あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 さ〜そ さ 最相 葉月(さいしょう・はづき)
関西学院大学卒。会社勤めを経てライターに。『絶対音感』で第4回遺伝子組替え技術を扱った『青いバラ』などがある。映画『ココニイルコト』の原案となったエッセイ集『なんといふ空』の中で次のように書いている。
たびたび私の名前は筆名かとたずねられることがある。筆名ではあるが母の旧姓で、私にとっては馴染み深く実名に近い名前だ。編集者だった頃、自分の中で頭を切り換えるために使い始めたのだが、実際に筆名の仕事が百パーセントになると、最相葉月は私で、私は最相葉月以外の何者でもなくなってくる。筆名だからなんでも書けるのではないかとよく誤解されるのだが、そうではない。筆名と実名に切れ目はない。その人の中に違う世界が二つあるわけではない。公の場で物を書く限り、筆名であろうと実名であろうと自分に責任があることに変わりはないのだ。
詩人、作詞家、仏文学者。本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。親戚に外交官の石井菊次郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)は詩人。
斉藤 斎藤
歌人。一度聞いたら忘れない、この奇抜な名前を本人は「本名です」と言ってのける。本名調査中。『渡辺のわたし』でデビューしたが、「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」というふざけた短歌をつくっている。フリーター生活5年目の2001年、図書館で偶然めくった岩波新書『短歌パラダイス』(小林恭二)にひかれ歌の道へ入った。「題名をつけるとすれば無題だが名札を つければ渡辺のわたし」とうのもあるが、「渡辺」は母の姓だ。“「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」”というのもある。
西東 三鬼(さいとう・さんき)
俳人。本名・斎藤敬直(けいちょく)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、「即座のでたらめで」この号に決めたという。由来は「三という数字は飲む、打つ、買うの三拍子とは無関係。サンキューやサンキストとも関係ない。しいていえば、明治三十三年に生まれて、三十三歳で俳句をつくったということか」と適当な返事をしていたらしい。
斎藤 次郎(さいとう・じろう)
本名・水谷次郎。教育評論家。『気分は小学生』『子どもと暮らすということ』など。大麻所持で逮捕される。
斎藤 弔花(さいとう・ちょうか)
新聞記者、小説家、随筆家。本名・謙蔵。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、苦学していた16歳の頃、心に浮かんだもので、「弔う」が入っていて反対も多かったが、好字句が見あたらなかったという。
齋藤 智
俳優の水嶋ヒロ。本名・齋藤智裕(ともひろ)。芸能プロダクションの研音を退社した2010年、ポプラ社が主催する第5回ポプラ小説大賞を受賞した。「齋藤智」のペンネームで応募し、タイトルは「KAGEROU」(ポプラ社が発表した受賞者名は斎藤智裕)。賞金2000万円は辞退した。研音によると、水嶋は退社の理由に「表に出る仕事よりも執筆活動をしたい」との理由を挙げたとされており、デビュー作でいきなり実力を実証したことになる。妻で歌手の絢香によると、水嶋は俳優業も続けていきたいとの意向も示しているという。
斎藤 澪(さいとう・みお)
本名・斉藤純子(すみこ)。
斎藤 澪奈子(さいとう・みなこ)
『紅一点論』の方は斎藤美奈子でこちらは『超一流主義』。実業家。1956年東京生まれ。10年間のヨーロッパ生活ののち85年帰国。英、仏、伊、西の言語に堪能。97年3月より、ロサンゼルスにポジティブビューティメイクアップスクールを開校。著書に『ヨーロピアンハイライフ』『愛のポジティブシンキング』などがある。『超一流主義』は文庫本になった時、「農協のツアー」が「激安プライスのツアー」になっていて、断りなく改悪されたので有名。筒井康隆の『農協月へ行く』は『激安プライス月へ行く』ってか?
斎藤 美奈子(さいとう・みなこ)
本名同じ。文藝評論家。「斎藤」なのに「斉藤」とか「齋藤」としている人が多い。ツッコミを入れられるぞ!父の文一(ぶんいち)は新潟大学教授を務めた宇宙物理学者だが、宮沢賢治の研究家でもあり、これで歴程賞を受賞している。
斎藤 茂吉(さいとう・もきち)
本名同じで「もきち」。ただ、斎藤茂吉記念館に問い合わせたところ、本名は「もきち」なのだが、東京に出たときに養父母(親戚で医師・斎藤紀一)の考えもあって「もきち」は田舎くさい、ということで「しげよし」と呼ばれていたそうだ。長男は斎藤茂太(「しげた」であだ名は「モタさん」)、次男は北杜夫。
茂太は『日曜喫茶室 頭の特効薬』(講談社2000)の中で次のように語っている。
多くの教科書に、「本名茂吉(しげよし)、ペンネーム茂吉(もきち)」と書いてあるんですが、これは嘘なんです。終始、「もきち」なんですよ。ぼくは教科書のそれを訂正するのに十年ぐらいかかりました。ペンネームなんてないんです。
なんで「しげよし」が出てきたかというと、祖父が変わった人で、何でもカッコよくしちゃうほうなんで、「もきち」より「しげよし」のほうが都会的でカッコいいと考えて、ある日、病院の職員を集めて、明日からは「しげよし先生」とお呼びしろと命令しちゃったんです。親父は内心いやだったと思いますけれども、養子の身だからしぶしぶ承知して、それから「しげよし」になったんです。でも、昭和三年にじいさんが死んだとたんに、「もきち」に戻っちゃった。よほどいやだったんでしょうね。それが教科書に、本名「しげよし」なんて書いてあるから困っちゃうんです。
最果 タヒ(さいはて・たひ)
本名非公表。優れた新鋭の現代詩集に贈られる2008年第13回中原中也賞を詩集『グッドモーニング』(思潮社)で受賞。主催者によると21祭での受賞は女性の受賞者としては最年少という。京都大学生だが、このペンネームの感覚には驚く。
柴門 ふみ(さいもん・ふみ)
漫画家で小説家。同じ漫画家の弘兼憲史と結婚して、本名・弘兼準子(ひろかね・じゅんこ)。
斎藤 緑雨(さいとう・りょくう)
本名・賢(まさる)。友人の坂崎紫瀾(しらん)が選んでくれた「紅露情禅 緑雨醒客」の中から採った。晩年の樋口一葉の真価を理解し、森鴎外・幸田露伴とともに「三人冗語」で紹介した一人であり、樋口家を訪問して一葉と江戸文学や当時の文壇について語り明かした(「奇跡の十四ヶ月」)。一葉は「味方にすると面白いけれども、敵にまわすと怖そうだ」とその印象を日記に書き記している。一葉死後の遺族の生活を請けおう一方、彼女の日記を手元にとどめ、死ぬ直前に友人の馬場孤蝶に託したことは、緑雨の義理堅さと一葉への愛着がうかがえる。
佐伯 一麦(さえき・かずみ)
本名・佐伯亨。敬愛するゴッホがありふれた麦畑の風景を好んで描いたことにちなんだという。仙台一高を卒業後、週刊誌記者・電気工などを続けながら作品を発表、84年の『木を接ぐ』で海燕新人文学賞を受賞。90年の『ショート・サーキット』で野間文芸新人賞、『ア・ルース・ボーイ』(97年に映画化)で三島由紀夫賞。『端午』(88)、「ショート・サーキット」(90)で芥川賞候補。97年8月から1年間、ノルウェーに滞在。『木の一族』『遠き山に日は落ちて』『雛の棲家』『プレーリー・ドッグの街』、エッセイ集『蜘蛛の巣アンテナ』『芥川賞を取らなかった名作たち』など。
三枝 和子(さえぐさ・かずこ)
フェミニズムの論客とも知られる小説家。文芸評論家の森川達也(本名・三枝洸一)と結婚。神戸市生まれ。70年に幻想的な小説『処刑が行なわれている』で田村俊子賞を受賞。83年には土俗的な地域共同体と戦争に運命をゆがめられた女性を描いた『鬼どもの夜は深い』で泉鏡花文学賞を受けた。源氏物語などの日本の古典やギリシャ神話を、女性原理の立場から批評的に読み直し、『薬子の京』で2000年に紫式部文学賞を受賞した。『うそりやま考』『響子』4部作など。
早乙女 貢
本名・鐘ケ江秀吉。「若い娘に金や品物を貢ぐ」ということで。元祖ミツグ君。旧満州・ハルピン市生まれ。慶応義塾大学文学部中退。
堺 枯川(さかい・こせん)
社会主義者の堺利彦(としひこ)のペンネーム。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、俳諧趣味から付け、他の号も使っていたが、後に「禿山枯川」という表現を見つけてからこれで通した。
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
東京都生まれ。高校在学中より、雑誌にコラムを執筆するようになる。立教大学社会学部卒業後、広告会社に就職。その後、執筆に専念し、話題作を次々に発表している。『少子』『お年頃』『負け犬の遠吠え』など。酒井節とも言われる明快かつ痛快な語り口。本名同じ。ただ、高校時代には雑誌に載ることが校則で禁じられていたために、ペンネームを使用していた。『オリーブ』で使った「マーガレット酒井」は泉麻人の命名。その他の雑誌では「赤井旬子」(あかい・じゅんこ)という、本名を少し変えただけのペンネームらしくない名前を使っていた。大学に入って本名で執筆を開始する。『執筆前夜』(ラセ)で次のように語っている。
恥ずかしかったんですよ。中学生ぐらいのときって、今でいう、血中オタク濃度みたいのがすごく高い人たちがクラスの中にいて、例えば新撰組が好きで、「私のことを(沖田)総司って呼んで」とかいっていて、ちょっと気持ちわりいなって思っていたんですよ(笑)。その手の人たちが自分に付けていたペンネームみたいなのが、葵麗華(あおい・れいか)とかそんな感じの名前で、なんだよそれ、と思っていて(笑)。そういうかっこいい、かわいい名前が恥ずかしいなと思っていたので、自分のペンネームを考えたときにそんな感じになったんです。
坂上 弘
本名同じ。自ら「サラリーマン作家のはしり」と名乗る。『ある秋の出来事』『優しい人々』『初めの夏』など。
堺屋 太一(さかいや・たいち)
経済企画庁長官を務めた時も「堺屋太一」を使っていたが、本名の「池口小太郎」では大臣にもなれなかったかも?先祖の堺商人の屋号が「堺屋」だった。「太一」は本名の「太」を採った。奥さんは絵描きで池口史子(ちかこ)という画家だが、夫婦別姓ではない(と『東大講義録』講談社と書いている)。
佐賀 潜(さが・せん)
本名・松下幸徳。祖父が佐賀・鍋島藩士で父が「潜八」だが何よりも「探せん」。SSで語感がいい。推理小説家はみんな凝った名前にしている。
坂口 安吾(さかぐち・あんご)
本名・炳吾(へいご)で名前の由来は「丙午」年生まれの「五男」に因んだ。「無頼派」として知られるが、中学生時代の身勝手さに怒った教師が「自己に暗い奴だから炳吾よりも暗吾と名乗れ!」と黒板に書かれたことがあり(「炳」は「明るい」という意味)、後に反省して「暗吾」を「安吾」に変えた。父・仁一郎は憲政本党の衆議院議員で、かつ「五峰」の号をもつ漢詩人。兄の献吉は新潟新聞(後の新潟日報)二代目の社長を務めた。
阪田 寛夫(さかた・ひろお)
「サッちゃん」!で有名だが本名同じ。1925年、大阪市生まれ。東京大学国史学科に在学中に応召し、中国から復員後、三浦朱門(旧制高知高校の同級)らと第15次『新思潮』の発刊に加わった。卒業後は朝日放送プロデューサーを経て作家になり、小説、詩や放送台本など多様な分野で活躍。死に臨んだクリスチャンの母とその家族の姿を温かい目で描いた『土の器』で75年、芥川賞を受けた。この時、「お母さんが生きておられたら、どんなにお喜びでしたやろう」という電話があったというが、『土の器』は母の死を題材にした小説だった…。「わが小林一三――清く正しく美しく」(毎日出版文化賞)や「まどさん」など評伝小説も多かった。86年には短編「海道東征」で川端康成文学賞を受け、89年、芸術院賞を受けた。代表的な詩集に「わたしの動物園」「サッちゃん」、「ちさとじいたん」(絵本にっぽん大賞)など児童文学の作品も多い。
叔父は作曲家・大中寅二(おおなか・とらじ)、その子で「サッちゃん」「犬のおまわりさん」などの作曲家・大中恩(めぐみ)は従兄。二女は元宝塚は宝塚の大浦みずき(本名・阪田なつめ)。自著『童謡でてこい』によると、大中恩に頼まれて詩を作った。サッちゃんは実在ではなく、音の響きが好きでつけた名前という。
坂村 真民(さかむら・しんみん)
本名=昂(たかし)。詩人。熊本県生まれ。三重県の神宮皇学館を卒業し、愛媛県で教員を務めた。軍隊に召集されて死を覚悟し、眼病で休職したり内臓疾患で死線をさまよったりしたことも。いくたの試練から「念ずれば花ひらく」のありがたさが分かるようになったという(『念ずれば花ひらく』)。「仏教詩人」ともいわれた。<尊いのは/頭でなく/手でなく/足の裏である/一生人に知られず/一生きたない処(ところ)と接し/黙々として/その努めを果(はた)してゆく>。
嵯峨の屋 おむろ
女性かと思うが、本名・矢崎鎮四郎(しんしろう)。恩師の坪内逍遥の「春の屋おぼろ」をもじった。
佐木 隆三(さき・りゅうぞう)
本名・小先(こさき)良三。本名の小手先だけのもじり。
鷺沢 萠(さぎさわ・めぐむ)
本名・松尾めぐみ。ペンネームは亡き父が使っていたものを借りた。高校在学中に書いた『川べりの道』で文學界新人賞。上智大学ロシア語学科に入学後も作品を発表、『帰れぬ人々』で芥川賞候補、『果実の舟を川に流して』で三島由紀夫賞候補。90年春、映画監督・利重剛と電撃結婚、作家業、学生業に加えて主婦業も始め、笹平姓になったが、その後離婚。92年に『駆ける少年』で泉鏡花賞受賞。同書の執筆過程で父方の祖母が朝鮮半島出身であることを知り、93年には韓国の延世(ヨンセ)大学校付属語学研究院で韓国語を学んだ。 『少年たちの終わらない夜』『スタイリッシュ・キッズ』『葉桜の日』など。2004年に自殺。
さくら ももこ
漫画『ちびまる子ちゃん』の作者でエッセイスト。実は最初からエッセイストになりたかったのだが、エッセイストというのは、別の仕事で成功してからなるものだと考えていて、まず漫画家になったという。本名・三浦美紀(みうらみき)。1965年清水市生まれ。清水エスパルスの長谷川健太が小学校の同級生。作者が小学3年生の時の話で1974年・昭和49年の話になっている。静岡英和女学院短期大学国文科卒。台湾版の『ちびまる子ちゃん』は「櫻桃小丸子」と書く。さくらももこは「櫻桃子」と書く。ペンネームの由来は『ひとりずもう』に次のように書かれている。
もしも自分がお笑い芸人としてデビューする場合、どんな名前がいいかな…と考えてみた。和風な感じがいいんじゃないかという気がする。漫才や落語は日本の文化だからだ。そして、可愛らしい花の名前がいいなァと思った。それで、好きな花の名前を幾つか書いてみた。すみれ、れんげ、さくら、もも、うめ、パンジー、たんぽぽ、など10種類ばかり書いた中で、すみれとさくらとももが残った。
私はすみれの花が大好きだったので、すみれにしようかなと思ったのだが、ふと「さくら、もも」と書いてあるのを見て、さくらももこにしたらいいんじゃないかとひらめいた。この名前なら、苗字も名前も花だし、どっちで呼ばれてもカワイイし、女の子らしいし、春の明るい感じもするし、なんかわくわくする。
あまりにも良い名前を思いつきすぎたんじゃないとか思い、ひとりでドキドキした。こんな調子の良い名前、私なんかが名乗っていいんだろうかという気さえした。それで、その名前を書いた紙は全部消しゴムで消し、誰にも見られないようにした。
いつかお笑い芸人になった時には、さくらももこと名乗ろう、と心の中にメモした私は、一体どうすればお笑い芸人になれるのか悩んでいた。
息子「さくらめろん」と合作の本も出しているが、息子の本名はプライバシーに相当するので載せない。『ももこの21世紀日記No.2』には次のように書いてある。
「オレも、ペンネームを考えることにするよ。『おばけの手』の本にのせる時、ペンネームをのせた方がいいだろう」と言ってペンネームをいっしょうけんめい考えていた。そしてある日、急に「オレ、ペンネームを決めたよ」と言ったので「何にしたの?」と尋ねると「さくらめろん」と答えた。私は思わず「おお、いいじゃん。息子っていう感じがするよ!!」とほめてしまった。息子はメロンが好物なのだ。モモとメロンでフルーツつながりなのも親子らしいし、メロンは黄緑色なので男の子っぽくて良い。息子としてはヒットだ。「スイカにしようか迷ったんだけどさ」と息子が言ったので、「メロンの方がいいよ」と即言った。さくらスイカってのも、ちょっと変でいいけれどね……。
桜庭 一樹(さくらば・かずき)
男みたいな名前だが、本名・真理子(まりこ)。男っぽい名前では「有川浩(ありかわ・ひろ)がいる。ファミ通エンタテインメント大賞佳作に入選しデビュー。若者向けのライトノベルで活躍後、大人向け小説を書き始め、『赤朽葉家(あかくちばけ)の伝説』で日本推理作家協会賞を受賞、『私の男』で芥川賞。ゲームシナリオは「山田桜丸」名義で手駆ける。ペンネームについて「書店員さんからのQ&A」で次のように答えている。
Q.僕はたった数行の「哲学的福音南瓜書」に大変魅せられているのですが、モデルは存在するのでしょうか? 桜庭さんご本人の創作ならこの書物をもっと読みたく思います。---紀伊國屋書店新宿南店 竹田勇生氏
A.わたしの創作です。ほんとは「作者不詳」じゃなくて「桜の庭にある一本の樹」という意味のフランス語を著者名にしようか、などと考えてたんですが、やりすぎかなー、と照れてやめました。昔、地下流通していた無神論の本を、もし自分がその頃の地下作家(?)だったらどう書くかなー、と思って書きました。
Q.こんなに女性的な文章なのに、お名前をみて最初は男性だと思っていました。本名ですか?---三省堂書店神田本店 山口氏
A.いや、ペンネームです。烏丸紅子、とかと一緒で、なんとなく弾みでつけちゃいました。
笹川 臨風(ささかわ・りんぷう)
歴史家、俳人。本名・種郎(たねお)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、「臨風惆悵(ちょうちょう)」(風に向かって嘆き悲しむ)という成語から採ったという。
佐々木 譲(ささき・じょう)
本名・佐々木譲(ゆずる)。北海道札幌市生まれ。札幌月寒高卒。本田技研入社。「鉄騎兵、跳んだ」でオール読物新人賞受賞。その後退社し作家に。
佐々木 味津三(ささき・みつぞう)
本名・佐々木光三(みつぞう)。
崎山 多美(さきやま・たみ)
本名・平良邦子。1954年、沖縄県西表島生まれ。琉球大学国文科を卒業後、予備校講師。1979年に新沖縄文学賞・佳作、1989年に『水上往還』が第19回九州芸術祭文学賞・最優秀賞を受賞。
笹本 稜平(ささもと・りょうへい)
本名・和泉正直。『時の渚』が第18回(2001年)サントリーミステリー大賞。千葉県船橋市在住のフリーライター。
崎山 多美(さきやま・たみ)
本名・平良邦子。沖縄県西表島生まれ。琉球大学国文科を卒業後、予備校講師。沖縄県在住。89年に『水上往還』で州芸術祭文学賞・最優秀賞。『水上往還』で芥川賞候補。他に「シマ籠る」(これでも芥川賞候補)、『ムイアニ由来記』『くりかえしがえし』など。
桜庭 一樹 (さくらば・かずき)
小説家。ライトノベル作家。男性のような名前だが色白の女性。 米子市生まれ。1993年、DENiM(現在廃刊)ライター新人賞・受賞。 小説家としてデビュー以前は、 From A等でフリーライターとして活動していた。 当初は山田桜丸名義でゲームノベライズを行っており、 その後、第1回ファミ通えんため大賞佳作を桜庭一樹名義で受賞。しばらくはオリジナルは桜庭一樹名義、 ノベライズは山田桜丸名義で行っていたが、 その後は桜庭一樹名義に統一されている。
酒見 賢一(さけみ・けんいち)
本名同じ。福岡県久留米市生まれ。愛知大学文学部中国哲学専攻卒。大学在学中から小説を執筆。『後宮小説』で日本ファンタジーノベル大賞受賞。名古屋市の住宅設備工事会社勤務の傍ら、執筆活動を続ける。
笹沢 左保(ささざわ・さほ)
本名・勝(まさる)。奥さんの左保子さんから採った夫婦愛を感じさせる名前。神奈川県横浜市生まれ。関東学院高等部卒。郵政省東京地方簡易保険局に勤めていた58年、交通事故に遭い、入院中に推理小説を書き始めた。60年、「招かれざる客」で江戸川乱歩賞次席となりデビュー。61年には「人喰い」で探偵作家クラブ賞を受賞するなど、本格推理小説や風俗もの、時代小説などを次々に発表。70年ごろから股旅ものを書き始め、「あっしには関わりのねえことでござんす」のセリフで有名な「木枯らし紋次郎」のテレビシリーズが中村敦夫主演で一世を風靡した。父は詩人の笹沢美明(よしあき)。
佐多 稲子(さた・いねこ)
本名・田島イネ。46年に早逝した叔父の家を興して佐田姓を名乗るからペンネームはこの「佐田」からだと思う。公式な場で女性は名前に「〜子」を付けるのが昔の風習だった。
さだ まさし
本名・佐田雅志。コンサートでは歌よりも噺の方が長い歌手。愛称は「まっさん」。國學院時代に高校時代からの友人吉田政美とバンド「グレープ」を結成。祖父繁治は中国大陸で諜報活動に従事し、後に商工省の大臣秘書官になるという異色の経歴。父雅人は第二次世界大戦の終戦後、長崎出身の戦友と共に復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚。雅志・繁理・玲子の三人の子をもうけている。
佐竹 一彦(さたけ・かずひこ)
小説家。本名・松本豊(まつもと・ゆたか)。警視庁に13年勤務、機動隊警備係を経て、作家に転身した。90年に「わが羊に草を与えよ」で第29回オール読物推理小説新人賞。著書に『刑事部屋』『駐在巡査』など。
佐竹 申伍(さたけ・しんご)
本名・佐藤静夫(さとう・しずお)。作家で 時代小説を中心に活躍。著書に『島左近』『蒲生氏郷』など。
サタミ シュウ
覆面作家。『野性時代』にSM小説「スモールワールド」を連載した。2冊目は「リモート」。「本名ではベストセラーを連発する」というが、重松清ではないかと思う。
佐々 醒雪(さっさ・せいせつ)
国文学者で俳人。本名・政一(まさかず)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、友人で外交官になった水野幸吉(水幸)が「酔香」という当て字をしているのを見て自分は逆に「醒雪」にしたという。
佐藤 亜紀(さとう・あき)
本名同じ。1962年生まれ。成城大学大学院で西洋美術を専攻。専門は十八世紀の美術批評。修士課程終了後、ロータリー財団奨学金を得て、フランスに留学。91年『バルタザールの遍歴』で第3回日本ファンタジーノベル大賞受賞。著書に『戦争の法』『鏡の影』『略奪美術館』『モンティニーの狼男爵』『1809』がある。 小谷真理らとの共著『Hyper Voices』がある。
佐藤 賢一(さとう・けんいち)
本名同じ。1968年山形県生まれ。東北大学大学院で中世ヨーロッパ史を専攻。1993年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞を、99年『王妃の離婚』で第121回直木賞を受賞。
佐藤 紅録(さとう・こうろく)
本名・洽六(こうろく)。「洽」を割って「合水」にしたいといったら正岡子規が「一合では小さすぎる」と「紅録」(合六)とした。
サトウ・ハチローは佐藤紅録の長男で本名「八郎」、紅録の家に寄寓していた真山青果に育てられる。エノケンらと親交があり、「モボ」だったためにカタカナになったようだ。紅緑はハチローを「神武以来の極道息子」と評した。ハチローほど母のことを飽かず繰り返し、心をこめて歌った詩人はいない。「ちいさい ちいさい人でした/ほんとに ちいさい母でした/それより ちいさいボクでした…」(ちいさい母のうた)。「この世の中で一番/美しい名前/それはおかあさん/この世の中で一番/やさしい心/それはおかあさん おかあさん/おかあさん/悲しく愉(たの)しく/また悲しく/なんどもくりかえす/ああ/おかあさん」(「おかあさん」)。16歳で西条八十に師事した。八十は大柄な訪問者を「サトウハチローなる“大”少年来たる」と日記に書いている。立教中学中退。1926年第一詩集『爪色の雨』を刊行。第二次世界大戦終了まではユーモア作家、歌謡曲詩人として活躍。戦後は雑誌『赤とんぼ』『少年少女』を基盤に童謡一筋に励み、『叱られ坊主』(1953)、『木のぼり小僧』(1954)を出版。『リンゴの唄』の作詞、テレビのタイトル詩「おかあさん」により多くの人に親しまれた。新人養成のため木曜会を結成、『木曜手帖』を創刊。44年日本童謡協会をつくり会長となり、46年日本音楽著作権協会会長に就任。
久世光彦は『遊びをせんとや生れけむ』(文藝春秋)の中でハチローの名前について次のように書いている。
佐藤愛子さんのお兄さんの、サトウハチローという人も可笑しな人だった。だいたい<佐藤八郎>を「サトウハチロー>というペンネームにしたことだって、そのころとしては珍しかった。いまでこそ<そーゆーこと>などと書く人もあるが、八十年前には<ー>なども、たいそう洒落た表記だった。ハチローは新しいセンスのコピーライターだった。【…】
『血脈』(文藝春秋)を書いた次女の佐藤愛子(本姓・篠原)はハチローの異母妹で、母は女優の三笠万里子。作家の田畑麦彦と結婚するも田畑が事業に失敗して借金を抱えて離婚。この体験が『戦いすんで日が暮れて』となる。「名前について」(『続々 坊主のかんざし』読売新聞社)にはこんな風に書いている。
私が生まれるとき、父は私のために「小百合」と「小菊」という名を用意していたそうである。そのとき父は、優しくも清く愛らしき楚々たる女になれかしと願ってその名を考えたのであったろう。
なのに、なにゆえか、父はその名を「愛子」に変えた。もしその時、父の気が変わらなかったら、私は「小菊ちゃん」(あるいは「小百合ちゃん」)と呼ばれて育ち、おのずからたおやかなる麗人になっていたにちがいない。
佐藤 智加(さとう・ともか)
本名同じ。1983年名古屋生まれ。1999年に「死というものの日常」で中野重治記念文学奨励賞第8回全国高校生詩のコンクール優秀作を受賞し、2000年に『肉触』が第37回文藝賞の優秀賞に選ばれてデビューした。小学1年生から作家を志したという。幼稚園時代、父親が児童文学を読み聞かせてくれたのがきっかけだった。慶応義塾大環境情報学部に入学。
佐藤 春夫(さとう・はるお)
詩人・小説家。本名同じ。1964年、朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組を自宅で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。久保田万太郎の一周忌の当日のことだった。
長男は通信制の星槎大学学長で慶応大名誉教授の佐藤方哉(まさや)だったが、2010年に酔っぱらいが倒れて、その余波で京王線新宿駅ホームと電車の間にはさまれて亡くなった。慶大や帝京大の教授などを歴任。行動分析学の第一人者として知られ、日本行動分析学会や国際行動分析学会の会長も歴任した。自身の文壇デビューを後押ししてくれた作家の谷崎潤一郎と離婚した千代と結婚した1930年の「細君譲渡事件」で話題となったが、方哉は春夫と千代の間にできた子どもだった。
佐藤 洋二郎
本名同じ。『河口へ』『前へ、進め』『夏至祭』など。
里見 トン【弓+享】
「名前は目をつむって電話帳を指さして適当に決めた」「でもトンの方は?」「だからトンと指さしたのさ」という俗説(巖谷大四の説)を本人は否定している。『康煕字典』から採ったという(大して違わないと思うが…)。意味は「絵模様のある半弓」。本名・山内英夫。
佐野 洋(さの・よう)
本名・丸山一郎。東京生まれ。東京大学文学部心理学科。「おけさ節」の「さのよいよい」から採ったという推理作家。会社で働いていた時代もあって「社の用」もちゃんとやっているということからという説もある。島田一男、多岐川恭、菊村到と同様に新聞記者(読売)出身。
寒川 光太郎(さむかわ・こうたろう)
本名・菅原憲光(すがわら・のりみつ)。
寒川 鼠骨(さむかわ・そこつ)
俳人。本名・陽光(あきみつ)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、「大阪朝日新聞」時代に社業を忘れて庭の柿を東京の子規宅まで持参して退社を余儀なくされるなど粗忽な行為が目立ったので、子規が名付けたという。
三遊亭 圓朝/円朝(さんゆうてい・えんちょう)
落語家だが現代日本語に多大な貢献をした。自作自演の怪談噺や、実録人情噺で独自の境地を開き、「死神」など海外作品の翻案にも取り組んだ。できたばかりの日本語速記術によって、圓朝の噺が速記本に仕立てられ、新聞に連載されて人気を博した。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。
「何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許(ところ)へ行つて、何(ど)うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝(ゑんてう)の落語(はなし)を知つてゐやう、あの円朝(ゑんてう)の落語(はなし)通りに書いて見たら何(ど)うかといふ」。仕上げた作を見た坪内逍遥は「忽(たちま)ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、この儘でいゝ、生(なま)じツか直したりなんぞせぬ方がいゝ」(二葉亭四迷「余が言文一致の由来」『明治文学全集』筑摩書房)。
本名・出淵(いずぶち)次郎吉。二代三遊亭円生(えんしょう)門人の橘家(たちばなや)円太郎(出淵長藏)の子で、父と同じ二代円生に師事し、7歳で小円太と名乗って寄席に出演。一時、寄席を離れるがのちに復帰、17歳のときに円朝と改名して場末回りの真打となった。「朝」としたのは久留米出身で盲目の新内語りで幕末から明治初年にかけて活躍した初代富士松紫朝にあやかってのものだと言われる(矢野誠一『荷風の誤植』青蛙房など)。工夫を重ねて道具入り芝居噺を演じ、自作自演で人気を獲得。1864年(元治1)26歳で両国垢離場(こりば)の昼席の真打となる。1872年(明治5)弟子の円楽に道具噺の道具いっさいを譲って三代円生を継がせ、自らは素噺に転向。1891年高座を退き、座敷専門の数年間を送った。1898年に門弟支援のため高座に復帰したが、病没。代表作に『真景累ヶ淵(かさねがふち)』『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』の長編怪談噺三部作、芝居噺『菊模様皿山奇談』、伝記もの『塩原多助一代記』、人情噺『文七元結(ぶんしちもっとい)』、翻案もの『名人くらべ』など。
し 椎名 誠(しいな・まこと)
本名・渡辺誠。さすがに本名だと思っていたが、渡辺は奥さん(エッセイストの渡辺一枝)の姓。東京都世田谷区生まれ。千葉県幕張出身。東京写真大学中退。流通業界向け月刊誌の編集長の後、書評雑誌『本の雑誌』を創刊。役者・翻訳家・エッセイストの渡辺葉(よう)は長女で、『岳物語』の椎名・渡辺岳(がく)が長男だが、歌手の椎名林檎は無関係。
椎名 麟三(しいな・りんぞう)
本名・大坪昇。実存主義文学者。大岡昇平、武田泰淳、野間宏、梅崎春生らと同様に「戦後派」と呼ばれる。
ジェームス 三木
脚本家。小津安二郎監督が『生まれてはみたけれど』の頃、ジェームズ槙(大森のゼームス坂からとった)という名前で脚本を書いていてこれにちなんだと思ったが、1955年テイチク新人コンクールに合格し、13年間歌手生活していたから(フランク永井やペギー葉山がそうだったように)アメリカっぽい名前になったようだ。先輩のディック・ミネに芸名を依頼したのだが、「これから税務署に行くから忙しい」と断られた。そこでめげずに「ゼームショイク」→「ジェームスイク」と考えて現在の名前にした。当時からもてまくったようで、年老いた今もセリフは「この次口説くぞ」だという。本名・山下清泉(きよもと)でまるで「清元(節)」みたいだ。子どもに俳優・山下規介。
鹽井 雨江(しおい・うこう)
「鹽」は「塩」の旧字。詩人、国文学者。本名・正男。妹の長が大町桂月と結婚。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、号に関するアンケートに「吹きそふ花の浦風に、からくれなゐのふぶきして、ふりしく入江の春の雨。よに面白く目にしみて、おぼえし空をなつきしみ、わが身に添へし名なりけり」と答えたという。
塩野 七生(しおの・ななみ)
本名同じ。1937年7月7日生まれ。七夕生まれなので、父母から「七生」と名付けられる。日比谷高校から62年学習院大学文学部哲学科を卒業。卒業論文にはボッティチェリを取り上げる。63年〜68年にかけて、イタリアに遊学。68年より執筆活動を始め、処女作『ルネサンスの女たち』を『中央公論』に発表。「第一作を発表した時も、文章を業とできるなどとはとうてい思えず、本名のままではじめてそれが現在に至っているほど偶然にこの道に入った」という。初めての書き下ろし長編『チェザーレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により、70年度毎日出版文化賞を受賞。この年よりイタリアに住む。82年『海の都の物語』により、サントリー学芸賞を受賞。翌83年、これまでの作品活動に対して菊池寛賞を受賞。1988年『我が友マキアヴェッリ』より女流文学賞を受賞。1992年より、ローマ帝国興亡の1000年を描く「ローマ人の物語』の執筆に取り掛かる。1年に1冊、2006年までの15年をかけて全巻刊行の予定。第1作『ローマ人の物語1』により、新潮学芸賞を受賞。99年に司馬遼太郎賞を受賞。2002年に、これまでの多数の著作を通じてイタリアの歴史と文化を日本に紹介した功績で、イタリア政府から国家功労賞を受賞され、勲章を授与される。ローマ在住。
志賀 矧川(しが・しんせん)
本名・重昂(しげたか)の方が知られている地理学者、政治評論家。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、故郷の岡崎を流れる矢作川(旧表記「矢矧川」)からだという。
時雨 音羽(しぐれ・おとは)
作詞家で唱歌「スキー」、歌謡曲「出船の港」「君恋し」など。本名・池野音吉。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、サツと来てサツと晴れる時雨が大変好きなんです。ある時野原でこれに遭遇(であ)ひぐつしよりぬれて歩いてゐますと、芦の間から水鳥が飛んでゆくのが目につきました。その音が馬鹿によかつたので、羽根の音を上下して音羽、一寸(ちょつと)判じ物みたいですね」(私の雅号の由来変名の由来」)と語っているという。
重松 清(しげまつ・きよし)
本名の「重松清」や「田村章」や「岡田幸四郎」(田村章は母方の祖父、岡田幸四郎は父方の祖父の名前から---『セカンドライン』)など、20近いペンネームをペンネームを使い分け、ゴーストライターとしての仕事を含めると執筆量はこれまでで単行本100冊、雑誌原稿3000本の分量に達するという。早稲田大学教育学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター。91年に最初の作品『ビフォア・ラン』を発表。98年、『ナイフ』が坪田譲治文学賞受賞、同じ年に『定年ゴジラ』が直木賞候補。99年、『エイジ』が山本周五郎賞受賞。田村章など多くの筆名で『ネットワーク・ベイビー』などドラマの脚本や週刊誌の記事なども手がける。他に『四十回のまばたき』『幼な子われらに生まれ』など。『早稲田文学』編集者時代、酔いつぶれた作家の中上健次を背負って送って帰ったことがあって、これがきっかけで、「私」をおさえるスタイルをとるようになったという。きっと中上の重さが身にしみたのだ。NHK「ようこそ先輩」を採録した『見よう、聞こう、書こう。』(KTC中央出版)では次のように言っている。
…全部合わせると一五、六個。なかには女の子になったペンネームもあるし、外国人になったときもある。頑固なおじいさんになりきったこともある。
だから、「田村章」で仕事をするときもあれば、「岡田幸四郎」という名前で仕事をすることもある。「恩田礼」というのは女性です。女の子になりきって書いています。
なんでそういうふうにペンネームを使うかというと、そのほうが思いきって他人になれるからです。いろんな人になり代わってみようということをいちばん最初に言ったよね。ニンジンの嫌いな人は好きな人になったつもりで書いてみようというように、ペンネームをつけると、これは自分ではないんだから恥ずかしくないんだ、もっと自由に、というようになっていく。
重森 孝子(しげもり・たかこ)
脚本家。本名・辻本孝子(つじもと・たかこ)。
獅子 文六(しし・ぶんろく)
百獣の王「獅子」、「文豪」(文五)を上回る「文六」になろうとしたためという伝説もあってこちらの方が好きだが、「四四、十六」というもじり。本名の岩田豊雄で『海軍』という小説も書いており、戦争協力姿勢を戦後問われることになったため獅子文六の方を多用するようになっていく(占領軍に詫びを入れた話が『娘と私』に出てくる)。『金色夜叉』のパロディの『金色青春譜』には香槌利太郎(がっちりたろう)という青年金貸しが出てくる。演劇面では本名で通す。本名は父親の故郷の豊前中津から、弟・彦二郎は郷里の名山・英彦山(ひこさん)にちなんで名付けられた。渡仏中にフランス女性と恋愛して妊娠した彼女を連れて帰国。『娘と私』のモデルの娘の名前は巴里にちなんで「巴絵(ともえ)」と名付けた。初の新聞小説も娘を題材にしているが『悦っちゃん』。後妻・シヅ子も病死。旧華族の松方幸子と再々婚し、60歳で長男を得たが、「大人の集まり」と見直した倫敦から「敦夫(あつお)」と名付けた。獅子文六の名前は漫才コンビ「獅子てんや」「瀬戸わんや」に残った(文六の『てんやわんや』は四国愛媛が舞台だから「瀬戸」)。「小力道山の話」の中で次のように書いている。
長女は、巴里でタネづけされたので、巴絵と名づけた(…)ロンドンとくれば、欧州二大都会を並立させることになる。この伝でいくと、第三子は、紐育に因んで、『ヒモ三』とでも名づけなければならぬが、倖いにして、私の生殖能力は今度が最後の光芒らしいから、心配はいらない。
柴 英三郎(しば・えいざぶろう)
本名・前田孝三郎(こうざぶろう)。脚本家。
斯波 四郎(しば・しろう)
本名・柴田。小説家。「山塔」で芥川賞。「檸檬・ブラックの死」など。
芝木 好子
旧姓・芝木。「瑞丘千砂子」名で少女雑誌『若草』『令女界』に投稿。42年、経済学者・大島清と結婚して本名・大島好子。
柴田 よしき
ミステリー作家。青山学院大学卒。1995年「Rico」で横溝正史賞受賞。「本名ではありません。本名はないしょ(笑)。ペンネームの由来も半分はないしょ(笑)。下の名前の部分は、死んだ弟の名前のもじりです」というメールをいただいた。
柴田 錬三郎(しばた・れんざぶろう)
「柴錬」(しばれん)と呼ばれたが、本姓・斎藤。長兄は剣太郎、二兄は大史郎、そして練三郎だったが、4人目を自分で創造して狂四郎と名づけた。『眠狂四郎無頼控』は戦後の混乱を江戸時代に移した作品。
南フランスを訪れた時、地元紙の記者からどんな作家なのかと聞かれて「余は、アレクサンドル・デューマの如き作家である」と答えた。それが広まって、カジノではディーラーから「ムッシュウ・デューマ」と呼ばれる。懐は寂しかったけれど、ひるんでは“文豪”が泣く。「あとへはひけぬ。私は、有金(ありがね)を投入することにした。背水の陣である」(『わが賭場行』)。
司馬 遼太郎(しば・りょうたろう)
本名・福田定一。庄司薫も福田姓だったが、単純すぎて嫌われる?歴史家の司馬遷に「遼か」及ばないという謙遜。懸賞論文を出すときに近くにあったのが『史記』だったという伝説も。命日は「菜の花忌」という。妻の福田みどりが『司馬さんは夢の中』という本を出した。「司馬さん」と呼びかけるが、結婚当初にきっかけを逸し、「ついに名前では呼べないままだった」という。柳広司『二度読んだ本を三度読む』(岩波新書)が次のように書いている。
司馬遼太郎は晩年、身近な人に「ペンネームを変えれば小説を書けるんだがなあ」と漏らしていたという。彼が小説からエッセイ・対談へと軸足を移していったのは、作品が売れ過ぎたことによる皮肉な結果だった。
渋川 驍(しぶかわ・ぎょう)
小説家、評論家。本名・山崎武雄。町田純一の筆名もある。
澁澤(渋澤) 龍彦(しぶさわ・たつひこ)
本名・龍雄(たつお)。 東京大学文学部仏文科〔53年〕卒業後、文筆生活に入る。マルキ・ド・サドや中世ヨーロッパの悪魔学の紹介など、翻訳、評論、小説と幅広く活躍。59年出版のサド『悪徳の栄え』で筆禍を招き、いわゆる“サド裁判”になる。主著に『サド復活』『神聖受胎』『悪魔のいる文学史 ―神秘家と狂詩人』『思考の紋章学』、小説集『犬狼都市(キュノポリス)』『唐草物語」『ねむり姫』など。『渋沢龍彦集成全7巻』(桃源社) 『新編ビブリオテカ渋沢龍彦全10巻』(白水社)がある。59年、作家の矢川澄子と結婚したが68年に離婚。エッセイ集『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』の中で4日続いた幻覚がピタリと現れなくなって、つれづれに考えたことが書かれている。ノドを切り取ったのでもはや声が出ない。さればこれからは「呑珠庵」と称することにしよう。ノドに腫瘍ができたのは美しい珠を呑みこんだからであって珠がノドにつかえているから声が出ないという見立てである。スペインの放蕩児ドン・ジュアンと音が似ているところが憎い。
ともに幻想文学を扱ってカリスマ的な存在だった独文学者の種村季弘(たねむら・すえひろ)は本名だった。
渋谷 天外(しぶや・てんがい)
本名・渋谷一雄。喜劇役者だが館直志(たて・なおし)として数多くの脚本を手がける。一部に本名を「しぶたに」とすると書いてあるが、「しぶや」が正しい(と長男の渋谷成男さんからのメールがあった)。1992年2代目天外の実子(本名・渋谷喜作、1954― )が3代目を襲名した。
島尾 敏雄(しまお・としお)
本名同じ。『死の棘(とげ)』!妻は島尾ミホ、娘は島尾マヤ。ミホには田村俊子賞を受賞した『海辺の生と死』や小説集『祭り裏』がある。孫は島尾まほ。漫画『女子高生ゴリコ』でデビュー。『まほちゃんの家』で島尾家のことを書く。まほの父で写真家の伸三は、まな娘が幼児期に生み出したハナクソ、手足のつめを日付入りで保管しているという。
嶋岡 晨(しまおか・あきら)
詩人。「“死んじまおうか”のアナグラムではないか、と邪推します。アナグラムと言うより英語風に名姓順でです」------岡島昭浩
島木 赤彦
本名・久保田俊彦。ゴーギャンのタヒチ“島”の“赤”い肌の女が描かれている絵「タヒチの女」が好きだった。
島木 健作
本名・朝倉菊雄。「島木」赤彦と初期のペンネーム黒井「健」次と志賀直哉『暗夜行路』の時任謙「作」を合わせた。
島崎 藤村(しまざき・とうそん)
どちらも姓みたいだが本名・春樹。別号・古藤庵無声など。明治女学校時代に恋心を抱いた教え子・佐藤輔子の「藤」とも(巖谷大四の説)、輔子が別の許嫁(いいなずけ)と結婚し、藤村は学校を退職し、キリスト教の信仰も捨て、傷心旅行に出かけ、この旅行で思い浮かんだのが芭蕉の「草臥(くたびれ)て宿かる頃や藤の花」から「藤」を採ったともいわれる。傾倒していた北村透谷の「透」と「村」に由来するという説もある。
島田 荘司(しまだ・そうじ)
本名同じ。広島県福山市昭和町生まれ。武蔵野美術大学商業美術デザイン科卒。『占星術殺人事件』が江戸川乱歩賞候補作になり作家デビュー。ミステリーに「新本格派」のジャンルを切り開いた第一人者で多くの作家のペンネームを考えた。
島村 抱月(しまむら・ほうげつ)
旧姓・佐々山、本名・滝太郎。家が貧しかったので裁判所の給仕となり勉学、東京専門学校(現早稲田大学)政治科入学。学費などを後援してくれた那賀郡浜田町裁判所検事の「島村」文耕の養子となる。文耕の姪島村イチ子と結婚。「抱月」は蘇東坡(蘇軾)の『赤壁賦』の「抱明月而長終」から。蘇東坡は詩文から流罪になって『赤壁賦』(せきへきのふ)を書いたが、抱月も松井須磨子(本名・小林正子)との恋愛から早稲田大学を逐われて芸術座を旗揚げした。流感で亡くなったが須磨子は後追い自殺。
島田 雅彦(しまだ・まさひこ)
本名同じ。小説の他に詩やエッセー、戯曲、オペラ台本など幅広く手がける。法政大学国際文化学部教授。東京外国語大学在学中に『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビューし、『僕は模造人間』『天国が降ってくる』など話題作を矢継ぎ早に発表。「文壇のプリンス」と言われた。サヨク→青二才→ヒコクミン→?と時代に先んじて「転向」を重ねてきた。
島本 理生(しまもと・りお)
『リトル・バイ・リトル』が2003年の芥川賞の候補にもなった。通っていた都立高校が肌に合わず2年で中退。単位制の都立高校に入り直した。「小さい頃から物事は自分で決めた」という一徹さを持つ。2003年4月に立教大学文学部入学。『リトル・バイ・リトル』は2度離婚した母親と、父親の違う姉妹からなる家庭が舞台で稼ぎ手の母親が職を失うが、高校を卒業した主人公ふみはしっかり者で家計を助ける。母親とはまるで姉妹のようで、新しい世代の親子関係がにじむ。この作品で野間文芸新人賞を最年少受賞した。
清水 一行(しみず・いっこう)
本名・和幸。文章の「一行」をも大切にしたかったから。
清水 径子(しみず・けいこ)
俳人。本名・経子(つねこ)で漢字をちょっと変えただけで俳号らしくなった例。東京都出身。『雨の樹』で詩歌文学館賞(俳句部門)を受賞した。第1句集は『鶸(ひわ)』。句歴は70年で、『清水径子全句集』を2005年刊行した。
清水 紫琴(しみず・しきん)
本名・とよ。明治期の女流文学者。漢学者・清水貞幹の長女。後に東大総長となる古在由直(農芸化学者)と再婚。哲学者・古在由重の母。
志水 辰夫(しみず・たつお)
本名・川村光暁。ファンには「シミタツ」の愛称で呼ばれている。高知県生まれ。高知商卒。公務員を経て出版社勤務。のちに雑誌のフリーライターとなり、40代で本格的に小説を書き始める。
清水 義範(しみず・よしのり)
本名同じ。旧ペンネーム・沖慶介。愛知県名古屋市生まれ。愛知教育大学国語科卒。学生時代からSFを書き、卒業後上京、広告会社・ジャックに勤務。多くのジュブナイル小説を執筆後、『昭和御前試合』を発表。パスティーシュ小説で独自の世界を開拓。「痴水幼稚範」と書くこともある。弟は清水幸範で共著に『電脳兄弟のパソコン放浪記』。問題は清水良典という同音の文芸評論家がいることだ。奈良県出身だが小牧に住んでいて作品にもニアミスが多い(「しみずよしのり」の項『笑説 大名古屋語辞典』)。
子母沢 寛(しもざわ・かん)
本名・梅谷松太郎。結構めでたい名前だったが、住んでいた大森新井宿「子母沢」と菊池「寛」から(紀田『ペンネームの由来事典』によれば語呂のよいところからだという)。
志茂田 景樹(しもだ・かげき)
本名・下田忠男。静岡県生まれ。中央大学法学部卒。「下田」ではあんな過激な格好はできそうもない。それにしても、平凡な田舎のおじさんの名前だ。服装などの過激ぶりはその反動か?
霜多 正次(しもた・せいじ)
本名同じ。作家。『沖縄島』など。
下村 海南(しもむら・かいなん)
ジャーナリスト、政治家、歌人。本名・宏。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、台湾時代に台湾が日本の海南だというところから付けたという。
下村 湖人(しもむら・こじん)
本名・虎六郎(ころくろう)。自伝的教養小説『次郎物語』を書いているから「次郎」だと思っていた。50歳でデビューする時に「虎人」としたが吉田絃二郎から「固い」といわれ、スコットの『湖上の美人』にヒントを得て「湖人」に。既に故人。
寿岳 文章(じゅがく・ぶんしょう)
真言宗の住職であった鈴木快音の次男として生まれ、規矩王麻呂(きくおうまろ)と名づけられる。姉の嫁ぎ先の養子となって寿岳となちり、得度して文章と称する。娘は寿岳章子。
釋迢空/釈超空(しゃくちょうくう)
本名・折口信夫(おりぐち・しのぶ)。釋迢空のペンネームについては富岡多惠子が『釋迢空ノート』(岩波)でやったのだが、『半歩遅れの読書術2』(日本経済新聞社)に丸谷才一が富岡多惠子が前人未踏のことをやってのけた、といって紹介しているのがコンパクトなので写す。
それは折口が詩歌小説を書く時に用ゐた筆名、釋超空についての探求である。その由来、命名者は誰かなど、在来ほとんど不問に付されてゐたことについてじつくりと考へ、調べ、折口の少年時代の恋人であつたらしい年長の男、浄土真宗の僧、藤無染を割り出してゆく。折口は十三歳の年、大和への一人旅のときにこの若者と出会ひ、恋を知つたにちがひないといふのだ。おそらくこのころ、無染によつて超空といふ法名をつけてもらつた。釋は法名の上に冠する語。姓ではない。そして折口は十八の年に上京して国学院に入学し、無染と同居してゐるし(これは自筆年譜にもある)、この年に詠まれて歌集に収めない歌は五百七首の多きにのぼる。翌年の年譜がまつたく空白なのは、この年、無染が妻帯したための別離による衝撃のゆゑと富岡さんは判断している。正しいだらう。すなはち折口にとつて文芸作品は、初恋の人の命名した法名によつて発表すべき性格のものであつた。
つまり、釈というのは浄土真宗の法名で「超空」とは「山魅」、つまり「山の妖精」である。おそらく二人で山中を放浪しているときに、恋人である僧侶がたわむれに折口をこう呼んだのではないかということだ。
朱川 湊人(しゅかわ・みなと)
大阪市生まれ。慶応大卒。出版社勤務を経て文筆活動に入り、作家デビューから3年。2回目の直木賞候補で受賞した。受賞作『花まんま』は大阪の路地裏に起きた不思議な出来事を子供時代の記憶として描いた。『超魔球スッポぬけ』(幻冬舎)には「ペンネームの秘密」というエッセイがある。新人賞の最終候補に残った最初のペンネーム(明らかにしていない)が某先生から「このペンネームは何なのだ」と鋭い指摘を受けたので現在のペンネームに変えることになったという。公的な場で由来を聞かれると「朱川というのは朝焼けに染まった川のイメージで、湊人は、“その淵に立っている人”という意味です。つまり、朝の清らかな感覚を忘れずに生きていきたい……という意味を込めて、このペンネームをつけました」ということにしているという。でも、本当に深い意味はこのエッセイに書いてあるように、友達のコピーで試験を楽に突破しようと思っていた朝の通学電車が荒川を渡る時に太陽が輝き、光の川のように感じられた時に、自分の情けなさに気づいたことからつけたという。また、敬愛する俳優の岸田森が脚本を書く時に使っていた「朱川審」からも借りているという。
庄司 薫(しょうじ・かおる)
本名・福田「章二」で名前を姓にした例。「庄司薫」で「しょうじくん」と呼べるから。「福田章二」で書いた小説『喪失』でデビューしている(江藤淳が「新人福田章二を認めない」で厳しく批判した)。『赤頭巾ちゃん気をつけて』で「中村紘子さんみたいな若くて素敵な先生について…優雅にショパンなど弾きながら暮らそうかなんて思ったりするわけだ」と書いているように、奥さんはピアニスト・中村紘子。日比谷高校で古井由吉、塩野七生が同級、二級上に坂上弘がいた。『赤頭巾』には「だって、日比谷の名簿を見ても庄司薫なんて見つからないのだから」と書いている。
間違ってはいけないことは『赤頭巾』の薫くんは1950年生まれで東大入試中止という事態を迎えるのだが、福田章二は1937年生まれで一浪して日比谷に入り、東大法学部を出て、丸山眞男の門下生となったものだ(『赤頭巾』が教養小説っぽいのはその辺りに原因がある)。『赤頭巾ちゃん気をつけて』『さようなら怪傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞えない』『ぼくの大好きな青髭』の四部作は青春・朱夏・白秋・玄冬という風水学に合わせたものとなっている。
高田惠里子『グロテスクな教養』によれば、「日本的教養の衰退を考えるうえでの分岐点となる」のが、「1969年に発表された庄司薫の小説、『赤頭巾ちゃん気をつけて』であ」り、「この小説は、紛うかたなき教養論なのである」という。「女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか」と初版の腰帯に書かれていたのが何よりもの証拠であり、この「男の子」は良家出身の学歴エリートだけを指していたことからも明らかだという。
大塚英志は川田宇一郎の「由美ちゃんとユミヨシさん---庄司薫と村上春樹の『小さな母』」を引用しつつ、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)「庄司薫はデレク・ハートフィールドなのか」(『風の歌を聴け』で主人公の「僕」が「文章についての多く」を学んだとして登場する架空の作家で庄司と経歴が微妙に一致し、特にハートフィールドが活動したのも『赤頭巾』から『青髭』までも8年と2カ月だったこと)で『赤頭巾』が採用したペンネーム=主人公というやりかたを用いて作者の福田章二を消すやりかたが、村上春樹以降の作家に決定的な影響を与えたと主張している。村上春樹の『鼠』四部作は「薫ちゃん四部作」を下敷きにしていて、『ノルウェイの森』に『赤頭巾』の一部がそのまま再現されているという。福田としては丸山門下生という出自がばれると、その作が色眼鏡で見られることを恐れたこと、著作が説教臭を帯びるのを嫌ったなどで採用した方法だろう。大塚英志の推測は最近、庄司薫の名前がまったく忘れられているのも、村上春樹以降の作家の創作の秘密を守るためだという。
東海林【しょうじ】 さだお
「ショージ君」の本名はそのままだと思っていたが、“庄司”禎雄(しょうじ・さだお)。1937年杉並区高円寺生まれ。一浪の末、早稲田大学露文科入学。早稲田大学美術史専攻を受験するつもりが、申し込みの時、隣の列が露文科で「露文科のほうがカッコいいんじゃないか」と志望変更。大学2年頃、早大漫画研究会にて、園山俊二、しとうきねお、福地泡介らと出会う。サラリーマンを主役にした漫画を多数描いているが、本人はサラリーマン経験はない為、一般的なサラリーマンと価値観にずれが見られる。東海林はこれについて「人間の本質を書いている」という旨のコメントを出している。
城島 明彦(じょうじま・あきひこ)
本名・小林一邦(かずくに)。東宝、ソニー勤務(『ソニー燃ゆ』『ソニーの壁』など)を経て、作家。1946年三重県生まれ。83年「けさらぱさらん」でオール読物新人賞受賞。以下は、本人からのメール。
早稲田大学第一政経学部で専攻したゼミナールの仲間に「城島秋彦」という、まるで芸名のような名の男がおり、いい名だとうらやましく思っていた。ペンネームをつける必要にかられた際、自分は夏生まれなので、夏彦にしようと思い、続いて姓を考えた。どうせなら芸術の神様を祭っている秋篠寺にあやかって「秋篠」とするか、いっそのこと「城島」にするかで迷ったが、秋篠夏彦では秋と夏が一緒で妙な感じになると思ってやめた。その後、秋篠宮家が誕生したときには「しまった」と地団太踏んだものだった。で、「城島夏彦」にしようとしたのだが、口に出して読んだときの響きが今ひとつに思え、「あきひこ」にすることにした。しかし、同姓同名ではいかにも能がないと思い、もう一人のゼミ仲間「林明彦」の明彦を借用、合成した。
庄野 潤三(しょうの・じゅんぞう)
本名同じ。作家。父は帝塚山学院創設者の貞一。兄は児童文学者の英二。大阪市生まれ。九州帝国大学東洋史学科卒業。従軍ののち中学校教諭、朝日放送勤務、早稲田大学講師など。ロックフェラー財団研究員として米・ケニオン大学留学(1957-58)。
笙野 頼子(しょうの・よりこ)
本名・市川頼子。高校時代まで伊勢市で過ごす。立命館大学法学部卒業後、「極楽」が群像新人文学賞を受賞。以後「大祭」「皇帝」「冬眠」「虚像人魚」を発表した後も作品執筆は続いていたが、評価されず。『タイムスリップ・コンビナート』で芥川賞。
白井 喬二(しらい・きょうじ)
大衆文学者。『新撰組』!本名・井上義道。歌舞伎の白井権八のモデル「平井権八」(殺人や強盗などを犯して自首・処刑、愛人の小紫が墓前で自害した)の家に住んでいたことで「白井」、字面のよさで「喬二」。「星蔭」のペンネームも。
白柳 秀湖(しらやなぎ・しゅうこ)
明治〜昭和期の文学者、史論家。本名・武司(たけし)。筆名は哲羊生(てつようせい)、曙の里人(あけのさとびと)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、生家の近くに引佐細江(いなさほそえ)という浜名湖の支流があり、そこから12、3歳頃に付けた名前だという。
白井 鐵造(しらい・てつぞう)
本名・白井虎太郎(しらい・とらたろう)。
白石 一郎(しらいし・いちろう)
本名同じ。直木賞作家で海洋歴史小説の第一人者。韓国・釜山生まれ。早稲田大卒業後、福岡市に居を構え、サラリーマン生活を経て1957年、講談倶楽部賞を受賞しデビュー。日本では少なかった雄大な海洋歴史小説を開拓するなど、一貫して時代、歴史小説を執筆し、87年『海狼伝』で直木賞を受賞した。『戦鬼たちの海』で柴田錬三郎賞、『怒濤のごとく』で吉川英治文学賞。双子の長男・一文と次男・文郎も作家で一文は2010年に親子で初の直木賞受賞者となる。
白石 かずこ(しらいし・かずこ)
本名・白石嘉寿子。詩人。「嘉寿子」では新しい詩を書くのは難しい?カナダ生まれ。「男根」という言葉を使った時に詩壇内外から激しく指弾されたが、伊藤比呂美まで待たなければならなかった。
白岩 玄(しらいわ・げん)
京都市出身の綿矢りさと学校は違うが同学年で、彼女の活躍に刺激を受けた。京都府立朱雀高校を卒業後、1年間の英国留学を経て、2004年春から大阪デザイナー専門学校に通っている。芥川賞候補作『野ブタ。をプロデュース』は絶えず演技をして日々を送っている高校生が主人公で“つんく♂”が“モーニング娘。”を世に送り出したように、いじめられっ子の太った編入生を“野ブタ。”としてプロデュースし、人気者に仕立てあげるというもの。
白川 道(しらかわ・とおる)
中国・北京生まれ、神奈川県湘南出身。一橋大学社会学部卒。家電メーカー、広告代理店などに勤務したのち、株式投資顧問会社を経営する。1994年『流星たちの宴』で作家デビューし、「アウトロー作家」として注目される。
白洲 正子(しらす・まさこ)
本名同じ。1910年、東京生まれ。父・樺山(かばやま)愛輔は実業家・貴族院議員・枢密顧問官。アメリカ、ニュージャージー州のハートリッジスクールを卒業後、白洲次郎と結婚。白洲次郎はヨーロッパ滞在中にブガティ(ロールス・ロイスの数十倍高級な車)を乗りこなす生活を送っていた。吉田茂元首相の側近として連合国軍総司令部との連絡・調整にあたり、後、東北電力会長。
能、着物、やきもの、古典、仏教等、多方面にわたり執筆活動を行い、著書は『お能の見方』『心に残る人々』『花と幽玄の世界−世阿弥』『巡礼の旅−西国三十三ヵ所』『明恵上人』『かくれ里』『私の百人一首』『西行』『いまなぜ青山二郎なのか』『白洲正子自伝』『両性具有の美』など。文章の切れ味は「韋駄天お正」と言われた。
白鳥 省吾(しらとり・せいご)
民衆派詩人。本名同じ。
シリン・ネザマフィ(Shirin Nezammafi)
イラン・テヘラン出身で大阪府に在住している在日イラン人の女性小説家。ペルシャ語を母語とするが、日本語を母語としない作家が文學界新人賞を受賞するのは、2007年に受賞した中国出身の楊逸に次いで二人目、非漢字圏出身者としては初受賞。受賞した短編「白い紙」は日本にほとんど関係のないイラン・イラク戦争のことを日本語で書いていて、これは日本文学なのだろうか、新しいジャンルの日本語文学なのだろうかと迷う。今後、日本のことを書かないとも限らないので、やっぱり日本文学なのだろう。
城山 三郎(しろやま・さぶろう)
本名・杉浦英一。結婚後独立してもった家の住所が名古屋千種区の城山だった。転居が三月だから「三郎」となった。四月だったら「四郎」、十二月だったら「十二郎」になった。「逆境を生きる』(新潮社)にはこんなことが書いてある。
そして五月のある日、私が風呂に入っていたら、家内が飛んできて、「うちにシロヤマなんて人いないわよねえ」と言う。「電報配達の人が来て『お宅の住所にシロヤマって人がいるから渡してくれ』って。しらないわよねえ」「待て待て、それはおれだ、おれだ」
あそこで家内が追い返していたら賞を断ったことになっていたのかなと今でも思うんですが、幸い、わりに早く賞をもらうことができて、それから一年ぐらいで直木賞も受賞できました。
辛酸 なめ子(しんさん)
城山三郎に『辛酸」(田中正造が好きだった漢詩から)という小説があるが、こちらは本名・池松江美(いけまつ・えみ)。メディア・アクティビスト。94年にGOMESマンガグランプリで「94GOMES賞」を受賞以来、主に辛酸なめ子名義では、過剰な描き込みとエロ〜オカルト〜トレンドあらゆる日常の情報を詰め込みながら結果的に日常を逸脱したコミックを雑誌やwebなどに発表。一方、「池松江美」名義でエッセイや立体作品などを手がける。斎藤孝が『読むサプリ』で次のように書いている。
「辛酸なめ子」というペンネームがスゴい。これですっかり気に入った。それにしても、ペンネームに「なめ子」を入れる勇気は、緋牡丹お竜の入れ墨を入れるようなものではないだろうか。【…】
辛酸なめ子の本名は池松江美さん。「池と松が同時に存在する場所で写真を撮ることにしています」というくだらなさをも持つ。男も中学ぐらいまでは、このノリでバカなことをやっているが、だんだんバカバカしいものに、費やす余力を失ってしまうのだ。
「辛酸なめ男」というペンネームでも持てば、私ももったく書くものが変わるのではないかと思った。新庄 哲夫(しんじょう・てつお)
翻訳家。本名・哲雄(てつお)。元東京新聞編集委員。ジョージ・オーウェルの『1984年』、ボブ・ウッドワードの『権力の失墜』など、数多くの翻訳を手がけた。
辛 淑玉(しん・すご)
東京生まれ。 国籍はあえて「在日コリアン」で通す。朝鮮名の「淑玉」は父の辛開一が「艱難汝を玉にする」の意で名づけ、節子という日本名は母親が女優の原節子のファンであったために付けられたという。劇団の子役を経て、ファッションモデルとして約10年間活動。 「自分の足で立てる」ようになった二十歳の時にそれまでの芸名「辛セツコ」から本名の「辛淑玉」を名乗る。後に、大手広告代理店「特別宣伝班」に入社。『怒りの方法』(岩波新書)など。
新谷 識(しんたに・しき)
本名・荒松雄(あら・まつお)。インド哲学の「アーラヤ識」をもじった。ちなみに「ヒマラヤ」は「ヒマ(雪)+アーラヤ(ある)」。
陣出 達朗(じんで・たつろう)
本名・中村達男(たつお)。
進藤 純孝(しんどう・じゅんこう)
本名・若倉雅郎(まさお)。志賀、川端の評論で有名。
新橋 遊吉
本名・馬庭胖(まにわ・ゆたか)。大阪府生まれ。初芝高校卒。7年間の療養生活の後、旋盤工として法貴製作所勤務。
真保 裕一(しんぽ・ゆういち)
東京都生まれ。千葉県立国府台高校卒。アニメ制作会社にてディレクターを務め、「笑ゥせぇるすまん」などを演出。92年「連鎖」で江戸川乱歩賞を受賞して作家デビュー。
す 末広 鉄腸(すえひろ・てっちょう)
本名・末広重恭(しげやす)。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、唐の皮日休(ひじつきゅう)の「花賦の序」からだという。
須賀 敦子(すが・あつこ)
本名同じ。聖心女子大学卒業後、フランスに留学。28歳のときイタリアに渡り13年間滞在。イタリア人ジュゼッペ(ペッピーノ)・リッカと結婚し、谷崎潤一郎、川端康成、安部公房などの日本文学をAtsuko Ricca Suga名で翻訳した。80年から上智大学で教鞭を取り、82年外国学部助教授、89年から比較文化学部教授に就任。91年の『ミラノ 霧の風景』は文章が詩的で繊細な感情に富み多くの人々をひきつけた。林真理子は『20代で読みたい名作』の中で女流文学賞候補になっていたのに編集者から「こんなことってあるかしら。まるっきり名前を聞いたこともないおばさんが、しかもエッセイで賞を獲ったのよ」という電話を受けた話を書いている。須賀に『ユルスナールの靴』という随筆があるが、この作家のマルグリットが花の名前で、ユルスナールが「ユレル」「ユスル」という日本語を連想させるというのが、須賀がユルスナールに惹かれた一因だそうだ。フランスの作家ユルスナール(Yourcenar)は本名のド・クレイヤンクール(de Crayencour)のアナグラム。
スガ【糸+圭】 秀美(すが・ひでみ)
文芸評論家。1949年新潟県生まれ。学習院大学を中退後、「日本読書新聞」編集長を経て、文芸評論家に。著書に『花田清輝―砂のペルソナ』『メタクリティーク』『複製の廃墟』『探偵のクリティック』『小説的強度』『詩的モダニティの舞台』『文芸時評というモード』『「超」言葉狩り宣言』『日本近代文学の〈誕生〉』『大衆教育社会批判序説』など。共著に『皆殺し文芸批評』(四谷ラウンド)などがある。
杉浦 日向子(すぎうら・ひなこ)
本名・鈴木順子(すずき・じゅんこ)。杉浦日向守という人がいたが、関係があるかどうか不明。東京・京橋の呉服屋に生まれ、江戸文化に傾倒。稲垣史生に時代考証を学ぶかたわら、80年に初めて描いた漫画「通言室乃梅」が『ガロ』に載る。彰義隊の悲劇を題材にした「合葬』で84年に日本漫画家協会賞優秀賞、『風流江戸雀』で88年に文芸春秋漫画賞。この年に荒俣宏と結婚するが半年で離婚。荒俣は93年にお見合いで美人の日航パーサー・ヤスコさんと再婚。端正な筆致で、庶民の粋な風俗や生活感あふれる日常描写を得意とした。ほかに北斎父娘を描いた『百日紅』、怪談集『百物語』など。 93年に「隠居宣言」をして漫画から引退。小説に『ごくらくちんみ』、エッセーに『江戸へようこそ』『呑々草子』などがある。95年から9年あまり、NHK「コメディーお江戸でござる」のレギュラーも務め、江戸文化の名案内役としてお茶の間で人気を集めた。
杉 みき子(すぎ・みきこ)
本名・小寺佐和子。新潟県高田市生まれ。「日本のアンデルセン」と賞される。小川未明が卒業した大手町小学校の後輩で、在学中にそれを知って驚き、児童文学を志す。『かくまきの歌』『小さな雪の町の物語』『小さな町の風景』など。ペンネームの由来は「高田は杉の木が多く、花という柄ではないので、ただ立っているだけの幹のほうが似合っている」からだそうだ。
杉村 楚人冠(すぎむら・そじんかん)
本名・広太郎。ジャーナリスト。凝った性格で他の筆名に「縦横」「四角八面生」「涙骨」など多数。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、『史記』に出てくる「楚人は沐猴(もっこう)にして冠するもの」から。
杉本 章子(すぎもと・あきこ)
福岡県八女市生まれ。小説家。金城学院大大学院卒。福岡市在住。短篇「男の軌跡」でデビュー。『東京新大橋雨中図』(人物往来社、1988.11jで第100回直木賞を受賞。2002年9月、『おすず−信太郎人情始末帖』(文芸春秋)で第8回中山義秀文学賞(福島県西郷村・中山義秀顕彰会主催)を受賞。
杉本 彩(すぎもと あや)
日本のセックスシンボルの一人で、「官能小説家」に「基栄」はないだろうと思うが、本名・松山基栄(まつやま もとえ)。京都市左京区出身のタレント、女優。京都府立北稜高等学校卒業。官能小説『インモラル』の他に責任編集した小説集『エロティックス』がある。これは「私のカラダを熱くした官能文学名作選」のサブタイトルで、谷崎潤一郎、吉行淳之介、中島らも、江國香織らの官能の世界18編が凝縮されている。
杉山 義法(すぎやま・ぎほう)
本名・よしのりで有職読みをしたペンネーム。脚本家。日大芸術学部卒。NHKの大河ドラマ「天と地と」や日本テレビの年末時代劇「忠臣蔵」「白虎隊」などの脚本を執筆。歴史物を得意とし、スケールの大きな作風で知られた。
鈴木 明(すずき・あきら)
ノンフィクション作家。本名・今井明夫(いまい・あきお)。TBSの放送専門誌『調査情報』編集長から作家に。73年『「南京大虐殺」のまぼろし』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。ほかに『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』『昭和20年11月23日のプレイボール』など。
鈴木 輝一郎(すずき・きいちろう)
本名同じ。1960年岐阜県大垣市生まれ。日本大学経済学部卒業。企画営業・製造販売の職歴を経た後、91年作家としてデビュー。歴史・時代小説を中心にエッセーや推理小説も執筆。以下は本人からのメール。
鈴木輝一郎というのは何だか大仰で筆名臭い名ですが本名です。まあ、いろいろ暗い青年時代を送っていて、ルサンチマンの発露という意味あいもあって、筆名を使う気はありませんでした。特徴のある名前なので、編集さんから『ペンネームにしろ』と言われることもありませんでしたしね。¶子供のころは嫌だったんですが、筆名としてみると、画数の多い字と少ない字が交互にあって活字にした場合の字面がいいこと、覚えやすく読みやすい割に同名が滅多にいないこと、など、良い面が多いので、今になって両親に感謝しています。
鈴木 光司(すずき・こうじ)
本名・鈴木晃司。浜松市生まれ。横浜市出身。慶応義塾大学文学部仏文科卒。劇団を旗揚げし、脚本、演出を手掛ける。『楽園』が日本ファンタジーノベル大賞優秀賞。『リング』は横溝正史賞最終候補まで残り、のち刊行され、ホラーブームの火付け役に。「文壇最強の子育てパパ」を標榜。
鈴木 晶(すずき・しょう)
本名でないことを四方田犬彦の『ハイスクール1968』で知った。
鈴木 志郎康(すずき・しろうやす)
詩人・評論家・映像作家。本名・鈴木康之。辻征夫の「亀戸」の中で次のように詠われているが、鈴木せともの店は志郎康の実兄が営む実在のお店。
亀戸十三間通り
鈴木せともの店でpoetry reading!
やがて志郎康となる少年康之の
ブタクサの原っぱ本名・貞太郎(ていたろう)。同郷の西田幾太郎、藤岡作太郎と親交を結び、「加賀の三太郎」と呼ばれる。学生時代、円覚寺の今北洪川(こうせん)、釈宗演(しゃく・そうえん)に参禅して「大拙」の道号を受けた。 水上勉『破鞋【はあい】 雪門玄松の生涯』(岩波書店)は国泰寺の管長を務めた、型破りな禅僧・雪門禅師の生涯を描いたもの。「鞋」というのは「わらを編んで作ったはきもの、わらじ」のことで「破れた草鞋」で歩いた玄松のことをいうようだ。この作品の中で、釈宗演と貞太郎のやり取りを次のように想像して書いている。
「わしの故郷の若狭から出た和尚で、大拙承演といわれる禅師がおられる。相国寺の僧堂で鬼大拙とよばれなさったきびしいお方じゃ。洪川和尚も大拙和尚に参禅された。また、この方は、岡山曹源寺の儀来和尚の兄弟子にもあたられる。わしの故郷の縁を尊んで、お前さんに大拙和尚の名をくれるがどうじゃ」
貞太郎鈴木が、、何といってこの命名をうけとったか記録はない。おそらく、
「ありがとうございます。若狭出身の大和尚の名を頂戴するのは光栄です」
といったかもしれぬ。鈴木 六林男(すずき・むりお)
本名・次郎。無季俳句などで表現の可能性を追求した俳人で大阪芸大元教授。新興俳句の拠点だった『京大俳句』に投句し、西東三鬼に師事。戦時中は中国やフィリピンを転戦して「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」のように戦場の人間模様を鋭くとらえた句を作った。 71年、俳誌『花曜』を創刊。80年には戦前の新興俳句弾圧事件で西東三鬼をスパイとした説に対して遺族が起こした裁判に協力して「死者の名誉回復をかけた裁判」として注目を集め、勝訴した。95年、句集『雨の時代』で蛇笏賞。02年には現代俳句大賞を受けた。現代俳句協会副会長などを務めた。
詩人の大岡信は『百人百句』(講談社)の中で大正8年(1919年)前後に生まれた人に代表的な俳人が多いことを説明している。森澄雄、金子兜太、鈴木六林男は大正8年、飯田龍太は9年である。この世代には戦地で青春期を送った人が少なくない。俳句という短い詩形ならば、軍隊の過酷な環境のもとでも作品を記憶することができただろう、と説明している。
鈴木 茂三郎
政治家。戦後、日本社会党結成に参加し、49〜50年書記長、51年委員長に就任し「青年よ銃をとるな」と呼びかけた。社会党分裂に伴い引き続き55年まで左派社会党委員長、統一後60年3月まで委員長を務める。その後、「社会文庫」を設立、日本近代文学館に寄贈した。通称「モサさん」、筆名は薄茂人、郷田要助、志村堅之、宇津木徹也、関新八、吉田繁二、安田求ほか。
薄田 泣菫(すすきだ・きゅうきん)
本名・淳介。キーツのすみれの花を哀愁をこめて歌った詩が好きだったから。キーツのソネットを基に「絶句」、オードを基に「賦」という独自の定型詩を発達させた(日本語の音韻構造のため脚韻配置まではうまく行かなかった)。
洲之内 徹(すのうち・とおる)
本名同じ。『気まぐれ美術館』で有名な評論家。旧松山中学(現・松山東高校)の校歌も作詞していて、大江健三郎もこの歌で育ったという。
諏訪 三郎(すわ・さぶろう)
本名・半沢成二。諏訪のペンネームは故郷赤津で子供時代に遊んだ諏訪神社からとったものである。1941年『大地の朝』でベストセラー作家となった。
諏訪 哲史(すわ・てつし)
名古屋市生まれ。国学院大学卒。会社員をしながら作品を書き、2007年、「アサッテの人」で群像新人文学賞を受けデビュー、続けて芥川賞も射止めた。
せ 清家清(せいけ・きよし)
建築家だが、本も出しているので扱う。本名同じ。『上手な老い方』(小学館)の対談では落語が好きで芸名も持っているという。
「きよのやきよし。清家清そのままですけれど(笑)。私の名前は、父が洒落で付けたんですが、上から呼んでも下から呼んでも同じ。“山本山”です(笑)。それで、私も自分の子供に、意図して名前を付けました。清家いせ。上からも下からもせいけいせ。ただ、この名前は、私の恩師であるドイツのワルター・グロビウスさんの夫人・イセさんにちなんで、つけたものでもあるですがね」
青来 有一(せいらい・ゆういち)
本名・中村明俊(なかむら・あきとし)。
瀬尾 まいこ
本名・瀬尾麻衣子。大谷女子大学文学部卒。2001年、「卵の緒」で第7回坊ちゃん文学賞大賞を受賞。講師を9年間務めた後、中学の国語教師となる。作家は誰も主人公の名前に気をつかうものだが、瀬尾は特にこだわりがあるように思える。『図書館の神様』の主人公は「清」(きよ)という国語の先生。『坊ちゃん』からではなく、犬の生まれ変わりとして名前がつけられた、先祖から因縁の名前になっている。そして、清く正しく生きるのだが…。『幸福な食卓』では大浦という男の子が塾で成績で勝ってみせると宣言するのだが、名前を言わない。というのも、「勉学」という、まんまの名前だったからだ…。「がらくた効果」(『優しい音楽』)で言語学者をホームレスにしているのが気に食わない(笑)。
関川 夏央(せきかわ・なつお)
本名・早川哲夫。1949年新潟県生まれ。上智大学外国語学部中退。雑誌記者を経て、執筆活動に入る。85年、『海峡を越えたホームラン』で、第7回講談社ノンフィクション賞受賞、98年、『「坊ちゃん」の時代』(共著)で、第2回手塚治虫文化賞受賞。第4回司馬遼太郎賞など。『海峡を越えたホームラン』『ソウルの練習問題』『砂のように眠る』『退屈な迷宮』『水の中の八月』『「ただの人」の人生』『二葉亭四迷の明治四十一年』『よい病院とはなにか』『中年シングル生活』『豪雨の前兆』『水のように笑う』『森に降る雨』『昭和時代回想』『東京からきたナグネ』『知識的大衆諸君、これもマンガだ』『司馬遼太郎の「かたち」』など。
摂津 茂和(せっつ・もあ)
ゴルフ評論家。もちろんペンネームで、本名・近藤高男。摂津がゴルフに関する読み物を書き始めたころ、たまたま映画館で見たフランス映画の中で、新人女優が自分の名前の載ったポスターを指さして“セ・モア(あれが私よ“C'est moi.”)”と叫ぶシーンが気に入って、それをペンネームにしたと伝えられている。
瀬戸内 寂聴(せとうち・じゃくちょう)
指物職人であった父・豊吉が大伯母にあたる瀬戸内いとと養子縁組して瀬戸内家を継ぐ。本名・瀬戸内晴美で「瀬戸内海が晴れて美しいなど、何とも照れ臭い名前だが字面もイメージも音感も結構よくて私は気にいっていた」。岡本かの子を描いた『かの子繚乱』など仏門に入るまでは「晴美」。66年12月に流行作家生活を清算したいと京都に移住し、73年得度して法名・寂聴を名乗る。今東光が自分の法名「春聴」の一字を与える。
「寂聴って、『出離者は寂なるか、梵音(ぼんのん)を聴く』から取ってある。出家者は、心の煩悩がおさまって寂(しず)かである、その寂かな心に、仏様の声とか言葉、いい鐘の音とかが聴こえてくる、ってことなんですよ」(朝日新聞1999年12月2日「語る」)
瀬名 秀明(せな・ひであき)
作家。本名・鈴木秀明。F1のアイルトン・セナから採ったと思えるが、ペンネームの瀬名は静岡に実在する地名から。95年、『パラサイト・イヴ』で第2回日本ホラー小説大賞を受賞。東北大学工学研究科機械系の特任教授(SF機械工学企画担当)に就任した。
瀬沼 茂樹(せぬま・しげき)
本名・鈴木忠直。ナイオ・マーシュの『死の序曲』には訳者が瀬沼茂樹で奥付に本名が「鈴木忠直」と書いてある。文芸評論家専門として売れる前の仕事のようだ。太宰治の研究者として文壇にデビューし、伊藤整の未完に終わった『日本文壇史』を完結させた。
妹尾 河童(せのお・かっぱ)
舞台芸術家。『少年H』は本名・肇。「河童」は戸籍上の本名だが、あだ名を本名として改名した例で珍しい。本人の話によれば、大阪の劇場で宣伝ポスターの仕事をしていた生意気盛りの頃、周りの人から「河童」と呼ばれていて、ある時、本名でというと「河童は絶対に嫌か」といわれ、人からダメといわれると反発したくなる性格なので、そのままにしていた。1971年に海外へ行くことになり、既に“Kappa Senoh”で名が通っているので、改名することにした。ところが、裁判官は「珍奇な名前をまともな名前に変えることはあっても逆はない」と冷たい。そこで、親からの手紙などにも「河童」などと書かれていることを示すと、涙ながらに改名を許したという。
千家 元麿(せんげ・もとまろ)
これが本名だから羨ましい。『炎天』など。
千石 英世(せんごく・ひでよ)
アメリカ文学者、文芸評論家、立教大学文学部英米文学科教授。1972年東京教育大学文学部アメリカ文学科卒業、1975年東京都立大学大学院英文学専攻修士課程修了。1983年、「ファルスの復層 小島信夫論」で群像新人賞受賞(当初はペンネーム板倉洋を使ったが、発表時に本名に戻す)。
千田 是也(せんだ・これや)
本名・伊藤圀夫(くにお)。徳川夢声との対談(『芸術新潮』1946年5月号)によれば、関東大震災直後、千駄ヶ谷で朝鮮人に間違われ、襲われそうになった、だからセンダとコレアをとって芸名にしたという。「だから、僕が署名するときにはコレYA(ヤ)と書かない。必ずコレA(ア)と書きます」と発言している。舞踊家伊藤道郎(みちお)、舞台装置家伊藤熹朔(きさく)の実弟という舞台一家に育った。俳優、演出家。1904年東京生まれ、東京府立一中卒業。早稲田(わせだ)大学独文科聴講生を経て、1924年(大正13)創立の築地(つきじ)小劇場に文芸部員兼演技研究生として参加、旗揚げ演目の一つ『海戦』の水兵役で初出演。ドイツに留学からの帰国直後、軽演劇人も含めた演劇人統一組織の東京演劇集団を結成し、ブレヒト作『三文オペラ』の翻案的脚色『乞食(こじき)芝居』を上演した。何度か投獄された。戦後は俳優座劇場を作り、その演劇研究所で多くの俳優を育てた。妻は女優の岸輝子(てるこ)。
そ 宗 左近(そう・さこん)
本名・古賀照一(こが・てるいち)。戦争で亡くなった人々への鎮魂詩で知られる詩人・評論家だが、戦争中死線をさまよって「そうさ、こん畜生」といった捨てぜりふから。本名とペンネームで翻訳もしているが、法則性はない。1919-年、福岡県生まれ。45年に東京大空襲のさなかに母の手を離し、焼死させてしまったことへの贖罪を込めた詩集『炎(も)える母』で68年に歴程賞を受賞した。また縄文時代への関心を深め、『縄文』などの連作詩集を発表したほか、縄文美術の評論活動を続けた。ほかに詩歌文学館賞を受けた『藤の花』などがある。仏文学者としてフランス象徴詩を紹介、ロラン・バルト『表徴の帝国』やアラン『幸福論』などを翻訳した。
宗田 理(そうだ・おさむ)
東京都世田谷区生まれ。愛知県幡豆郡一色町出身。日本大学芸術学部映画学科卒。シナリオライター、編集者、PR代理業を経て、作家に。少年少女を主人公とする「ぼくら」シリーズで人気を博す。
相馬 御風(そうま・ぎょふう)
本名・昌治。三木“露”風らと早稲田詩社を結成。蘇東坡『赤壁の賦』「浩浩乎如馮虚“御風”」から。
相馬 黒光(そうま・こっこう)
旧姓、星。本名・良(りょう)。随筆家。宮城県生まれ。相馬愛蔵と結婚して新宿中村屋を創業。サロンを開き荻原守衛・中村彝(つね)らを援助、エロシェンコやビハリ=ボースを保護した。『黙移』など。
添田 唖禅坊(そえだ・あぜんぼう)
詩人、演歌師。本名・平吉。紀田『ペンネームの由来事典』によれば、『あゝ金の世』『わからない節』を出した時にこの名前にしたという。「唖禅」は季語で「泣かない蝉」。
添田 さつき(そえだ・さつき)
文筆家。放浪の演歌師として著名な添田唖蝉坊{あぜんぼう)の長男。唖蝉坊は「ああ金の世」で「強欲非道とそしろうが がりがり亡者とののしろうが 痛くもかゆくもあるものか 金になりさえすればよい 人の難儀や迷惑に 遠慮していちゃ身が立たぬ」とうたった。本名・添田知道(ともみち)。戦争下の1942年、自分が卒業した貧民街の万年小学校長坂本龍之輔をモデルに、書き下ろし長編小説『教育者』で第6回新潮社文芸賞を受ける。全4巻、2400枚のこの大長編は未完。63年『演歌の明治大正史』で第18回毎日出版文化賞を受賞。ほかに『日本春歌考』(1966)などがある。
祖田 浩一(そだ・こういち)
本名・祖田咸利(そだ・しげり)。歴史小説などで活躍。著書に『不機嫌な作家たち』『楠木正成』など。『日本女性人名辞典』を監修した。
曾野 綾子(その・あやこ)
夫の三浦朱門は本名だが、こちらはペンネーム。『私の文学履歴書』によると、父など周囲の理解が得られず、本名を名乗るのが憚られて曾野綾子のペンネームを使うようになる。子は『太郎物語』の太郎で孫は太一。本名・町田知寿子で洗礼名は「マリア・エリザベト」。他人から「ますだ」とか「まつだ」と間違えられて「あのぉ、そのぉ」と言った口癖からだという【が本当かしら?】。あいうえおで早い名前をというので「綾子」としたというが…。
そのまんま 東(ひがし)
ペンネームではなく芸名だが、宮崎県知事当選後に使い始めた本名「東国原英夫」(ひがしこくばる・ひでお)が衝撃的だったので、書いておく。『ビートたけし殺人事件』などの本もある作家。1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て付き人となる。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。82年前後、たけしと東国原以下たけしの弟子たち(後のたけし軍団)の宴会が開かれ、その席で弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに対して、「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いた。東国原はすでに「東英夫」という芸名を名乗っていたので、たけしは「東はもう“そのまんま”でいいよ」と答えた。しかし、書記係のラッシャー板前がたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「“東英夫”」ではなく「“そのまんま東”」とメモしてしまった。最終的に半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。
デビット・ゾペティ(David ZOPPETTI)
1962年スイス生まれ。ジュネーブ大学、同志社大学卒業。日本に住み、テレビの記者・ディレクターを勤めた。97年『いちげんさん』で作家デビューして第20回すばる文学賞受賞。作品は日本語で書かれているので、日本文学である。本当は「デビッド」となるところだろうが、「ヤンキーズ」や「タイガーズ」を「ヤンキース」「タイガース」とする日本人に合わせたのだろう。
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
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