あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
た〜と
た 田井 洋子(たい・ようこ)
劇作家、脚本家。本名・丸茂ふぢ子(まるも・ふぢこ)。戦前から岡本綺堂に師事。「女たちの忠臣蔵」などの演劇作品のほか、TBS系「東芝日曜劇場」などテレビドラマも多く手がけた。
大道 珠貴(だいどう・たまき)
本名同じ。福岡市生まれ。福岡県立福岡中央高校卒。ラジオドラマの脚本を執筆のかたわら、2000年、「裸」で九州芸術祭文学賞受賞。著書に『背く子』『裸』など。「しょっぱいドライブ」で芥川賞。埼玉県狭山市在住。
平 安寿子(たいら・あすこ)
本名・武藤多恵子。「へいあん・としこ」だと思ってしまうペンネーム。広島県広島市生まれ。広島女学院高卒。広告代理店、映画館を経てフリーライターに。『素晴らしい一日』でオール讀物新人賞を受賞。『パートタイム・パートナー』『グッドラックららばい』など。『作家の読書道2』(本の雑誌社)で次のように語っている。
アン・タイラー【Anne Tyler/アメリカの小説家】が最終目標ですから。初心を忘れないように、という決意表明と、お守りのようなつもりです。フリーライターを20年もやっていると、器用なところがあるので、「いついつまでにこうしたものを書いてほしい」と言われたら、その期待に応えてしまう自分がいる気がする。でもそんなことをしていると自分自身を見失ってしまいそう。そうならないように、「あなたの目標はアン・タイラーでしょ!」と、自分に言い聞かせるつもりでつけました。それと、平安寿(へいあんことぶき)は大変縁起がいい、と知人に言われたので。まあ、平安寿が1冊家にあれば、読者の方々の家にも福を呼ぶということで(笑)。
田岡 嶺雲(たおか・れいうん)
本名・佐代治。国際法学者・田岡良一は津山時代の悲恋の相手『月見草の女』との間の一子。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、陶弘景(とうこうけい)の「山中何の有る所ぞ、嶺上白雲多し、只だ自ら怡(たのし)み悦ぶべし、待して君に寄するに堪えず」から。
高井 有一(たかい・ゆういち)
本名・田口哲朗。父・省吾は画家、祖父・田口掬汀は小説家、劇作家、美術評論家として知られた。『北の河』で描かれているように疎開先で母が自殺する。『夢の碑』『真実の学校』など。
高垣 眸(ひとみ)
児童作家。本名・末男。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、『龍神丸』を連載してスターとなったが、前年に生まれた長女「ひとみ」から採った。こんなことをしたら、長女はどうなるんだろう。
高木 彬光(たかぎ・あきみつ)
本名・高木誠一。1920年9月25日青森市生まれ。叔父は詩人の高木恭造。一高から京都帝大工学部治金学科に進み、卒業後は中嶋飛行場に勤務。敗戦により職を失い、さまざまな仕事につくが、ことごとく失敗、続けて見てもらった二人の易者に、「小説家の中里介山に骨相が似ているから小説を書いて大家へ送れ」と進められ、幼少時に読んだ『謎の民衆裁判』(柳原緑風)を元に『刺青殺人事件』を完成、江戸川乱歩に送り、これが『宝石選書』第一巻として出版された。乱歩は香山滋、島田一男、山田風太郎、高木彬光、大坪砂男を「戦後派五人男」と呼んだ。「神津恭介」と「大前田英策」など多くの探偵を生んだ。
高木 卓(たかぎ・たく)
本名・安藤煕(ひろし)。1907年東京生まれ。東京大学独文科卒業。東京大学教養学部教授。母の幸(こう)は幸田露伴の実の妹で音楽家。
高樹 のぶ子
本名・鶴田信子。旧姓・高木。防府市生まれ。東京女子大学短期大学部卒業。
高須 梅渓(ばいけい)
文芸評論家。本名・芳次郎。梅が好きだったから。
高田 崇史(たかだ・たかふみ)
明治薬科大学卒。1998年に『QED 百人一首の呪』で第9回メフィスト賞を受賞し、作家デビュー。QEDシリーズとして歴史ミステリを世に送り出している。
高千穂 遥(たかちほ・はるか)。
本名・竹川公訓(たけかわ・きみよし)。SF作家、脚本家。格闘技・プロレスにも造詣が深く、ペンネームはプロレスラーのザ・グレート・カブキがかつて名乗っていたリングネーム高千穂明久と、同じくプロレスラーの永源遙から採り、ミックスしたものである。 著作『ダーティペア』のネーミングは人気女子プロレスラーのビューティーペアから、所属組織WWWAの名称も全日本女子プロレスが管理する選手権の名称から採られている。
高橋 和巳
本名同じ。学園紛争の時代に隆明と共に読まれた誠実な作家で中国文学者。巨人の投手だと思っていた人も多い(高橋一三)。『悲の器』!京大の下級生だった妻のたか子は本名「和子(たかこ)」(旧姓・岡本)。
高橋 がなり(たかはし・がなり)
本名・高橋雅也(まさや)。ペンネームは「がなり声」からかと思うが、本名の「重箱読み」。神奈川県出身の実業家でソフト・オン・デマンド株式会社の代表取締役など。数々のアダルトビデオをヒットさせ、業界トップの大企業に成長させる。『がなり説法』などかなりの本を出している。
高橋 揆一郎(きいちろう)
本名・良雄。北海道生まれ。札幌師範学校中退。イラストレーターとして活動。『ぽぷらと軍神』文学界新人賞を受賞。「伸予」で芥川賞受賞。ほかに『さざなみ』『地ぶき花ゆら』、戯曲『北緯四五度のドン・キホーテたち』など。
高橋 源一郎(たかはし・げんいちろう)
本名同じ(だと思う)。作家・評論家。灘高卒業後、横浜国大中退。学生運動で半年入獄して失語症になり、リハビリで小説を書き始めたという。元妻の高橋直子も小説家。作家・タレントの室井佑月(むろい・ゆづき=本名非公表)と結婚していたことがある(3回目とか4回目だとか噂があるがどうでもいいことだ)。高橋は「君を見ていると僕も切なくなるよ」といって室井にプロポーズしたという。
高橋 鐵
推理作家で性科学者。本名・高橋鉄次郎。
高橋 三千綱(たかはし・みちつな)
本名同じ。作家の高橋三郎の長男。子役としても活躍していた。
高浜 虚子(たかはま・きょし)
女性ではない。山口誓子も水原秋桜子も男性で、写真を見たらジジイだったので驚いたことがある。本名「清」なので虚子とした(「虚子」というのは「うわべを飾る人、遊人」の意味)。俳人の鷹羽狩行も本名「高橋幸夫」という平凡なものを「たかは+しゅきぉ」と変えた「弁慶読み」した例(異分析という)。弟子の山口誓子は本名が「新比古」(ちかひこ)で「ちかいこ」として「誓子」にした。ところが虚子が「ちかいこ」と呼ばず、「せいし」君と呼ぶのでそのままにした。
高見 順(たかみ・じゅん)
本名・高間芳雄。県知事の私生児として苦難の時代を送り、一度もまみえることはなかった。「間」を「見」に変えたのと親友の半田祐一(作家の新田潤)と二人とも「じゅん」にしようと決めて自分は「順」を採った。高見順、新田潤、南川潤は「昭和の三ジュン」と呼ばれたと久世光彦『家の匂い 町の音』「詩人のいた店」に書いてある。女優の高見恭子は娘。
高村 薫(たかむら・かおる)
時々男性と間違えられるが、本名・林みどり。確かにこの名前ではサスペンス作家として大成しなかっただろう。大阪市生まれ。国際基督教大学卒業後、大阪の外資系貿易会社勤務。『黄金を抱いて翔べ』で日本推理サスペンス大賞を受賞後、執筆に専念。短編を発表しつづける一方、『神の火』、『わが手に拳銃を』を経て『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞。『マークスの山』で直木賞。『照柿(てるがき)』、短編集『地を這う虫』、『ヨゼフ断章』と『モグラ』などから『レディ・ジョーカー』で大ブレーク。
高村薫は例えば『神の火』の文庫化で大幅な加筆をしているし、『わが手に拳銃を』という作品は『李歐』と改題されほとんど別の作品になっている。ミステリーだ!
高村 光太郎(たかむら・こうたろう)
本名・光太郎(みつたろう)だが彫刻家・光雲(こううん)の息子だからか「こうたろう」とした。初期に「篁(たかむら)砕雨」。なお、光雲は弟子入りした高村東雲の家に「徴兵養子」で入ったという話が丸谷才一『絵具屋の女房』の「養子の研究」に出てくる。長男だったら徴兵されなかったからである。なお、この本には明治天皇も大正天皇も養子だったという話が出てくる。
妻・高村智恵子の命日は梶井基次郎はの「檸檬(れもん)忌」ではなく、「レモン忌」で、もちろん、死の際をうたった光太郎の絶唱「レモン哀歌」から来ている。「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で…写真の前に插(さ)した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれる。
高安 月郊(げっこう)
戯曲家。本名・三郎。
高山 樗牛(ちょぎゅう)
本名・林次郎。旧姓・斎藤。仙台の第二高校(現東北大学)の時、ゲーテ作『淮亭郎の悲哀』を訳した頃からペンネームを「樗牛」とした。荘子からとったものである。「樗」は中国原産の「ニワウルシ」だが、「役に立たない」という人に対して「大きくなって陰を作って役に立つ」と「無用の用」を説いたものだ。東大在学中に読売新聞懸賞小説に匿名で入選したため話題となった。
本名不明。「高山羽根子」は「ヨコジュン」横田順彌のSF作品「羽根子夫人」に出てくる名前で日本初の女性首相となってしまう。この作品が出版される前に作家は同じ名前をつけていたという偶然がある。2020年に「首里の馬」で芥川賞受賞。1975年母親の実家のある富山市で生まれ、神奈川県で育った。多摩美を卒業して、10年に「うどん キツネつきの」で第1回創元SF短編賞佳作受賞。16年に「太陽の側の師ま」で第2回林芙美子文学賞を受けた。富山生れは堀田善衛以来。
滝井 孝作(たきい・こうさく)
本名だが、俳号は「折柴」(せっさい)。
多岐川 恭(きょう)
本名・松尾舜吉。福岡県生まれ。東京帝国大学経済学部卒。
高城(たき) 修三
本名・若狭雅信。京大言語学科卒。出版社勤務、私塾経営など。「榧(かや)の木祭り」で芥川賞受賞・新潮新人賞。『短剣』『約束の地』など。
滝口 康彦(たきぐち・やすひこ)
本名・原口康彦(はらぐち・やすひこ)。長崎県佐世保市出身。33年に多久市に移り、運送会社や炭鉱などで働きながら文筆活動を始めた。57年にデビュー作「高柳父子」でオール読物新人賞次席。「かげろう日記」「霧の底から」などで封建社会に生きる武士の姿を独自の切り口で描き続け、直木賞候補に6回挙がった。代表作は『異聞浪人記』(映画題名『切腹』)『綾尾内記覚書』など。『拝領妻始末』は歌舞伎や映画(『上意討ち 拝領妻始末』)でも取り上げられた。
滝宮ルリ(たきみや・るり)
翻訳家。本名・黒子郁子(くろご・いくこ)。宇都宮大学大学院(応用化学)卒業。バベル翻訳大学院(USA)に入学。古典新訳ワークショップ「あしながおじさん」「小公女」「シャーロック・ホームズ最後の挨拶」にも参加。ネット上で次のように語っていた。
そしてペンネーム「滝宮ルリ」で『英国流 ビスケット図鑑』の翻訳により翻訳家としてデビューしました。「滝宮ルリ」は古典新訳の時から使っていたペンネームです。
初の新刊の仕事「英国流ビスケット図鑑」でようやくデビューを実感しました。
ペンネーム由来ですが、 「華厳の滝+東照宮+県鳥のオオルリ」で、出身・在住の栃木をPRしています。田口 ランディ(Taguchi Randy)
本名・田口けい子。東京都生まれ。茨城県で高校を卒業後、広告代理店、編集プロダクション等に勤務。フリーライターになり、幅広い分野で執筆活動を展開。インターネット上での執筆も多く、「メルマガの女王」の異名を持つ。小さい頃の名前は馬場で、「ミニ馬場」と呼ばれるのがいやだったという。どうにか結婚して名前を「田口」にしたが田舎くさい名前だと思っていたという。
「なんでそんな変な名前なんですか?」
ううむ、説明すると長くなるから簡単に言うとね、これはパソコン通信でアタシが使っていたハンドルネームというものなのね。ハンドルネームというのは、パソコン通信をする際に自分で勝手につけていい名前なの。アタシはそれを自分のペンネームにしちゃったわけ。……と解説する。実際にその通りである。ランディは私のハンドルネームだった。
……
通信を始めて、自分を「ランディ」と名乗ったのは全くの偶然、深い考えもなく選んだ。なんとなくだ。ある日「RANDY」という語句を英和辞典で調べて見たら「いやらしい、誘惑的な、乱暴な」というような意味があることを知った。その時、その意味を読んで「そっかあ」と納得したことを覚えている。ランディっていうのはダーティな名前なんだ、って思った。
ランディという名前を使い出してから、確かに私の態度は傲慢になった。私はてんびん座のA型で、けっこう他人のことを気にするタイプだったのだけれど、その性格に微妙な変化が現われ出したのだ。そして少しずつ、私のなかに「いやらしくて、誘惑的で、乱暴な」ランディという第二人格が形成されていった。それは当初はパソコン通信という限られた世界でのみ通用する人格だった。
が、いつの頃からだろう、だんだんとネットワークにおける人脈が「田口けい子」という現実社会における人脈を凌駕し始めたのである。仕事がらと言うこともあるけれど、ネット上のネットワークの方がなにかと便利で融通がきき、しかも大きくなっていった。そして、ネット上で知り合った人にとって、私は「田口ランディ」なのである。
私としては田口けい子よりも、田口ランディの方がはるかに言いたいことが言え、やりたいことがやれる。田口ランディは私にとってまさにぴったりの名前であり、田口ランディでいる限り向かうところ敵なし、という気分になる。それで、本を出版するときに、編集者から「ペンネームはどうしますか?」と聞かれ、私は迷わず「田口ランディ」と答えたのだった。--『ドリーミングの時代を読む 【第5回】選びし名前』鷲田清一との対談集『気持ちのいい話?』(思潮社)で次のように語っている。
…ペンネームがランディだから外人だと思う人がけっこういるみたいです。名前と実態に差があるところが自分では気に入っている。私はちぐはぐなものがけっこう好きだから。
よしもとばななの『日々の考え』(リトル・モア)の中に次のように書いてあった。
…田口ランディさんのエッセイを読んでいたら「初恋の人が田口さんだったので、神様に『いつか結婚して田口という名字になりたい!』とすごくお祈りしたら、すごく時間がたってからその初恋の田口さんと関係ない田口さんと結婚してしまい、実現してしまった」というようなことが書いてありました。おそるべし、神、その正確さっつーか、なんつーか。
竹内 一郎(たけうち・いちろう)
久留米市生まれ。横浜国大卒。博士(比較社会文化、九大)。九州大谷短大助教授などを経て著述業。『戯曲 星に願いを』で、文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作。「さいふうめい」という筆名で『哲也雀聖と呼ばれた男』で講談社漫画賞を受賞。『人は見た目が9割』がベストセラーに。
武上 純希(たけがみ・じゅんき)
本名・山崎昌三(やまさき・しょうぞう)。脚本家。
武田 泰淳(たけだ・たいじゅん)
幼名・覚(さとる)。父は仏教学者の大島泰信だが、武田姓にしたのは父の師僧の武田芳淳との誕生前からの約束だった。つまり、“泰”信と芳“淳”の合作ペンネームなのである。河西政明『武田泰淳伝』(講談社)には「新仏教」運動の中心人物・渡辺海旭が泰淳の伯父であり、泰淳に少なからぬ影響を与えたと記されている。この「新仏教」運動に影響を受けた藤無染という若い僧侶が少年・折口信夫に釈迢空なる法名を授けた可能性があると富岡多恵子は『釋迢空ノート』で指摘したが、「新仏教」はまた鈴木大拙らが活躍した場所でもあった。泰淳は「新仏教」のうねりのなかに生まれ、しかもそのうねりから逃れたのだった。
妻は武田百合子で祖父、鈴木弁蔵が殺害された事件、鈴弁事件の詳細な記述が『ひかりごけ』成立への伏線となっていると川西政明は指摘している。神田神保町の文壇バー「ランボオ」に勤め、ここで泰淳と知り合う。白土三平『サスケ』の「鬼姫」そっくりだったという。娘の花の誕生とともに結婚。花は写真家。
竹田 青嗣(せいじ)
文芸評論家、思想家、哲学者。戸籍名、姜正秀(“カン・ジョンス”中田正秀、のち修次)。ペンネームは太宰の「竹青」から採った。
武智 鉄二(たけち・てつじ)
本名・川口鐵二。1912年、大阪生まれ。京大経済学部卒業。39年に雑誌『劇評』を創刊。44年には「断絃会」を組織し、一流の古典芸術家を後援した。戦後、49年からは歌舞伎の再検討を目指した、いわゆる「武智歌舞伎」の公演活動によって、当時の関西歌舞伎の若手俳優の育成につとめた。以後も歌舞伎をはじめ能、狂言、文楽、舞踊、オペラ等様々な分野の演出活動にあたる。60年代になってからは映画界にも進出。谷崎潤一郎の『白日夢』をはじめ、わいせつ論議で裁判沙汰にもなった『黒い雪』など問題作を発表した。『かりの翅』『伝統と断絶』『定本武智歌舞伎全6巻』など。
竹信 悦夫(たけのぶ・えつお)
高橋源一郎とは灘中、灘高で、内田樹とは東京大学で同級生。高橋を文学の世界へと誘い、内田にはフランスのユダヤ人哲学者レヴィナスを研究するきっかけを与えたこと。高橋、内田両名に「彼こそ天才」と言わしめるたいへんな才能と頭脳の持ち主だった。大学卒業後は朝日新聞の記者となり、社会部や外報部で活躍。しかし2004年9月、休暇で家族と滞在していたマレーシアのランカウィ島で遊泳中、溺死。『ワンコイン悦楽堂』の奥さんによる後書きによれば、ペンネームでダイアナ妃の死に関する本を出しているという。
嶽本(たけもと) 野ばら
本名・嶽本稔明、京都府出身。大阪芸術大を中退後、雑貨店の店長などを経験。大阪のフリーペーパーで連載したエッセーをまとめ、98年に『それいぬ』を刊行。少女趣味のファッションや言説で「乙女のカリスマ」と呼ばれる。00年に『ミシン』で作家デビュー。代表作に三島由紀夫賞候補になった『エミリー』『ロリヰタ。』などがある。『下妻物語』は映画化された。07年に大麻所持で逮捕されたが、本名をこんな形で知りたくなかったというファンが多い。
竹山 洋(たけやま・よう)
本名・武田淳一 (たけだ・じゅんいち) 。脚本家。早稲田大学文学部演劇科を卒業し、制作会社、構成作家、雑誌記者などを経て脚本家に。テレビ朝日「特捜最前線」、TBS「俺たちの時代」「日曜劇場」、フジテレビ「男と女のミステリー」…と、さまざまなジャンルのドラマを経験し、2001年公開された映画「ホタル」(高倉健主演)の脚本も。にっかつロマンポルノの映画脚本も多作していた。「看護婦日記 わいせつなカルテ」(80)、「宇野鴻一郎の修道院付属女子寮」(81)、「婦人科病棟 やさしくもんで」(81)などを経てNHK大河「利家とまつ」でブレイク。
竹久 夢二(たけひさ・ゆめじ)
本名・茂次郎(しげじろう)。「モーさん」と呼ばれるのは嫌ったであろうことは明らかだ。私淑していた画家の藤島「武二」を「ムニ」と読み、「夢二」にした。「イメージ」「有名人」「幽冥路」と洒落たという話も。荒畑寒村の紹介で『直言』に風刺的なコマ絵を描き始める。
夢二の場合、その画風は夢二の宿業のやうなものであつた。若い頃の夢二の絵を「さすらいの乙女」とすると、今の夢二の絵は「宿無しの老人」かも知れぬ。これもまた、作家の覚悟すべき運命である。夢二の甘さは夢二を滅ぼしたといえ、また夢二を救つてゐる。私が伊香保で見た【…】その夢二氏は女学生たちと打ちつれて、高原に草花などを摘み、楽しげに遊んでゐた。少女のために画帳を開いたりもしてゐた。それがいかにも夢二氏らしい自然さであつた。三つ子の魂百までの、この若い老人、この幸福で不幸な画家を見て、私は喜ばしいような、うら悲しいやうな――夢二氏の絵にいくばくかの真価があるにせよ、そぞろ芸術の哀れさに強く打たれたものであつた。夢二氏の絵が世に及ぼした力も非常なものであつたが、また画家自ら食ひさいなんだことも、なみなみならずであつたであらう。
---川端康成『末期の眼』竹本 健治
相生市生まれ。東洋大学文学部哲学科中退。1978年、在学中にデビュー作となる「匣の中の失楽」を『幻影城』に連載し始める。
本名・津島修治。『富嶽百景』でお見合いをして生まれた次女里子は後に作家・津島佑子(『水府』)に、太田静子(『斜陽』のモデル)との間に誕生して認知した治子が作家・太田治子になる。津島修治が初めて「太宰治」の筆名を使ったのは東奥日報に寄せた短編「列車」でだった。 当時の竹内俊吉記者が「太宰施門のまねだろう」と聞くと「いや、ボクのは天神様の太宰府の太宰だ」 と答えたという話が有名である。
異説が多く、『苦悩の騎手 太宰治』(河出書房新社)を書いた杉森久英は次の(1)〜(3)が有力と考えている。(1)京大仏文科教授「太宰施門」から。(2)福岡の太宰府天満宮から。(3)弘前高校の同級生「太宰友次郎」から。(4)「ツスマスンズ」と呼ばれるのが嫌だった。(5)『万葉集』の「だざいのごんのそつ」を引用。(6)当時の退廃主義「デカダニズム」から。(7)ドイツ語「ダーザイン」(現存在)から。(8)「ダダイズム」運動から。しかし、自殺は自分の「現存在」を否定するかのようだ。「津島修治」では東北なまりが出る(「つすま・すーず」?)ので、なまりの出ないペンネームにしたという説もあるが、説得力がある(寺山修司も「スーズ」と言っただろうが、本名で通した)。
2003年、太宰が旧制弘前高に在学中に主宰した同人誌に別人の名で掲載された短編が、実は太宰本人の作品であることが専門家の検証で明らかになった。主人公は太宰自身がモデルで別人になりすまして自らを描いたことになる。太宰研究者の相馬正一・岐阜女子大名誉教授が検証した。短編は「彼」と題され、作者は「比賀志英郎」となって『細胞文芸』1928年7月号に、太宰の当時のペンネーム「辻島衆二」名の短編「股をくゞる」と並んで掲載された。同人誌の資金繰りや評価に苦悩する「彼」の姿をシニカルに描く。「彼はのつぽだつた。……だが読者よ。彼はまだ、P市の高等学校の生徒なんだ。彼は生気溌剌(はつらつ)たる青年文士を以(もっ)て哀れにも自ら任じて居るのである」(原文は旧字)といった文体が太宰にそっくりで、相馬正一が早くから検証を進めていた。その結果、(1)家族に関する事柄など太宰本人でないとわからない記述がある(2)「かう」を「こう」と書くなど仮名遣いの誤用や、「じっと」と「ぢっと」の混用、擬態音の多用など太宰独特の癖が同時期の作品と共通する(3)初期の代表作「晩年」中の短編に「彼」と同工異曲のエピソードが登場する、ことが判明。さらに「比賀志英郎」が友人の故・東清英を指すことを特定し、遺族から、東清英は小説などを書くタイプではなかったという証言を得た。「辻島衆二」の後、「小菅銀吉」や本名でも書く。
生誕百周年の2009年に青森中学在学中の16歳の時に書いたとみられる原稿が同窓で同人誌仲間だった画家の故・阿部合成(ごうせい)の長男で陶芸家の和唐(わとう)の都内の自宅で発見された。読売新聞によれば、原稿は全部で4作品で「(大正)十四年七月三日」の日付、「辻魔羞兒」の筆名で「勇士は立ちぬ スックとばかり」と書き出される「試合と不平」と題された詩(3枚)、「辻魔首氏」の筆名で、芥川龍之介「侏儒の言葉」をまねたコント「侏儒になぞらひ」(1枚)、戯曲「虚勢」(21枚)、これら3作を解説した「(同)十四年十月五日」の日付のあるエッセー(3枚)が和唐の母親のタンスに納められていた。
太宰は芥川賞が欲しかった。選考委員だった川端康成に「何卒(なにとぞ) 私に与へて下さい」と懇願した手紙はよく知られる。同じ選考委員だった佐藤春夫にも「佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれたる作品を書きました。これからもっともっとすぐれたる小説を書くことができます……芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう」と書いた。『太宰治の手紙-返事は必ず必ず要りません』(河出文庫)では「僕、芥川賞らしい」とウキウキ知人に送るが、落選。「死にたい、死にたい心を叱り叱り、一日一日を生きて居ります」と書いた。第1回の芥川賞候補になりながら、ついにこの賞には縁がなかった。
田沢 稲舟
本名・錦(きん)で通称・錦子(きんこ)。古今集「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」から採った。作家。
多田 尋子(ただ・ひろこ)
本名・石亀博子。長崎県生まれ。日本女子大学文学部国文科卒業。「朝日カルチャー・センター」で小説教室に通い、教室の文集に作品を発表する。88年に『白い部屋』が芥川賞候補に上がったのち、つづけて発表した『単身者たち』『裔の子』『白蛇の家』三作も同賞最終候補に上がった。作品は他に『臆病な成就』など。
多田 道草(ただ・みちくさ)
仏文学者で評論家の多田道太郎の俳号。俳諧を第二芸術とした桑原武夫の弟子だから当然かもしれないが、『多田道太郎句集』がある。「裏切りの隙より見えた猫の恋」「大寒の底を走るや消防車」」「袂より椿とりだす闇屋かな」など。
立花 隆(たちばな・たかし)
ジャーナリスト。評論家でペンネームを持つ人が多いのは分かっていたが、まさか立花隆もそうだとは思わなかった。『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』の中で、68年10月、文春がサラリーマンものの特集の臨時増刊号を出した時に出した「素手でのし上がった男たち」というルポがちょっと長いものだった。
無署名じゃ据わりが悪いというので本名で書きました。そしたら、凸版印刷の出張校正室で、「本名じゃなくてなんかペンネームつけろや。こんなところでどうだ」とデスクがいって、本名の橘隆志を赤ペンでパパッと消して同音異字の立花隆にしてしまったのです。いい加減な命名ですが、それ以来、三十七年使うことになりました。
本名・橘隆志。長崎市生まれ。6歳の時、父の郷里茨水戸市に移る。東京大学文学部仏文科卒。文芸春秋に入社。 2年で退職し、東京大学文学部哲学科に再入学。 途中から文筆活動に勤しむようになる。ゴーストライターとして「香月泰男」名で『私のシベリヤ』をダシ、もう一つのペンネームの「菊入龍之介」名で『日本経済・自壊の構造』を出す。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は遠縁に当たる。作家・大下英治と共に、“日本の知の両巨頭”と評される。68年、『文芸春秋』臨時増刊号に「素手でのし上がった男たち」を発表した時から「立花隆」を使い始める。
近年では科学関連の書籍の内容の不正確さや、知識の浅さを指摘するいわゆる「立花隆バッシング」も起こり、それ以降は文筆活動での露出を極端に縮小している。
立原 正秋(たちはら・まさあき)
立原道造と間違う人が時々いる。旧朝鮮慶尚北道生まれ。父・金敬文、母・権音伝の長男として生まれる。名は金胤奎(キムユンギュ)。5歳の時に「梵海禅文」と名付けられて雲水たちとくらす。その後、野村震太郎、金井正秋と名乗り、米本光代と結婚して日本国籍を得て本名・米本正秋、通り名はペンネームの「立原正秋」で、亡くなる2ヶ月前に「立原正秋」への改名が認められこれが本名となった。早稲田大学国文科中退。長女に随筆・小説家の立原幹(たちはら・みき)。
ほとんどの郵便はペンネームで来るが、まれに本名で届くものがあるという。本名をしげしげと眺め、「これは一体誰なのか」と妙な気分になるそうだ。
立原 道造(たちはら・みちぞう)
立原正秋や中原中也と間違う人が時々いる(第1回中原中也賞を取っている)。本名同じ。水戸藩の学者・立原翠軒の子孫になる。芥川や堀辰雄と同じように府中三中、一高、東京帝国大学と進んだ。府立三中で『学友会誌』に短歌を発表し、「山木祥彦」の筆名で幾つかの詩歌ノートもまとめた。帝大では建築科に学び(道造り?)、1級下に丹下健三がいた。週末を過すためにさいたま市南区内の沼のほとりに場所を見つけ、「風信子(ヒヤシンス)荘」と名づけ、設計図を残したが24歳で亡くなるが、2004年に有志が「ヒヤシンスハウス」を建てた。3月29日は「風信子(ヒヤシンス)忌」である。
巽 孝之(たつみ・たかゆき)
本名同じ。 1955年東京生まれ。学習院中等科入学とともに、当時2年先輩だった難波弘之の手引きで、SFファン・グループ<全日本青少年SFターミナル>に入会する。上智大学大学院博士後期課程修了。米国コーネル大学大学院へフルブライト奨学生として留学。慶応大学文学部教授。ポストモダニズムの文学理論を武器に現代SF論を積極的に展開する。SFは現代社会を映し出す〈現在小説〉であるというのが持論で、小松左京、山野浩一と続く正統的論者である。
妻は世界SF大会から文通友だちになっていた小谷真理(こたに・まり)で1958年富山県生れ。北里大学薬学部薬学科卒業(富山県民らしい!)。『ファンタジーの冒険』『女性状無意識――女性SF論序説』などフェミニズム、ジェンダー論に道を拓く。共訳書にダナ・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』、佐藤亜紀らとの共著として『ハンサムウーマン』など。山形浩生が「そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で」と断定したことに対して裁判になった。小谷は「女性には創造的なことができない」という偏見に基づいた「テクスチュアル・ハラスメント(文章による性的いやがらせ)」に当たるとして、アメリカのSF作家ジョアナ・ラスがそうした事例を考証した『女性の書き物を抑圧する方法』を翻訳、自らの論文を加えて『テクスチュアル・ハラスメント』という本にまとめた。 裁判官は「フェミニズム評論の分野においては、執筆者が女性であること自体に意味がある場合もある……男性であると喧伝されることは、耐え難い苦痛である」と認定、山形側に330万円の支払いと、インターネット上のホームページへの異例の謝罪文掲載を命じた。女優の高峰秀子が『私の渡世日記』(最高に面白い)を出した時も夫で脚本家で監督の松山善三が書いたのではないかと疑われたのを思い出す。
伊達 一行(だて・いっこう)
本名・矢田部実。秋田県生まれ。青山学院大学文学部神学科卒業。82年の『沙耶のいる透視図』ですばる文学賞受賞。94年の「光の形象」で芥川賞候補。作品はほかに『スクラップ・ストーリー』『1.9m2 の孤独』『バビロン記1980』『夜をめぐる13の短い物語』など。
立松 和平(たてまつ・わへい)
本名・横松和夫。縦と横とひっくり返したペンネーム。お父さんが「仁平」なのでこれに合わせて「和平」にしたという平和な命名。三遊亭円丈に「横松和平」という新作落語があって、レポーターになった主人公が開店寿司をレポートするのだが、回転寿司の特徴を哀切たっぷりに語る。
田中 慎弥(たなか・しんや)
本名同じ。下関市生まれ。下関中央工業高校卒業。幼い頃に父を亡くし、母親と二人暮らしで育つ。高校卒業以来アルバイトも含め一切の職業を経験せずに過ごした。20歳の頃より小説を書き始め、執筆に10年をかけた「冷たい水の羊」で2005年に新潮新人賞を受賞しデビュー。「共喰い」で12年に候補5度目で芥川賞。「もらっといてやる」と語ったが、石原慎太郎はこの時に芥川賞選考委員を辞任。
田中 英光(たなか・ひでみつ)
小説家。東京生まれ。岩崎家から母の実家田中家に入籍する。早稲田大学政経学部卒業。在学中の1932年ボート選手としてオリンピックに出場。その後左翼運動に加わったが転向。小説『空吹く風』(1935)が太宰治に認められて師事。40年『オリンポスの果実』(原題は『杏(あんず)の実』であったが、太宰治の言によって改められた)で池谷賞を受賞。以後『われは海の子』(1941)、『我が西遊記』(1944)などを発表する。アドルム(睡眠薬)中毒でデカダンな生活に陥り、『離魂』『野狐』『さようなら』(いずれも1949)など苦悩に満ちた小説を残しながら、太宰の墓前で服毒自殺した。
田中 冬二(たなか・ふゆじ)
本名・吉之助。詩人。
田中 芳樹(たなか・よしき)
本名・田中美樹(たなか・よしき)。1952年熊本県本渡市生まれ。学習院大学文学部国文学科入学、同大学院博士課程修了。72年「寒泉亭の殺人」が学習院大学輔仁会雑誌198号の第4回輔仁会雑誌賞に入選する。77年に「李家豊(りのいえゆたか)」のペンネームで書いた「緑の草原に……」が第3回幻影城新人賞受賞、作家としてデビューする。ペンネームは、李白が好きだったことと、日本人の名前にラ行が少ないからという理由で決められたもの。80年に『SFアドベンチャー』で作家活動を再開、81年に作家として初の長編作品となる「白夜の弔鐘」を執筆。新人としては破格の2万部の初版を発行するが、「こんなに売れなかったのは徳間ノベルズ始まって以来」とまで言われる。また、この頃よりペンネームを「李家豊」から「田中芳樹」へ改める。ペンネームを変更した理由は、よく中国人に間違われることと、説明するのに疲れてきたことから。『銀河英雄伝説』を発表。88年『銀河英雄伝説』で星雲賞を受賞。
田辺 聖子(たなべ・せいこ)
本名同じ。後にエンタメ系で活躍する作家は1964年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)』で芥川賞。“カモカのおっちゃん”こと川野純夫とは36年間いっしょに暮らした。「子供をかんで食べてしまう妖怪」を意味する。
谷 克二
本名・谷正勝(タニ・マサカツ)。宮崎県延岡市生まれ。早稲田大学商学部卒。旧西ドイツでフォルクスワーゲン本社入社。ロンドン大学では経済史を学び、帰国後、テレビ宮崎役員。「追うもの」が野性時代新人賞受賞し作家へ。
谷 恒生(たに・こうせい)
作家。本名「つねお」で有職読み。1945年9月18日東京生まれ。鳥羽商船高校【現・鳥羽商船高専】卒。一等航海士として世界の海をめぐり、77年『喜望峰』でデビュー。『ホーン岬』など海洋冒険小説で注目され、『那須与一』『安倍晴明』などの伝奇、時代小説でも活躍した。
谷崎 潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)
本名同じ。一中、一高、東大の超秀才。若い頃は英語がよく出来た。オスカー・ワイルドの『ウィンダミア夫人の扇』を若い頃に翻訳している。
谷川 雁
本名・巌(いわお)。ガンのもじり。
種田 山頭火(たねだ・さんとうか)
本名・正一(しょういち)。「種田」が普通なのに「山頭火」もないだろう。「そのまんま東」「ガダルカナル・タカ」「玉袋筋太郎」が普通に見えてくる。「たまたま見出したその文字の音と義とが気に入った」という話だが、確かに種田正一だとピッチャーみたい(金田正一だって)だから、インパクトのある俳号にしたのだろう。
田畑 麦彦(たばた・むぎひこ)
本名・篠原省三(しのはら・しょうぞう)。作家。小説『嬰へ短調』で1962年、第1回文芸賞(中編部門)を受賞。佐藤愛子の直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』のモデルになった。
田村 俊子(たむら・としこ)
旧姓・佐藤。幸田露伴門下に入り、「露英」という別号を与えられて『露分衣(つゆわけごろも)』を書く。田村松魚(しようぎよ)と結婚して田村となるが、後に離婚。1908年愛人のジャーナリスト鈴木悦を追ってカナダに渡り、悦とともに日本人労働者を啓蒙する民衆社を経営、18年間を経て36年帰国。窪川鶴次郎と恋愛に陥り、苦境脱出を図って単身中国に渡る。上海で雑誌『女声』の発行に従事していたが、1945年死去。すぐれた女流作家に与えられる田村俊子賞で名前を残す。
タモリ
師匠を持たない独立系エンターテイナーでタモリ名の本も多い。本名・森田一義。モリタがタモリになるのはジャズが大好きだったからで、ジャズ界ではジャズをズージャ、ピアノをヤノピー、マネージャーをジャーマネと逆さまにして呼ぶ習慣があるため。詳しくは「タモリの新言語学」。
田山 花袋(たやま・かたい)
本名・録弥(ろくや)。「固い蒲団」からだと思っていたが、柳亭種彦の「用捨箱」の中の「はなぶくろ」の字を採り、花瓶の意味をあてたという。
多和田 葉子(たわだ・ようこ)
本名同じ。『ゴッドハルト鉄道』『聖女伝説』『飛魂』など。
俵 万智(たわら・まち)
銀座線の田原町近くで生まれたからでも、“万”葉集以来の和歌の“智”慧を持つように願って付けられたペンネームでもなくて本名同じ。福井の三国芦原線にも田原町という駅がある。自筆年譜には「1978(S53)年 福井県立藤島高校入学。卒業生に詩人の荒川洋治さんがいる。高校の最寄り駅が「田原町(たわらまち)」だったので、誰からも名前を覚えられた」と書かれている。地元の人はペンネームだと思っている人もあるようだし「親が付けたペンネームのようなもの」と紹介している本もあるが、生まれは大阪で偶然の一致。母の「智子」から一字採ったが、姓名判断に凝っていた父方の祖母篤子の命名。総画25で山口純一郎『赤ちゃん開運名づけ辞典』(主婦の友社)によれば「資性鋭敏、特殊な才能と反抗性」の「吉」である。2003年11月3日の文化の日に男児を生んだが子どもの名前は公表せず、父親も明らかにしていない。
団 鬼六(だん・おにろく)
本名・黒岩幸彦。39年滋賀県生まれ。関西学院大学法学部卒業。デビュー作「親子丼」は黒岩松次郎の名前で出した。61年自棄気味で悪魔小説を書く気になり、『奇譚クラブ』に花巻京太郎のペンネームで『花と蛇』を投稿。だが連載3回で、後を続ける気をなくす。63年に現在のペンネームに変えて『花と蛇』を再開。SM路線の42作品は日活ロマンポルノのドル箱であった。
檀 一雄(だん・かずお)
本名同じ。「無頼派」小説家。山梨県生まれ。東京帝国大学経済学部卒業。1933年『此家の性格』を発表、尾崎一雄らに認められる。また佐藤春夫に師事。35年『日本浪曼派』に発表した『夕張胡亭塾景観』が芥川賞候補となる。37年青春小説『花筐』、39年詩集『虚空象嵌』を刊行。妻の死を描いた清冽な秀作『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(1948〜50)である。『長恨歌』(1950)、『真説・石川五右衛門』(1950〜51。直木賞)。『夕日と拳銃』(1955〜56)、『火宅の人』(1955〜75)などがある。沢木耕太郎『檀』や愛人だった女優・入江杏子『檀一雄の光と影』がある。長男・太郎はエッセイスト、長女・ふみは女優でエッセイストで『父の縁側、私の書斎』など。年齢表記廃絶の会会長を自認している。阿川弘之の娘・阿川佐和子との共著エッセーから旅行荷物をまとめるのを苦手な人を「檀ふみ」ということがある。
ち 近松 秋江
本名・徳田浩司。「徳田秋江」としていたが徳田秋声(本名・徳田末雄)と紛らわしいので、好きだった浄瑠璃の近松門左衛門から「近松」をもらった。
千野 帽子(ちの・ぼうし)
この奇抜なネーミングにはシャッポを脱ぐしかない。本名・岩松正洋。文筆家。元クラブDJ。パリ第4大学ソルボンヌ校博士課程修了。「探偵小説研究会」会員。
千葉 治平
本姓・堀川。
長 新太(ちょう・しんた)
本名・鈴木【秋/手】治(しゅうじ)。イラストレーター。石津ちひろとコンビで『まさかさかさま 動物回文集』『ききちがい<今様懸け詞>』『てんしのだじゃれ―並べ変え遊び』などがある。ペンネームの由来については朝日新聞2002年10月22日に「断りなく名前をつけられて」というエッセーを書いている。22歳の時にマンガコンクールで一等賞になると連載できることになり、一等になったのだが、連載マンガ第1回には「長新太」という訳の分からない名前になっていたという。新聞社に文句をいいに突入したのだが、「貴君の独創性に敬意をはらった結果でありますよ」といわれる。いきさつは「一等賞のマンガのテーマがロングスカートだったので長。新人なので新。太くたくましく生きなさい。えらい人は独創性に敬意をなどと言ったけれど、何のことはない語呂あわせみたいなものではないかと、わたしは立腹した」と書いている。
東京都生まれ。高校卒業後、漫画をかき始め、戦後間もなく新聞の漫画コンクールに入選して漫画家に。その後、絵本、エッセーなどに活躍の場を広げた。特に絵本の分野では、大胆な絵と意表をついたストーリー展開で、数々の秀作を生んだ。「ごろごろ にゃーん」「キャベツくん」シリーズ、「なんじゃもんじゃ博士」などで多くのファンを持つ。
陳 舜臣(ちん・しゅんしん)
作家であり、実業家。本名。『美女という災難』にある「サンシャイン」というエッセイで次のように書いている。
私の父は日本が台湾を領有した初期に、日本語教育をうけ、その後に本で貿易業を営んだ。だから日本語にほとんど不自由はしなかった。子供の入学手続などは、もちろん父がみずからしたのである。新入生の名にふりがなをつけよという指示に、父は迷うことなく「チンスンシン」と書き入れた。台湾語では舜はスンであり、日本語でもおなじだと父は思ったのだ。ついでながら韓国語でもスンである。
なお、外国人にも読みにくく、「サンシャイン」としたら、喜んでもらえたというエッセイである。
つ つか こうへい
本名・金峰雄(キム・ボンウン)、日本名「金原峰雄」。在日韓国人の身分が「いつか公平」になるようにとの思いを込めてつけたとも言われる。「もうこうへい」となるのはいつか?ただし、本人は『飛龍伝〜神林美智子の生涯』のあとがきの中で、学生運動家の名前がペンネームの由来とも明かしているが、実際のところは定かではない。福岡県生まれ。慶応義塾大学文学部仏哲学科中退。長女は宝塚歌劇団雪組の愛原実花。つかは『娘に語る祖国』(光文社)という本で生い立ちについて語っている。
亡くなったつかこうへいさんが在日韓国人だったのはよく知られていた。本名は金峰雄(キム・ボンウン)さんという。平仮名のペンネームを使っていることに、同じ在日の人からよく「祖国の名誉にかけて本名を名乗るべきだ」と手紙をもらったそうだ▼平仮名は、漢字の読めない母親のためだった。つかさんが小学生のころ、母親が「小学校に通って字を習いたい」と言いだした。「恥ずかしいから来ないでくれ」と反対した。その償いを一生かけてしなくてはならないと、20年前の『娘に語る祖国』(光文社)で打ち明けている▼「いつか公平」の願いを込めたというその名は、わが学生時代、まばゆい光を放っていた。【…】
-----朝日新聞「天声人語」2010年7月14日朴一の『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社)にはこんなことが書いてあった。
…彼のペンネームにはやはり「いつか公平な社会に」というメッセージが込められているという気がしてならないのである(注)。
(注)つか自身は、インタビューの中で、つかのペンネームは「いつか公平」から来ているという説を、朝日新聞の記者の創作であるとし、「いつか公平」由来説を否定している(『アプロ二一』一九九七年一月号)
鴻上尚司『名セリフ!』(文藝春秋)が在日という観点から『熱海殺人事件』をとりあげていて、見事な分析をしている。活字の戯曲と舞台ではセリフが違うという(完全な脚本がなく、 おおよその筋だけ立てておき、俳優どうしが口頭の打ち合わせで芝居をまとめていく「口立て」という手法を取っていたから当然なのだ)。そして、容疑者の大山金太郎は「金ちゃん」と呼ばれている。つまり、つかこうへいの分身と考えられるというのだ。
司 凍季(つかさ・とき)
1958年大分県佐伯市生れ。島田荘司の推薦により1991年『からくり人形は五度笑う』で世に出た女流作家。本名不詳。
筑紫 磐井(つくし・ばんせい)
本名・國谷実。旧科学技術庁に入り、文部科学省科学技術政策研究所長を務める。『標語誕生!』で実は官僚という「もう一つの顔」を初めて明かした。「俳句と役所の仕事は完全に分けてきたのですが、もう退官が目の前に近づいたので」という。
辻井 喬(つじい・たかし)
詩人で作家。東京大学経済学部卒業後、衆議院議長だった父・堤康次郎の秘書を務める。本名「堤清二」でセゾングループを率いた。山口瞳が『新東京百景』(新潮文庫)で書いているが、東京・銀座の高級ホテルに泊まった時、チェックインの手続きで係の女性から、8種類ある枕のどれを希望するか聞かれた。そばがら、あずき、羽毛、模造真珠…。客の満足を限界まで追求する理想主義に感じ入りつつ、「経営者は夢のある、宮沢賢治みたいな人だろう」「でも収支が合うかな」と思ったという。「宮沢賢治みたいな」経営者が堤清二だった。
『父の肖像』は小説のスタイルをとり、父親の名前は「楠次郎」となっているが、西武コンツェルンの創始者堤康次郎のことだ。康次郎には5人の女性と7人の子どもがいて、2005年に逮捕された元「世界の大富豪」堤義明は3男だった。
辻 仁成(つじ・ひとなり)
元ロックバンド『エコーズ』のボーカリスト(歌手の時は「じんせい」という)でヒット曲「世界中の誰よりきっと」がある。97年『海峡の光』で芥川賞に選ばれた。文学を目指す上で影響をうけたのは親戚の童話作家・東君平(46歳で急逝)。女優の南果歩とは2000年に離婚。2002年には女優の中山美穂(初婚)と再婚。母が童話作家の東君平夫人と従姉妹。『白仏』の「鉄砲屋 今村豊」(小説では江口稔)は祖父がモデルだという。
作家は自分のペンネームと登場人物の名前だけを考えればいいのだと思っていたら間違いだった。新しい家族の名前も考えなければならないのだ。中山美穂が『AERA』のインタビューで、息子の名前を「意味をもたせてしまうとこの子を縛ることになるから」といって、意味がなくて日本語でもフランス語でも自然な響きの名前にしたと言って、結局、「辻十斗」(つじ・じゅうと)としたという(jouteというと「戦い」の意味があるし、「一斗枡」イットマスという言葉もあるように「一斗」=10×「一升」で「十斗」=「千升」という意味になってしまうのだが)。どの漢字にも「十」が入っている。
辻 真先(つじ・まさき)
アニメ・特撮脚本家、推理冒険作家、漫画原作者、旅行評論家、エッセイスト、デジタルハリウッド大学教授。名古屋市出身。県立旭丘高等学校、名古屋大学文学部卒業。本格ミステリ作家クラブ会長。アナグラムの「牧薩次」(まきさつじ)名義での執筆も『完全恋愛』など増えている。
辻原 登(つじはら・のぼる)
本名・村上博。和歌山県生まれ。『犬かけて』『村の名前』『翔べ麒麟』『遊動亭円木』『花はさくら木』『許されざる者』『東京大学で世界文学を学ぶ』など。
津島 祐子(つしま・ゆうこ)
本名・里子。津島修治(太宰治)、美知子の次女として生まれ、1歳の時に父が自殺。白百合女子大学文学部英文科に在学中から同人誌に参加、1959(昭和34)年に津島祐子の筆名で『文芸』誌に短編を発表。
辻村 深月(つじむら・みづき)
本名?山梨県笛吹市生まれ。千葉大教育学部卒。2004年に『冷たい校舎の時は止まる』でデビュー。『ツナグ』で吉川英治文学新人賞、『鍵のない夢を見る』で直木賞。『かがみの孤城』で本屋大賞。ペンネームに関しては子役だった芦田愛菜の『まなの本棚』(小学館)で次のように語っている。
私は小学6年生の時、綾辻行人さんの『十角館の殺人』を読んでミステリーの世界にひきつけられるようになったんです。芦田さんは私のことを「神様のよう」と言ってくださいましたけど、私にとっての神様は綾辻さんでした。私のペンネームは、綾辻行人さんの「辻」の持と、綾辻さんの『霧越邸殺人事件』の登場人物から深月という名前をそのままもらっているのです。
土田 杏村(きょうそん)
哲学者、評論家。本名・茂(つとむ)。日本画家・土田麦僊(ばくせん/本名・金二)の弟。
土家 由岐雄(つちや・ゆきお)
本名・土屋由岐雄。時々、牛丼の「吉野家」を「吉野屋」と間違う人がいるが、そんな細かい修正だ!
筒井 敬介(つつい・けいすけ)
作家。本名・小西理夫(こにし・まさお)。児童文学、放送・映画の台本、戯曲など幅広い作品を手掛けた。代表作はテレビドラマ「バス通り裏」の脚本、『筒井敬介童話全集』など。児童文学「かちかち山のすぐそばで」で74年に国際アンデルセン賞優良賞を、83年に『筒井敬介児童劇集』などで巌谷小波文芸賞を受賞した。
筒井 康隆(つつい・やすたか)
本名同じ。「櫟沢美也」〔くぬぎざわみや〕 名義による作品もある(『大いなる助走』では直本賞の世話人として出てくる)。芥川賞も直木賞も取らなかった。だからか、『文学部唯野教授』で唯野仁(ただのじん)、ペンネーム「野田耽二」(のだたんじ)が「芥兀賞」を取ることになっている。
都筑 道夫(つづき・みちお)
本名・松岡巌(まつおか・いわお)。「続き見てよ」というのは俗説か?1956年、早川書房に入社。創刊まもない日本版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長として、海外のミステリーやSFを紹介した。59年に退社後は「やぶにらみの時計」や「なめくじ長屋捕物さわぎ」「七十五羽の烏」など、捕物帳からハードボイルド、ショート・ショート、伝奇小説、SFなど幅広い作品を発表した。理論派としても知られ、本格推理小説論の「黄色い部屋はいかに改装されたか?」などもある。 自伝エッセー「推理作家の出来るまで」は、01年の日本推理作家協会賞を受賞。03年3月には、長年の活躍から日本ミステリー文学大賞を受けた。代表作に捕物帳に本格推理を復活させた「なめくじ長屋」シリーズ、ものぐさ探偵「物部太郎」シリーズなど。
堤 千代
本名・文子。
津原 泰水(つはら・やすみ)
1989年、『星からきたボーイフレンド』(津原やすみ名義)で少女小説作家としてデビュー。ペンネームや作品ジャンルから女性作家と間違えられることも多かった。また3年間、代々木アニメーション学院にて特別講師を務めた。96年、『ささやきは魔法』を最後に少女小説から引退。ペンネームを津原泰水に変更、長編『妖都』をもってホラー作家へ転身。97年、津原やすみ名義の何作品かが北京語版・ハングル版で発売される。その際、著者名は「津原靖美」と表記されている。「百武星男」名義の作品もある。『瑠璃玉の耳輪』は津原と故・尾崎翠との「連名」になっている。弟はイラストレーターの村田修。
坪内 逍遥(つぼうち・しょうよう)
本名「勇三」、後に「雄蔵」。荘子「逍遥遊」英語のRambler(ぶらぶら歩く人)から「逍遥」。号に「逍遥遊人」「春の屋朧(おぼろ)」というのも持っていた。晩年は「柿双」(奇木の宮の別邸に柿の双樹があって双柿舎と名付けた)と名乗る。ちなみに『男はつらいよ』の寅さんの恩師の名前は「坪内散歩」だった。
坪内 稔典(つぼうち・としのり)
「三月の甘納豆のうふふふふ」の作者。俳号は「稔典」で「ねんてん」。腸捻転みたいなのか「捻典」と誤記する人も多い。正岡子規に出会ったきっかけは、高校教師時代にパチンコ屋で大勝した帰り、パチンコの稼ぎが古書店に詰まれていた『子規全集』の値段と同じだったので衝動買いして、子規の研究家になる。小さい頃から腸「ネンテン」呼ばわりされるのが嫌だったが、阪急十三駅の「腸捻転」の看板を見てから「ネンテン」でもいいかと思うようになったという(『図書』岩波書店2011年3月号)。
坪内 祐三(つぼうち・ゆうぞう)
坪内逍遙(本名・雄蔵)とは無関係。祐三の父はダイヤモンド社の社長だった。東京生れ。早稲田大学文学部卒業。アメリカ文学、明治・大正文化史を研究。山口昌男が「学長」の「東京外骨語大学」という交流会の「助教授」。父方の大叔父は織田正信(英文学者)。母方の曽祖父は井上通泰(国文学者・歌人・医師)、曾祖叔父は柳田國男(民俗学者)。隣家の住人は蘆原英了。
坪田 穣治
児童文学者。本名・穣二。
津村 節子
旧姓・北原。夫は吉村昭(本名)。福井市生まれ。学習院短期大学国文科卒業。洋裁店経営など。
津本 陽(よう)
本名・寅吉(とらよし)。和歌山県生まれ。東北大学法学部卒業後、大阪の化学工業会社勤務。以後13年間の会社勤めののち実家に戻り不動産会社を設立。30代半ばになってから小説を書き始め、同人誌に発表した「丘の家」が直木賞候補。78年、鯨漁の村を描く「深重 (じんじゅう)の海」で直木賞受賞。娯楽小説を中心に著作多数。
鶴田 知也
旧姓・高橋。『コシャマイン記』で芥川賞第3回受賞者。
て TETSUYA
作家でミュージシャン。元・ドリアン助川、現・明川哲也。TETSUYA名で朝日新聞の「ティーンズメール」という人生相談に見事な回答を寄せている。
寺内 大吉
本名・成田有恒(ゆうこう)。大吉寺の住職で「大吉寺内 成田有恒様」という手紙の宛名をひっくり返した。東京都生まれ。大正大学宗教学部卒。浄土宗大本山増上寺第87世法主。
寺田 寅彦(てらだ・とらひこ)
本名同じ。1878年11月28日、寅年寅の日であったことから、寅彦と命名される。漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八は寺田寅彦をモデルにしたものと言われている。吉村冬彦(早逝した一人目の奥さんの名前が夏子なので対になるように考えたものとされる)、藪柑子(やぶこうじ)などの筆名で随筆をよくし、牛頓(ニュートン)というひねった俳号でも多くの俳句を残した(理科大の学祭名が「牛頓(ニュートン)」だったためにつけたとされる)。漱石に近づきたいために俳句を始めたようなフシがある。『冬彦集』(1923)を出し、『藪柑子集』(1923)のほか、多くの随筆がある。「天災は忘れた頃にやってくる」と寅彦は書いていないそうで雪博士・中谷宇吉郎が紹介したものだ。
寺山 修司(てらやま・しゅうじ)
さまざまな分野で活躍したが、本業はどれかと聞かれ「職業は、寺山修司です」と答えたという。本名同じ。県立青森高校1年の時の「放課後のピアノ弾き終へ法師蝉」という句を「島原祐子」名で発表しているが、寺山は同じ句を多方面に投句したので、いろいろな名前を使っているのだが、本名で書くようになった。池内紀は『生きかた名人』(集英社)で「修辞」と同じ音だということが気に入っていたのではないかと書いている。
世に出るきっかけは短歌だったが、その際「俳句の焼き直し」との非難を浴びている。関川夏央は『現代短歌 そのこころみ』で「彼は天性の『嘘つき』であった」と書く一方、「その『嘘』はしばしば人を感動させた。彼によって現代短歌はかわった」とも評価している。1977年秋、若者向け雑誌が特集した「世界未発表詩篇」に紹介している「石川啄木『一握の砂』補遺」で「わけもなく人の恋しく思へる日燐寸(マッチ)ともして見てゐたるかな」というのが「石川家の遺品の中より発見し、再録した啄木未発表歌篇です」とまことしやかな解説まで付けて楽しんだ。
寺脇 研(てらわき・けん)
本名同じ。「ゆとり教育」を生んだ元凶で「干されて」文化庁文化部長。1952年福岡市生まれ。小学校4年生のときに、鹿児島市へ移り住む。ラ・サール学園、東京大学法学部を卒業後、75年文部省に入省。職業教育課長時代に中学校での業者テスト追放の仕事に携わった。広島では教育長を務める。06年に文科省を辞職。 高校生時代から『キネマ旬報』などに投稿。映画評論、落語評論なども。『映画に恋して』『21世紀の学校はこうなる』『動き始めた教育改革』などがある。
テリー 伊藤
本名・伊藤輝夫。テリーは「輝夫」に因むのだが、頭を見ると確かにテリーが入る。「『お笑い』の目線で世の中を見ていくとどうなのか」(『Voice』97年5月号)という評論家。出身は築地で、寿司の卵焼き屋の生まれ。早稲田実業から日本大学を卒業した。日大全共闘のアジテーターで味方の投げた石が左目に命中して、失明は免れたものの斜視になった(鹿島茂『解説屋稼業』晶文社)。2007年に番組制作の弟子である日本テレビ土屋敏男氏が手掛けるネット動画サイト「第2日本テレビ」と同局の深夜番組「でじたるのバカ2」への出演をきっかけに治療を決断した。
名前の由来を聞かれて、「若いときは、『伊藤!』と、呼び捨てだったでしょう。でも、大人になると『伊藤さん』というふうに『〜さん』付けで呼ばれるようになりますよね。そうすると、知らない間に、その『〜さん』にふさわしい行動を取るようになってませんか?人は名前を呼び捨てにされなくなると、考えが常識的になり年をとっていくんですよ。だから、私は本名を英語風に逆さま読みして『テリー伊藤』としたんです。こうすると、女子中学生なんかに『テリー、テリー』と呼び捨てにされて新鮮な感覚になりますよ」と名前までも自己演出し、可能性を広げているようだ。
天外 伺朗(てんげ・しろう)
小説『滑翔(かっしょう)』(鳥が羽ばたかずに飛ぶこと)の作者。本名・土井利忠。ペンネームの由来は手塚治虫の漫画『奇子(あやこ)』の登場人物から採った。ソニーの役員としてロボット犬AIBOの開発責任者などを務める。
天童 荒太(てんどう・あらた)
本名・栗田教行(くりた・きょうこう)。愛媛県生まれ。明治大学文学部演劇学科卒業。86年、本名名義で応募した「白の家族」で野性時代新人文学賞。その後映画の脚本なども手がけた。93年、「孤独の歌声」で日本推理サスペンス大賞・優秀賞、「家族狩り」で山本周五郎賞。ベストセラーとなった「永遠の仔」は芥川賞候補。天童荒太の筆名で執筆した映画脚本に『アジアン・ビート』、栗田教行名義の作品に「陽炎」「ジパング」など。「ほぼ日刊イトイ新聞」で次のように述べている。
ミステリーの小説賞の応募のときには、
「本名で新人賞をもらって
一度単行本も出ているから、
候補にのぼって落ちたら、
みっともないだろう」
と思って、仮の名前のつもりで
ペンネームを新たにつけました。「もし受賞したら、本名に戻せばいいんだし」
という程度で
出した名前が「天童荒太」でした。「荒太」という名前は、前に小説の主人公に
「荒太」という名前をつけようと
思ったことがあったからです。
結局、その小説は自分でボツにしたのですが、
アラタつまりは新た、
という意味づけもある名前は気に入っていたので、
下の名前は「荒太」にしよう、と思いました。下が「荒太」だと、
高橋とか鈴木では、合わないんです。
もっと「大きな名字」にしないと釣り合わない。
今はもう亡くなっているけど、
自分の父親は、
字画にうるさい人だったんですよ。当時のぼくには
「あとで父から
字画のことで文句を言われるのもイヤだし」
という気分もあったので、
字画の合う字を探していたら、
逆にもう「天童」という名字ぐらいしか、
なかったんですよね。つけたときは、
「天童荒太って、これは、
あまりにも大きいというか、
ごついというか、
自分の本来の性格とは
かけ離れすぎの名前だろう」
とは思いました。まぁ、
「本名がふつうの名前なので、
ちょっと
派手めの名前にしておいてもいい」
という軽い遊び気分で、
そのまま出したんですけど。受賞後に
「あまりにも派手すぎる名前ですけど、
いいんでしょうか?
本名のほうがいいんじゃないですか?」
と聞いたら、先に挙げた担当の佐藤さんが
「いや、これがいいんです。
これで行きましょう」
と押しきられちゃって……
その名前で新聞発表もしてたし……
それで「天童荒太」で、
本当に新たに出発することになったんです。天藤 真(てんどう・しん)
本名・遠藤晋。東大文学部国文学科卒業後、通信社の記者として満州へ赴任。終戦後日本へ引上げ、農業や大学講師を勤め、47歳で作家デビュー。農業の傍ら「大誘拐」で第32回日本推理作家協会賞を受賞。1983年没。
と 戸井 十月(とい・じゅうがつ)
作家で本名。ロシアの十月革命からつけられた。奥田民生(歌手)は民青(民主青年同盟)からつけられた。二人とも父親が共産党だったからだ。
土井 晩翠(ばんすい)
本名・林吉。「晩翠」は宋の詩人・范質(はんち)の詩「遅遅澗畔松・鬱鬱含晩翠」から採った。1934年9月刊の随筆集『雨の降る日は天気が悪い』の序の終わりの署名にわざわざ「どゐ」とルビを振り、「いろいろの理由でこれからどゐに改音することにした」「之(これ)を言上する」と書いている。「改名」ではなく「改音」宣言は珍しい。NHKでも「ドイ」と呼ぶことになっている。
思い出すのは俳優の緒方拳だ。もともとの芸名は「けん」ではなくて「こぶし」だった。「明伸」が本名だったが、新国劇で「寅蔵」という芸名をつけられそうになって拒否し、どこか悪いところはないかといわれて「手のひら」だと答えたら、「掌」はどうかと言われた。あんまりだというので結局、「拳」となったが、誰も「こぶし」と呼んでくれず、「けん」になった。
作曲家の中田喜直も本名が「よしただ」だったが、「よしなお」に変えた。いちいち訂正するのが嫌になったのだろう。ただ、「なかだ」を「なかた」と呼ばれるのは許さなかったという。
ドウス 昌代(まさよ)
北海道生まれ。早稲田大文学部卒。大学卒業の2年後、単身で渡米。ハーバード大学の美術館で日本美術関係の資料整理を担当して、スタンフォード大のピーター・ドウス教授(日本政治史で『帝国という幻想 「大東亜共栄圏」の思想と現実』など)と結婚して「ドウス」となる。 ノンフィクション作家への道を歩むのは、戦時中、米軍兵士向けの反米放送をした日系二世の女性とのセントルイスでの偶然の出会いだったという。 その時から、“足で書く作家”として、資料集めに力を注いだ。
藤堂 志津子(とうどう・しづこ)
本名・熊谷政江(くまがや・まさえ)。北海道生まれ。藤女子短期大学国文科卒。
東野邊 薫(とうのべ・かおる)
本名・野邊愼一。
堂場 瞬一(どうば・しゅんいち)
本名・山野辺一也(やまのべ・かずや) 。
童門 冬二(どうもん・ふゆじ)
本名・太田久行(おおた・ひさゆき)。東京都庁に勤め、都立大学事務長、広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任して退職、作家活動に入る。歴史の中から現代に通ずるものを好んで書き、小説『上杉鷹山』など多数。近著には『立花宗茂』、『徳川三代諜報戦』など。
遠丸 立(とおまる・りゅう)
文芸評論家、本名・進隆(すすむ・たかし)。著書に『吉本隆明論』『死者よ語れ〈戦争と文学〉』など。妻は詩人の貞松瑩子(本名・進瑩子〈すすむ・えいこ〉)。
十返 肇(とがえり・はじめ)
敗戦後「一」から「肇」に改名。
戸川 昌子
本名・内田昌子。東京・青山生まれ。千歳高女卒。伊藤忠商事勤務を経て、シャンソン歌手に。その後『大いなる幻影』で江戸川乱歩賞受賞。高齢出産の元祖でもある。
戸川 幸夫
旧姓・前田。生後まもなく戸川家の養子になる。イリオモテヤマネコの発見者。
土岐 善麿(とき・ぜんまろ)
本名同じ。青年時代の筆名「哀果」の方が本名に見える。この人が当用漢字を決める時の国語審議会委員だったから人名用に「麿」が残ったとされる。
時実新子(ときざね・しんこ)
本名・大野恵美子(おおの・えみこ)。岡山県生まれ。25歳の時、新聞への投句から川柳を始めた。63年、初の句集『新子』を自費出版。その奔放な独白は柳壇を驚倒させ、短歌界の与謝野晶子の『みだれ髪』になぞらえられた。 87年に出た句集『有夫恋(ゆうふれん)』はベストセラーとなり、個人の川柳句集が一般読者に迎えられる先駆けとなった。 著書に『花の結び目』『小説新子』『死ぬまで女』『白い花散った』など。 夫は川柳研究家の曽我六郎(そが・ろくろう)。
徳川 夢声(むせい)
本名・福原駿雄(としお)。島根県生まれ。東京府立一中卒。1915年(大正4年)に赤坂葵館に主任弁士になるが、支配人が勝手に「葵」から「徳川」という芸名をつけ、後でそれを知った当人はその大げさな名前に驚いたという。後にアナウンサーになり、名調子で魅了。俳号は「夢諦軒(むていけん)」といった。「無定見」の洒落である。戦時下の句に「口軽き吾(わ)れを悔ゆるや豆の花」とある。言論の不自由な当時、とがめられたのかもしれない。
徳田 秋声
父、雲平は加賀藩家老横山家の家臣、母タケはその四番目の妻で、秋声には異母兄姉が4人、同腹の姉が1人あった。三男第六子だったから本名「末雄」。作家・一穂(かずほ)は長男。
徳大寺 有恒 (とくだいじ・ありつね)
本名・杉江博愛 (すぎえ・ひろよし)。ペンネームを使い始めるのは『間違いだらけのクルマ選び』を上梓して以来。過大広告の自動車を評論するには過大なペンネームだ。渾名は「巨匠」。
徳富 蘇峰(そほう)
本名・猪一郎。故郷・熊本の阿蘇山から。
徳冨 蘆花(ろか)
本名・健次郎。猪一郎(蘇峰)の弟で兄は「富」で弟は「冨」を使った。父親が漢学者で本姓の「徳冨」は正字ではないので嫌った。キリスト教に受洗したので「ルカ」だと思う(3つほど説がある)。「蘆花」は芦花公園などに見られるように「芦(アシ)の花」で本人が好きだったため。
豊島(としま) ミホ
秋田県生まれ。早稲田大学在学中の2002年、『青空チェリー』で“女による女のためのR−18文学賞”読者賞を受賞しデビュー。05年春、大学を卒業し専業作家に。デビュー当時は学歴を非公開にしていたが、同時期に、早稲田の後輩・綿矢りさが「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞していたので、比較されるのが嫌だったとネット上でのインタビューで答えている。著書に『日傘のお兄さん』『檸檬のころ』『陽の子雨の子』など。高校生の時は「底辺高校生」を名乗っていた。本の雑誌の『作家の読書道3』に次のように答えている。
豊島 : でも私は外で遊ぶの好きじゃないし、お酒も興味ないし、騒ぐのが嫌いだからサークルにも参加していなくて、しかも夜間部で。そうすると昼寝し放題。1年生の頃の記憶は昼寝ですね。
―― あ、考えて見たら、在学中の時は大学名を明かしていないのに、卒業してから早稲田大学卒業、と明かしていますね。
豊島 : 在学中は言わない、と決めていたんです。
―― 名前はペンネームですか?
豊島 : はい。豊島区に住んでいたから。地名から名前をとろうと決めていたんです。私は秋田出身なので、秋田という苗字の人がいるとすごく気になる。それと同じで、豊島区の人は応援してくれるかも、と甘い期待を抱きつつ…。ミホはおさななじみにミホちゃんという子がいたから。外村 繁(とのむら)
本名・茂。小説家。
扉野 良人(とびらのよしと)
近代(こだい)ナリコの良人じゃなくて夫。本名・井上迅でも路上観察学などに参加。
外山 ヽ山(とやま・ちゅざん)
本名・正一。ヽ山の号は『新体詩抄』の共著者の巽軒井上哲二郎が馬琴の『八犬伝』の「ヽ(ちゅ)大法師」から思いつき、正一が源内などを愛読する畸人でで奇を喜ぶこと、外山の「外」に「ヽ」があることなどと会わせて「ヽ山仙士」と戯称したのを、号を持たなかった正一が受け入れたものだ(『丸善外史』)。
富島 健夫
本名「冨」島だったが発表された雑誌で誤植されてそのまま使った。四方田犬彦と同じパターン。
富田 常雄
雅号・蛙声庵。別名・伊皿木恒夫。『姿三四郎』!父の常次郎は講道館四天王だった。
土門 拳(どもん・けん)
写真家で随筆も出している。山形県の没落士族の家に生まれた。ペンネームに時々、間違えられたというが、本名。父親が「徒手空拳をもって立つべし」と激励の思いを込めてつけたという。
豊田 三郎
本姓・森村。娘は『天国にいちばん近い島』の森村桂(かつら)。
豊田 穣
本名同じ。「大谷誠」の名乗ったこともあった。
本名・助川哲也。放送作家時代は本名。叫ぶ詩人の会結成後に「ドリアン助川」を使う。2000年にニューヨークに拠点を動かした後に「明川哲也」として活躍していたが、ややこしいといわれて、2011年に「ドリアン助川」に戻す。
鳥海 昭子(とりのうみ・あきこ)
歌人、エッセイスト。本名・中込昭子(なかごめ・あきこ)。歌集『花いちもんめ』で85年度の現代歌人協会賞を受賞した。
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お ![]()
First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
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