あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
や〜よ
や 矢川 澄子(やがわ・すみこ)
本名同じ。東京生まれ。東京女子大英文科、学習院大独文科を卒業後、東大文学部美学美術史学科中退。59年に作家渋澤龍彦と結婚。68年に離婚後、70年代から文筆活動をはじめた。独特で繊細な美意識をいかして、評論、詩作、小説など幅広くとりくんできた。『野溝七生子というひと』『おにいちゃん――回想の澁澤龍彦』『アナイス・ニンの少女時代』など多数。『ぞうのババール』などの絵本やギャリコの『雪のひとひら』など、翻訳も多い。2002年に71歳で自殺。武蔵野美大教授・小池一子は妹。
八木柊一郎(やぎ・しゅういちろう)
本名・伸一(しんいち)。新劇や商業演劇で幅広く活躍した劇作家。旧制高校在学中に同人誌に作品を発表し始め、55年、文学座「三人の盗賊」でデビュー。以来、青年座、文学座などに幅広い作品を書き下ろした。小説の脚色も多く、商業演劇の脚本や、テレビドラマも多く手がけた。87年、家族を通して日米関係や昭和史を見つめた「国境のある家」で紀伊国屋演劇賞個人賞。女性2人の戦後史を描いた「メリー・ウィドウへの旅」などで95年度芸術選奨文部大臣賞を受けた。
矢口 純(やぐち・じゅん)
本名・純(きよし)。エッセイスト。 婦人画報編集長時代、サントリー宣伝部員だった山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』(63年に直木賞)を同誌に発表、世に送り出した。
薬丸 岳(やくまる・がく)
富山の人間には薬師岳(やくしだけ)みたいだ。1969年、兵庫県明石市生まれ。高校卒業後、劇団に入団。半年で退団し、数々のアルバイトを経て旅行会社に勤務。乱歩賞応募時のペンネームは「秋葉俊介」だったが、選考委員・逢坂剛氏の助言により、本名の字面の「薬丸岳(がく、本名・たけし)」でデビューすることが決まった。
矢崎 泰久(やざき・やすひさ)
『話の特集』の編集者。本名そのまま。父・寧之が菊池寛の秘書だった。
菊池寛は私のゴッドファザー(名付け親)である。幼名は「祥夫(さちお)」。どうという特色のない名前である。実際には、「桂馬」が最初に菊池が私に付けた名前だった。後にそれを聞いて、私は「矢崎桂馬」は悪くなかったのにと残念に思った。将棋好きの菊池は、桂馬を使って勝利することがおおかった。桂馬の不規則な動きとしたたかな役どころを特別に気に入っていたのである。
-----矢崎泰久『口きかん』(飛鳥新社)矢代 静一(やしろ・せいいち)
本名同じ。劇作家。三島由紀夫の友人で『仮面の告白』に「私」を「悪所」に誘う友人として描かれていると、『旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志』(新潮社)に書かれている。加藤道夫は加藤治子の夫で芥川賞作家・加藤幸子の叔父。娘に矢代朝子、宝塚出身女優の毬谷(まりや)友子(本名・矢代友子)がいる。姪に男役トップだった絵麻緒(えまお)ゆう。
安原 顕(やすはら・けん)
本名・顕(あきら)。「ヤスケン」と呼ばれた。評論家・編集プロデューサー。東京生まれ。早稲田大学仏文科中退。中央公論社など出版社6社で『パイディア』『海』『マリ・クレール』『リテレール』など文芸を中心に編集者をつとめた。女性誌『マリ・クレール』の副編集長時代に担当した吉本ばなな『TUGUMI』は200万部を超すベストセラーになった。97年からフリー。「スーパーエディター」「天才」を自称し、辛口の批評でも知られた。2002年秋、インターネット書店のサイトでがんを公表し、闘病記を連載していた。著書に『へそまがり読書王』『上野桜木ジャズ日記』など多数。没後の2006年に村上春樹の原稿が古書店に流出する事件が明るみに。
矢田 挿雲(そううん)
本名・義勝。歴史読物『江戸から東京へ』の作者で明治の代表的毒婦・高橋お伝を読物にした人でもある。
柳田 國男(やなぎた・くにお)
民俗学者。「やなぎた」である。作家の「柳田邦男(やなぎだ・くにお)」と間違う人が時々いる。折口信夫同様にたくさんのペンネームを持っていた。井上ひさし「筆名考」(『ふふふ』講談社)によれば次の通り。
…大正二年三月、高木敏雄君とともに「郷土研究」という雑誌を創刊し、毎月千部ずつを頒(わか)ったことがあるが、高木君はやがて私と袂(たもと)を分って同誌に執筆しなくなり………執筆者が少なくなった。(そこで)執筆者の少ない分を、私の匿名による、いささか文体を違えた文章で補ったが……休刊のさい、世間を罵倒する「休刊の辞」を本名で記し……雑誌刊行中使用した匿名【19もあった―井上注】を全部使用して短文の報告を載せた。---『故郷七十年』
使い分けには一定の規則があって、山人(さんじん)について書くときは久米長目(くめながめ)、樹木信仰について書くときは尾芝古樟(おしばこしょう)を使用した。
久米長目の由来は、故郷の長目ということころに寺があり、堕落した久米仙人がそこに隠遁(いんとん)したという伝説からきており、尾芝古樟は母の実家の姓と、同家にあった古い樟(くすのき)の老樹にあやかった筆名だそうだ(松崎兼三の調べによる)。
筆名の付け方からみると、若いころの柳田國男は、ずいぶんお茶目な人だったようである。
柳原 白蓮(やなぎはら・びゃくれん)
歌人。林真理子に『白蓮れんれん』という伝記がある。東京生まれ。本名・宮崎【火+華】あき子。伯爵柳原前光の次女。北小路資武と離婚後、1910年(明治43)東洋英和女学校卒業。九州の「石炭王」伊藤伝右衛門と結婚し「筑紫の女王」として世の耳目を集めたが、やがて実家に戻り、21年、新聞に夫への絶縁状を載せた。年下の学生宮崎龍介(中国革命の援助者・宮崎滔天の息子)と恋愛結婚、以後ともに無産者解放運動に挺身、第二次世界大戦後は平和運動と宗教的世界に関心を示した。1900年に佐佐木信綱に師事、『心の花』に作品を発表。数奇な運命に翻弄されつつ精神的な苦悶を激しい情熱で乗り越えようとした。歌集に『踏絵』(1915)、『幻の華』(1919)、『地平線』(1956)など。評伝に長畑道子『恋の華・白蓮事件』(新評論)もある。
柳家 金語楼(やなぎや・きんごろう)
落語家、喜劇俳優。本名・山下敬太郎。父の金勝(きんしょう)とともに2代目三遊亭金馬門下。金登喜(きんとき)から小金馬(こきんば)となり、師没後に3代目柳家小さん門下となり、金三(きんざ)で真打。大正末から昭和初期にかけて兵隊の体験を生かした「兵隊落語」で売り、金語楼襲名後も自作自演の新作(筆名・有崎勉)で活躍。
柳下 毅一郎(やなした・きいちろう)
「特殊翻訳家」と自称。「ガース柳下」というペンネームも使う。
やなせ たかし
本名・柳瀬嵩(やなせ・たかし)。「アンパンマン」の作者でもあるが、「手のひらを太陽に」(作曲・いずみたく)「天使のパンツ」(作曲・天井正、編曲・小森昭宏)「ロマンチストの豚」(作曲・木下牧子)などの作詞家でもある。
矢野 竜渓(やの・りゅうけい)
本名・文雄。ジャーナリスト、小説家、政治家。『経国美談』など。
矢作 俊彦(やはぎ・としひこ)
本名同じという説と違うという説もある。1950年神奈川県生まれ。作家。東京教育大学付属駒場高校卒。68年に漫画家としてデビュー、船員などの職業を経て、73年、『抱きしめたい』(「ミステリマガジン」)で作家としてデビュー。77年、処女長編『マイクハマーへ伝言』を発表。その後もミステリ、ハードボイルドなど幅広い作風で作品を発表する。90年に発表し、全共闘世代の姿をリアルに切り取った『スズキさんの休息と遍歴』は各方面から高い評価を受け、後にドラマ化される。一方で、『気分はもう戦争』(画:大友克洋)などコミックの原作や、映画『ギャンブラー』の監督など、様々な分野で活躍を見せる。主な作品に『新ニッポン百景』『あ・じゃ・ぱん』『スズキさん休息と遍歴』『ドアを開いて彼女の中へ』『東京カウボーイ』など。
山岡 荘八(やまおか・そうはち)
本名・藤野庄蔵。婿入りの前の姓だった「山内」の「山」と「庄」の本字「荘」を活かした。一時しのぎだったが、実家と婚家に遠慮してどっちつかずの名前になったそうだ。剣豪だからといって血縁まで斬れはしなかった。
山川 方夫(やまかわ・まさお)
慶応義塾大学文学部フランス文学科卒、慶応義塾大学大学院文学研究科修了。田久保英夫や桂芳久らと『三田文学』を復刊し江藤淳を発見。安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、遠藤周作、小島信夫、阿川弘之、三浦朱門らと「第三の新人」と呼ばれた。あまりにもストーリーテリングが巧みだったので、芥川賞候補になった時、選考委員の何人かは「売文業者」と呼んだ。若くして交通事故で亡くなった。本名・嘉巳(よしみ)。父の秀峰は鏑木清方、池上秀畝を師とする日本画家だった。ペンネームの由来は鏑木清方の「方」と私淑していた梅田晴夫の「夫」を取って付けたという。佐伯一麦は『芥川賞を取らなかった名作たち』(朝日新書)の中で次のように書いている。
ペンネームは姓と名を両方変える人もいますが、このように名前だけ変える人は、自分の現実的な基盤を書いて、それを文学で乗り越えようとしたり、文学的な表現に高めようとしたりというタイプが多いですね。
山際 淳司
本名・犬塚進という週刊サンケイの記者だった。1980年に創刊したスポーツ雑誌『Number』に山際淳司と改名した「江夏の21球」が掲載され、翌年「スローカーブをもう一球」で日本ノンフィクション大賞を受賞した。
山口 あかり(やまぐち・あかり)
作詞家。本名・山崎裕世(やまざき・ひろよ)で何だか老人ホームみたいなペンネーム。TBS系まんが日本昔ばなしのエンディング曲「にんげんっていいな」を作詞。森昌子や石原裕次郎らの歌も手がけた。
山口 誓子(せいし)
本名・新比古(ちかひこ)でこれを分割して「誓+子」とした。
山口 瞳(やまぐち・ひとみ)
女性的な名前で、本名だが、お母さんが菊池寛の『新珠』の登場人物からつけたのではないか、と本人は述懐している。『江分利満氏の優雅なサヨナラ』には軍隊時代に困ったと書いている。
【…】そもそも彼等はヤマグチヒトミなんていう名の存在を認めようとしない。しかも軍隊というところは常に名を告らないといけない。便所に行くのにも名告る。「ヤマグチヒトミ厠へ行ってまいります」。ああ気持が悪い。これには参ったなあ。
山口 雅也
1945年横須賀市生まれ。早稲田大学法学部卒業。ミステリーをはじめ、映画、音楽などの評論活動を行う。1989年、『生ける屍の死』でデビューし、95年『日本殺人事件』で第48回日本推理作家協会賞を受賞。著書に『キッド・ピストルズの慢心』『續・日本殺人事件』などがある。
山崎えり子
本名・内山江里子。『節約生活のススメ』がベストセラーに。2005年に戸籍偽装で逮捕される。
山崎 哲(やまざき・てつ)
本名・渡辺康徳 (やすのり)。
山崎 豊子(やまさき・とよこ)
本名・杉本豊子。大阪府生まれ。京都女専国文科卒。
山崎 ナオコーラ(やまざき・なおこーら)
【本名を知っている人がいたら教えて】。埼玉県在住の女性会社員。『人のセックスを笑うな』というすごい題名の本で大ブレイク。以前は「山崎ロック」というペンネームだったという。現在のペンネームはただ「コーラが好き」だからだそうだ。こんなペンネームが愛されるようになると「田中ミチポカリ」とか「山田ユミファンタ」とか「山崎サントリー伊右衛門」とかという作家が増えるのだろうか?
「ヘリウムボイス」と呼ばれる特徴的な声と大正琴を弾きながら語る独特の芸風の活弁士・山崎バニラよりもこちらの方が先なのだろう。
高橋源一郎も次のように書いていた。
「すばる」と『大人にはわからない日本文学史』、午後、日本工業倶楽部へ。「文芸賞」の選考会のため。審査員は、他に、田中康夫、斉藤美奈子、角田光代。5時から始まるので3分前に着いたら、田中康夫さんと同時に到着した。田中さん、紙袋をいくつも持っていた(もちろん、秘書などなし)。審査は簡単に終わった。田中、高橋、角田の三人が同じ作品(山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』)を一推しにしたため。あとはもっぱら、「山崎ナオコーラ」というペンネームでいいのか! という、賞の選考とは関係ない話をしていた。授賞が決まった後、編集者が携帯で「山崎ナオコーラ」と連絡がついたというと、田中さんがいきなり「代わって!」といって、その携帯を奪い、「ナオコーラ」と話しはじめた。「ナオコーラ」は、自分よりヘンな人と初めて話したんじゃないでしょうか。結局、その後、斉藤、高橋、角田と順に携帯が回って、「おめでとう」とか「あのペンネームでいいんですか?、ほんとに?」とか「まだ上野? じゃあ、早く家に帰んなきゃ」とか話してから電話を切ったのだが、こんな審査会は初めてです。【…】2004年8月26日
公式の「微炭酸ホームページ」には次のようなプロフィールがある。
1978年9月15日福岡生まれ、埼玉育ち、東京在住、
足は23・5センチ、
好きなひとは金子光晴、
好きなことは散歩です。
好きなコーラはダイエットコーラです。20歳でレイモン・ラディゲ、30歳で林芙美子、 40歳で夢野久作、 50歳になったら、高田純次さんみたいになるでしょう。
『不思議の国のアリス』と、日本のマンガと、平安文学には詳しいです。
「微炭酸ホームページ」の名前の由来ですが、
炭酸よりは微炭酸がいいだろう、と思ったからです。
読んでくれてありがとうございます。
読んでくれる人が大好きです。『作家の読書道』ではこんな発言をしていた。
書いていた時期に本屋さんに行ったら、同性愛の本のコーナーでクスクス笑っているお客さんたちがいたんです。それで心の中に「人のセックスを笑うな」というフレーズが浮かんで。後から、いいリズムだな、恋愛小説のタイトルにぴったりかもと思って。ただ、言葉は鋭かったりするんですけれど、私の小説ってほとんど主張がないんです。筆名もナオコーラという変わったものにしているけれど、言いたいことはありません。ただ「このフレーズには良さがある」と出している。感度で小説を捉える読者はきっと、気持ちいい、感じてくれる。逆に、小説というものを作家の主張の場だとか何かの考えの発表の場だとかと思っている読者には、なんでこんな小説があるのか全然分からないと思う。
久世光彦『遊びをせんとや生れけむ』(文藝春秋)にはこんなことが書いてあった。
人を食ったと言えば、先だっての芥川賞候補作の『人のセックスを笑うな』というのにも笑った。作者の名前を見て今度は仰天した。<山崎ナオコーラ>というのだ。コーラが好きだから、本名の下に<ーラ>を付けてみたのだという。けれど読んでみたら、機嫌の悪い女の子が、顔を隠して笑っているみたいな、可愛い小説だった。大人を相手に遊んでいるのだろう。
沼野充義は柴田元幸編著『文字の都市』(東京大学出版会)の「あとがき」で、「吉本ばなな」が出てきた時は驚いたが、こちらはもっと驚いたと書いている。
…人間はたいていの刺激に慣れ、ロシア・フォルマリストが言ったように、知覚が自動化することは避けられない。そこで「異化」効果をもたらすためには、どんどん刺激の強い手段に訴えなければならないということも、いい悪いは別として、わかりやすいことだ(現代小説において、セックスや暴力の描写がどんどん過激化することも「自然」な流れではある)。しかし、「ばばな」から「コーラ」への変化には、単なる過激化だけでは片付けられない質的な側面もある。それはバナナという自然食品(たぶん健康にいい)から、コーラという工場で製造される工業製品(あまり健康によくなさそうな)への進化ということである。この「進化」は明らかに時代の徴候であり、おそらく文学やそこに描かれている人間関係の質的な変化にもつながるものではないか、という気がする。
長嶋有は山崎ナオコーラ=ロボット説を唱えている。『本当のことしか言ってない』には、自宅で飲み会を開いた時に山崎が「私の箸がありません」といったことから次のように書いている。
…人間は自分にナオコーラなどという名前を名付けられない! 一度きいたら忘れられない、かわいさも刺激も兼ね備えた名前だが、これまでの人類にはなしえない新たなめいめいだった。そこは思い切ったロボット的な「頓着の欠落」がある。名前と思ってもらえないかもしれないとか、ふざけていると思われるという「感じ方」が大胆なまでに「ない」。新人類ととらえるより、ロボと考えるのが自然だろう。
山崎 方代(やまざき・ほうだい)
昭和の放浪歌人。目に戦傷を受けて生涯定職をもたず、結婚もせず、無頼の暮らしのうちに4冊の歌集を残して70歳で世を去った。本名だが、出久根達郎『新懐旧国語辞典』(河出書房新社)によれば次のよう。
方代は本名だが、生き放題、死に放題という意味で、酔った父が命名した、と本人が語っている。しかし、これはどんなものだろう。作品でわかるように、彼には、たぶんに潤色の才がある。貧しい生活であったことは間違いないから、食べ放題、着放題の境遇が送れるように、と親の願いを込めて、命名されたのに違いない。【…】
仮に方代の言う通りなら、死ぬも生きるも勝手気まま、と覚っていた父親は、よほどの人物であろう。【…】
評伝に田澤拓也『無用の達人・山崎方代』(角川書店)がある。その破天荒にして虚実入り組んだ人生を温かい視線で描き、「人はもしも『無用』に生きていけるなら、それだけで『達人』である」と書いている。
こんなところに釘が一本うたれいていじればほとりと落ちてしもうた
茶碗の底を梅干の種二つ並びおるああこれが愛というものだ
一丁の豆腐の前の人生を窓の外から覗きたもうな
人間はかくの如くかなしくてあとふりむけば物落ちている
ころがっている石ころのたぐいにて方代は今日道ばたにあり山路 愛山(あいざん)
本名・弥吉。評論家。江戸生まれだが維新後、静岡に住んだから「愛山」だと思う。
山下 惣一(やました・そういち)
本名同じ。佐賀県唐津市生まれ。湊中卒。農業に従事。その体験を小説やノンフィクションとして発表し続ける。
山下 柚実(やました・ゆみ)
ノンフィクション作家。両親は「柚の香り」という意味で「柚実」の名を付けてくれた。ところが役所から「人名漢字に柚はない。木ヘンを取りなさい」と言われた。それで戸籍上は「由実」に。「柚の芳香」という意味を大切にしたいと、煩雑な目や混乱に遭いつつ「柚」を使ってきたが、「柚」は後に人名漢字に加わった。だったら最初から認めればいいのに…。
山城 祥二(やましろ・しょうじ)
合唱団のハトの会から芸能山城組を作る。本名・大橋力(おおはし・つとむ)で『音と文明』(岩波書店)など。
山代 巴(やましろ・ともえ)。
作家。広島県生まれ。画家を志して入学した東京女子美術専門学校(現・女子美術大)でプロレタリア美術に関心を持ち、夫の山代吉宗と労働運動を行う。治安維持法違反で検挙され、終戦直前まで獄中生活を送った。戦後は広島県を中心に農村文化運動に取り組んだ。著書に『荷車の歌』(山本薩夫監督が映画化)『囚われの女たち』など。
山田 詠美(やまだ・えいみ)
東京都生まれ。父親の転勤で中学時代までを札幌・金沢・静岡で過ごす。高校時代から宇都宮に移る。明治大学文学部日本文学科中退。在学中に漫画研究会に所属し、本名の「山田双葉」で「漫画エロジェニカ」に「洪水」と題する作品を発表。
山田 克郎
本名・克朗。石川県生まれ。早稲田大学商学部卒。
山田 かん
詩人。本名・寛(ひろし)。 被爆体験を原点に平和への祈りを託した多くの詩を発表。1958年に現代詩新人賞受賞。著書に詩集『いのちの火』『予感される闇』、評論集『長崎原爆・論集』など。
山田 邦子(やまだ・くにこ)
タレントで小説家。1960年6月13日東京都生まれ。現在は結婚に伴い、後藤邦子。
山田 五郎(やまだ・ごろう)
本名・武田正彦。1957年12月5日東京渋谷区生まれ。小学校高学年から高校卒業まで大阪で過ごす。上智大学文学部卒業。在学中にオーストリア・ザルツブルク大学に留学、西洋美術史を専攻する。講談社入社。『Hot-Dog PRESS』編集長など。ひょんなきっかけで出演した「タモリ倶楽部」“今週の5つ星り”コーナーで「お尻評論家」 としてテレビデビュー。『百万人のお尻学』など。ペンネームは『ホットドッグ・プレス』編集部の忘れ物入れに落ちていたモンブランのシャープペンシル(pix75=当時は20万もしていた)を処分することになって、そこに記してあった持ち主「Yamada」の名前をペンと共に拝借。「五郎」は執筆を迫られて担当者が適当に決めたもの(NHK「日本人のおなまえ おなまえスター列伝」2019年10月10日放送でも語っていた)。
山田 ズーニー(ずーにー)
Yamada Zoonie。本名・山田みどり。1984年ベネッセコーポレーション入社。小論文通信教育の企画・編集・プロデュースに携わる。2000年独立。講演、執筆活動のほか総合学習時間などの授業企画、教育ソフトのコンテンツ開発などを手がける。著書に『あなたの話は「なぜ通じない」のか』『伝わる・揺さぶる!文章を書く』など。ペンネームでなければベストセラーになったといわれる。糸井重里氏のネットサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」に「おとなの小論文教室」に連載中で、ペンネームの由来も書いてある。
Lesson144 金の自由
わたしの名前、ズーニーは、
カシミール語で「月」という意味だ。北インドのカシミールを旅したとき、
地元の人につけられた。
そのとき一緒にいった友人は、
ソンドリ=金(きん)という名前をつけられた。Lesson223 ほぼ日コラムを書きはじめた理由
【…】2000年5月17日、
このコラムの第1回がスタートした。ぎりぎりまで原稿に追われ、
ペンネームを考える気力もなかった。
送信ボタンを押す直前、たまたま海外旅行先で、
現地の人につけられた名前「ズーニー」をつけて送った。
まさか、この名で仕事をするようになるとは…、
そのときは、予想さえできなかった。山田 太一(やまだ・たいち)
本名・石坂太一。脚本家。
山田 風太郎(やまだ・ふうたろう)
本名・山田誠也(せいや)。「プー太郎」の元祖みたいだが、停学処分を受けたとき、仲間と「雨、霧、雷」と暗号で呼び合い、自分は「風」だったことから。最初は「かぜたろう」としていたが、「ペンネームについて」というエッセーの中で「はじめはペンネームの読み方でさえ、自分でも一定せず、フウタロウかカゼタロウか、呼ぶ人にまかせていたのだが…」といい、自分でもどちらがいいか分からなかったと述懐している。
山田 美妙(やまだ・びみょう)
本名・武太郎。僕は高校生の頃、女性だと思っていた、微妙な命名。
山田 正紀(やまだ・まさき)
愛知県名古屋市生まれ。明治大学政治経済学部卒。SF同人誌『宇宙塵』に処女作を発表。以後、SF、幻想、ミステリーなど多彩なジャンルの小説を執筆。
山手 樹一郎(やまて・じゅいちろう)
本名・井口長次。山手線沿線に住んでいたので「山手線一郎」にしようとしたら反対があって「樹」にした。変なペンネームをつけると家族が反対するという好例だ。母方の姓が「山手」だった。息子に直木賞候補作家の井口朝生(いぐち・あさお=日本大学文学部史学科卒。旧制中学卒業後に陸軍に入る。戦後、シベリア抑留生活を送り、復員後に大学を卒業後、作家)がいる。
山之口 貘(やまのぐち・ばく)
本名・山口重三郎(じゅうざぶろう)。詩人。那覇市生まれ。県立沖縄一中を4年で中退、この頃のペンネームは「山之口サムロ」。1922年上京して転々。「山之口貘」となる。「世はさまざま」という詩に「人は米を食っている/ぼくの名とおなじ名の/貘という獣は/夢を食うという…」とある。詩作は中学時代に始まる。31年『改造』に『夢の後』などを発表。36年『歴程』同人となる。詩は生活実感を写実・低唱風に歌ってときにユニーク。詩集に『思辨(しべん)の苑』(1938)で出た時は泣いたという。「処女詩集」という詩で「…詩集を出したくなったと/女房に話しかけてみたところ/あのときのことをおぼえていやがって/詩集をだしたら/また泣きなと来たのだ」という。『定本山之口貘詩集』(1958)、『鮪に鰯』(1964)など。「表札」という詩では「ぼくのにしてはいささか/豪華すぎる表札なんで/家主の月田さんがいかにも/山之口貘方みたいに見えたのだ」と歌っている。
山之口 洋(やまのぐち・よう)
本名・野口喜洋。東京都生まれ。松下電器産業より日本電子化辞書研究所に出向。汎用電子化辞書の研究に従事した後、松下電器産業マルチメディアシステム研究所勤務。「オルガニスト」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家としてもデビュー。
山村 修(やまむら・おさむ)
慶応義塾大学文学部卒業。青山学院大学図書館司書を長く務めた。サラリーマン生活の傍ら、1981年、首都圏などで発行されている夕刊紙『日刊ゲンダイ』に〈狐〉のペンネームで書評の連載を開始。随筆は本名で書いた。
山村 暮鳥(やまむら・ぼちょう)
本名・木暮(のち土田)八九十(はくじゆう)。伝道師として東北各地を放浪のかたわら、前田林外らの『白百合(ゆり)』に木暮流星の筆名で短歌を投稿。詩人・人見東明が「静かに山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥------どうだね」といった。
山本 周五郎(やまもと・しゅうごろう)
戦後は時代小説家だが若い頃は何でも書いた。黒澤映画の『椿三十郎』『赤ひげ』『どですかでん』などの原作者。少年時代からお世話になった質屋の山本周五郎商店主人の名前をそのまま付けた。本人のいう筆名の由来は23歳でのデビュー作『須磨寺附近』を文藝春秋に送った時、住所を「木挽町山本周五郎方清水三十六」としたのを先方が早とちりして「山本周五郎」になったというが、それ以前から主人の名前を使っていた。本名・清水三十六(さとむ)というのは明治36年生まれだったから。初狩生まれだが、韮崎生まれと称した。先祖が武田の遺臣で韮崎に帰農したという伝承が誇りだったからである。尾崎士郎らの大森相撲協会にも「馬錦」という四股名(しこな)で参加していた。「ああ言えば、こう言う」性格だったらしく、尾崎士郎は「曲軒」(へそまがり)という号を献呈した。ある講演で「(関ケ原の戦いがあった)慶長五年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなくて、そのときに、道修町(どしようまち)の、ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたか【…】を探究するのが文学の仕事だと私は思います」と語ったという(『山本周五郎集』新潮社・尾崎秀樹「解説」)。「貧乏と、屈辱と、嘲笑と、そして明日の望みのなくなったときこそ、初めて我々は人生に触れるのだ」と述べている。「文学は賞のためにあるのではない」が持論で、受賞は固辞続けた。
他のペンネームとして、俵屋宗八、横西五郎、清水清、清水きよし、土生清三、佐野喬吉、仁木繁吉、平田晴人、覆面作家、風々亭一迷、黒林騎士、折箸闌亭、酒井松花亭、参々亭五猿を使用。『日本婦道記』で第17回直木賞に推されたが辞退(直木賞史上唯一の辞退者である)。
山本 太郎(やまもと・たろう)
詩人。父は画家・山本鼎。本名そのまますぎて有名でないかもしれない。仏文学者の山田稔と同様に日本で一番同姓同名が多い?
山本 夏彦(やまもと・なつひこ)
本名同じ。東京都生まれ。父は詩人の山本露葉。中学卒業後、1930年に亡き父の友人だった作家・武林無想庵とフランスに渡り、パリのユニベルシテ・ウブリエールに学ぶ。47年、ショボー「年を歴(へ)た鰐の話」の翻訳で注目される。51年に工作社を設立、55年にインテリア雑誌『木工界』(61年に『室内』と改題)を創刊。念にとらわれない批評眼と、歯にきぬ着せぬ小気味よい文体でコラムを発表。『週刊新潮』『諸君!』などで連載を続け、「コラムの名人」と呼ばれた。新人発掘の目利きとしても定評があり、『室内」から作家の安部譲二氏らを輩出した。 84年に「軽妙しんらつな文体でゆがんだ世相を風刺し、常識の復権に寄与し続けた」として菊池寛賞を受賞。90年に『無想庵物語』で読売文学賞。他に『日常茶飯事』『茶の間の正義』『“豆朝日新聞”始末』『私の岩波物語』『完本 文語文』などの著書がある。『週刊新潮』に連載中の「夏彦の写真コラム」が絶筆となった。
長男は山本伊吾(いご)。新潮社「週刊新潮」編集部を経て、「フォーカス」編集部に移り、編集長を務める。『夏彦の影法師――手帳50冊の置土産』を刊行。
山本 文緒(やまもと・ふみお)
横浜市生まれ。本名・大胡暁美(おおごあけみ)。神奈川大学経済学部卒。OLを勤めたのち、作家へ。1987年「プレミアム・プールの日々」で第10回コバルト・ノベル大賞佳作入選し、少女小説を数多く手掛ける。
山本 昌代(やまもと・まさよ)
本名同じ。津田塾大在学中の83年、「東斎屋金魚」という筆名で、葛飾北斎の娘であり、「おーい」と父の呼ばれ、淡々と返事をする故に「応為」を雅号とする絵師・お栄をヒロインとする小説「応為担担録」で第20回文芸賞受賞。『居酒屋ゆうれい』が有名。
山本 道子(やまもと・みちこ)
本姓・古屋。東京都生まれ。跡見学園短期大学国文科卒業。『魔法』で新潮新人賞、『ひとの樹』で女流文学賞を受賞。詩集『壷の中』、詩集『飾る』、『天使よ海に舞え』、『蛇苺』、『山本道子詩集』など。
山本 有三(やまもと・ゆうぞう)
本名・勇造。もちろん当て字で「勇造」だと「山本勇造商店」の主人みたいだから変えたのだろう。
楊 逸(やん・いー)
本名・劉〓(りゅう・ちょう=「ちょう」は草冠に「攸」)。中国ハルビン市出身。2008年、「時が滲む朝」で第139回芥川賞受賞。中国籍の作家として、また日本語以外の言語を母語とする作家として史上初めての受賞となった。
梁 石日(ヤン・ソギル)
本名・梁正雄(ヤン・ジョンウ)。大阪市猪飼野生まれ。済州島出身。大阪府立高津高校定時制卒。事業失敗後、各地を転々としながらタクシー運転手など様々な職に就く。『血と骨』で三島由紀夫賞。『タクシー狂躁曲』(映画『月はどっちに出ている』の原作)『族譜の果て』『夜の河を渡れ』『夜を賭けて』『快楽と救済』(高村薫との共著)など多数。
ゆ 唯川 恵(ゆいかわ・けい)
本名・坂本泰子。「唯川恵」は「かわゆい」のアナグラムではなく、お母さんが昔使っていたペンネーム「行川奎(ゆいかわけい)」が由来だったという。金沢市生まれ。金沢女子短期大学情報処理学科卒業。10年間の会社勤務を経て、小説を書き始める。『海色の午後』で第3回コバルト・ノベル大賞を受賞し、以後、青春小説家、エッセイストとして活躍。2002年『肩ごしの恋人』で直木賞を受賞。
結城 昌治(ゆうき・しょうじ)
本名・田村幸雄(ゆきお)。『ゴメスの名はゴメス』の推理作家で都筑道夫が命名した。「結城」は「幸雄」から。
本名同じ。在日韓国人家庭である父・柳原孝、母・梁栄姫の長女として生まれたという。妹の愛里はAV女優?になる。『私語辞典』によれば、お父さん同様「やなぎ」と名乗っていたが、劇団で「やなぎ」「ゆう」の両方で呼ばれていて、どちらかにしなさいといわれて、「ゆう」に決めたという。『水辺のゆりかご』では東京キッドブラザーズを主宰していた東由多加が「ヤナギ」と呼ばれても「ユ」と呼ばれても返事をする柳に「ふたつ名前があるのはよくありません。どちらかに決めなさい。あなたはヤナギなんですか、ユウなんですか」と迫ったと書いている。
私は唇をむすんで数秒考えたあと、韓国語読みの本名「ユ ミリ」を「ユウミリ」とききまちがえていると思ったが、「ユ」よりも「ユウ」のほうがひびきがいいので、訂正する気にはなれなかった。
「ユウでいきます」
そのときから現在にいたるまで私は「ユウミリ」を名乗り通している。「柳」だと「リュウ」だと思っている人も多いかもしれないが、方言で「R」(表記は「L」)音がなくなったのだが、「李」で「イ」など漢字は昔のままにしている人が多い。『JR上野駅公園口』が2020年に全米図書賞の翻訳部門で受賞した。
湯川 薫
東京大学教養学部、理学部物理学科卒業。カナダ、マギール大学大学院にて理学博士号を取得。竹内薫の名前で『科学の終焉』を翻訳、ベストセラーになる。『ディオニシオスの耳』でミステリーデビュー。
湯川 裕光
民主党の松崎哲久衆院議員。作家「湯川裕光」のペンネームで劇団四季のミュージカルの台本や歴史小説を執筆していたことを2004年に公表した。
湯川 れい子(ゆかわ れいこ)
本名同じ。音楽評論家、作詞家、翻訳家。東京都出身。エミー・ジャクソンの歌った『涙の太陽』は、元祖和製ポップス(元祖J-POP?)といわれている。この曲は当時日本コロムビアの洋楽レーベルであったCBSから発売され、湯川れい子もR. Hot Rivers名義で英語で作詞した(まんまじゃん)。
由起 しげ子
本名・伊原志げ。旧姓・新飼。夫は画家・伊原宇三郎。
夢野 久作(きゅうさく)
本名・杉山泰道。父は国士の杉山茂丸。慶応大学文科を中退後、農園を経営。いったん剃髪して幼名「直樹」を「泰道」に改めたが、法名のまま還俗して農園に戻った。福岡でのろまのことを「夢野久作」ということからという。『ドグラ・マグラ』!
夢枕 獏(ゆめまくら・ばく)
本名・米山峰夫。獏は夢を食べるからだ。「いかにも、そのようなものを書きそうな名前」(『倒れて本望』)と書いている。日本SF作家クラブの本人の談によれば次のようである。
この「夢枕獏」というペンネームを使い始めたのは、 同人誌風のものをやっていた高校生の頃で、 いまは忘れてしまいましたが、色々なペンネームを使っていて、 「夢枕獏」に落ち着くまで二年くらいは費やしたと思います。 「獏」は勿論、あの悪夢を食べるといわれているあの「バク」。 「夢」とか「獏」とかに対して、世間の人達が抱いているイメージがありますよね。 夢のような話を書きたいと、そういう発想で付けたペンネームです。
でも、つくづく10代の勢いで付けてしまったペンネームだなと思います。
今はもう慣れましたが、世間に定着するまで随分恥ずかしい思いをしました。 喫茶店などで待ち合わせをしている場合、相手が遅れたりすると、 店に連絡が入って呼び出されるでしょう。「ユメマクラさま-」
他人の視線が気になって、すぐには立ち上がれなかったことを思い出します。(談)夢枕獏がまだ二十代の頃、ある編集者から「流行作家の椅子はいくつあるかご存じですか」ときかれたという。「知らない」と答えると「十五です。いつの時代も十五しかない。誰かが座れば誰かが落ちる。そのうちの一つに座ってみませんか」と持ちかけられた。「実は今、椅子が一つ空いているのです。ついしばらく前まで、新田次郎という方が座っていた椅子です」といって口説かれたという(『神々の山嶺(いただき)』集英社文庫「あとがき」)。
2010年夏の日本SF大会で「小説誌に秘密のペンネームで短編を書いています」と告白した(未公表)。
由良 君美(ゆら・きみよし)
伝説の知性。本名なのだが、次のような由来がある。四方田犬彦『先生とわたし』である。
【…】彼【父親の哲次】はハンブルグで長男出生の報せを受けると、生まれたばかりの息子に新井白石の幼名である君美(きんみ)を与え、「きみよし」と読ませた。
矢川澄子 由良君美還暦記念画文集『文化のモザイック』(緑書房)
ゆめをかたることは
らくないとなみだろうか
きびしさをかくごで
みずからのみちをゆく
よのうきしずみをよそに
しぶとくしかもしなやかに由良 三郎(ゆら・さぶろう)
推理小説作家。本名・吉野亀三郎(かめさぶろう)。東京大名誉教授で日本のウイルス学の草分け的存在。東大退官後に推理小説を書き始め、84年に『運命交響曲殺人事件』で第2回サントリーミステリー大賞を受賞した。
よ 養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者で『バカの壁』で大ブレーク。本名同じ。4歳の時に父親を結核で亡くし、その後は開業医である母静江の腕ひとつで育てられる。養老孟司の『旅する脳』(小学館)には次のように書いてあった。
僕の名前は「 孟司」と書いて“たけし”と読む。普通、なかなか読んでもらえない。母もそう思ったらしく、僕の戸籍には“タケシ”と振り仮名がつけられている。
「孟」は儒学者の孟子からいただいているのだが、なぜこの名前になったかというと、名付けた父の中国好みのせいである。
商社勤めだった父は、仕事で中国へよく行っていた。それに、あの時代の一人前の男は、ごく一般的な教養として、漢学に親しんでいたものだった。もし弟が生まれていたら、孔子にちなんで「孔司(ひろし)」にするつもりだったらしい。
横笛 太郎(よこぶえ・たろう)
児童文学作家。本名・石橋徳保(のりやす)。
横溝 正史(よこみぞ・せいし)
本名は同字で「まさし」。研究者によれば、合作も含めて、横淵正史、溝淵正史、江戸川乱歩、森下雨村、山野三五郎、山名耕作、河上五郎、河村五郎、坂井三郎、河原三十郎、鈴木伝明、蓼科三、阿部鞠哉、川端伍郎、浅沼健二、霧島クララ、川崎七郎などのペンネームも使ったようだ。
推理小説の「金田一耕助」は横溝のエッセイ「金田一耕助誕生記」によれば、風体は劇作家の菊田一夫がモデルであり、名前も当初は「菊田一○○」と付けようとしていたという。だがこれは菊田に失礼だろうということで取り止めた。そこで疎開前に住んでいた吉祥寺でたまたま隣組に言語学者の金田一京助の弟がいたことから「菊田一」に近い苗字である「金田一」を取り、名前も「京助」をもじって「耕助」と付けたという。京助の孫の秀穂が金田一耕助の格好をして出てきたことがあるが、何を間違っているんだか。
横光 利一(よこみつ・りいち)
「としかず」だが通称「りいち」と有職読みになっている。
横森 理香(よこもり・りか)
1963年山梨県生まれ。多摩美術大学卒業後、『ニューヨーク・ナイト・トリップ』でデビュー。著書に『ぼぎちん バブル純愛物語』『エステマニア』『フェイタル』など。
与謝野 晶子(よさの・あきこ)
本名・しょう(志よう)。鉄幹にプロデュースされた『みだれ髪』を出す結婚前は「鳳(ほう)晶子」としていた。1902年(明示35年)の第3版から「与謝野晶子」になった。子どもは長女が上田敏の名付けで「光」となった。次男は秀、双子は八峰(やつを)と七瀬、三男麟、三女佐保子、四女宇智子、四男アウギュスト、五女エレンヌ、五男健、六女藤子、六男寸(生後二日で死去)と12人中11人が健やかに育っていった。5月29日の命日は「白桃忌」とされる。
本名・寛(ひろし)。師匠の漢詩人・河野鉄南翁の門下生はみな「鉄」がついたため。「鉄幹」の号を廃した時期もあった。
「妻をめとらば才たけて」の「人を恋ふる歌」で有名だが、才たけた晶子の前で世間から取り残されたようになり、1911年に晶子の計らいでフランスへ留学し、帰朝後は時代に置き去りにされて「濡れ落ち葉」人生になってしまった。
「わがこころPISAの斜塔にあらねども光のなかに白く傾(かたぶ)く」(『灰の音』)
『灰の音』が出た1915年(大正4年)に43歳だったが、総選挙にも落選して慶應大学の教授になる。名乗りも「鉄幹」を止めて本名の「寛」になっていた。
吉井 勇
祇園を愛した明治〜昭和期の歌人。18歳の時、与謝野鉄幹に投稿した初期の短歌58首の直筆原稿が見つかった。吉井が「いさむ」とした筆名を鉄幹が本名の「勇」に直した跡も残り、作家名が決まる経緯が2012年初めて明らかになった。専門家は「歌人誕生を示す貴重な資料」と評価している。
鉄幹あての投稿作は1905(明治38)年8月11日付の封筒入りで、和紙9枚に墨で書かれていた。
吉川 英治
本名・英次(ひでつぐ)。講談社の諸雑誌に19ものペンネームを使用して作品を発表するなど、いっぱい号をもっていたが、ようやく『剣難女難』でデビューを果たし、名前を「治める」気持ちになったという説があったが、吉川英治記念館から次のようなメールをいただいた。
吉川は作家デビュー前、東京毎夕新聞社に勤務中、社命で『親鸞記』という小説を無署名で執筆し、それが単行本となる際、著者名として本名の「英次」を用いたのだが、新聞広告で「英治」と誤植された。その後、作家となり、しばらくは複数のペンネームを使用していたが、講談社が社運をかけて新創刊した雑誌『キング』に『剣難女難』を掲載する時に、編集者から“本名で勝負しなさい”と強く勧められ、それならと、かつての誤植事件を思い出し「英治」に一本化することに決めた。
ちなみに、同じ雑誌『日の出』に二つ書く必要があって「浜帆一」というペンネームを使ったことがあるという。この21番目のペンネームを強いた編集者は“本名で勝負しなさい”と言った同じ編集者だった。
若い頃、雉子郎(きじろう)と号して川柳を詠んだ。貧しく、工場へ通う途中に焼き芋を買い、半分を朝飯に、半分を昼飯にしていた。「貧しさもあまりの果(はて)は笑ひ合い」「桂庵(けいあん)に踏倒さるる頬(ほお)の痩(こ)け」【桂庵は職業仲介所】など。
吉田 甲子太郎(きねたろう)
英文学者、児童文学作家。早稲田大学英文科卒業。立教中学の教師を経て明治大学文芸科教授となる。山本有三の「日本少国民文庫」の編集に参加。一方、朝日壮吉のペンネームで外国作品の翻案小説を発表。
吉田 鴻司(よしだ・こうじ)
俳人。本名・鋼二郎(こうじろう)。95年に句集『頃日』で俳人協会賞を受賞した。
吉田 修一
本名同じ。長崎市生まれ。法政大卒。97年、青春小説「最後の息子」が文学界新人賞を受賞しデビュー、芥川賞候補に。その後「破片」「突風」「熱帯魚」と候補になり、2002年に芥川賞受賞。長編「パレード」で2002年の山本周五郎賞を受けた。
吉田 知子
旧姓・蟹江。本姓・吉良。
吉村 達也(よしむら・たつや)
本名同じ。大阪出産の東京育ち(著者略歴には東京生まれと詐称---と本人が書いている)。一橋大学卒。ニッポン放送入社、フジサンケイグループの扶桑社に勤務して『Kの悲劇』で作家デビュー。その出版社が勤務先の扶桑社で、編集担当者は自分、編集長も自分、印税伝票を切ったのも自分、という世にもまれな自費出版的メジャーデビューを飾る。『私が私を殺す理由(わけ)』は、文庫化の際『「伊豆の瞳」殺人事件』と改題しただけでなく、犯人を変えている。登場人物の名前をどうしてつけているかという読者の質問に対して次のように書いている。
シリーズキャラは、それなりの思い入れをもって付けています。一回きりの加害者や被害者その他ちょい役は、いろんな名簿から、苗字と名前を組み合わせて、登場人物像のイメージに合いそうなものを合成しています。ふだんから、気にかかる名前はメモしてストックしています。
吉村 萬壱(よしむら・まんいち)
本名・吉村浩一。「万が一にしかホントをいわない」ほらふき、という意味でこのペンネームに。愛媛県生まれ。京都教育大卒。東京や大阪で教員を務める。01年「クチュクチュバーン」で文学界新人賞。大阪府岸和田市在住。養護学校勤務の時に「ハリガネムシ」(文学界5月号)で03年に芥川賞。双子の弟は成人漫画家。
吉【土+口】目木春彦(よしめき・はるひこ)
本名同じ。農林省の研究者だった父がルイジアナ州立大学の客員教授になり、差別の激しいバトンルージュで育つ。
よしもと ばなな
「吉本ばなな」だった、2000年にロルファーの田畑浩良と事実婚をし、03年に長男をもうけるが、その子の名前を姓名判断で考えていたら自分の名前こそ良くない事がわかり、「よしもとばなな」に改名した。右の太ももにバナナ、左肩にオバケのQ太郎のタトゥーを入れている。『海燕』新人文学賞選考委員の中村真一郎はなによりも「ばなな」という「途方もない筆名」に驚いたと書いている。『パイナツプリン』でアルバイト先で見たバナナの花に魅せられ、筆名に選んだと書いている。「あんなに大きく変なものがこの世にあるなんてそれだけで嬉しい」とバナナに寄せる恋情をに書いている。「バナナの花に一目惚れして」だが平仮名にしたところにこだわりがある(『うたかた』では鳥海人魚という名前の主人公が出てくるし、小説の題名も『TUGUMI』など表記にこだわり)。斎藤美奈子は『文壇アイドル論』の中でコバルト文庫との接点をあぶり出している。吉本隆明の次女として生まれ、本名・真秀子(まほこ)。姉は漫画家のハルノ宵子。父親の隆明は「りゅうめい」と有職読みされるが、本名「たかあき」。ばななのことは『「彼女たち」の連合赤軍』の中で「マクドナルドのハンバーガー」と評した。
松尾「芭蕉」(本名・宗房)というのはバナナだから初代の「よしもとばなな」なのである。芭蕉は深川に結んだ庵に、門弟から観葉植物の芭蕉を贈られたので「芭蕉庵」とし、そこから自分の名前を採ったが、同時に謡曲「芭蕉」にも由来している。古寺に棲む無常なる女の妖怪の化身として自分をとらえたのだ。ただ、芭蕉には俳号がたくさんあり、「羽扇(うせん)、羊角(ようかく)、鳳尾(ほうび)、杖銭(じょうせん)、風羅坊(ふうらぼう)、是仏坊(ぜぶつぼう)、素宣(そせん)、華桃園(かとうせん)、泊船堂(はくせんどう)、桃青(とうせい)…」などがあった。神仏に奉献するというような改まった時には「桃青」と署名することが多かった。40歳を過ぎて「芭蕉翁(おう)」を名乗った。「衰ひや歯に食ひあてし海苔の砂」と詠んだのは48歳である。
よしもとばななが俳句を作るようになったら、俳号は吉本芭蕉になるのだろうか?
吉行 エイスケ(よしゆき)
本名・榮助。岡山県御津郡金川町に生まれる。妻は朝ドラ「あぐり」(本名・辻安久利)で有名だがエノケンらと同世代で“モボ”だったから片仮名としたと思う(『梅桃が実るとき』には「文字が嫌いだった」と書いてある)。淳之介(本名)は長男で、長女・和子は女優、次女・理恵(本名・理恵子)も芥川賞作家。「あぐり」は次には絶対に男の子が生まれるように願う時に付けられる名前。
四元 康祐(よつもと・やすひろ)
本名同じ。大阪府生まれ。上智大卒。詩集『世界中年会議』で第3回山本健吉文学賞、詩集『噤(つぐ)みの午後』(思潮社)で第11回萩原朔太郎賞受賞。製薬会社の海外駐在員としてドイツ・ミュンヘン在住。
米原 万里(よねはら・まり)
本名同じ。「日本人離れしたユーモアセンスの持ち主」でロシア語通訳(「火に油を注ぐ」通訳として活躍)、翻訳、作家など。父の米原昶(いたる)は元日本共産党衆院議員。母は米原美智子。『シモネッタとガセネッタ』(イタリア語通訳の名手、田丸公美子と、スペイン語に関する名手、横田佐知子に奉られた尊称、と言うか屋号、正式には表紙に書かれているように“Gassenetta d'Aggiare & Simonetta d'Oggi”(“シモネッタ・ドッジ”“ガセネッタ・ダジャーレ”)と書かれているように田丸は米原を「え勝手リーナ」と呼び、ロシアの女帝エカテリーナ並みの毅然とした言動を絶賛している(シモネッタという名前は実際にはロレンツォ・デ・メディチ=豪華王イル・マニフィーコの弟が意中の恋人としていた女性の名前でボッティチェリの「春」のフローラなどのモデルとされる/田丸は別の英語のニックネーム「サラ」をもつが、パーティなどで通訳をこなしつつも決して「皿」を放離さないところから付いた名だという)。プラハ時代に米原は「望郷指数」はという造語を思いつく。級友たちを見て故国への愛着は故国と離れている時間と距離に比例することを発見した。大国より小国、強い国より弱い国、故国が不幸なほど望郷指数は高くなるという。小説執筆のため、ナタリヤという女性に出会った話が感動的だ。若いころにスターリンの恐怖の粛清で、女性専用の強制収容所に閉じこめられた一人で最もつらかったのは貧弱な食事でも不衛生な環境でもなく、情報を遮断され、本と筆記用具の所持も禁じられ、家畜の生活を送った。ある夜、俳優だった女性が『オセロ』を一人全役で再現してみせた。それから毎晩、皆が記憶の中の本を思い起こし、そこはこうと補い合い、長編小説もほぼ再現した。悲惨な環境の女性らが『アンナ・カレーニナ』に泣き、風刺小説に大笑いし、皆の瞳に輝きが戻ったという。
自前の死亡記事を集めた『私の死亡記事』に「終生ヒトのオスは飼わず」と題する文章がある。「享年75」とあったが、56歳で亡くなった。遺作となった『打ちのめされるようなすごい本』には「食べるのと歩くのと読むのは、かなり早い。【…】ここ二〇年ほど一日平均七冊を維持してきた」と書いてあって打ちのめされた。戒名「浄慈院露香妙薫大姉」。
妹(次女)ユリの夫は作家・戯曲家の井上ひさし。米原万里『旅行者の朝食』(文藝春秋)にはユリの話が出てきて、次のように書いてある。
おおらかで何につけてものんびり屋の妹だが、食材を選ぶときだけ、肉食獣のように鋭く目を光らせる。その妹が、生涯に一冊だけ、本を書いてみたいと言う。もう、題は決まっている。『無芸大食も芸の内』というのだそうだ。
東大教授で文芸評論家の小森陽一はプラハの日本人学校で米原の後輩だった(3歳年下)。小森の言語形成史は『小森陽一、ニホン語に出会う』(大修館)に詳しい。
米村 晢(よねむら・あきら)
本名が「晢」で筆名・【日+折】(あきら)という、どちらも難しい名前。翻訳家、武蔵野美術大名誉教授、劇団四季が上演したジロドゥ作「オンディーヌ」などを翻訳した。
四方田 犬彦(よもた・いぬひこ)
マルチ評論家。高校生の時、ペンネーム「丈彦」で出した名前が「犬彦」と『キネマ旬報』に誤植になっていてそのままにした。名前のことは加藤典洋『文章表現法講義』(岩波書店)にも出てくる。「剛己」(ごうき)が本名。本名のローマ字表記では好んで「Gorki Yomota」と自署する。「ゴウキ」のこの綴り方は「マクシム・ゴーリキー」の苗字の「Gorki」にあやかったものらしい。澁澤「龍彦」のペンネームにあこがれて「龍」を「犬」にして「犬彦」なのだという説を本人が唱えていたという話もあるが、どこまで本当か誰にも分からない。ちなみに、「ホワイト・クリスマス」「ショーほど素敵な商売はない」「イースターパレード」を作曲したアーヴィン・バーリンは"Israel Baline"が本名だが、1907年に初めて"Marie From Sunny Italy"を世に出した時、カバーに"I. Berlin"とミスプリントされてしまい、それを機に"Irving Berlin"と改名してしまったのと似ている。『俺は死ぬまで映画を観るぞ』(現代思潮新社)で書いているが、映画『HACHI 約束の犬』の評を頼まれたという。「たぶん私の筆名が犬彦だからだろう」。妻は台湾日本文学研究者の垂水千恵。吉本隆明は『日本語のゆくえ』(光文社)という東工大での講義で次のように語っていた。
もうひとつ、言語論的にいいますと、当時の日本語というのは尊称の接頭語や接尾辞と卑称の接頭語や接尾辞が同じです。どういうことかといえば、「大」とか「小」、あるいは「尊い」とか「卑しい」というとき、同じ言葉を使うことができたという意味です。いま四方田犬彦さんという若い民俗学者がいますけれども、現代のぼくらの感覚でいうと「犬彦」というのは何だ、どうしてこういう動物的な名前をつけるんだということになります。ところが、『源氏物語』が書かれた時代の感覚では「犬彦」というのはたとえば「貴彦」という言葉と同じ意味になる。尊称になるわけです。そんなふうに、尊称と卑称がいっしょだとか、「大」と「小」が同一だという曖昧さが『源氏物語』のなかには数多くあります。
『ラブレーの子供たち』(新潮社)に「わたしの祖父、四方田保は西南戦争が終わってしばらくしたころ、松江の雑賀町に生まれ、松江中学でヘルン宣誓から英語を習った」と書いている。
1953年生まれだが、早生まれで学年的には『赤頭巾ちゃん気をつけて』の薫の一つ下になる。教駒(東京教育大学農学部附属駒場高校・19期生)を出てから1年の浪人の後、東大で宗教学、大学院で比較文学を学ぶ。鹿島茂は「永遠の高校生」、青木保は「マルチオタク」と呼んでいるが、『ハイスクール1968』を読めば「永遠の高校生」ぶりがよく分かる(村上龍はその翌年の『69』)。誤植で名前を決めた話はここにも出ているし、お父さんが出ていく前の姓も分かる。ただし、「友人」とされた鈴木晶が『ハイスクール』についてホームページで次のように書いていた。
あまり愉快な本ではない。四方田が大法螺吹きであることは、業界では知らぬ者はない。私も慣れている。【…】
小説なら許せるが、あたかも実録のように書いているから、たちがわるい。ほとんど嘘なのに。しかし、もし小説家だったら、自分がいかにカッコイイ高校生だったかを世間にアピールしたくて、こんなものを書いたりはしない。そんな小説家は見たことがない。こういうものを書く神経が、私には理解できない。
依井 貴裕(よりい・たかひろ)
1987年関西学院大学文学部卒業後、大阪市職員。アマチュアマジシャンであり、泡坂妻夫氏の弟子。「記念樹」でデビューしたときのペンネームは英池恵夢。現在の依井貴裕というのも「EQ」とも読ませたいらしくミステリーマニアぶりが伺える。98年より専業作家。
序文 わ ら や ま は な た さ か あ 後記 り み ひ に ち し き い 文献 る ゆ む ふ ぬ つ す く う れ め へ ね て せ け え HP ろ よ も ほ の と そ こ お First drafted 1998
(C)Kinji KANAGAWA, 1995-.
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