名前にかけた座右の銘「蟻一匹炎天下」をよくサイン本に書き添えた。映画監督の川島雄三に弟子入りしたのは宝塚撮影所の掲示板でその付き人募集の張り紙を見たからだった。「思想堅固デナク、身体強健デナク、粘リト脆サヲモチ、酒ト色ニ興味アルモノヲ求ム。監督室内、股火鉢ノ川島」(『生きいそぎの記』)。『鬼の詩』で直木賞を受賞したとき、すでにテレビの深夜番組「11PM」の司会者として広く知られていた。娘さんが詰めかけた記者の話を耳にして「お父さん、またショーに出るの」…。「これまで執筆した原稿は全部でどれくらい?」「1・6トンかな。ということは2トン車いっぱいくらい」。
藤本由香里(ふじもと・ゆかり)
1959年熊本生まれ。東京大学教養学科卒。筑摩書房で編集者として働くかたわら、コミック・女性・セクシュアリティなどを中心に評論活動を行う。明治学院大学・早稲田大学兼任講師でもある。著書に『私の居場所はどこにあるの?』(河出書房新社)、最新刊に、マンガ家へのロングインタビュー&コラム集『少女マンガ魂』(白泉社)がある。「小さい頃から私は売春婦に憧れていた」と帯のキャッチフレーズに書いてある『快楽電流』には「藤本由香里」の側にルビのように「白藤花夜子」と小さく書かれている。これについて河出書房新社編集部の小池三子男が「ほぼ日刊イトイ新聞」で次のように書いている。
そして、次に「白藤花夜子」問題。
実は、当初、著者はこの本を、藤本・白藤の共著
というかたちにしてほしいと強く希望していました。
というのも、加筆訂正前の雑誌掲載時に
白藤花夜子名義で書かれた文章が、
ここにはかなり含まれていたからです。
私は反対でした。しかし、白藤さんは「藤本由香里とほとんど一心同体
といわれる親友」であるらしく、
「なんとか花夜ちゃんも世に出してやりたい」
と懸命な可愛い目ですがるように
藤本さんに懇願された私は、だらしなくも
「それではデザイナーの鈴木成一さんに頼んで、
白藤さんが背後に引くように処理してもらいましょう。
奥付は白藤を括弧に入れて小さく並記するということで」
と思わず応えてしまいました。
藤原 伊織(ふじわら・いおり)
本名・藤原利一(としかず)。大阪府生まれ。東大仏文科卒。電通勤務の傍ら作家として活動。85年に『ダックスフントのワープ』ですばる文学賞を受け、爆弾テロ事件を全共闘体験を生かして描いた『テロリストのパラソル』は95年に江戸川乱歩賞、翌年に直木賞を受けた史上初のダブル受賞作。ほかに『ひまわりの祝祭』『てのひらの闇』などハードボイルド、ミステリー小説を書いた。05年には広告業界を舞台にした『シリウスの道』を刊行した。
藤原 審爾
本名同じ。女優の藤真利子(本名・藤原真理)は次女。微美杏里(びび・あんり)のペンネーム(もちろん、女優のヴィヴィアン・リーから)で作詞・作曲も手掛け、84年にはシングル「アブダカタブラー 天使と魔法」を発売している。
藤原 龍一郎(ふじわら・りゅういちろう)
歌人。藤原月彦のペンネームで俳句も作る。
双葉 十三郎(ふたば・じゅうざぶろう)
東大を卒業して住友本社に勤めてから映画評論家になった。『阿川佐和子のワハハのハ』(文藝春秋)の中で由来を語っている。
阿川 「双葉十三郎」というお名前はご本名ですか。
双葉 いや、本名は「小川一彦」。川を横切るから縁起が悪いって、ペンネームにした。「双葉十三郎」は、僕のご贔屓マーク・トウェーンのトム・ソーヤーから思いついたの。トミ・ソーヨー。
阿川 ン?何、何?
双葉 「ソーヨー」が「双葉」。
阿川 ああ、トミが十三、なるほど。いつ頃、つけになったんですか。
双葉 高校の終わり頃、『キネマ旬報』に投稿し始めたとき。『ぼくの特急二十世紀』(文春新書)では次のように書いている。
どうしてペンネームをつくったのかというと、本名がどうもしっくりこなかった。ほんとは小川一彦っていうんだけど、子供のころは「カズちゃん数の子ニシンの子」って、まわりからからかわれました。「小」も「川」も縦に三本線を引いただけ、「一」は横に一本で簡単すぎるのに、「彦」はやたら画数が多くて書きにくいんで、いやだった。それになにより、変身願望があった。【…】
そうそう、「あひゞき」みたいな二葉亭四迷のツルゲーネフの翻訳がとても好きで、それでぼくも二葉亭のようなペンネームにしようと思ったってこともある。【…】
じつは、ずっと双葉十三郎でいこうと決めたのは少し経った二十歳のころからで、それまでは『キネマ旬報』の寄書欄なんかでも、いろんなペンネームを使ったんです。たとえば、堀井有人(あると)とか石上郁とか。堀井有人というのはハリウッドのもじりです。石上郁というのは、松竹の少女歌劇にジャズダンスの石上都という人がいて、ぼくは大ファンだったんで、それにひっかけたってわけ。ペンネームをつくるのが好きだったんです。
戦後になっても、風谷逸(かぜたにいつ)とか浮谷一夫とか宇多仁一とか、いろんなペンネームを使ってします。これらはすべてフーダニット(Who done it? 犯人探しを主題にした探偵小説の俗称)のもじり。
そういえば、黒澤明監督の『用心棒』(61)がヒットして三船敏郎演ずる主人公、桑畑三十郎が有名になったとき、しばらくぼく宛の手紙の何割かは「双葉三十郎」になっていた。近衛十四郎さんとごっちゃにされて、「双葉十四郎」なんてのも来たな。
亡くなる直前には「そろそろお迎えが来そうだから、〈草葉十三郎〉に改名しようと思っているんです」と冗談を言っていた。
二葉亭 四迷(ふたばてい・しめい)
これが日本近代文学におけるペンネームの元祖みたいなもので「くたばってしめぇ」と父(江戸詰の尾張藩士だった)に言われた?ことからとされる。実は『浮雲』を坪内逍遥の名前で発表した者の忸怩たる思いがあって自虐的なペンネームになったともいう。とはいえ、俗説ではないという確証はない。本名・長谷川辰之助。
船地 慧(ふなち・さとし)
本名・渕先毅(ちさき・たけし)。著作に『役行者伝説』『修羅を翔ける禅僧・沢庵「たくあん」』。
船戸 与一
本名・原田建司。ペンネーム「豊浦志朗」。山口県下関市生まれ。早稲田大学法学部卒。
舟橋 聖一
本名同じ。弟は映画の脚本家の舟橋和郎で『きけわだつみの声』『くちづけ』『雁の寺』などの他に聖一・原作の『雪夫人繪圖』。
古川 緑波(ふるかわ・ろっぱ)
本名・古川郁郎 (ふるかわ・いくお)。一代を築いた芸人。
古沢 元(げん)
本名・古沢玉次郎。別筆名・秦巳三雄(はた・みさお)。岩手県生まれ。第二高等学校中退。
古山 高麗雄(ふるやま・こまお)
朝鮮新義州生まれ。父佐十郎は開業医で宮城県七ヶ宿町出身。城北高等補修学校で、安岡章太郎と知り合う。 安岡の芥川賞受賞作「悪い仲間」の藤井高麗彦のモデルは古山。二人は若いとき、原稿を持ち寄って回覧雑誌を出した仲だった。69年短編『墓地で』でデビューし、翌年には戦争体験を素材にした『プレオー8(ユイット)の夜明け』で芥川賞。『小さな市街図』『点鬼簿』『蛍の宿』『日本好戦詩集』『岸田国士と私』『セミの追憶』、『断作戦』『龍陵会戦』『フーコン戦記』の長編三部作で2000年に菊池寛賞を受賞。02年、「孤独死」を東京新聞に発表し、3月に亡くなる。
文 史朗(ぶん・しろう)
ジャーナリスト。本名・鈴木文四郎。1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長に就任。49年NHK理事。50年6月参議院議員に当選。名文家として世に知られ、『米欧変転記』『文史朗随筆』など著書も多い。
へ 辺見(へんみ) じゅん
本名・清水真弓。作家・歌人。角川書店の創始者で俳人の角川源義(げんよし)の長女で、会社社長・映画監督・俳人の角川春樹の姉。1964年、本名で小説『花冷え』を刊行したが、後に現在の名前に落ち着く。作中の亜紀は辺見じゅん(真弓)本人、大学教授の父・裕次は角川源義、不倫をして家を出る母・佐久子は生みの母の冨美子、甘ったれでひ弱な弟・時夫は春樹その人だろうと勝手に読み込むことができる。幻戯書房を作ったが、父・源義の有職読みをもじったものだろう。同じ思いからか結社誌『弦』というのも創刊した。
春樹の俳句に「米飾るわが血脈は無頼なり」というのがある。
辺見 庸(へんみ・よう)
本名・辺見秀逸(しゅういつ)。宮城県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、外信部次長など歴任。「自動起床装置」で芥川賞受賞。『もの喰う人々』など。
ほ 北条 一雄
本名・福本和夫。回顧録『革命は楽しからずや』(教育書林1952)に北条はその生地である鳥取県東伯郡下北条村の村名に由来するとの解説とともに述べられている。
北条 民雄(ほうじょう・たみお)
本名不明とどの事典にも書いてある(七条晃?)。代表作『いのちの初夜』は『最初の一夜』を師の川端康成が改題した。
保坂 和志(ほさか・かずし)
1956年山梨生まれ。90年『プレーンソング』でデビュー。93年『草の上の朝食』で第15回野間文芸新人賞、95年『この人の閾』で第113回芥川賞、97年『季節の記憶』で第33回谷崎潤一郎賞受賞。
星 新一(ほし・しんいち)
「星」はSF用の名前にみえるが本名で、名前の方がペンネーム。本名「星親一」。確かに「親一」ではあんな人間不信のSFは書けないだろう。星製薬の創立者で野口英雄の面倒もみていた星一の長男で父の死後、東京大学大学院農学部農芸化学科を中退して星製薬に入社、のち社長に就任するが業績不振になって倒産。『人民は弱し 官吏は強し』のような事情や、この経験などから未来へのペシミズムが生まれた。「親切第一」から「親一」と付けられたが「エスエス製薬」(Social Service)みたいな命名法。母方の祖父は人類学者・小金井良精(よしきよ)で星は『祖父・小金井良精の記』という本も書いている。祖母は森鴎外の妹・喜美子。退職後の57年に同人誌『宇宙塵』に発表した短編「セキストラ」でデビュー。ショートショートの第一人者として長く活躍。その創作数は1000を超える。最相葉月の『星新一 空想工房へようこそ』(新潮社)によれば、娘の名前の付け方が面白い。
昭和三十七年七月、星新一・香代子夫婦に長女ユリカが誕生した。珍しい名前には、複数の由来がある。新一がユリのはなが好きだったから、ユーリ・ガガーリンが大気圏外を一周した翌年に生まれたから、ギリシャ語で発見を意味する「ユリイカ」にかけた、等々。翌年十月には、次女マリナが誕生。こちらは、この前年に金星への接近遭遇に成功したNASAのマリナー2号からとられたという。
穂積 驚(ほづみ・みはる)
本名・森健二。長崎県生まれ。佐世保商業卒。
堀 辰雄(ほり・たつお)
「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く『風立ちぬ』が最も有名だが、松田聖子の歌の作詞者ではない。軽井沢で出会った「少女」と恋愛して『美しい村』を書き、その矢野綾子と結婚したが、結核に冒された彼女とともに富士見高原のサナトリウムに入る。本名同じ。東京市麹町区で生まれ。婚外子だったが、堀家の嫡子として届けられた。その後、母は4歳の堀を伴って再婚した。『幼年時代』によると、堀は死別するまで養父を本当の父と思っていたというが、江藤淳はこれを「虚偽」と指摘した(『昭和の文人』)。
堀口 大學/大学(ほりぐち・だいがく)
本名同じ。「地理(出生の家が本郷の東大赤門の前)と歴史(父が19賽で小学校の校長になるも、職を投げうってフランス法系の司法省法学校を受験し、結婚して長男の大学ら二児をもうけながら、東京帝大法学部に在学中だった)との二重の意味での天然記念物として」“大学”とつけられる。父は帝大卒の外交官だった堀口九萬一(“くまいち”については工藤美代子『黄昏の詩人 堀口大學とその父のこと』マガジンハウスや相倉屋康夫『敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一』左右社が詳しい)。
大学は4歳のときに母親を亡くした。若く美しかったという母親をしのんだ作品が「母の声」で<母よ、/僕は尋ねる、/耳の奥に残るあなたの声を、/あなたが世に在られた最後の日、/幼い僕を呼ばれたであらうその最後の声を。/三半規管よ、/耳の奥に住む巻貝よ、/母のいまはの、その声を返へせ。>と歌う。
晩年を取材した関容子の『日本の鶯(うぐいす) 堀口大学聞書き』(角川書店)に、名前に触れた一節があり、「近頃では『貴大学の入学願書を…』なんて問い合わせの葉書が舞い込んだりして」と苦笑している。「日本の鶯」と言ったのはマリ−・ローランサンである。堀口が父親の赴任先のスペインで出会った(ローランサンはモナリザ盗難事件以後アポリネールから離れてしまい、アポリネール自身は従軍した後でスペイン風邪で亡くなった)。ドイツ人の画家と結婚していてマドリードに「亡命」を余儀なくされていた。二人の間に肉体的関係があったのかは分かりにくくなっている。
「堀口大學さんの詩」与謝野晶子
三十を越えて未(いま)だ娶(め)とらぬ
詩人大學(だいがく)先生の前に
実在の恋人現れよ
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
誰(た)が家(いへ)の女(むすめ)か放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。九萬一は後妻にフランドル美人のスチナと再婚したが、「父の二度目の奥さんがフランス語を常用する女性じゃなかったら、僕は必死で勉強しようとは思わなかったでしょうから、僕は翻訳家としての道をたどらなかったしょうし、フランスの詩、フランス人の心を深くさぐることもなかったでしょうね。だからよく僕は言うの。僕を生んでくれた母が亡くなって、僕のフランス語になってくれたのだって」。池内紀は『生きかた名人』(集英社)であまりにも翻訳が多いので堀口大學という大学のセンセイたちが訳をしていると思ったと述懐している。
「某氏の一生」
赤門の前に生れて
赤門の鬼に責められ
不敏ゆえ永く学んで
蒲柳(ほりゅう)ゆえ長生きしました詩人で随筆家の堀口すみれ子は娘。母は21歳で40歳の大學と結婚したから、大學にとってすみれ子は孫といっても可笑しくないくらいの年の差がある。『虹の館---父・堀口大学の思い出』によれば、官学でないと大学ではないという風潮があり、東大や京大の教授たちに虐められたという。名前の由来の赤門が敵の牙城であったのだ。
「敵」
赤門城にたてこもる
敵は大勢
身はひとり
しかも病身
弱法師(よわほうし)【…】
今
ながらえて八十歳
無病息災
やっとつかんんだ晩い春
墓地でも買おうか!
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お ![]()
First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
All Rights Reserved.