あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 わ〜ん わ 若合 春侑(わかい・すう)
本名・山野辺優子。宮城県生まれ。東北学院大学経済学部卒業。高校時代からギターと作詞作曲を始め、シンガーソング・ライターを目指して様々なコンテストに出場していた。大学卒業後は仙台市内の広告代理店に勤務、1990年に上京。1998年、小説『腦病院へまゐります。』で第86回文學界新人賞を受賞。同作は第119回芥川賞候補となり、「カタカナ三十九字の遺書」(『文學界』1998年12月号)「掌の小石」(『文學界』1999年6月号)もそれぞれ芥川賞候補にあがった。ローマ字表記は“Wakai Suw”。ホームページに次のような記載があった。にほんご
《若合春侑》の名前について 春=季節、恋、そして、お酒 「す」と読みます
侑=〜をすすめする、の意 「う」と読みます< Suwの表記について> アメリカやイギリスなど英語圏の『スー』は<Sue>と表記しますが、ローマ字読みに親しんでいる日本では<Sue>を『すえ』と読んでしまいがちです。<Suw>の<w>の発音をwindow[windou]と同じ[u]にしたいがために<Suw>と表記した次第です。名字の「若合」同様、“こんな名前は有り得ない”のかも知れませんが。因みに本名は山野辺優子(やまのべゆうこ)と申します。 わかぎ ゑふ
演出家兼役者で作家。本名・鈴木芙紀子(すずき・ふきこ)。1959年2月13日大阪生まれ。『リリパットアーミーII』と『ラックシステム』2つの劇団を主催。アマチュア劇団にいた頃「歌舞伎役者みたいに同じ苗字の役者がたくさんいる劇団にしよう。そうだ座長が若木だから全員芸名を若木姓にしよう」という話になり、自分の本名「芙紀子」のイニシャル「F」を取って「えふ」と名乗ることにした。まるで「藤子・F・不二雄」みたいだ。最初「えふ」だったが、「ゑふ」に変えた。仲間からは本名を縮めて「ふっこさん」と呼ばれることが多く、落款も「ふ」としている。
若杉 鳥子(わかすぎ・とりこ)
本名・板倉とり。茨城県古河の芸者置屋の養女となり「若杉」を名乗る。「若杉」になったのは、芸者置屋の女将の養母が「若杉はな」であったから。小学校の学籍簿には「若杉」で、結婚後の除籍謄本には「田上」となっており、その間の事情は作品から推測するのみ。結婚後の一時期は本姓の「板倉」を使っていたが、夫が子爵の弟であったので子爵家につながるのを遠慮して「若杉」を名乗ったものと思われる。「女子文壇」から育ち、「文芸戦線」でデビュー。以後若杉鳥子を筆名にする。のちプロレタリア作家同盟に加わり、モップで活躍。遺稿集「帰郷」のみを残したが、1998年以後ようやく、短編集『渡良瀬の風』のほか随筆集『空にむかひてー若杉鳥子随筆集』と詩歌集『一水塵ー若杉鳥子詩歌集』が出版された。
若竹 七海(ななみ)
立教大学在学中はミステリクラブに所属しており、「木智みはる」の名前で創元推理文庫の折り込み冊子「紙魚の手帳」で「女子大生はチャターボックス」という書評のコーナーを担当していた。文学部史学科卒。5年間のOL生活を経て1991年「ぼくのミステリな日常」で作家デビュー。コージーミステリーの枠の中に入れられることが多いがなかなか毒のあるひねった作品が多い。夫は評論家の小山正。
若林(わかばやし) つや
長谷川時雨主宰の『女人芸術』から出た作家で『野薔薇幻相』(ドメス出版)が出ている。ペンネームは半玉として売られていった教え子の名前からとったという。
若松 賤子(わかまつ・しずこ)
翻訳家。旧姓・松川甲子(かし)。本名・巌本嘉志。賤子は、1864年、会津藩士松川勝次郎正義の長女として会津若松に生まれた。父は翌年、藩主松平容保(かたもり)の命で公用人物書(隠密)という役職になる。実はそのため、島田という仮姓を名乗る。しづ子も幼名は「島田かし子」。横浜のフェリス女学校高等科卒業。ただちに母校の英語教師となった。1886年紀行文『旧(ふる)き都のつと』『木村とう子を弔ふ英詩』、訳詩などを若松賤の筆名で『女学雑誌』に発表。89年巌本善治(いわもと・よしはる)と結婚。翻案小説『忘れ形見』(1890)や『いなッく、あーでん物語』(1890)、『小公子』(1890〜92)などの名訳。
若山 牧水(わかやま・ぼくすい)
本名・繁。牧水は最初「桂露、雨山、白雨、野百合」と号したが、中学5年生で「牧水」に決めたという早熟ぶり。母の名前「マキ」なのと生家の近くに耳川という渓流があって「水」を採った。
「幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく」という歌を歌ったように、旅と酒は牧水になくてはならないものだった。酒を飲み過ぎて線路に寝てしまい、電車を止めたことから「電留朝臣」(でんりゅうあそん)とも呼ばれた。新妻・喜志子は「汝(な)が夫(つま)は家におくな旅にあらば命光ると人の言へども」という歌で「旅の歌人」を嘆いた。牧水忌は9月17日。
鷲尾 雨工(わしお・うこう)
本名・浩。夫人が『南総里見八犬伝』からヒントを得たという。新潟県生まれ。早稲田大学英文科卒。
和久 峻三(わく・しゅんぞう)
本名・滝井峻三。「和久一」という名前でも書いた。
和田 叡三(わだ・えいぞう)
翻訳家。本名・村山藤四郎。
和田 夏十(わだ・なっと)
本名・茂木由美子(もぎ ゆみこ)。脚本家。「和田夏十」は東宝時代に市川と茂木が共同執筆するために考案したペンネームだった。「和田」は茂木がNHKアナウンサー和田信賢のファンで、「ナット」は市川がイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことからそれぞれ選ばれたという。『人間模様』と『果てしなき情熱』の脚本を夫でもある市川崑監督(東宝撮影所で知り合い48年に結婚)とともに執筆、共同ペンネーム「和田夏十」で脚本家デビュー。市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、『恋人』(51)からはひとりで「和田夏十」を名乗って、市川崑監督作品を中心に30本を越える作品を手掛け、『ビルマの竪琴』『炎上』『野火』『破戒』『私は二歳』『太平洋ひとりぼっち』などで数多くのシナリオ賞を受賞。共同ペンネーム「久里子亭」(“くりすてい”作家のアガサ・クリスティから命名)としても数作を手懸けた(“くりしてい”と誤記している本もある)。
夫の市川崑は幼少時に市川儀一という名前で成人してから市川崑に改名している。
和田 誠(わだ・まこと)
本名。安西水丸との共著『青豆とうふ』に次のように書いているのだが、いろいろあってペンネームはつけなかった。
かなり昔の話。友人が「君の作った歌が小学生の教科書に載ってる」と言ったのでびっくりしたことがある。ぼくはアマチュアながら作詞や作曲をすることがあるけれど、ヒットしたものはないし、教科書に採用されたなんて話はきいたことがない。間違いだろうと思ったが、友人は「確かに君の名前だ」と言う。
興味があったので音楽著作権協会に問い合わせたところ、「和田誠の名で童謡を書いている人がいます。その方は女性で、名前はペンネームです」という話。
ぼくも時たま童謡を作る。「登録する時まぎらわしいですね。ぼくは本名なのですが」と言うと、電話の向うの女性は「そうですね。こちらの事務も困ります。ペンネームをつけて下さい」と言う。渡邊 喜恵子(わたなべ・きえこ)
旧姓・栗生沢。本姓・木下。秋田県生まれ。能代高女卒。『いのちのあとさき』でデビュー。
渡辺 霞亭(わたなべ・かてい)
小説家、劇作家。本名・勝(まさる)。渡辺家は尾州藩家老の家柄で、青松葉(渡辺家の異名)事件に連繋し没落。1890年大阪朝日新聞に入社。翌年、西村天囚(てんしゆう)らと『なにはがた』を創刊。筆名を自在に駆使し、歴史、家庭小説の流行作家となる。碧瑠璃園(へきるりえん)、緑園(りよくえん)の号で『渡辺崋山』、『後藤又兵衛』、『後の後藤又兵衛』などの歴史小説を執筆。家庭小説『渦巻』全四巻(1913〜14)は、家督相続争いを「あたらしいお家騒動物」(千葉亀雄)に仕上げた話題作。霞亭はまた、江戸時代の小説類の収集家であり、この旧蔵書の一部(和書1851冊)が東京大学附属図書館に「霞亭文庫」として架蔵。
渡辺 啓助(わたなべ・けいすけ)
本名・渡辺圭介。秋田県生まれ。九州帝国大学法文学部卒。
渡辺 保(わたなべ・たもつ)
本名:渡辺邦夫。東京生まれ。生家は江戸橋で、幼少から歌舞伎に親しむ。慶応義塾大学経済学部を卒業後、東宝演劇部に勤務する一方で演劇評論を発表。東宝演劇部企画室長を経て、現在、淑徳大学国際コミュニケーション学部教授。74年に『女形の運命』で芸術選奨文部大臣新人賞、82年に『忠臣蔵』で平林たい子文学賞、87年に『娘道成寺』で読売文学賞・研究翻訳賞、94年に『昭和の名人豊竹山城少掾』で吉田秀和賞、94年に『四代目市川団十郎』で芸術選奨文部大臣賞、98年に『黙阿弥の明治維新』で読売文学賞・評論伝記賞を受賞。
渡邊 十絲子(わたなべ・としこ)
詩人。東京都生まれ。早稲田大学文学部文芸専修卒業。卒業制作の処女詩集『Fの残響』が、小野梓記念芸術賞を受賞した。主婦と詩人を兼業する「兼業詩人」、また「生涯一競艇客」を標榜する。競艇ファンとして、岩佐なをらとともに、同人誌『確定!!』を発行した。競艇専門誌の競艇マクール誌上でも連載。『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)にはこんなことを書いていた。
「絲」はシと読み、意味は「いと」である。私が「糸」と書かないのは、「糸」はもともとベキという字(シでもいともでない別の字)であって、「絲」が画数が多くて繁雑だから別の簡単な感じを借りてきて「絲」の略字であるかのような使い方をしているバチモンだからである。「芸」もそうですね。あれはゲイじゃなくてウンというまったく別の字だ。こういうのはいやだ。
綿矢 りさ(わたや・りさ)
本名・山田梨沙(やまだ・りさ)。ペンネームは、いいなと思っていたクラスメート・綿矢まり子さんの苗字からとった。『作家の読者道』(本の雑誌社)のインタビューで「綿矢さん、本名ですよね」という問いに対して次のように答えている。
いえ、ペンネームです。これは自分で考えました。画数も姓名判断で調べて。だから二週間もかかりましたよ。決まるまで。
1984年2月1日京都市生まれ。小学校高学年から読書に目覚め、太宰治、三島由紀夫から、よしもとばななまで愛読。『インストール』で第38回文藝賞(河出書房新社主催で山田詠美らを輩出)受賞。京都市立紫野高校3年生だった。17歳の受賞は81年の堀田あけみ(『1980 アイコ 十六歳』)と並び、同賞史上最年少(2005年に15歳の三並夏に塗り替えられる)。2002年に早稲田大学教育学部に入学。03年に第2作目の『蹴りたい背中』で19歳という最年少で第130回芥川賞を“ゲット”。芥川賞の最年少記録はこれまで、石原慎太郎(56年受賞)、大江健三郎(58年)、丸山健二(67年)、平野啓一郎(99年)の4人の23歳で、すべて男性だった(最も若かった丸山健二から37年ぶりに記録更新)。綿矢まり子さんは「話がとても面白い人。でも(文藝賞受賞まで)小説を書いていることすら知らず、電話で『勝手に名前使ってごめんなー』と言われたのを覚えています。それが芥川賞まで受賞するなんて」と語った。中学では同じ演劇部に所属。部員同士で脚本を作る時に出すアイデアが豊富で、テンポのいい会話など「そんな話、よく思いつくなあ」と感心することが多かったとインタビューで語った。
この70年代後半〜80年代前半生まれの作家たちを金原ひとみと合わせて“綿金世代”ということがある。
『蹴りたい背中』受賞の時の『文藝春秋』に「抜きたい白髪」というのがあったが、田中啓文(たなか・ひろふみ=本名)は『蹴りたい田中』というパロディを書いて茶川賞を受賞している。田中には『銀河帝国の弘法も筆の誤り』という本もある。綿矢りさがパクった田中を蹴りたいと思ったかどうか不明。
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お ![]()
First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
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