ペンネーム図鑑

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舞城 王太郎(まいじょう・おうたろう)

作家。1973年福井県出身。2001年、『煙か土か食い物 Smoke,Soil or Sacrifices』(第19回メフィスト賞受賞)でデビュー。2003年5月、『阿修羅ガール』で第16回三島由紀夫賞受賞。ノベルスから純文学まで、作風は多彩で多作。加えて最近は『ファウスト』誌で米国作家トム・ジョーンズの短編を初翻訳もしている。

2004年に初の「覆面芥川賞作家」になるか注目された。舞城は「73年、福井県生まれ」以外に、経歴も写真も公表していない。2003年、「阿修羅ガール」で三島賞受賞の際も記者会見はおろか、授賞式にも出てこなかった。代わりに「作品を純粋な形で読んでいただきたくて、姿と声を隠しています」とのコメントがあった。2004年になって『噂の真相』が「高校時代のアルバムから発見」という写真を掲載したが、真偽も含め本人は沈黙したまま。芥川賞受賞決定後の記者会見、授賞式への出席は授賞の条件ではないという。

余談だが、北村薫に「覆面作家」というペンネームの作家の推理小説がある。『覆面作家は二人いる』『覆面作家の愛の歌』などで、本名・新妻千秋。天国的美貌でミステリー界にデビューした新人作家の正体は大富豪の御令嬢。しかも彼女は現実に起こる事件の謎までも鮮やかに解き明かす、もう一つの顔を持っていた!

前田河 広一郎

プロレタリア作家。荒川洋治の『忘れられる過去』(みすず)には「読めない作家」というエッセイがあり、「前田河広一郎」というのが読めないという。『現代日本文学事典』『近代日本文学辞典』では「まえだがわ・こういちろう」となっていて、『万有百科大事典』では「まいだこ・ひろいちろう」、『世界大百科事典』では「まえだこう・こういちろう」、『新潮日本文学辞典』では「まいだこう・ひろいちろう」、『現代日本文学大事典』『コンサイス日本人名事典』『大辞泉』『広辞苑』では「まえだこう・ひろいちろう」となっている。「まへだかう・ひろいちらう」と旧仮名遣いで書いてあるものもあるらしい。ネットで調べると「戸籍上は〈まいだこ・ひろいちろう〉と読む」というのもあった。

前  登志夫(まえ・としお)

本名・前登志晃(まえ・としあき)。歌人。同志社大学中退。詩人として出発し、安騎野(あきの)志郎の筆名で詩集『宇宙駅』を刊行したが、1951年、前川佐美雄(さみお)を知って短歌に打ち込むようになった。師匠の名前に合わせたのかもしれない。吉野の集落に生まれ育ち、父祖伝来の林業に就く傍ら、豊饒と神秘に包まれた山と交歓するかのような短歌を詠み続けた。67年に山繭の会を結成し、80年に歌誌「ヤママユ」を創刊。世捨て人を自称し、喧噪に満ちた都市の生活への鋭い批判を込めたエッセーも数多く発表。 78年「縄文紀」で迢空賞、93年「鳥獸蟲魚(ちょうじゅうちゅうぎょ)」で斎藤茂吉短歌文学賞、03年「流轉」で現代短歌大賞、05年「鳥總立(とぶさだて)」で日本芸術院賞文芸部門受賞など。同年に日本芸術院会員。

前田 愛(まえだ・よしみ)

『近代読者の成立』など。僕は「武島羽衣」(本名・又次郎)、「いいだもも」(飯田桃 別名・宮本治)同様、「あい」と呼んで、女性だと思っていた。最近では『パイレーツによろしく』の川西蘭を女性だと思った。実際にも有職読みをして「あい」と呼んでいた人が多かった。ニューアカデミズムに対して国文学から唯一ともいえる参加だった。

前田 普羅(まえだ・ふら)

本名・忠吉。横浜生まれ(本人は東京生まれとしている)。早稲田大学英文科卒。早大英文科を2年半で中退。大学中退後は横浜区裁判所に勤め、ほどなく時事新報社・報知新聞社の新聞記者として横浜に住む。俳句は明治41年24歳頃から松浦為王について始めたようであるが、大正元年頃から「ホトトギス」に投句するようになり、虚子に認められ賞賛される。山岳俳句が多く、「普羅」というのは「フラワー」から来ているという。大正10年、俳誌『加比丹』創刊、さらに『辛夷』雑詠選者となり、昭和4年頃からは名実共に主催者となる。関東大震災によって家財一切を焼失し、翌年、報知新聞富山支局長として富山市に移り住む。昭和18年、妻を喪い、その3年後は戦災で家を失う。昭和24年には富山を離れ、大和の関屋と伊勢の龍雲寺を行き来する流浪の境涯に入る。昭和26年には東京大田区矢口に新居を構えるが、体調を崩してやむなくという感が強い。代表的句集に『能登蒼し』『春寒浅間山』『飛騨紬』など。

前田 夕暮(まえだ・ゆうぐれ)

本名・洋造。歌人。尾上柴舟に師事。柴舟を中心に、若山牧水・三木露風らと車前草社を、翌年みずから白日社を創設。『向日葵(ひぐるま)』創刊。『創作』同人となり自然主義に与し、のち『詩歌』を創刊。晩年近代主義を唱え自由律短歌に転じた。『収穫』『生くる日に』『林』『水源地帯』など。

真木 桂之助(まき・けいのすけ)

本名・高沢正樹。新潟県新発田市生まれ。文化学院卒。新潟日報入社。ラジオ新潟(現・新潟放送)に移り、報道局次長、人事室長、社長室長、取締役、常務、専務を歴任し社長に就任。

真木 悠介(まき・ゆうすけ)

本名である見田宗介(みた・むねすけ)名での著作も多い。社会学で近代精神を対象化する作業を続けている比較社会学者。

真木 洋三(まき・ようぞう)

本名・石丸守孝=(いしまる・もりたか)。読売新聞社会部記者の傍ら、1975年に作家デビュー。著書に『小説銀行管理』『モーツァルトは誰に殺されたか』など。

万城目 学(まきめ・まなぶ)

ふざけた名前に見えるが本名。京都大学法学部卒。化学繊維会社勤務を経て2005年に『鴨川ホルモー』でボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビュー。『本の雑誌』で絶賛され、「2007年本屋大賞」で6位になるなど注目された。続く第2作『鹿男あをによし』は直木三十五賞候補となってドラマ化。

正岡 容(まさおか・いるる)

本名だが、ひところ「蓉」を使っていた。演芸作家で三遊亭園朝研究の草分けだった。元の姓は平井だった。詩人の平井功は弟。池内紀は『池内式文学館』(白水社)で次のように書いている。

 三題噺でにぎやかに場をとりもったあと、ひとりになると「ダレるような孤独地獄」だと述べている。「さびしさの影法師」とも書いた。姓の松岡は幼いときに養子にやられたからであって、もとの姓は平井といった。平井容である。二十五歳で夭折した昭和初期の異才、詩人平井功は三歳年下の弟である。過敏すぎる神経と感受性は兄弟に共通したものだったかもしれない。

正岡 子規(まさおか・しき)

本名・常規(つねのり)。滝沢馬琴は名前が戒名も加えて35というが、子規は日本一多いペンネームの持ち主と言えそうだ。幼名・處之助(ところのすけ)、学校へ行く年になって「トコロテン」とからかわれてはいけない、と外祖父の大原観山が子規4・5歳のとき、易の地風から升(のぼる)とする。これ以降、友人や母から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれた。墓碑銘には「處之助」「升」「子規」「獺祭書屋主人」(カワウソが獲物をお祭りのように並べることで「獺祭書屋」とは書物が散らかった自分の部屋を謙遜して呼んだ)「竹ノ里人」(東京の住まいを「呉竹の根岸」と称し、そこで暮らしていたことから)も登場。

「野球」と名乗ったこともある(「野球」の翻訳者ともいう説もあったが間違いで升「の・ぼーる」のシャレ、野球が好きだったことは確かで「アメリカ人のはじめにし ベースボールは 見れど飽かぬも」)。2002年に野球殿堂入りを果たしたが、打者、走者、死球などを翻訳したことなどが評価された。『一高野球部史』を編集した、当時の一高キャプテン中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が思いついたという方が正しいらしい(君島一郎『日本野球創世記』)。ただ、子規も「投手」(ピッチャー)「攫者」(キャッチャー)などの訳語を考案した。丸谷才一は『綾とりで天の川』の中で「しかし、たとへ訛伝(かでん)であつても正岡子規が命名者といふのは豪勢ですね。この人の野球殿堂入りはまことに当を得た遇し方であつた」と書いている。

「子規」というのは喀血した明治22年から使い、口の中が赤く、鋭い声で鳴く様子を「血を吐く」と見立てた「啼いて血を吐くほととぎす」からだが、血を吐いて肺結核と診断された正岡子規は、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」という句を詠んだ。血を吐いたのは5月の初めの卯の花やホトトギスの時期であったが、卯の花に卯年生まれの自分を、ホトトギスに結核を重ねた句である。明治11年、12歳の折り、初めて作った漢詩が「聞子規」というのも因縁めいている。蜀の皇帝が家臣の妻と恋に落ちた。譲位して国を去り、旅の空に死んだ。彼の魂はホトトギスとなって故国を偲んで鳴いたが、その声は「不如帰」(故郷に帰りたい)と聞こえた。この変形「思帰」から「子規」とされた。

子規の「筆まかせ」の雅号の章によれば、子規は雅号だけで百あまりある。十歳頃、中の川の子規邸にあった桜の木から「老桜」と号した。山内伝蔵より「中水」をもらったがあまり気に入らなかったという。十五・六歳の時、大原観山より桜の形容として「香雲」という号に変えた。「筆まかせ」に登場する雅号は他に「走兎」「風廉」「漱石」「士清」「子升」「常規凡夫」「眞棹家」「丈鬼」「冷笑居士」「獺祭魚夫」「放浪子」「秋風落日 舎主人」「癡夢情史」「野暮流」「盗花」「四国仙人」「沐猴冠者」「被襟生」「莞爾生」「浮世夢之助」「蕪翠」「有耶無耶漫士」「迂歌連達磨」「情鬼凡夫」「馬骨生」「野球」「色身情仏」「都子規」「虚無僧」「饕餐居士」「僚凡狂士」「青孝亭丈其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁癡仏」「情魔癡仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之丞」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」「一橋外史」「猿楽坊主」。他には「桜亭仙人」「緩寛人」「於怒戯書生」「無茶苦茶散人」「四国猿」「弄球」「能球」など。

子規は明治22年5月には俳号「漱石」と名乗った。満22歳だったが、同い年の夏目金之助が「漱石」を名乗るのも同じ頃である。金之助がこの雅号を選んだのは子規が文集『七艸集』を有人に回覧して批評を求めたのに応じて、金之助が感想を9首の七言絶句で巻末に記した時だとされる。「筆まかせ」には「漱石は今友人の假名と変ぜり」とある。

子規は自宅を「獺祭書屋」と呼び、自身を獺祭書屋主人と呼んだ。命日の9月19日は獺祭忌と呼ばれる。カワウソ(獺)は魚を捕るのが上手で、すぐには食べず、岸や岩の上に並べておく習性があるとして、中国では祭りの供え物と見立てた。これを「獺祭(だっさい)」といい、転じて詩作の際、周りに参考書を広げ散らかすことを指すようになった。僕の研究室も散らかって「ださい書屋」になっている。

命日は「糸瓜咲て痰(たん)のつまりし仏かな」という最後の句にちなんで「糸瓜(へちま)忌」とも呼ばれる。自筆の墓碑銘は、末尾に「月給四十円」とある。坪内稔典は『柿喰ふ子規の俳句作法』(岩波書店)で、百字余りの墓碑銘の行末をそろえるため、子規が思いついたと推測している。それでも「月給によって病人でありながら一家を支え得た満足や誇り」「月給をくれた日本新聞社への思い」など、いろんな思いが結果として込められていると解釈している。

柾木 恭介(まさき・きょうすけ)

評論家。本名・角谷定夫(すみや・さだお)。

正宗 白鳥(まさむね・はくちょう)

深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』には『楢山節考』を大絶賛してくれた、時の大御所・正宗白鳥との交遊を描いているが、正宗白鳥の宅に初めて訪れた時、白鳥と言うぐらいだから、バレーの「白鳥の湖か「瀕死の白鳥」に関係があって、きっと庭には池があるに違いないと思いこんでいたのだが、実際に訪れるとそんなものはない、ましてや白鳥などいない。ということは、正宗というくらいだからあの銘酒の蔵元の…と思いつき「先生は酒の…、菊正宗の…?」などと聞くと「ボクはそんな家とは何の関係もないよ」と正宗白鳥に一蹴されるエピソードが出ていて「今、考えても、まずいことを云っちゃって、と悔やんでいる」と書いている。

本名・忠夫。「白鳥」というのは読売新聞記者時代の号で、母の国讃岐白鳥(しろとり)の名を借りたという。後に本人は「くしゃみのハクションに似ている馬鹿げた名」と話した。

益田 太郎冠者(ますだ・たろうかじゃ)

本名は益田太郎で、三井物産の礎を築いた益田孝の長男。「かんしゃく」などの落語を書いたし、「コロッケの唄」を作詞した。

枡野 浩一(ますの・こういち)

「増野ではなく升野でも舛野でも桝野でもない枡野なんです」(枡野浩一)という短歌があるのが珍しい。散文のように読める口語短歌が主な作風。これは糸井重里により「かんたん短歌」と命名されたほか、「マスノ短歌」などとも呼ばれている。漫画家の南Q太は元妻。

町田 康(まちだ・こう)

本名同じ。高卒後の81年、「町田町蔵」名でパンクバンドINUのヴォーカルを務める。吉本ばななもこのバンドに傾倒していた。ある時、自作の歌詞を眺めていて一つ一つが完結しているのではなく、相互の関連性があることに気づき、これを小説にしたらと思い始めた。『くっすん大黒』『夫婦茶碗』『人間の屑』など。

『作家の読書道2』(本の雑誌社)の中で次のように話している。

―― 「町田町蔵」というお名前や「INU」などのバンド名は、どのようにして決めたのですか。

町田 : まったく何の意味もないですよ。パンクというのは自己否定的で、空中に放棄してしまうようなところがある。普通に自分に拘泥すれば、グループの名前や芸名はこだわりを持ってつけると思うんですけれど、“自分が好き”ということがカッコわるい、というのがパンクなんです。だからあえてカッコ悪い名前をさらりとつけたりするんです。

松井 今朝子(まつい・けさこ)

本名同じ。京都市生まれ。早稲田大大学院で演劇学を学び、97年に「仲蔵狂乱」で時代小説大賞を受賞して作家活動に入った。02年に「非道、行ずべからず」が、03年には「似せ者」が直木賞候補に。07年に『吉原手引草』で直木賞。

2006年10月05日の自らのホームページに次のように書いている。

 で、案の定というべきか、実家「川上」【祇園の京料理店】の古くからのお客様に香道の先生がおいでになって、「お宅のお嬢様は本当に香道がお好きでお詳しいのにびっくり致しました」と感心してくださったのは嬉しいのだけれど、父まで香道が好きなように思われて香会の招待状が舞い込んだというのだからおかしい。まあ、こんなことは笑い話で済むからいいようなもんだが、笑い話では済まないことも起こりえるのが物書きという因果な商売で、実家が客商売であるのは何かと厄介でもある。両親に早くこの世からいなくなってほしいと心ひそかに願っている物書きは決して少なくないだろうなあ、なんて思ったりもした。
 連載している地方紙の中に地元の「京都新聞」が入っているのは当然といえば当然なのだろうけど、連載が始まってから、ああ、こんなことならせめてペンネームを作るんだったと私は大いに悔やんだものである。別に小説書きを志したつもりもなく、ただ何げなく書き始めて気が付いたらメインの仕事になっていたという塩梅なので、わざわざペンネームを作るほどのことはなかったし、私自身がイマドキの小説家の名前なんてほとんど知らないくらいなので、本名で書いていても、まあ、だれも気づかないだろうと思っていたが、地元紙の連載はさすがにまずかったようで、中学校の担任の先生から突然お便りをもらってびっくりした覚えもある。ええっ、読まれちゃったわけ、キャー恥ずかしい!という感じで、説明がとても難しい感情なのだけれど、書いた物は一応多くの人に読まれたいという気持ちと裏腹に、書いたのが私だとはあまり人に知られたくない気持ちが非常に強くて、過去の知り合いや日常的に付き合いのある人には特に知られたくない気がする。知ってても知らんふりをしててほしいと思うくらいだ。
 私は小説を書く以前に歌舞伎関係で自分の名前を出して仕事をしていたので、名前や顔を露出することに今さら何をためらうのかと思う向きもあるだろうが、小説は今までの仕事と全然別物なのである。これまたイマドキ何も小説を書くことを御大層に考えているからでは全然なくて、小説は妄想を書くわけだから、どんなことを妄想してるのかを顔見知りに知られるのが非常に恥ずかしいからである。要はこう見えてけっこう恥ずかしがり屋で気が弱いのであります(笑)。

松井 永人

大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験する。96年、某執筆集団から独立、現在の筆名での執筆を始める。本名で『土方歳三・北海の剣』『緊急司令・山本長官機を救え』など。松井計として『ホームレス作家』(幻冬舎)を出した。高次脳機能障害をもつ妻への愛が、逆に妻の体調を崩し、そこから借金と住まいの変転が始まる。公団住宅の家賃を払えずに強制退去。妻子を公的施設に預け、ホームレスとなってしまう実話。

松浦 理英子(まつうら・りえこ)

本名同じ。『葬儀の日』『ナチュラル・ウーマン』『親指Pの修業時代』など。

松尾 スズキ(まつお・すずき)

本名・松尾勝幸。スズキと片仮名で書くとプッチーニの「蝶々夫人」のスズキを思い出すが、こちらは男性。俳優、演出家、脚本家、漫画原作者。北九州市生まれ。九州産業大学芸術学部デザイン学科大学卒業後はサラリーマンをしていたが一年で挫折、その後80年代後半に劇団を設立。『ファンキー!宇宙は見える所までしかない』で第41回岸田國士戯曲賞受賞。2004年公開の監督デビュー映画『恋の門』はヴェネチア国際映画祭に出品された。としても著名。小説『クワイエットルームにようこそ』が第134回芥川賞の候補になった。

松尾 貴史(まつお たかし)

本名・岸 邦浩(きし・くにひろ)。放送タレント・俳優・ナレーター・作家。神戸市生まれ。大阪芸術大学デザイン学科グラフィックデザイン専攻卒。演劇ユニットAGAPE storeの座長。一時期芸名として使われた愛称「キッチュ」(Kitsch) はドイツ語で「まがいもの・安物」などを意味する(ブルーノ・タウトの『忘れられた日本』の中にも詳しく説明が出てくる)。芸名の「松尾貴史」は全く無根拠な芸名である。

松尾 由美(まつお・ゆみ)

金沢市生まれ。お茶の水女子大学外国文学科卒業後、OLを経て作家に。『バルーンタウンの殺人』で1991年ハヤカワSFコンテスト入選。独自の世界設定と新感覚溢れるストーリーテリングで注目されている。

松岡 正剛(まつおか・せいごう)

本名同じで整合性を大切にしたのだろう。ホームページ「松岡正剛の千夜一夜『ペンネームの由来辞典』」で次のように書いている。

 ぼくの俳号は「玄月」という。
 渋谷のブロックハウスで何人もと共同生活をしているころ、まりの・るうにいと謀って中井英夫・長新太・鎌田東二・楠田枝里子・山尾悠子・荒俣宏・南伸坊・羽良多平吉らと「ジャパン・ルナソサエティ」を満月の夜に催していたのだが、それがときどき趣向の句会になって、その例会の満月の夜に残念ながら小雨が降ったので、それならと、その見えない月に因んで玄月とつけた。玄とは黒よりも濃いという意味である。
 ぼくが玄月とつけたことで、その後、スタッフと句会を遊ぶときに「ぼくも、わたしも」ということになって、半ば冗談のように、陸続と月めいた俳号が生まれた。花月・半月・三月・六月・残月・楽月まではよかったが、そのうち餡月・さっき・でっき・疼というふうになってしまった。さっきは皐月をもじったもの、疼は卯月がこんな文字になってしまった。
 それから20年、「未詳倶楽部」を主宰することになって、ふと、この倶楽部に入ったメンバーには全員に俳号を贈ってみようということにした。切羽詰まってから行動をおこす大阪のプランナー荒木雪破、つねに仕事やりかけ先生の中川途中、破門をおそれずふるまいたい銀行家の山田破文、風に吹きとばされそうに痩せている柿本茶柱、日本の米を憂いているわりにいいかげんな経済同友会の太田滴稲、蕪村に憧れているが武張りすぎている久我武村、音響機器のパイオニアで音の研究開発ばかりしている橋本耳窓など、傑作も多いが、昏名・迷名も多い。なかにはやはり月に因みたいという会員がいて、そのうち四人一緒に申し込んできた「仲良し仔好し」そのまま仲月・良月・仔月・好月となった。【…】

 ぼく自身はペンネームはもっていない。もっていないのだが、ときにおうじて作ってきた。『遊』創刊号では高田又三郎、西山徳之助、尾ケ瀬孫一のいずれもがぼくのことで、尾ケ瀬孫一はまつおかせいごおのアナグラムだった。
 その後も『遊』ではときに北村孝四郎になったり、木谷三千子になったり丘魔伽奈になったりした。丘魔伽奈は中野美代子をして、このオカマカナっていうのはすごいと言わしめ、北村孝四郎にいたっては長きにわたって実在が信じられていた若者で、いくつもの雑誌や週刊誌の編集者から「これからは北村孝四郎の時代だ」と噂された。こうなると、正体をあかす機会がそびれるもので、数年前にそのことを『半巡通信』でつつましくリークするまで、ぼくもほったらかしにしておいた。
 ついでながら「松岡正剛」という名前は、どうみても堅すぎるとおもっている。だいたい「岡」がたった4文字のなかに二つも入っている。そこんとこ、両親は検討しなかったのかと文句を言いたくなるが、お察しのとおり、正剛は中野正剛から父が採った名で、妹は敬子といって、原敬から採った。中野正剛も原敬も暗殺された人物の名で、これはなんとひどい命名をするのかとおもったが、父の言い分としては「人から暗殺されるほどの宿命を背負ったほうがいい」ということらしい。きっと三人目が生まれていたら多喜二に、四人目は栄とか稲次郎になっていたにちがいない。

松田 解子(まつだ・ときこ)

本名・大沼ハナ(おおぬま・はな)。秋田県の荒川鉱山で生まれ、小学校卒業後、鉱山事務所で働き、苦学して教師になった。1926年に上京。文筆活動を始め、プロレタリア作家同盟に加わった。 労働者の生き方を書き続けたプロレタリア文学作家。代表作は、母親をモデルにした『おりん口伝』(田村俊子賞)や、多くの中国人労働者が死亡した戦中の花岡鉱山事件に取材した『地底の人々』など。労働運動、女性解放運動などにも参加した。

松田 美智子(まつだ・みちこ)

俳優の松田優作の最初の妻だった(ちなみに2人目は松田<旧姓・熊谷>美由紀)であるが、松田麻妙(まみ)というペンネームで、『永遠の挑発 松田優作との21年』という処女作がある。 『やがて哀しき「ラブ・ノート」』は美弥子ちゃん誘拐殺人事件を取材して小説風に仕上げた作品。『天国のスープ』は「スープは、食物の栄養を最も吸収しやすい形で取り入れることができる料理だ。消化力が弱い老人にも子供にも、病人にも負担をかけることなく食べてもらえる。最高の栄養食であり、美食にもなるんだ」という言葉に象徴される作品でレストラン「スープの店」のオーナーシェフ・元山修蔵の言葉である(参考文献にもあげられている料理研究家・辰巳芳子の考えかたのようだ)。

松田由紀子・梨子・わこ

富山市の歌人親子。本名同じ。朝日歌壇の常連で3人とも同日に載ることもある。特に馬場あき子はメロメロである。姉妹は3歳の差で「ということはママになってもばあちゃんになってもひらがな私の名前」松田わこ(2011年9歳)という短歌もある。

マッツァリーノ、パオロ

『反社会学講座』の作者。本名でないことは確かで、家政法経学院大学の講演をまとめたという『つっこみ力』では著者の写真がない(大学も虚構だし、名前も無茶苦茶)。

松村 栄子(まつむら・えいこ)

本姓・朝比奈。『至高聖所(アバトーン)』で芥川賞。

新人賞に応募した時のペンネームは「漫画家みたい」と一蹴され、旅立ち間際に何か別の名を考えるように言われたが熟考する暇もなく、知人の母より本名の画数*が非常によいと言われたので「ま、いいか」と本名でデビュー。その後、結婚して変わった本姓の方が華があり、どっちがペンネームか自分でも迷うことがある。------本人からの返事 *注=総画32で「女性にも大吉数」といわれる。

松本 清張(まつもと・せいちょう)

「きよはる」だが、有職読みをして「せいちょう」とした。小倉市清水尋常高等小学校卒だが、こうした履歴に「小学校卒」と書くと、子どもがのぞきこんで暗い顔をすると、清張は「人生には卒業学校欄はないんだよ」と答えたという。

松本 利昭(まつもと・としあき)

作家、詩人、少年写真新聞社元社長。本名・博(ひろし)。著書に『春日局』『巴御前』など。児童詩教育でも知られた。

松本  哉(まつもと・はじめ)

作家、風景画家。本名・重彰(しげあき)。著書に『荷風極楽『『永井荷風という生き方』。

松本 侑子(まつもと・ゆうこ)

本名・裕子。出雲市生まれ。筑波大学第一学群社会学類に在籍中からTV朝日『ニュースステーション』で天気予報キャスターを務める。大学卒業後から小説を発表、87年に『巨食症の明けない夜明け』ですばる文学賞を受賞。『偽りのマリリン・モンロー』『花の寝床』『別れの美学』『罪深い姫のおとぎ話』『植物性恋愛』など。翻訳に『赤毛のアン』。

まど・みちお

本名・石田道雄。「まどみちお」ではなく、「まど・みちお」。1909年、山口県徳山市に生まれる。台北工業学校土木科を卒業。台湾総督府に勤務。選者の北原白秋に惹かれ『コドモノクニ』に「まど・みちお」のペンネームで投稿した童謡「雨ふれば」「ランタナの籬」が白秋に選ばれて特選となる。 『動物文学』『童話時代』『綴り方倶楽部』にも作品を発表する。 37年、水上不二らと『昆虫列車』を創刊。 「石田路汚」のペンネームで句誌にも投稿する。戦後約10年間、幼年雑誌の編集に従事し、その後詩作生活に入り、「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」をはじめ、戦後を代表する多くの童謡を生む。 68年、59歳で処女詩集『てんぷらぴりぴり』を出版し、野間児童文芸賞を受ける。 94年、日本人で初めて、児童文学のノーベル賞といわれる国際アンデルセン賞作家賞を受賞。美智子皇后の英訳詩集"The Animals"(どうぶつたち)の中に、まどの作品20編が登場、日米同時に出版されたことから世界に知られるようになった。他に『まど・みちお詩集』、童謡集『ぞうさん』『まめつぶうた』『いいけしき』など。

あるところで次のように語っている。

まど・みちお 本名は石田道雄ですが、若い時にペンネームのつもりでつけたんですね。つけた途端に嫌になりまして・・・・・(笑い)。ところが恩師の北原白秋先生が「いい名前じゃないか」とおっしゃったので、それじゃ、このままでいいだろうと、それからずっと使っているわけです。
長原真 「まど」というのは?
まど 家でも何でも、外に通じる窓がなかったらどうにもなりませんね。窓を通して外の景色を見たりします。そんな感じでつけたと思います。

真山 青果(まやま せいか)

下町の八百屋さんみたいな名前だが、劇作家・小説家。本名・彬(あきら)。父は教育者の真山寛。仙台市生まれ。佐藤紅録、小栗風葉に師事。演出家・劇作家の真山美保は長女。

黛  まどか

本名・黛円 (まゆずみ・まどか)。『月刊ヘップバーン』主宰の俳人。杉田久女を取材したのをきっかけに俳句を作り始めた。 新季語の提唱など新しい試みを行う。 『B面の夏』 『花ごろも』 『くちづけ』など。「飛ぶ夢を見たくて夜の金魚たち」「泳ぎ来て果実のような言葉投ぐ」。

眉村  卓(まゆむら・たく)

本名・村上卓児(たくじ)。映画『ねらわれた学園』の原作者。

丸木 砂土(まるき・さど)

本名・秦豊吉。どう考えても「マルキ・ド・サド」から。東大独文卒で同期生に芥川龍之介がいた。三菱商事に入社。『西部戦線異状なし』を翻訳してベストセラーになったことが負担になって退社。小林一三の知遇で東京宝塚劇場に移り、戦後は帝劇の社長になる。森彰英『行動する異端――秦豊吉と丸木砂土』に詳しい。坪内祐三『古くさいぞ私は』の「秦豊吉と丸木砂土」には名前が変わってしまった理由について仮説をもっていると書いていて、ヒントは牧野武夫『雲か山か 出版うらばなし』に隠されているという。

丸谷(まるや) 才一

本名・根村才一。父が味噌醤油問屋「丸屋」の三男だったが開業医。伯父にあたる長兄の名前が「丸谷才」兵衛だった。妻は根村絢子。旧制新潟高校の先輩には綱淵謙錠、後輩に野坂昭如がいた。

丸元 淑生(まるもと・よしお)

本名同じ。大分県生まれ。福岡県出身。東京大学文学部仏文科卒。栄養学ジャーナリスト。出版社経営、雑誌の編集長を経て、作家に。現代栄養学、料理研究家としても活躍。

丸山 健二(まるやま・けんじ)

本名同じ。1943年長野生まれ。仙台電波高校卒業(後の国立仙台電波高専で外国船の通信士を養成する学校)。第56回芥川賞で最年少記録を作り、2004年の綿矢りさ(19歳)まで37年破られず。文壇から離れ、長野県大町市で創作を続ける。『惑星の泉』『さすらう雨のかかし』『ぶっぽうそうの夜』など。

三浦 綾子(みうら・あやこ)

堀田鉄治、キサの6男3女の次女(第5子)として旭川に生まれる。脊椎カリエスで療養中に、幼なじみだったアララギ派の歌人でキリスト者の前川正と再会。人生に決定的な影響を受ける。前川の死後知り合ったキリスト者・三浦光世と結婚。「林田律子」の筆名で『主婦の友』<愛の記録>に入選。東京オリンピックの年の64年7月、朝日新聞の1千万円懸賞小説に原罪を扱った『氷点』が入選した。ちなみにテレビ番組「笑点」はこの名前のパクリである(が、誰にも分からなくなってきた)。

三浦 朱門(しゅもん)

「赤門」の東大を出ているためのペンネームに見えるが本名同じ。聖書のシモン(使徒ペテロの本名)から採ったはず。小田実と同様、東大言語学科卒。中井英夫は同学科中退。筒井康隆は『文学部唯野教授』の中で「新浦寿文」という名前で三浦を出している。

三浦 しをん

本名同じ。エルサレムの聖なる丘でユダヤ民族主義の象徴のZionから取ったとしたら「を」が説明できない。恐らく「紫苑」(キク科の多年草。襲【かさね】の色目の名)からだろう。「親に変な名前をつけられたからか(笑)、名前というものにすごく興味があります。小説の登場人物も、なるべく、その人となりを象徴するような名前にしたいな、と。『赤ちゃんの名づけ辞典』とか持ってますよ(笑)」と語っている。なるほど、小説には「うはね」「伊都(いと)」「呼人(よひと)」「真志喜(ましき)」「那由多(なゆた)」など、印象的な名前が多く登場する。1976年、東京生まれ。早稲田大学卒。就職試験時の作文の面白さに編集者が目をつけ、ウェブ上のエッセーを依頼したというラッキーガール。2000年、書き下ろし小説『格闘する者に○』でデビュー。2006年の直木賞の受賞作「まほろ駅前多田便利軒」は、東京西郊で便利屋を営む「多田」のもとに、高校の同級生「行天(ぎょうてん)」が転がり込み、犬を預かったり、塾帰りの小学生を家まで送ったりしながら、街の問題を解決していく物語。 父は『口語訳 古事記』(文藝春秋)の著者三浦佑之・千葉大学教授。「でも、父は小説の感想を『面白いね』か『怖いね』の二種類しか言わないんで、つまらない」と話した。

三浦 哲郎(みうら・てつお)

『忍ぶ川』同様の人生。6歳の誕生日に、次姉が投身自殺、その夏に長兄が失踪、翌年には長姉が服毒自殺。早大政経学部時代に、世話になっていた次兄が行方不明になった。56年に海老沢徳子と結婚。あるファンから「奥さんは元気か?」と聞かれたそうだが、彼を三浦朱門と間違って奥さんを曾野綾子か、作家の三浦綾子と間違えた質問だった。

三浦 雅士(みうら・まさし)

文芸評論家。1978-80年は今井裕康のペンネームで村上龍の専属解説者に近い位置にいた。青土社創業とともに入社、『ユリイカ』や『現代思想』編集長を務める。

三上 於菟吉(おときち)

本名同じ。妻は長谷川時雨。水上藻花などのペンネームで翻訳したこともあるが、『講談雑誌』に「悪魔の花」を連載、本名を使うようになる。

三木  卓(みき・たく)

本名・冨田三樹。名前を姓にした。父の武夫は「森竹夫」のペンネームをもつ詩人。父について満州に渡るが、39年に小児麻痺にかかり、左足首に後遺症が残る。妻は詩人で作家の福井佳子(本名・冨田桂子=とみた・けいこ)。

三木 鶏郎(みき・とりろう)

本名・繁田裕司。「明るいナショナル」のCMソングなどの作詞・作曲などこの人がいなかったら戦後はなかったくらいの人。46年にNHKラジオの「歌の新聞」に音楽仲間と3人で出演したとき、ミッキー・マウスにちなんで「ミッキー・トリオ」と名乗り、「三木鶏郎」(とりお)の漢字を当てた。それが「とりろう」と誤読されたのを、自身の名前にしてしまった。なお、50年から『白雪姫』などのディズニーアニメに関わっている。

三木 露風(みき・ろふう)

本名・操(みさお)。北原白秋と並んで「白露時代」と呼ばれた。「赤とんぼ」!

見沢 知廉(みさわ・ちれん)

本名・高橋哲夫(のち服役中、非公式に哲央と改名)。獄中で書きつづった『天皇ごっこ』などの小説で知られる作家。関係者の話によると自殺だった。東京都生まれ。新左翼から新右翼に転じた。83年、内ゲバ殺人事件などで投獄され、以後12年間の獄中生活を送った。『天皇ごっこ』で94年に新日本文学賞佳作を受賞。他の代表作に「囚人狂時代」「調律の帝国」など。

三島 霜川(みしま・そうせん)

本名・才二。富山県生まれの作家。『解剖室』!

三島 由紀夫(みしま・ゆきお)

本名・平岡公威(きみたけ)だが、「こうい」と呼ばれることもあった。実名でなく、三島由紀夫という筆名にしたのは両親への配慮だった。デビューが旧制中学時代で恩師らの判断だった。編集会議をしたのが三島駅辺だったから姓を「三島」に、近くに見える富士山から「ゆき」を発想したという(佐川章『作家のペンネーム辞典』創拓社)。 平岡梓『伜・三島由紀夫』によれば、電話帳を適当に開いてそのページの最初にある苗字を使おうと決め、そして出てきた苗字が「三島」であり、また「由紀夫」のほうは作家の名前を二、三人ミックスしてつけたとある。三島自身は『私の遍歴時代』の中で、清水文雄がこのペンネームを作ってくれたと言っている。林富士馬によれば、伊藤左千夫のような粋な名前をつけて下さいと、三島が清水文雄にねだり、下を万葉仮名で「由紀夫」、上は画数の多い字で「三島」とした(作品論『花ざかりの森』)という(2016年に16歳で書いたデビュー作『花ざかりの森』の原稿に「平岡公威」を消して「三島由紀夫」と書いた形跡があることが判明)。清水文雄によれば、修善寺温泉での「文芸文化」同人合宿から帰って、三島と二人でペンネームを考え、修善寺への入口の駅名から「三島」とつけ、「由紀夫」は本人の案の「由紀雄」を一時修正した(座談会『平岡公威の花ざかりの時代』)。なお同行した同人たちの合作説もあって不明。------「氏のペンネームのイメージがおかしくないのは四〇歳代の前半までであろう。そのことも氏の人生美学はひそかに承知していたのではないか。だからこそ、氏は四十何歳かでこの世に訣別をつげた」(遠藤周作『周作塾』)。

学習院初等科当時の綽名はアオジロで嵐山光三郎の『文人悪食』には「青城散人」の号を名乗っていたという。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。アオジロをもじってみずから「平岡青城」の俳号を名乗り、『山梔〔くちなし〕』に俳句、詩歌を投稿したこともある。風邪を引いて肺浸潤と誤診されて兵役を免れたことがコンプレックスになったという説もある。

「榊山保」名義の作品もあり、「愛の処刑」は男性同性愛の会・アドニス会の機関紙の別冊「APORO」5号(昭和35・10)に掲載された男性同性愛と切腹自殺を描いた作品であり、翌年発表された「憂国」の原型ともいえる。ここから三島の命日は「憂国忌」となる。

死の10年以上前、小林秀雄が対談で「率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね……ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな」と語ったが、小林が繰り返した「魔」について秋山駿は「才能の魔とは、つまり、才能を持っている当の主人を亡ぼすもののことだ。三島氏が抱いている生の『悲劇』のようなものを、早くに直覚したのであろう」と記している(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫)。

三島はドナルド・キーンとの文通で、戯れに「鬼院さま」と書いていた。キーンは仕返しに「魅死魔幽鬼夫(尾)さま」と書き送ったという(『声の残り』朝日文庫)。最後の手紙は自決直前に書かれたもので「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正確でした」とあった。キーンは『思い出の作家たち』(新潮社)の中でもこれに触れて「私のこの冗談は、初めから彼の死を予期していたかのような、忌まわしい含みを持ってしまった」と書いている。この本でどうして三島が取れずに、川端がノーベル賞を取ったかについて考察している。50年後の「NHKスペシャル」でも川端が先に取ったことがトラウマになり、楯の会など過激になったと描いた。美輪明宏はダンス中に肩パッドを見つけて「パッド、パッド」というと不愉快だといなくなったと証言している。

「あの日どうしていた?」とされる強烈な記憶を「フラッシュバルブ記憶」というが、アメリカ人にとってはケネディ暗殺の日で、最近では9・11だった。日本人には三島45歳の自決の日がそうだった。翌日の朝日新聞に首がゴロっと転がっている写真が載っていた。今は阪神大震災の日か、地下鉄サリン事件の日だろう【まさか東日本大震災があるとは思わなかった】。

水上 滝太郎

本名・阿部章蔵。ペンネームは敬慕する泉鏡花の『風流線』の主人公「水上」規矩夫と『黒百合』の「滝太郎」を合わせたもの。

水上  勉(みずかみ・つとむ)

東京では群馬の水上(みなかみ)温泉が有名で、編集者に「みなかみさん」と呼ばれているうちに、「みなかみ」が定着してしまったという。本名「みなかみ・つとむ」だが「みずかみ」と名乗るようになったという説もある。福井県生まれ。8歳で京都の臨済宗相国寺の徒弟に出され得度したが出奔を繰り返し17歳で還俗(げんぞく)。旧満州(中国東北部)行。結核。失意の帰国と療養。行商などの職を転々とし、戦後は障害を持つ子を抱えて生活に困窮した。1948年に私小説『フライパンの歌』を刊行。60年に水俣病に取材した『海の牙』を発表して「第2の松本清張」と呼ばれた。61年に禅寺体験をもとにした『雁の寺』で直木賞を受賞し、光があたるのは42歳である。「苦労の百貨店」と評された。『五番町夕霧楼』『飢餓海峡』『越前竹人形』などで一躍流行作家となる。88年、芸術院会員、98年、文化功労者。

「べん」と有職読みされることも多かった。水上の『文壇放浪六十年』によれば、当代一流の作家による文士劇が毎年の恒例行事だったころ、『雁の寺』で直木賞を受賞して売り出し中の水上勉が、文芸評論の大御所である小林秀雄とともに文士劇の前座の講演をしたことがあった。楽屋のスピーカーから流れる水上のしゃべりを聞いた『父帰る』の賢一郎役の永井龍男が、隣の今日出海に「あれは何弁か」と聞いた。「源氏店(げんやだな)」の蝙蝠安(こうもりやす)の姿をした今は答えたという。「あれはミナカミベンだ」。

水木 洋子(みずき・ようこ)

脚本家。本名・高木富子(たかぎ・とみこ)。 東京生まれ。日本女子大、文化学院専攻科演劇部、菊池寛主宰の脚本研究会などを経て戦前からラジオドラマを執筆する。脚本家八住利雄に師事し、49年、亀井文夫監督の『女の一生」で映画初脚本。50年代には成瀬巳喜男、今井正、市川崑監督らと組んで次々と名作を生んだ。作品がキネマ旬報ベストテン1位になること5回。ガラス越しのキスが話題になった『また逢う日まで』(50年)、『にごりえ』(53年)、『キクとイサム』(59年)、『おとうと』(60年)。そして、男女の宿命的な愛を描いた『浮雲』(55年)は日本映画史に残る名作とされている。

水島 多樓(みずしま・たろう)

本名・水島行衛(ゆきえ)。別名・今日泊亜蘭(きょうどまり・あらん)、宇良島多浪でSF小説を書く。東京・下谷根岸生まれ。代表作『光の塔』があるだけであまり知られていない。高名な漫画家・漫文家、水島爾保布(におう/本名・爾保有/代表作『東海道五十三次』)の長男として東京根岸に生まれる。府立五中を中退したのち、いくつもの外国語を独学で身につけた。父の親友、長谷川如是閑の影響を受け、やはり父の仲間だった辻潤の息子一(まこと)、武林無想庵(むそうあん)の娘イヴォンヌ、詩人・山本露葉の息子夏彦など、早熟で都会的な若者たちとの交友を深め、7カ国語を習得し原語で『ファウスト』を読んでいたとか、大正アナーキストとの関わりとか、1940年にヨーロッパへ密航したり、不思議な人生を送る。峯島正行『評伝・SFの先駆者今日泊亜蘭』(青蛙房)がある。

水野 スミレ (みずの・すみれ)

本名かペンネームか微妙な名前で調査中。『ハワイッサー』でデビュー。〈バツイチ・出戻り・パラサイト〉を主人公にした『専業主婦になりたい』など。

水野 晴郎 (みずの・はるお)

本名・水野和夫(みずの・かずお)だと思っていたら、死亡記事に山下奉大(やました・ともひろ)となっていたがので驚いた。「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)を尊敬していたために戸籍を変えて改名したのだ。「ミステリー評論家」の時などにこちらを使っていた。映画評論家。高梁市生まれ。20世紀フォックス映画に入社。その後、日本ユナイト映画に移った。映画宣伝を手がけ、「史上最大の作戦」「夕陽のガンマン」「真夜中のカーボーイ」(カウボーイじゃない!)などの邦題も編みだし、ヒットに貢献した。独立した72年からは日本テレビ系「水曜ロードショー」で映画解説を担当。親しみやすい笑顔と口ひげ、「いやあ!映画って本当にいいもんですね」という決めゼリフで人気になった。96年からは『シベリア超特急』シリーズで映画監督としてデビューした。監督名義は「マイク・ミズノ」(Mike Mizno) となっている。著作も多く、93年の『母の愛・そして映画あればこそ…』で第13回日本文芸大賞を受賞。国内外の警察事情にもくわしく、『世界の警察』の著書もある。

水原 秋桜子(しゅうおうし)

本名・水原豊では野球の監督みたいだ。「秋桜」で「コスモス」というのはさだまさしの曲まで世間には知られていなかった。

三角  寛(みすみ・かん)

本名・三浦守。池袋人世坐、文芸坐の創立者で山窩(サンカ)小説を得意とした。椋鳩十もサンカ小説を書いたが、三角が先駆。サンカは吉本隆明が『共同幻想論』、五木寛之が『風の王国』を書いてから再び注目を浴びる。娘が書いた『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』(現代書館)には次のように書いてある。

 朝日新聞の記者をしながら物書きとして社会に出ていこうというとき、本名では、会社に対してマズイので何かペンネームを、と思い立ち「三角寛」の名前を考えたようです。わたしが三歳のときでした。わたしの名前が寛子ですので、三角寛の寛の字をとって命名したように思っている人が多いのですが、逆です。「三角寛」の寛は、わたしの名前からとったのです。父は、生前、このペンネームについては、
「物を書き始めた頃、菊池寛(作家)に可愛がられていたので、『菊池寛の寛をとったのですか?』と人からずいぶん聞かれたが、これは、お前の名前からとったんだ」
 とよく説明していました。
ところが、「三角」はどこからつけたのか、いまとなってみると、どうしてもわからない。父がひらめいた名前だったのでしょう。【…】父が生まれた九州の竹田市の在所から阿蘇山が真ん前に見えるんです。地図を開いてみますと、大分の竹田から阿蘇山が真っすぐにあり、その先が熊本、さらにその先に、三角という地名があるのです。少し行くと天草です。その三角(ミスミ)からとったと、わたしは思うのですが、よくはわかりません。

サンカ研究会編『いま、三角寛サンカ小説を読む』(現代書館)には今井照容が次のように書いている。

 三角寛というペンネームじたいに文藝春秋の痕跡を見ることもできるだろう。文藝春秋を創業したのは菊池寛に他ならないが、三角寛の寛は菊池寛の寛の字である。そして菊池という姓の子音も共通している。菊池も三角も子音はi-u-iと続く。これは単なる偶然ではなかろう。更に言えば、三角を“さんかく”と読めば、そこの予めサンカの三文字が埋め込まれていることが分かるはずである。

水村 美苗

本名同じ。2002年の『本格小説』はアメリカの大学で教鞭を執りながら小説を執筆中の著者「水村美苗」のもとへ、元文芸雑誌の編集者で、加藤祐介と名乗る青年が訪ねてくる所から始まる。東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学仏文科卒業。同大学院終了後、帰国。のちプリンストン、ミシガン、スタンフォード大学で日本近代文学を教える。1990年、『続明暗』を刊行し芸術選奨新人賞を、95年には『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞を受賞。98年、辻邦生との往復書簡『手紙、栞を添えて』を刊行。夫は経済学者の岩井克人。

水森 亜土(あど)

本名・里吉文江 (さとよし・ふみえ)とポップなイラストとは異なる古風な名前。基本的にはイラストレーターだが、「変体少女文字」(「変態少女文学」じゃないからね)への影響は大だ。

三田 誠広(みた・まさひろ)

幼名・清。98年に倒産した三田工業の創業者・繁雄の子。姉は三田和代で誠広自身も子役で出演していた。

三谷 幸喜(みたに・こうき)

本名同じで大鵬「幸喜」から採られる。俳優、劇作家、脚本家。世田谷区出身。1983年、日本大学芸術学部在学中に劇団「東京サンシャインボーイズ」結成。活動初期では「一橋壮太朗」の芸名で自ら役者もつとめていた。元妻は女優の小林聡美。

三田村 鳶魚(みたむら・えんぎょ)

本名・玄竜。江戸研究家。歌舞伎の「鳶奴(とんびやっこ)」から採ったのだろうか調査中。

道尾 秀介(みちお・しゅうすけ)

推理作家。兵庫県出身。2011年に「月と蟹(かに)」で直木賞。道尾はペンネームで、都筑道夫に由来する。秀介は本名。『作家の読書道3』には次のように話している。

−−ところで、営業マン時代、本はどうやって選んでいたのですか。

道尾:古本屋です。当時はお金がなくて、古本屋でランダムに選んでいました。変わったものが多くおいてありましたし。よく行っていた古本屋が、出版社に関係なく、著者別に50音順に並べてあって。それで、筒井康隆さんの小説を買いに行った時、その横にあった都筑道夫さんの本が目に入ったんです。名前も知らない作家さんだったのですが、『怪奇小説という題名の怪奇小説』という変なタイトルに惹かれて買いノそこから都筑さんに夢中になりました。

−−「道尾」というペンネームは、都筑道夫さんから取られたそうですね。

道尾:そうなんです。都筑さんの小説を読んだ時、“渾沌”を思い出して。 “渾沌”は中国の化け物です。天地開闢の頃からいると言われていて、目、鼻、口、耳の七孔がなく、その場をぐるぐる回っているだけなんですよね。その怪物に神様が目鼻をつけてあげたら、渾沌が渾沌ではなくなってしまい、死んでしまったというんです。その神話がずっと印象に残っていて、都筑さんの小説を読んだ時に「渾沌がいた!」って思ったんです。結末を明確に書かない、でも結末をつけてしまうとまったく違うものになってしまう、ということが一読して分かった。僕もいつか“渾沌”的なものを書くのが夢なんです。今の読者って、そういうものを一切受け付けず、結末をちゃんとつけてスッキリさせることを望みますが、そんな人たちにもいつか“渾沌”的なものをぶつけてみたいですね。

三井 ふたばこ

詩人。西條八十の長女として神田に生まれる。旧姓が「西條」で、名前は漢字で書くと「嫩子」(ふたばこ)。復刻版や『父西條八十』では「西條嫩子」となっている。

光瀬  龍

本名・飯塚喜美雄。今は“亡き”東京教育大理学部卒。

三橋 一夫

本名・三橋敏夫(としお)。兵庫県生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。玄道輝行会会長、身心法学研究所長。

碧川 浩一(みどりかわ・こういち)

本名・白石潔(しらいし・きよし)。東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。元・報知新聞編集局長。

南  伸坊(みなみ・しんぼう)

宮武外骨のペンネーム「黒坊」と本名の「伸宏」から採って「辛抱」ができる人間にということで赤瀬川原平がつけた。ちょっと似ている“みなみらんぼう”は本名・南寛康。

糸井重里が「ほぼ日刊イトイ新聞」<プロデュース失敗の例>で次のように書いていた。

ぼくは、伸坊は、本名の「南伸宏」で仕事をしていくべきだと、かなり強く主張したのだった。理由は、こうだった。「伸坊という呼び名の由来もわかっているし、その名前を気に入っていることも知っている。ぼく自身も、シンボーと呼んでいるくらいだし、愛着はある。しかし、それをペンネームにするのは本気で職業をやっていない印象をあたえるのではないか。片手間というか、仕方なしにというか、ついでに仕事をやっていると考えられがちである。伸坊と自然に呼ばれるのはそのままでいいから、正式の名前としての署名は、南伸宏にするべきだ」この場合、クライアントである伸坊氏は、同意してくれなかった。彼は、そんな恣意的なことをしたがる人ではない。おそらく、そういうふうに言われた、ということだけを憶えていて、何も変えない。めんどくさがりで、大人(たいじん)なのだ。そうして、南伸坊はフリーになり、南伸坊としてもっと知られるようになり、いまに至る。「伸坊」という、片手間っぽい名前が、なんの邪魔にもならなかったのであった。これは、完全に、プロデューサーとしての、ぼくの失敗例だと思う。申しわけありませんでした。

三並 夏(みなみ・なつ)

90年生まれ。静岡県出身。「平成マシンガンズ」で2005年第42回文芸賞(河出書房新社主催)受賞。河出書房新社の担当者は「文芸賞への応募は初めて。名前はペンネームだが、高校受験を控えており、詳しいプロフィルは公表できない」と語っていた。勝手に想像するとマンガ『タッチ』の南と夏の甲子園をかけたようなペンネームということになるが、 「三並」は大好きな作家・新美南吉の「南」からとった。一番好きな小説は新美の「嘘」。本名を明かさないことについて「自分は自分、小説は小説。そこは分けたい」と語った。

女子中学3年で受賞したが、同賞では最年少の受賞となる。それまでの最年少受賞者は堀田あけみ(第18回)、綿矢りさ(第38回)、羽田圭介(第40回)の17歳だった。

みなみ らんぼう

本名・南寛康(みなみ ひろやす)。フランスの詩人アルチュール・ランボーにあやかった。宮城県栗原市生まれのシンガーソングライター。法政大学社会学部卒業。コピーライター、ラジオ台本作家を経て1971年「酔いどれ女の流れ唄」で作詞・作曲家としてデビューし、1973年に「ウイスキーの小瓶」で歌手デビューした。1976年に「NHKみんなのうた」で発表した『山口さんちのツトム君』は150万枚以上のミリオンセラーを記録した。

峰  隆一郎

本名・峰松隆(みねまつ・たかし)。出版社勤務、フリーライターを経て、作家活動に。79年「流れ灌頂」で問題小説新人賞を受賞。その後、時代小説やミステリーなどで活躍、時代小説では『塚原卜伝』『柳生十兵衛』など、剣豪を扱った作品が多く、剣技や官能描写などにさまざまな工夫を凝らした作風で知られた。

宮内 勝典(みやうち・かつのり)

1944年ハルピン生まれ。世界各地を歩く。79年『南風』で文藝賞受賞。81年『金色の象』で野間文芸新人賞受賞。81年から91年までニューヨークに定住し、ドキュメント『宇宙的ナンセンスの時代』『ニカラグア密航計画』を書きつつ、『ぼくは始祖鳥になりたい』の取材を重ねる。『海亀通信』(岩波)によれば、2000年の宮内の年収は370万くらいだったという。純文学が売れない時代なのだ。

宮尾 登美子

戸籍上の父は岸田猛吾、母は喜世。父は「芸妓娼妓紹介業」を営む。44年に前田薫と結婚。62年に「前田とみ子」名で『連』を書く。63年に前田と離婚し、高知新聞記者・宮尾雅夫と結婚。『櫂』『きのね』『蔵』など。

宮城谷 昌光(みやぎたに・まさみつ )

本名・宮城谷誠一。早稲田大英文科に入学したが、1年の時の担任は庄野潤三だった。『随想 春夏秋冬』によれば、作家になろうと思っていて就活をしなかったが、友人が出版社の経理を紹介。一年足らずで帰郷。翌年春ふたたび上京して卒論担当の恩師で英文学者の小沼救(はじめ=ペンネーム「小沼丹」)を訪ねる。出版社を紹介してもらい、営業から編集に移る。超遅筆の藤原審爾の担当になる。他の恩師に新庄嘉章、稲垣達郎。69年、宮城谷青市の筆名で「天の華園」が『早稲田文学』に掲載される。『春の潮』『天の華園』『夏姫春秋』『黄金の小箱』など。

三宅 雪嶺

本名・雄二郎。加賀藩家老のお抱え医師の子どもとして生まれる。雪国にちなんだ名前。妻は三宅花圃(かほ)で本名「田辺龍子」で跡見学園の創設者・跡見花【足+渓】から採った。

宮崎 湖処子(こしょし)

本名・八百吉。イングランド湖水地方(Lake District=最近は“ピーター・ラビット”のベアトリクス・ポターのナショナルトラスト運動で知られる)に住んでいたワーズワースを本格的に紹介した人物なので、その憧れからだと思う。「八面楼主人」。

宮崎 駿(はやお)

本名同じ。『となりのトトロ』に出てくる「松郷」や「牛沼」などが宮崎の自宅のある所沢が部隊になっているし、当初のタイトルは『所沢のとなりのお化け』だった。

 国木田独歩が「武蔵野」で言及していた小手指と久米川の中間にある「秋津」の名前は、宮崎本人が何度も言及している。『風の谷のナウシカ』の原型となった新聞連載マンガの『砂漠の民』(一九六九ー七〇年)は、「秋津」三朗というペンネームを使って書かれた。また、高畑監督による『パンダコパンダ』(一九七二年)は脚本や設定を宮崎が担当しており、『となりのトトロ』の原型となっている。冒頭でヒロインのミミ子が法事で長崎に向かうおばあちゃんを見送る駅は「北秋津」と書かれていて、ホームや電車の様子は改装前の秋津駅そのものである。七〇年に宮崎はこの地に引っ越してきたのだし、その前には東村山に住んでいたこともあった。茶畑などを潰した新興住宅地の住人としてやってきたのだ。---小野俊太郎『「里山」で宮崎駿で読み直す』(春秋社)

宮嶋 資夫(すけお)

本名・信泰。労働文学で資本主義を学んだから付けたのか調査中。

宮  柊二(しゅうじ)

本名・肇(はじめ)。歌人。

宮武 外骨

幼名を亀四郎と称したが、亀の外骨内肉にちなみ、外骨と改名。のちに〈がいこつ〉を〈とぼね〉と改めた。姓の“宮”と“武”がともに権力を示すとして嫌い、「我国には姓のない御方がある」ので、姓や氏は必要がないとして「廃姓広告」を出した。墳墓廃止を主張し、自分の死体を買い取る人を求めた。悪習慣に従う道徳家であるよりも、悪習慣に逆らう「不道徳家」であろうとした。

宮部 みゆき

本名・矢部みゆき。林真理子は『20代に読みたい名作』の中で「宮部みゆきは松本清張の長女である」と書いているがもちろん、これはレトリック。東京都生まれ。東京都立墨田川高校卒。速記者をしていたことがある。いわば自分を消すこの仕事を『知的〈手仕事〉の達人たち』(大日本印刷)の対談で「忍びの世界」になぞらえていた。「歴史の影に生きるわれら、みたいな(笑)」という。この本には宮部自身の速記の見本が載っている!

姓名判断の結果、本名で作家の仕事をすると、ノイローゼになると言われた。あまりかけ離れた名前をつけて呼ばれても分からないと困るから近い名前にしたという。99年の直木賞受賞。浅田次郎の『歴史・小説・人生』(河出書房新社)の対談で自分の名付け親が洲崎で遊んだ祖父だったことを明かしている。

宮部 私のみゆきっていう名前、本名ですけど祖父がつけたんですよ。当時の名前としてはあだっぽいというか、源氏名的でしょ。
浅田 はいはい。
宮部 それで、「絶対、洲崎のおねえちゃんの名前をとった」って、みんな言ってました。
浅田 昔の男はよくそれやったんですよ。好きだった女の名前を子供や孫につける(笑)。
宮部 ですよね。でも、何回問い詰めても祖父は白状しませんでしたね(笑)。

宮本 亜門(みやもと・あもん)

演出家。本名・宮本亮次 (みやもと・りょうじ)。自伝に『ALIVE』。

宮本  研

本名・照。

宮本  輝(みやもと・てる)

本名・宮本正仁。「輝」というペンネームは文学上の師匠の池上義一によるという。父・熊市(48歳)母・雪恵(36歳)の一人っ子として溺愛されて育つ。大阪、富山、尼崎などに住んだ。ファンは「テルニスト」という。『螢川』は「いたち川」として知られる川だ。後に本態性振戦に罹って、手書きは富山県が舞台となった『田園発 港行き自転車』が最後になった。

宮本 百合子

本名・ユリ。旧姓・中條。夫はもちろん、宮本顕治・日本共産党元書記長。雑誌『改造』が募集した文芸評論で芥川を扱った「敗北の文学」でデビュー。小林秀雄は「様々なる意匠」で第二席となった。

宮 林太郎(みや・りんたろう)

森鴎外の本名・森林太郎が「しんりん・たろう」ではないように「みやばやし・たろう」ではない。本名・四宮学(しのみや・まなぶ)。内科医の傍ら70年近く現役で作家活動を続けた。作品に『サクラン坊とイチゴ』など多数。

宮脇 俊三(しゅんぞう)

本名同じ。埼玉県川越市生まれ。東京出身。東京大学文学部西洋史学科卒。中央公論社に入社。第二出版部長、『中央公論』編集長、編集局長、開発室長、常務を歴任。退職後、鉄道をテーマにノンフィクション、小説を書き始める。

三好 京三(みよし・きょうぞう)

本名・佐々木久雄(ささき・ひさお)。劇作家・「三好」十郎と「京」子夫人の「京」を採った。岩手県生まれ。小学校の教員を続けながら、執筆を始めた。75年、衣川村(現奥州市)の小学校分校教師時代に、放浪作家の娘を引き取った経験をつづった小説『子育てごっこ』で文学界新人賞を受け、77年には同じ作品で直木賞を受賞した。『独眼竜政宗』『いのちの歌』など、東北地方を舞台に、その風土性を生かした作品を多く発表。教育評論活動でも活躍した。『子育てごっこ』の子どもがホテトル嬢になっていて美談が疑われた。

三好 達治

本名同じ。抒情詩人。萩原朔太郎の末妹・萩原アイに求婚するが萩原家に受け入れられず、佐藤春夫の姪・智恵子と結婚。朔太郎が亡くなり、アイの夫で葬儀をとりしきった佐藤惣之助が4日後に急死したのを受けて智恵子と離婚し、アイと結婚。しかし10カ月で破綻。この経緯は萩原葉子『天上の花』に詳しい。

三好 徹

本名・河上雄三。東京都生まれ。横浜高商卒。

美輪 明宏(みわ・あきひろ)

まっ、芸名というべきだろうが、たくさんの本を出している。本名・丸山明宏。三島由紀夫が「丸山君。君には一つ欠点がある。それは俺に惚れないことだ」と言ったエピソードが残っている。1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だったため改名。

椋  鳩十(むく・はとじゅう)

本名・久保田彦穂。

「椋」は、木地師の姓「小椋、小倉」等の「椋」をとった。「鳩十」は鹿児島の借家に鳩がいっぱい遊びに来ていたので「鳩十」とした。なお、昭和8年に「山窩調」(自由の民の物語である山窩小説)を自費出版する折、先輩作家たちに先入観でみられないようにそれまで使ってきた「久保田彦保」から変えた。この「山窩調」が絶賛を浴び「誰だ誰だ」と大勢の先輩作家に受け入れられたわけです。------椋鳩十記念館からのご返事

向田 邦子(むこうだ・くにこ)

本名同じ。久世光彦の『触れもせで』によれば、「脚本家になる前、二十代で映画雑誌に雑文を書いていたころ、向田さんは<矢田陽子>というペンネームを使っていたことがある。親からもらった名前が<嫌だよう>という、可愛くて悪戯(いたずら)っぽい反逆だったのである」。直木賞の選考会では授賞を見送り、小説家としての実力を見極めようという声も多かった。山口瞳が強硬に異議を唱えた。「向田邦子はもう、51歳なんですよ。そんなに長くは生きられないんですよ…」。風向きが変わり、授賞が決まった(『木槿(むくげ)の花』)。翌年、台北から高雄行きの飛行機の空中分解で客死。

武者小路 実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)

本名同じ。こんな名前に憧れたものだった。子爵武者小路実世と勘解由小路家出身の秋子との間に第8子として生まれた。Wikipediaによれば次のよう。

「武者小路」の読みは通常「むしゃのこうじ」だが、武者小路実篤の「武者小路」は「むしゃこうじ」と「の」を抜いて読む。これは実篤が大正7年に武者小路家子爵家を除籍して平民となったのを機に、本人が姓の読みを変えたため。実篤は戦後長らく文壇の重鎮として第一線で活躍し、またテレビの対談などへの出演も少なからずあったことから、存命中は「むしゃこうじさねあつ」というのは一般にも浸透した名だった。しかし実篤の死後30年を過ぎた今日では、ニュースキャスターなどでも「むしゃのこうじさねあつ」と読むことをよく耳にするようになってきた。

実篤本人はというと、人から呼ばれる分にはどちらでもよかったようで、あえて「の入り」を「の抜き」に正したりするようなことはなかったという。

『白樺』の同人だったが、大正5年に「雑感」で次のように書いている。

 白樺を出したとき、新潮の六号で、アホダラ経まがひにバカラシといってからかはれた。バカラシの反対がシラカバだ。しかし、そんな語呂合わせがなんにもならないことは分かってゐる。ともかく軽蔑されてきたことはたしかだ。

むの たけじ

本名・武野武治。社会部記者としてならしたジャーナリストで、敗戦の日に朝日新聞を退社、郷里に帰って週刊『たいまつ』という新聞を発行。

村上 鬼城(きじょう)

本名・荘太郎(しょうたろう)。先祖のいた鳥取藩の若桜城(別名・鬼ケ城)から採った。

村上 浪六(なみろく)

本名・信(まこと)。別号・ちぬの浦浪六。

村上 春樹(むらかみ・はるき)

村上以前、「春樹」と言えば「角川」だった。本名同じ。村上龍のパーティで「もっとかっこいい名前で龍にしようと思ったことがある」と挨拶したことがある。小説家ロス・マクドナルドのファンで、彼の作品に登場する名探偵リュー・アーチャーLew Archer(映画『動く標的』ではポール・ニューマンが演じた「ルー・ハーパー」)にちなんで、村上龍のペンネームを使いたがったが、村上龍に先に使われたため、本名にしたというのだ。「村上春樹」は角川春樹と村上龍を合わせたような名前で好きではなかったともいう。丸谷才一が『挨拶はむづかしい』でこのスピーチを誉めて、ついでに「受賞の挨拶でこのくらい人を食った話ができる新人は、警戒すべきである」とコメントしている。

村上龍は春樹との共著『ウォーク・ドント・ラン』の「村上春樹のこと」の中で次のように書いている。

 ある作家の出現で、自分の仕事が楽になる、ということがある。他者が自分をくっきりとさせてくれるのである。ただし、そのためには、他者に相応の力がなくてなならない。

「村上朝日堂」ともいうが、「日刊アルバイトニュース」の連載からこの名前を使用するようになった。どういう経過でつけたかについて『これだけは村上さんに言っておこう』(朝日新聞社)の中で次のように書いている。

朝日堂は「house of rising sun」のことであって、隆盛をつづける村上春樹を象徴したものです。というのはまったくの嘘です。ただ音感として、にこにこと明るくてポジティブで、いいじゃないですか、ということです。とくに深い意味はありません。いずれにせよ、朝日新聞社とは何の関係もありません。あくまで偶然の一致です。

『村上春樹語辞典』(誠文堂新光社)によれば、群像新人文学賞に応募した時は「村上春紀」というペンネームを使ったという。第22回に『風の歌を聴け』が選ばれた。両親ともに関西育ちの国語教師。一浪の後、68年に早稲田大学第一文学部演劇科に入学するが、ほとんど登校せず。71年、陽子夫人と学生結婚。74年に国分寺でジャズ喫茶「ピーターキャット」を開店。武蔵野美大の学生だった村上龍もよく顔を出したという。後に千駄ヶ谷に移転。75年に大学卒業。『風の歌を聴け』でデビューしたが、芥川賞は取っていない(黒澤明『羅生門』が日本で評価されなかったのと似ているかもしれない)。市川真人に『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか』(幻冬社新書)という論考もある。

病院などで本名を呼ばれるのは恥ずかしいと書いていたが、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮文庫)の「ペンネームをつけておくんだったよな、しかし」の後日付記にマラソン・レースに出るときなどに使う「リアル・ライフ・ネーム」というのは持ってます、と書いている。さすがに偽名を使うようになったらしい。

 この「村上春樹」というのはペンネームじゃなくて、もともとの本名である。

 思い返してみれば、僕が作家としてデビューしたころは(今でももちろんそれはおおむね同じですが)、
「村上といえば龍、春樹といえば角川」
とそれぞれビッグネームで相場が決まっていた。
三番王、四番長嶋、みたいなものである。
だから「ペンネームとしてもちょっとやりすぎじゃないか」というようなことを、けっこうあちこちで言われたのだが、何を隠そうこれは本名です。
いちいちペンネームを考えるのが面倒だったから、そのままでやってしまっただけだ。

 この間近所の「交通安全協会」に運転免許証の更新に行った。窓口には女の人が二人いて、僕の免許証を見て、「えーと、ムラカミ・ハルキさん、住所は神奈川県……」と言って、それから二人で顔を見合わせた。そして「同姓同名なのねえ」と言い合った。僕も「そうそう」という顔をして、にっこり微笑んでうなずいた。こういうことがあるととても嬉しい。一日幸福な気持ちでいられる。
 でもそうそういつもうまくいくわけではない。

85年の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に参考文献の訳者として牧村拓が登場している。ボルヘスの『幻獣辞典』と一緒に「バートランド・クーパー著 牧村拓訳『動物たちの考古学』 三友館書房」という。88年の『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる冒険作家・牧村拓はわざわざ名前に「ひらく」と読み方が書いてあるが、“MAKIMURA HIRAKU”で“MURAKAMI HARUKI”のアナグラムになっている。これを作者に認めさせたのは塩濱久雄だという(『村上春樹スタディーズ2005-2007』若草書房)。

『覆面雑談 あのひとと語った素敵な日本語』(ユビキタスタジオ)という本があり、「あの人」は匿名になっているが、誰が考えても村上春樹で、雑談をしているのは陽子夫人である。

村上の短編で作家が主人公というのは稀で、「蜂蜜パイ」と「日々移動する腎臓のかたちをした石」の「生まれながらの短編作家」淳平くらい(だと思う)。

村上作品の中で登場人物が初めて名前を獲得したのは『パン屋再襲撃』だった。この「渡辺昇」(ワタナベノボル)というのは友人のイラストレーターの安西水丸(あんざい・みずまる)の本名を借りたものであるという。「ファミリー・アフェア」から。

「ねえ、彼のことどう思う?」と妹は訊ねた。
「渡辺昇のこと?」
「そう」
「まあ悪い男じゃない。僕の好みじゃないし、服装の趣味もちょっと変わってるけど」と少し考えてから僕は正直にいった。
「でも一族に一人ぐらいはああいうのがいても悪くないだろう」
「私もそう思うの。私はあなたという人間が好きだけど、世の中の人がみんなあなたみたいだったら、世界はひどいことになっちゃうんじゃないかしら?」
「だろうね」と僕は言った。

「村上春樹大インタビュー――『ノルウェイの森』の秘密」『文藝春秋』(1989年4月号)の中で次のように語っている。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』までは登場人物に名前がつけられなかったですよ。役職で名前がついているわけ、例えば運転手とか。Jというのは、あの人はジェイズバーの人だからJで、あれは記号みたいなものですよね。名前がないんですよね。名前がないと、三人の話ってできないんですよ。
 僕が名前を登場人物につけられて一番うれしかったのは、三人で話ができることだったんです。だから『ノルウェイの森』では三人の話がとても多いんです。これは僕がすごくうれしかったから。新しく獲得した関係だったから。

『風の歌を聴け』で言及されるデレク・ハートフィールドは次のような経歴の持ち主である。1909年、オハイオ州の小さな町に生まれ、そこで育った。父親は無口な電信技士、母親は星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな女だった。ハイスクール卒業後は郵便局に勤めるが長続きせず小説家を志す。1930年、5作目の小説が初めて売れて稿料を手にする。しかし、それから8年と2ヵ月後、1938年に彼の母が死んだ時、エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。彼の小説は「文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった」と評されている。そして、こんな作家なんかいない。つまり、架空の作家を作り上げているのである。

尾崎真理子『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書)には次のようなことが書いてあって混乱させる。

 村上春樹とは何者なのか。ここで若い読者のために、一九七九年、第二二回群像新人文学賞を受賞して一躍注目を集めた、この作家の初期の軌跡を振り返っておく。同賞の応募時から同七九年四月九日の選考会、新聞発表までは、「村上春紀」となっているが、その直後、本名に戻したのだろう、おそらくマスコミ初登場となった同五月四日号「週刊朝日」の記事では、「群像新人文学賞=村上春樹さん(29歳)は、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主」と紹介されている。

熱狂的なファンを「ハルキスト」というがフランスでは「ムラカミアン」という。彼の作品に影響された作風のクリエーター、一般のファンを「ハルキチルドレン」などと呼ぶことがある。

『平将門伝説』という本があるが、こちらは村上春樹の同姓同名の人。まあ、ありがちな名前だからね。

村上 兵衛(むらかみ・ひょうえ)

評論家・作家。本名・宏城(ひろき)。陸軍士官学校卒業後に終戦を迎え、東大独文科へ。三浦朱門氏らと第15次『新思潮』同人だった。戦中派の論客として活躍、『守城の人−明治人・柴五郎大将の生涯』『昨日の歴史 大宅壮一と三島由紀夫の生と死』『国家なき日本』など。

村上  龍(むらかみ・りゅう)

本名・龍之助。芥川龍之介に似ているのを憚って一字に。若くして芥川賞を受賞したのも何かの縁。村上春樹と村上龍は登場した時期が同年代で同姓であるため「W村上」などと呼ばれる。二人の対談集『ウォーク・ドント・ラン』もある。『限りなく透明に近いブルー』のタイトルが当初「クリトリスにバターを」だったことは有名である。これだったら、絶対に芥川賞は取れなかっただろう。

村田 喜代子(むらた・きよこ)

旧姓・貴田。67年、村田雅省と結婚。『鍋の中』(黒澤明の『八月の狂詩曲』の原作)『花野』『龍秘御天歌』など。

村松 梢風(むらまつ・しょうふう)

本名・義一。『本朝画人伝』『残菊物語』など。永井荷風のように「風」が「こずえ」をわたる気持ちから。やりたい放題をして、世間から評価されたのは梢風と永井荷風が双璧。梢風は遊びすぎて準禁治産者になった。田んぼを切り売りして吉原で遊蕩の限りを尽くし、金を使い果たしたが、そのままでは終わらず『女経』を書いてモトをとった。不良を商売にしているような人物だった。村松友視は子供ではなく孫という複雑な家庭。「父は生まれる前に、母はそのあとすぐにこの世を去ったと言い聞かされて育った。母は実は生きていたのだが…祖父母の籍に入れられて育った」(友視「チェーン・トラベラー」)。

村松 友視(むらまつ・ともみ)

正確には【示+見】という旧字なので「友み」とだけ書かれることがあるが同一人物。新聞記者をしていた父・友吾が友視の誕生前の39年に上海で病死。そのため、村松梢風の末子として届けられ、小学校以降は清水市に夫と別居して住む祖父のもとで育った。祖父母からは両親ともに死んだと言い聞かされていて、再婚した実母の存在を知ったのは高校生の時だった。

『忘れられないあのひと言』(岩波書店)の「風呂場の歌」に村松友視が書いているのだが、後藤明生は「ムラマツさん、風呂場で歌っているとさあ、自分の歌がやけにうまく感じるんだよね」と言ったという。「だから、客の前で歌ってみないと、自分の歌のレベルが分からないんですよね」といって、 平凡社の『文体』という季刊誌に書くように促したという。この時、村松が書いたのが「変装のあと」で、ペンネームは「吉野英生」だった。これは「吉行淳之介、野坂昭如、唐十郎(本名は大鶴義英)、後藤明生」という敬愛する四人の作家の名前を織り込んだものだった。

村山 由佳(むらやま・ゆか)

本名同じ。東京都生まれ。立教大を卒業後、会社員や塾講師、有線放送アナウンサーなど多彩な経歴をもつ。90年、花の万博記念全国環境童話コンクールで「いのちのうた」が大賞。93年、『天使の卵』で小説すばる新人賞を受賞した。03年に『星々の舟』(文芸春秋)で直木賞。

群 ようこ(むれ・ようこ)

本名・木原ひろみ。『別人「群よう子」のできるまで』(文藝春秋)がある。群一郎こと、目黒考二から暖簾(のれん)分けされたペンネーム。

室井 滋(むろい・しげる)

魚津出身の大女優だが、富山ネタ満載のエッセイストの方で大活躍。『きときとの魚』という「きときと」は富山方言で「新鮮」という意味。本名同じ。初めての絵本『しげちゃん』では小学校の入学式で女の子はピンクの紙に名前が書かれていたのに、自分のは水色だった話から始まる。母さんに「もっとかわいい名前に変えてよ」と訴えると「なに言ってんの、大切な名前を」と言われる。そして、「滋」という名前に込められた家族の「秘密」が語られる。大学在学中に映画デビューをして、芸名も考えたが、どれもしっくりいかないため本名を選んだ。「結局、両親にもらった名前が一番好きになっていた。名前がユニークだったから、私自身もちょっと変わった子だった。ユリコちゃんやスミレちゃんだったら人生、違ったと思いますね」と語っている。

室生 犀星(むろう・さいせい)

本名「照道」というのは旧加賀藩士と女中の間に生まれて1週間で雨宝院住職・室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗ることに。犀星の「犀」は「犀川」。その川から不屈の精神を汲み上げ、「星」の字に象徴されるように偉くなりたいという上昇の願望を、犀星は生涯燃やし続けた。『杏っ子』のモデルで長女の室生朝子は随筆家となり、『父犀星の秘密』『晩年の父犀星』『花の歳時暦』などがある。

池内紀は『川を旅する』(ちくまプリマーブックス)で「隠し用水(浅野川・犀川)」という章で次のように書いている。

 犀川に近い寺で育った室生犀星は、ペンネームに犀の一字をあてたとおり、ひとしおこの川に愛着があった。有名な詩「犀川」の出だし。

  うつくしき川は流れたり
  そのほとりに我は住みぬ

 おりにつけ堤に来ていたらしい。そおで「こまやけき本のなさけと愛を知りぬ」とあるから、もっぱら詩集をひらいていたのだろう。

  いまもその川ながれ
  美しき微風(そよかぜ)とともに
  蒼(あお)き波たたへたり

目黒 考二(めぐろ・こうじ)

本名同じ。1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。75年椎名誠らと『本の雑誌』を創刊。同誌の発行人に。2001年から顧問。私小説では目黒考二だが、北上次郎(きたがみ・じろう)として冒険小説を中心に評論を発表、藤代三郎(ふじしろ・さぶろう)として競馬評論をしているので『一人が三人』という著書もある。主な著書に『冒険小説の時代』『活字三昧』『活字学級』など。

自分でも収拾がつかなくなったため他のペンネームはほぼ使われなくなった。群一郎(むれ・いちろう)というのもあったが、群ようこの作家デビューに伴い、寄贈された。

可処分所得のうちの本に対する支出割合を「目黒係数」という(『本の雑誌』で提唱された)。

目取真 俊(めどるま・しゅん)

本名・島袋正。沖縄県今帰仁村生まれ。琉球大学法文学部卒業。警備員、塾講師等を経て高校教員。主な作品に『魚群記』『平和通りと名付けられた街を歩いて』がある。

もえぎ ゆう

臨床心理士。本名・蘭香代子(あららき・かよこ)。ペンネームより本名の方がペンネームらしい。

本岡 類(もとおか・るい)

本名・村岡清明。千葉県生まれ。早稲田大学政経学部卒。週刊誌編集者を経て、作家。「歪んだ駒跡」でオール読物推理小説新人賞受賞。

本居 長世(もとおり・ながよ)

作曲家。東京生まれ。本居宣長の正系で、筆名は長予。『赤い靴』『青い目の人形』『七つの子』『めえめえ子山羊』『十五夜お月さん』など。

モブ ノリオ

本名分からず。モブとはロックバンドのメンバーだった頃の名前で「群集」の意味から採ったということは分かるが、NYのラップ・コンビ「モブ・ディープ」から来たのか理由は分からず。奈良県生まれ。大阪芸術大文芸学科卒。倉庫勤務など、さまざまな職業を経ながらロックバンドなどの音楽活動をしてきた。受賞作で04年5月に文学界新人賞を受けてデビュー、同年、「介護入門」で芥川賞。奈良県在住。

百田 宗治

本名・宗次。詩人、児童文学者。

森  敦(もり・あつし)

本名同じ。1912年、長崎県生まれ。横光利一に師事する早熟の作家で34年に『酩酊船』でデビューしたが、その後は長く沈黙していた。各地を放浪し、61歳の時に『月山』(がっさん)で第70回芥川賞を受賞して最年長だった。芥川賞の前は作家育成の名伯楽として知られていて、小島信夫、三好徹、新井満ら、後の著名作家も指導を受けている。小説の舞台となった注連寺では法要もかねて「月山文学祭」が開催されている。

森  詠(もり・えい)

本名同じ。東京生まれ。東京外国語大学イタリア語科卒。大宅マスコミ塾を卒業し、『週刊読書人』編集者、『週刊ポスト』記者を経てフリー。

森 絵都(もり・えと)

東京都生まれ。本名・森雅美。「本名でなければなんでもよかった」ペンネームの名付け親は親戚のおばさん。専門学校で児童文学を学び、20代から「アンパンマン」などのアニメの脚本を手がけ、「カラフル」「DIVE!!」などの作品で児童文学の10近い賞を総なめにしてきた。「つきのふね」で98年の野間児童文芸賞。2006年に「風に舞いあがるビニールシート」で直木賞。

森  鴎外(もり・おうがい)

本名は「森・林太郎」で「森林・太郎」ではない。当たり前だが…。号はいっぱいあって「鴎外漁史、曳舟居士、小林紺珠、帰休庵、ゆめみるひと、隠流」など十を超える。1)友人の斉藤勝寿の雅号「鴎外漁史」から、2)杜甫の漢詩(『王十二判官に別る』の「柔艫軽鴎の外、悽を含んで汝の賢を覚る」)から、3)千住の「鴎の渡し」から(西周の女中で鴎外が愛した梅にちなむという。お梅は小梅、つまり深川小梅町で、吾妻橋の川向こうで、その鴎の渡しの外にいるというもの)、4)「かもめの渡し」が吉原を指す名前でもあって心は離れていないという気持ちから、などと由来もいっぱいある。本人は鴎外という名前は必ずしも気に入っていたわけではなく、作家生活の後期には使っていない。「鴎」は「匚」に「品」で「鴎外」も表記できないという不満が国文関係者にあった。林修は記念館を案内する番組で「外」というのは江戸っ子ではなくて、外から来たことを考えていたからだと話していた。

なお、漱石と対照的に子供の名前に凝って「不律」「類」「於菟」「茉利」「杏奴」と命名(Fritz,Louis,Otto,Marie,Anneのつもり)。鴎外は孫まで考えたという。於兔の息子は富(トム)、真章(マックス)、類の娘は五百(イオ)、茉莉の息子には爵(ジャク)がいる。曾孫はエッセイストになった森美奈子などごく普通。なお、ショートショートの作家星新一は鴎外の妹の孫になる。杏奴は『晩年の父』(岩波文庫)で「父の背中に寄りかかっていると、父の太い首筋に葉巻と雲脂(ふけ)のまじった懐しい匂いがする」「父は私を『アンヌ、アンヌ』と呼んだ。そして愛称の意味もあるのか、アンヌにわざと『コ』を付けて、『アンヌコ、ヌコヌコや』などといってふざけた」と回想している。

『舞姫』のエリスのモデルは1872年12月16日生まれのアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトとされ、鴎外が次女に杏奴(あんぬ)、三男に類(るい)としたのはルイーゼの名から取ったとの見方がある。

森茉莉は鴎外に溺愛され、17歳まで膝の上にいたという。仏文学者の山田珠樹と結婚、渡仏の間に鴎外が亡くなる。二男を持つが、離婚。『父の帽子』を書いたのをはじめ、幻想的な小説を書く。

鹿島茂は「顔で決まった仏文専攻」(『上等舶来・ふらんすモノ語り』文藝春秋)で英文から仏文に志望を変えたのは山田爵先生の顔に強く惹きつけられたからだという。

 …こんないい<顔>の先生に会ったことがない。仏文進学はこれで決まった。フランス語はほとんどできなかったにもかかわらず、である。

 山田爵先生の授業は大変な名調子で、その声を聞き、顔を眺めているだけで気持ちがよかった。話の最後を「……なのであります」と終えるくせには大きな影響を受け、いまでも講義をしていると知らず知らずのうちに「爵調」が出てくる。先生が東大仏文を辰野隆とともに創った山田珠樹助教授と森茉莉の長男で、森鴎外の孫だということを知ったのはだいぶあとになってからである。

森 荘巳池(そういち)

本名・佐一。岩手県生まれ。東京外国語大学ロシア語科中退。

森  博嗣(ひろし)

名古屋大学工学部建築学科、同大学院卒業後、三重大学助手を経て、現在、名古屋大学工学部助教授。1996年「すべてがFになる」で第1回メフィスト賞受賞。以来3ヶ月ごとに作品を発表。

森内 俊雄

本名同じ。『幼き者は驢馬に乗って』『骨川に行く』『氷河が来るまでに』など。

森川 達也(もりかわ・たつや)

文芸評論家、作家の三枝和子の夫。本名・三枝洸一(さえぐさ・こういち)。

森田 思軒(もりた・しけん)

新聞記者・翻訳家。岡山県笠岡市出身。本名は文蔵。慶應義塾などに学び、「萬朝報」、「郵便報知新聞」の記者を勤め、清国、欧米へ特派員として赴任。黒岩涙香とともに、明治期に翻訳王の異名をとるほどに活躍した。出久根達郎『新懐旧国語辞典』(河出書房新社)によれば、「モタシケ」とか「タゴコロ(田と心で思)のクルマボシ(車と千で軒)のオキナ(翁)」とか呼ばれたそうだ。

森田 誠吾

本名・堀野誠吾。東京都生まれ。東京商科大学中退。

森田 草平

本名・米松。別号に白楊、廿五絃など。平塚らいてうとの心中未遂事件(1908年)を『煤煙』に描く。

森福 都(もりふく・みやこ)

本名同じでできすぎた名前だと思う。1963年生まれ。96年に『長安牡丹花異聞』で松本清張賞。

森村 桂(もりむら・かつら)

結婚して本名・三宅桂(みやけ・かつら)。暮しの手帖社勤務を経て、1964年に単身ニューカレドニアなどを冒険旅行。66年、この体験をまとめた『天国にいちばん近い島』がベストセラーになり、大林宣彦監督の映画も大ヒットした。68年に『あしたこそ』が藤田弓子主演の朝ドラになる。自らの体験を基に、恋や結婚の悩みを明るくつづった小説で人気を博し著書は80冊を超える。85年、軽井沢町にアリスの丘ティールームを開店した。04年に自殺。

森山  啓(けい)

本名・森松慶治。小説家・詩人・評論家。金沢を舞台にした作品があり、『青い靴』は『非行少女』(浦山桐郎監督)として映画化。

森  瑶子

本名・伊藤雅代。静岡県伊東市生まれ。東京芸術大学音楽学部卒器楽科(バイオリン専攻)。広告会社勤務後、結婚。池田の『エーゲ海に捧ぐ』に刺激されて35歳ごろから小説を書き、「情事」がすばる文学賞受賞。夫はアイヴァン。次女は『小さな貝殻』のマリア・ブラッキン。エッセイ、脚本も手がけた。

森  禮子

本姓・川田。

諸井 薫

本名・本多光夫。中年男の心情を巧みに描いた著作で親しまれた作家。57年、河出書房に入社し、『週刊女性』を創刊して編集長を務める。59年、世界文化社に移り、『家庭画報』を創刊。76年にはプレジデント社の社長兼編集主幹になり、『プレジデント』の誌面を刷新、戦国武将と経営者のあり方を結びつける特集を売り物に、部数を飛躍的に伸ばした。97年には中央公論社の取締役相談役に招かれ、経営立て直しに尽力して話題を呼んだ。

 その一方で、『男の止まり木』『男女の機微』『男の流儀』といった著作を次々に発表、ベストセラーの常連となった。

序文

後記

文献

HP

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